第九話 「崩壊」
第九話 「崩壊」
三月の朝だった。
新しい部屋には、柔らかな光が差し込んでいる。
白いカーテンが風で揺れ、窓辺に置いた観葉植物の葉が小さく震えた。
凛子はキッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。
豆を挽いた香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
以前のマンションよりずっと狭い部屋。
けれど不思議なほど息がしやすかった。
「朝倉さん、今日の会議資料です」
出勤後、若い女性社員がファイルを抱えて駆け寄ってくる。
凛子はネイビーのパンツスーツ姿で、髪を後ろでひとつにまとめていた。
以前より表情が柔らかい。
「ありがとう」
資料を受け取りながら微笑むと、女性社員がほっとした顔をする。
「朝倉さんいると安心します」
その言葉に、凛子は少しだけ目を細めた。
必要とされる場所。
自分の能力で立てる場所。
今の凛子には、それだけで十分だった。
会議室へ向かう途中、スマートフォンが震える。
表示された名前を見て、凛子は無言で画面を伏せた。
——拓也。
もう十件以上、着信が入っている。
メッセージも増え続けていた。
『話したい』
『誤解なんだ』
『頼むから会ってくれ』
以前なら、その文字を見るだけで胸が苦しくなった。
でも今は違う。
まるで知らない営業メールを見るみたいに、感情が動かなかった。
一方その頃。
拓也は会社の会議室で、青ざめた顔をしていた。
長机の向こうには、人事部長とコンプライアンス担当が並んでいる。
部屋には重苦しい空気が沈んでいた。
「藤崎くん」
部長が低い声で言う。
「社外秘情報の漏洩について、説明してもらえるかな」
拓也の喉がひくりと動く。
「……いや、あれは」
「録音データも提出されている」
机の上には、印刷された資料が並んでいた。
通話記録。
送信履歴。
時系列表。
見覚えのあるものだった。
凛子があの日、座敷で配った資料と同じ形式。
完璧に整理されている。
言い逃れできないほどに。
「これはただの相談で……」
「社外の人物へ未公開案件情報を伝えた事実は認めるんだね?」
拓也は何も言えなかった。
頭の中が真っ白だった。
なぜこんなことになったのか。
どうしてここまで大きくなったのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど本当は、最初から崩れていたのだ。
ただ、自分が気づいていなかっただけで。
数日後。
拓也の昇進は正式に取り消された。
異動辞令も出た。
本社から地方支社への左遷。
社内ではすでに噂が広がっている。
「奥さんに告発されたらしい」
「幼馴染と何かあったとか」
「情報漏らしたってマジ?」
すれ違う社員たちの視線が痛い。
以前は笑顔で話しかけてきた同僚たちも、今はどこか距離を置いていた。
デスクに座っていても、背中がざわつく。
スマホが震える。
真央だった。
拓也は慌てて電話を取る。
「もしもし!」
『どうしてくれるの!?』
耳を刺すような声だった。
拓也は顔をしかめる。
「……は?」
『慰謝料請求来たんだけど!』
真央は半狂乱だった。
『三百万って何!? 無理なんだけど!』
「いや、俺だって——」
『拓也が余計なこと言うからでしょ!?』
拓也は言葉を失う。
数ヶ月前まで、真央は泣きながら「拓也しかいない」と言っていた。
それなのに今は。
『会社の情報とか話すからこうなるんじゃん!』
「お前だって聞いてただろ!」
『私は知らなかったもん!』
甲高い声が耳へ響く。
拓也は頭を抱えた。
「……落ち着けって」
『落ち着けるわけないでしょ!?』
電話が一方的に切れる。
静まり返った部屋に、電子音だけが残った。
拓也は力なくソファへ座り込む。
以前、凛子と暮らしていたマンション。
今は妙に広かった。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空き容器。
洗っていない皿。
脱ぎ捨てられたワイシャツ。
部屋には淀んだ匂いが漂っていた。
凛子がいた頃は、いつも整っていたのに。
その時、インターホンが鳴る。
拓也がドアを開けると、真央が立っていた。
ベージュのコート姿だったが、化粧は崩れ、目は真っ赤だった。
「どうしよう……」
真央は部屋へ入るなり泣き出す。
「私こんなの無理……」
拓也は苛立ちを抑えながら言う。
「俺だって大変なんだよ」
「でも拓也が——」
「全部俺のせいなのかよ!」
初めて声を荒げた。
真央が怯えたように後ずさる。
部屋の空気が凍りついた。
拓也は荒く息を吐く。
「お前、ずっと“助けて”ばっかだったよな」
真央の顔が歪む。
「何それ……」
「俺だって疲れてたんだよ!」
「じゃあ助けるとか言わなきゃよかったじゃん!」
その瞬間だった。
拓也は気づく。
二人の間にあったはずの“特別”が、綺麗に消えていることに。
残っているのは、責任の押し付け合いだけだった。
真央は涙を流しながら叫ぶ。
「全部凛子さんのせいじゃん!」
拓也はその名前に反応する。
凛子。
静かで。
怒鳴らなくて。
最後まで感情的にならなかった女。
今になって思い出す。
毎朝作ってくれた弁当。
アイロンのかかったシャツ。
疲れて帰った時の「おかえり」。
あれを“当たり前”だと思っていた。
失って初めて気づく。
けれど、もう遅かった。
その頃、凛子は会社帰りに小さなビストロへ寄っていた。
カウンター席だけの店。
赤ワインの香りと、バターで焼いた魚の匂いが漂う。
凛子は白身魚のソテーを口へ運ぶ。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
スマートフォンがまた震える。
拓也からの着信。
凛子は画面を見つめ、それから静かに電源を落とした。
店内には穏やかなジャズが流れている。
凛子は赤ワインを一口飲み、ゆっくり息を吐いた。
ようやく。
本当にようやく。
誰かの顔色ではなく、自分の人生を生きている気がした。




