第62話 ベルテ川の戦い9-兵対馬
開戦を告げる大太鼓の音とともに、まず動き出したのは両軍の最前列に配されていた散兵部隊である。
部隊長のかけ声とともに彼らは隊列を組まずに各自で敵へと駆けていった。
散兵の役割は、後から続く主力部隊のために敵の隊列を崩して敵兵を削ることだ。そのため、散兵たちは敵兵と直接にぶつかり合って戦うわけではなく、投石紐や投槍などの投擲武器が主武器となる。
エルドア国とロマニア国の双方の散兵たちは、そうしたこの時代の戦いの定石に従って戦闘を開始した。
両軍が投げ合う石や投槍が空中で激しく交差する。
エルドア国とロマニア国を問わず、散兵たちの中から投槍で胸板を貫かれ、投石を受けて倒れる負傷者が続出した。
数の上ではロマニア国軍の方が優勢である。
これにエルドア国軍側は、味方との間隔を大きく取ることで被弾率を下げ、この数の劣勢を補っていた。
だが、それは決して言葉ほど単純なものでない。
押し寄せてくる敵の軍勢。降り注ぐ投石と矢の雨。飛び交う怒号と断末魔の叫び。それらを前にしては、どんな怖いもの知らずの男といえども、自らの死を予感し、ひるんでしまうものである。
そんな過酷な戦場において、前後左右にいる仲間の存在ほど心の支えになるものはない。勇気を振り絞って戦う仲間が隣にいるからこそ踏みとどまれる。前にある仲間の背中と、後ろに続く仲間がいるからこそ前へと進めるのだ。
ところが、味方との距離が遠ければ遠いほど、心の支えは弱くなる。
押し寄せてくる敵を前に、自分だけが残されてしまったのではないか?
降りそそぐ投石や矢の中で、自分以外が死んでしまったのではないか?
そんな疑心暗鬼や不安が勇気を打ち砕き、戦意を吹き消し、ついには恐怖に駆られて逃げ出してしまう。
そんな他国の兵士ならば、とっくに逃げ出してもおかしくない状況にあって、エルドア国軍の兵士たちは戦い続けていた。
それは開戦直前の蒼馬の鼓舞によるものだけではない。それ以上に彼らを支えたのは、明確な目的意識である。
他国よりも兵農分離を推し進め、その軍勢の大半を専業兵士で構成されたエルドア国軍は、兵士のひとりひとりが戦いの目的とその意義を深く理解していた。
今、自分らがここで踏みとどまって戦わなければならない理由を。ここでロマニア国軍を撃退しなければならない理由を。それらができなかった場合に生まれる悲劇と被害の大きさを。そして、何よりも自分たちが果たさなくてはいけない役割を。
それらを知るエルドア国の兵たちは、他国では考えられないほど粘り強く戦い続けたのだ。
そのおかげでエルドア国軍は数では大きく上回るロマニア国軍を相手に、この緒戦を何とか拮抗状態に持ち込んでいたのである。
ところが、この激しい攻防を繰り広げている中で、早くも一気に戦局を握ろうと動き出す者がいた。
それはロマニア国軍の右翼――ベルテ川沿いに配置されていた百狼隊と、それを率いるピアータ・デア・ロマニアニスである。
「百狼隊の勇士たちよ! 我が朋友よ!」
ピアータは馬上用の曲刀を振りかざして声を張り上げた。
「我らが前に立ちはだかるは、この西域全土にその名を轟かせた『黒壁』ぞ! これを打ち破り、我ら百狼隊こそが西域最強と証明するのだっ!!」
この檄に、百狼隊の勇士たちは「おおっ!」と大きな声で唱和した。
戦意をあふれさせる配下の様子に満足げにひとつうなずいたピアータは、自らが率いる軽装騎兵――金狼兵とともに、ゆっくりと馬を前へと進める。
このとき、ピアータはあえて自分の部隊の前に散兵や弓兵部隊を配置していなかった。
そのため、エルドア国軍の散兵たちといきなり衝突することになる。
前進を開始したピアータたち百狼隊に対し、相対するエルドア国軍の散兵たちは投石攻撃を開始した。散兵たちは革製の投石紐を振り回し、遠心力をつけた拳大の石を次々と投擲してくる。
だが、まだ届かない。
投石はピアータたちのはるか手前に落ちてしまう。だが、これはまだ牽制の段階だった。落下した石が大きく地面をへこませ、また石同士がぶつかり合い、激しい音と火花を立てる光景は、それだけで人をひるませるのには十分な迫力を伴っているのだ。
しかし、その降り注ぐ投石を前にしながらピアータは静々と馬を前へと進めていく。
そうしてピアータたちが、いよいよ投石の射程に入ろうとする寸前。手前に降り注いでいたエルドア国軍の投石の勢いが減じた。それはエルドア国の散兵が、ピアータたちが射程に入ったところで投石の斉射によって大打撃を与えようと、その機を見計らっているためである。
投石紐を振り回しながら、殺気のこもった視線を投げかけてくるエルドア国軍の散兵を前に、ついにピアータが投石の射程に入る。
次の瞬間、ピアータの目がギラッと輝く。
「百狼隊、行くぞっ!!」
そう叫ぶなり、ピアータもまた愛馬の脇腹に小さく蹴りを入れた。その合図とともに愛馬もまた、鼻息を荒くして一気に駆け出す。そして、間髪を入れずに金狼兵たちも雄叫びを上げて馬を突進させる。
この突如の突進に、エルドア国の投石部隊は驚いた。
それは、今まさに隊長の号令一下で石を投じようとしていた瞬間であった。もはやその手は止まらず、回転させて遠心力をつけた石が百狼隊へ向けて投じられてしまう。
しかし、射程を延ばすために大きく山なりの軌道を描いて投じられた石は、一気に駆け出したピアータと金狼兵たちの頭上を飛び越え、無情にも彼女たちが駆け抜けた後の地面に落ちるだけだった。
無傷のまま馬の脚を活かして急速に接近してくるピアータと金狼兵を前に、エルドア国軍の散兵部隊は混乱する。
投石紐を使った投石は、威力が高く射程も長いが、投擲するまでの準備に時間がかかってしまうのが欠点だ。
「急げ! 準備でき次第、投げろ!」
後方を振り返りながら部下にそう命じていた散兵部隊の隊長は、急速に接近してくる馬蹄の轟きに気づき、正面へと振り返った。
そして、その顔を恐怖にゆがめる。
隊長の視界に飛び込んできたのは、土煙を蹴立てる大きな馬にまたがり、曲刀を振り上げるピアータの姿であった。
兜の下から洩れ出る黄金の髪を風にたなびかせたピアータは、すれ違いざまに曲刀の一閃で虚空に線を引く。
一拍の間を置いて、散兵部隊の隊長の首横から大量の血潮が噴水のように噴き上がり、宙に鮮血の弧を描いた。
「蹴散らせぇーっ!」
ピアータの号令とともに、曲刀を振りかざした金狼兵たちがエルドア国の散兵たちに襲いかかる。
果敢にも立ち向かおうとした散兵の頭部を叩き割り、逃げようとして晒した背中を切り裂き、石を拾おうとしていた散兵の頭部を馬の蹄が踏み潰す。
エルドア国の散兵と弓兵たちは、あっという間に蹴散らされてしまった。
ピアータは曲刀を鞘に収めると、代わりに鞍から吊された筒の中から投擲用の短槍を取り出す。そして、それを高々と掲げて叫ぶ。
「金狼兵っ! 投槍準備!」
そして、手にした短槍の穂先を前方へと突きつける。
「私に続けっ! 『黒壁』を粉砕するぞ!」
◆◇◆◇◆
「わっはっはっはっ! 身の程知らずな子馬殿が来たかっ!」
自軍の散兵を苦もなく蹴散らしたピアータが率いる金狼兵たちが、さらにこちらへ向かってくる光景を前に、アドミウスはそう笑った。
それからアドミウスは整然と隊列を組む「黒壁」の前を馬で駆けながら右腕を振り上げて声を上げる。
「我らは何ぞやっ!」
これに「黒壁」の猛者たちは唱和で応じる。
「「我らは『黒壁』! エルドアの『黒壁』なり!」」
さらにアドミウスは問う。
「『黒壁』とは何ぞや?!」
「「決して破れぬ壁! 不破の壁なり!」」
「不破とは何ぞや?!」
「「我らを破れる者はなし! 我らは無敵なり!」」
「ならば、我らこそがエルドア最強! 最強無敵の軍団『黒壁』よ!」
「「応! 応! 応!」」
戦意をほとばしらせながら、「黒壁」の猛者たちは手にした長槍で天を突き刺すように何度も突き上げた。
これが彼ら「黒壁」が戦う前に行う恒例の鼓舞である。
しかし、今日だけはさらに続きがあった。
アドミウスはこれまでよりも声に力を込めて問いかける。
「敵は自らを閣下の最後の弟子と吹聴する子馬殿! それを許して良いものか?!」
この問いかけに、「黒壁」の猛者たちは怒気をもって答える。
「「否! 否! 否!」」
アドミウスは断固とした声で続ける。
「我らを除いて閣下の弟子を名乗る資格はなしっ! それがいかに不敬であるか、我らが教育してやろうではないかっ!!」
「「応! 応! 応!」」
アドミウスは馬首を翻すと、こちらへと向かってくるピアータたちに向けて言い放った。
「さあ、身の程知らずの子馬殿! 我らの教育は、ちと手荒いぞ! 覚悟して参られよっ!!」




