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エピローグ 「春の匂い」

エピローグ 「春の匂い」


四月の風は、少しだけ甘い匂いがした。


駅前の桜並木は満開で、淡い花びらが歩道へ静かに降り積もっている。新生活を始めたばかりらしい学生たちが笑いながら通り過ぎ、どこかの店から焼き菓子の香りが漂ってきた。


凛子は小さく息を吸い込む。


春の匂いだった。


新しい街で暮らし始めて、もう一年近くになる。


最初は静かすぎる部屋に落ち着かなかった。


夜中に目が覚めて、誰もいないリビングをぼんやり眺めたこともある。


けれど今は、その静けさが好きだった。


誰の機嫌も気にしなくていい。


急な電話に怯えなくていい。


「ごめん、真央が——」


そんな言葉を聞くことも、もうない。


凛子は白いブラウスの袖を整えながら、カフェの扉を開けた。


カラン、と小さなベルが鳴る。


店内にはコーヒーとバターの香りが満ちていた。


木目調の落ち着いた店で、窓際には春の日差しが柔らかく差し込んでいる。


「いらっしゃいませ」


若い店員が笑う。


凛子は窓際の席へ座った。


「本日のランチをお願いします」


「ドリンクは?」


「カフェラテで」


メニューを閉じながら窓の外を見る。


向かいの花屋では、小さな女の子が母親と一緒にチューリップを選んでいた。


平和な光景だった。


以前の凛子なら、こんな時間にカフェへ入る余裕なんてなかった。


仕事を終えたら急いでスーパーへ寄り、拓也の帰宅時間を考えながら夕飯を作っていた。


肉じゃが。


唐揚げ。


クリームシチュー。


「拓也が好きだから」


そう思っていた。


でも今ならわかる。


あの頃の自分は、“愛されるため”に尽くしていたのだ。


カフェラテが運ばれてくる。


ミルクの泡には、小さなハートが描かれていた。


凛子は少しだけ笑う。


その時、スマートフォンが震えた。


表示された名前を見て、凛子は驚く。


冴島だった。


「もしもし」


『仕事中じゃなかったか』


「今日は午前休なんです」


『そうか』


少し間が空く。


冴島は必要以上に話さない人だ。


「何かありました?」


『藤崎拓也の件だ』


凛子の指先が、カップの縁で止まる。


けれど胸はもう痛まなかった。


遠い昔の話みたいだった。


『正式に退職したらしい』


「……そうですか」


『真央とも完全に揉めてる。今は連絡も取ってないそうだ』


窓の外では、桜の花びらが風に舞っている。


凛子は静かにそれを見つめた。


「冴島さん」


『なんだ』


「私、もう大丈夫です」


通話の向こうで、小さく笑う気配がした。


『知ってる』


電話を切る。


凛子はしばらくスマートフォンを見つめ、それから静かにバッグへしまった。


もう、本当に終わったのだ。


過去が。


痛みが。


執着が。


やがて料理が運ばれてくる。


焼きたてのキッシュ。


春野菜のサラダ。


ポタージュスープ。


湯気と一緒に、優しい匂いが広がった。


「美味しそう」


思わず呟く。


その時だった。


「……凛子?」


聞き覚えのある声に、凛子はゆっくり顔を上げた。


店の入り口近くに、拓也が立っていた。


一瞬、時間が止まる。


以前より痩せていた。


スーツも少しくたびれて見える。


髪も伸びっぱなしだった。


拓也は信じられないものを見るような顔をしている。


「なんでここに……」


凛子は静かにカップを置いた。


「偶然でしょ」


拓也はぎこちなく近づいてくる。


「……元気だった?」


「ええ」


それだけ答える。


以前なら、この顔を見るだけで苦しくなった。


でも今は違う。


懐かしさすら薄い。


拓也は気まずそうに笑った。


「綺麗になったな」


凛子は何も答えない。


沈黙が落ちる。


店内には静かなピアノ曲が流れていた。


拓也が絞り出すように言う。


「俺さ」


凛子は視線を向ける。


拓也は目を伏せた。


「失ってから気づいた」


凛子は静かに聞いていた。


「お前、ずっと待ってたんだよな」


掠れた声だった。


「なのに俺……」


言葉が途切れる。


後悔。


未練。


謝罪。


いろんな感情が混ざった顔だった。


けれど凛子の胸は、もう揺れなかった。


凛子は穏やかに微笑む。


怒りもない。


憎しみもない。


ただ、本当に終わった人を見る目だった。


「拓也さん」


その呼び方に、拓也の肩が小さく揺れる。


もう“あなた”ではない。


もう“夫”ではない。


ただの他人だった。


「私、あの時ずっと思ってたんです」


凛子は窓の外の桜を見る。


花びらが風に舞っている。


「いつか、ちゃんと私を見てくれるのかなって」


拓也は何も言えない。


「でも、最後まで違いましたね」


静かな声だった。


責める口調ではない。


事実を告げるだけの声。


それが余計に苦しかった。


拓也は震える声で言う。


「……もう一回、やり直せないか」


凛子は少しだけ目を細めた。


そして、穏やかに首を横へ振る。


「無理です」


即答だった。


迷いは一ミリもない。


「私はもう、自分を後回しにしないので」


その言葉に、拓也は俯いた。


凛子は静かに立ち上がる。


会計を済ませ、バッグを肩へかける。


店を出る前、振り返ることなく言った。


「お元気で」


春の風が頬を撫でる。


外は桜吹雪だった。


凛子は空を見上げる。


青く澄んだ空だった。


ようやく。


本当にようやく。


自分の人生を、自分の足で歩いている気がした。



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