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第十話 「優先順位の果て」

第十話 「優先順位の果て」


春の終わりだった。


新しい街は、どこか静かだった。


駅前には大きな商業施設もなく、古いパン屋と花屋、小さな喫茶店が並んでいる。朝になると商店街に焼きたてのパンの香りが漂い、夕方には学生たちの笑い声が遠くから聞こえてきた。


凛子は、その街が気に入っていた。


マンションの窓を開けると、柔らかな風が白いレースカーテンを揺らす。


ベランダには小さな鉢植えが増えていた。


以前の凛子なら、植物を育てる余裕なんてなかった。


いつも誰かの予定を優先して。


誰かの機嫌を考えて。


自分のことは後回しだったから。


キッチンでは、トースターが小さく鳴る。


凛子は白いマグカップへコーヒーを注ぎ、焼きたてのクロワッサンを皿へ乗せた。


バターの香りが部屋いっぱいに広がる。


休日の朝。


静かで、穏やかな時間だった。


スマートフォンには、新しい職場のメッセージが届いている。


『先方、朝倉さんの案で進めたいそうです』


凛子は小さく笑った。


仕事は順調だった。


以前より責任は重い。


忙しい日も増えた。


けれど、不思議と苦ではない。


誰かの“ついで”ではなく、自分自身として必要とされている感覚があった。


朝食を終え、凛子は薄いブルーのシャツワンピースへ着替える。


鏡の中の自分は、以前より少し柔らかい顔をしていた。


コンシーラーで隠すほどの疲れもない。


その時だった。


テーブルの上のスマートフォンが震える。


知らない番号。


凛子は一瞬だけ画面を見る。


そして、動きを止めた。


番号に見覚えがあった。


以前、拓也が会社用に使っていた番号。


しばらく鳴り続ける。


けれど凛子は取らなかった。


着信は一度切れ、数秒後、また鳴る。


しつこかった。


凛子は静かにスマートフォンを裏返す。


窓の外では、小学生たちが走り回っている。


笑い声が、遠くから聞こえた。


三度目の着信が鳴った時だった。


今度は別の番号からだった。


冴島だった。


「もしもし」


『朝倉』


低く落ち着いた声。


凛子はソファへ腰を下ろす。


「どうしました?」


『藤崎拓也から接触があった』


凛子は何も言わない。


冴島が続ける。


『かなり追い詰められてるな』


小さく息を吐く音が聞こえた。


『地方異動後も上手くいってないらしい。真央とも揉めてる』


凛子は窓の外を見る。


空は淡い青色だった。


「そうですか」


自分でも驚くほど、感情が動かなかった。


冴島が少し黙る。


『会う気は?』


凛子は即答した。


「ありません」


その答えに迷いはなかった。


もう本当に終わっている。


怒りも、恨みも、愛情も。


全部。


冴島は短く「了解」と答えた。


『今後、本人への接触は控えるようこちらから伝える』


「お願いします」


通話が切れる。


静かな部屋に、時計の秒針だけが響いた。


その頃。


拓也は薄暗いワンルームで、一人座っていた。


地方支社近くで借りた古いアパート。


壁は薄く、隣の部屋の生活音が聞こえる。


テーブルにはコンビニのカップ麺。


灰皿には吸い殻。


洗濯物は床へ積まれたままだった。


スマートフォンを握る手に力が入る。


繋がらない。


凛子は出ない。


何度電話しても。


何度メッセージを送っても。


既読すらつかない。


拓也は頭を抱える。


なぜこうなったのか。


考えない日はなかった。


最初は、少し甘えていただけだった。


真央が放っておけなくて。


凛子は強いから大丈夫だと思って。


それだけだった。


——そのはずだった。


けれど今思い返すと、凛子はずっと待っていたのだ。


結婚記念日の夜も。


熱を出した日も。


最終面接の日も。


何度も。


何度も。


自分が“選ばれる”瞬間を。


なのに拓也は、毎回別の女を優先した。


スマートフォンが震える。


真央からだった。


拓也は顔をしかめる。


電話に出ると、真央の苛立った声が響く。


『ねえ、まだ慰謝料の件終わんないんだけど』


「今その話したくない」


『は? 私だって被害者なんだけど』


その声に、拓也は目を閉じた。


もう疲れていた。


かつては“守ってあげたい”と思った声。


今はただ、耳障りだった。


「……切るぞ」


『ちょっと!』


一方的に通話を終える。


部屋が静かになる。


その静けさの中で、拓也はようやく理解する。


自分は、本当に大切なものを失ったのだと。


都合よく待ってくれる存在。


何度傷つけても、隣にいてくれる存在。


そんなもの、最初からどこにもなかったのに。


夕方。


凛子は近所の花屋へ立ち寄っていた。


店先には春の花が並んでいる。


白いカスミソウ。


淡いピンクのラナンキュラス。


黄色いミモザ。


凛子は小さな花束を選ぶ。


「贈り物ですか?」


店員が笑う。


凛子は少し考え、それから答えた。


「自分用です」


その言葉が、少し嬉しかった。


帰宅後、花をガラスの花瓶へ飾る。


部屋が明るくなる。


夕焼けが窓を染め、柔らかな橙色が床へ伸びていた。


凛子はソファへ座り、静かに紅茶を飲む。


もう、電話は鳴らなかった。


拓也の声が届くことも、きっと二度とない。


凛子は窓の外を眺める。


沈みかけた夕日が街を優しく照らしていた。


——ずっと彼女を優先してきたんでしょう?


ならこれからも、二人で生きていけばいい。


その言葉を心の中で静かに呟く。


不思議なくらい、穏やかな気持ちだった。


風がカーテンを揺らす。


花が小さく香る。


凛子は目を細め、静かに息を吐いた。


その横顔は、かつてよりずっと自由だった。



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