第61話 ベルテ川の戦い8-英雄対凡人(後)
ロマニア国軍から発せられた鯨波と熱気の渦をその背中に感じながら、蒼馬はすうっと静かに息を吸い込んだ。
「聞け! エルドアの友よ! 私の仲間たちよ!」
その声量に比して驚くほど通る蒼馬の声が響き渡った。
「今より攻めてくるのは、ロマニア国の英雄たちだという!」
自分の言葉がエルドア国の将兵すべてに染み入るのを確認するように、蒼馬はいったん言葉を句切ると全軍を見渡してから続けた。
「だが、私たちは英雄に打ち倒されなければならない悪なのか?! 英雄に裁かれるような罪を犯した罪人だというのかぁ?!」
自らの声の余韻が残る中で、蒼馬は息を吸う。
「否! 否であるっ!!」
そして、蒼馬は胸を膨らませた息を否定の言葉として解き放った。
「私たちが求めたのは、戦いか?! 否だ! 私たちが求めたのは、平和だ! 私たちはロマニア国の領土を侵したことがあるか?! 否だ! 攻め込んできたのはロマニア国の方だ! ロマニア国の無辜なる民を傷つけたことがあるか?! 否だ! 傷つけられたのは我らがエルドア国の民だっ!!」
蒼馬が立て続けに取り上げたのは、ただの事実である。何の誇張も嘘もいらない。エルドアの民たちを奮起させるには、ただの事実を挙げるだけ十分であった。
自分たち側が被害者である。ロマニア国こそが加害者なのだ。そして、その加害者たるロマニア国は悪びれることなく、さらに自分たちを攻めようとしている。
その事実を再確認させるだけでエルドア国の将兵らを発奮させるには十分なのだ。
エルドア国軍の至るところから蒼馬の訴えに同意する声が上がる。ロマニア国の非道に対する批難の声が次々と飛び出す。許してなるものかと弾劾する声が上がる。ロマニア国こそ悪ではないかと声高に糾弾が上がる。
それに蒼馬は満足げにうなずいた。
手痛い敗戦からの長い籠城戦を経て、今度は兵数の劣る中での会戦である。それでありながら、エルドア国の将兵らの戦意はいまだ十分だ。
それを確認した蒼馬は、その右手を挙げて皆の注意を集める。
しばらくの時を費やして、ざわめきが静まった将兵らに向けて、蒼馬は口を開く。
「私はつい先程、敵の総大将であるパルティスに、こう言われた」
蒼馬は一拍の間を置いてから、次の言葉を言った。
「――おまえは凡人である、と」
蒼馬の声は決して感情的なものではなかった。むしろ穏やかと言ってもいい口調である。
ところが、それに対してエルドア国の将兵たちから激しい怒気が立ち上った。
蒼馬はエルドア国の王である。自分たちすべての代表である。その代表となる者が英雄ではなく凡人と評されたのだ。これが侮辱でなくて、何であろうか?
そういきり立つエルドア国の将兵らを前に、しかし蒼馬は笑って見せる。
「まったくパルティスの言うとおりだ!」
これに将兵らは、戸惑った。
自分らを代表する王が侮辱されたと怒りを覚えたというのに、当の本人がその侮辱を肯定したのだ。
そのためエルドア国の将兵らは湧き上がった怒りの矛先を見失い、いったいどういうことかと困惑する。
そんな将兵らを前に蒼馬は苦笑を浮かべながら続けて言う。
「しょせん私は凡人だ。ただ、この身には余る大きな望みを持ってしまっただけの凡人にすぎない」
それは偽らざる蒼馬の本心であった。
パルティスに言われるまでもなく、蒼馬は自分自身を英雄などとは思っていない。ただこのセルデアス大陸とは異なる現代日本で生まれ育ったがために、この世界では知らない知識と論理を知っているだけの凡人に過ぎないのだ。
しかし、その事実の告白に エルドア国軍のざわめきは大きくなっていく。
ロマニア国軍が英雄であると称して攻め寄せようとしているのに、その直前になって自分らを率いる王が自らを凡人と貶めるのである。
これではまるで戦う前から敗北を認めているようなものではないか。
そんな疑念すら浮かび始めたエルドア国の将兵に向かって、蒼馬は苦笑ではなく朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「だが、凡人が英雄より劣ると誰が決めたっ?!」
凡人とは何の取り柄もないからこそ凡人なのである。際立った特徴を持たないからこそ凡人なのだ。
それに対して英雄とは他人より英でているから英雄なのである。その英でた人間から比べれば凡人が劣っているというのは自明の理だ。
ところが、それに蒼馬は疑念を呈したのである。
これにエルドア国軍の全将兵が驚いた。
それはどういう意味か? 凡人が英雄に劣っていないというのか?
将兵たちの胸の内に湧いた疑念が、知らず知らずのうちに蒼馬の言葉を聞こうと耳を傾けさせる。蒼馬がいかなる言葉が発するのだろうかと期待させる。
そんな将兵らに向けて蒼馬は訴えかけるように言う。
「英雄ではない私には、ただひとりで大事を成せるような力はない! 私はひとりでは何もできない! ひとりでは生きていくことすらむずかしい! 私は英雄などではなく、ただの凡人なのだから!
そんな私が王などという分不相応な地位にあるのも、私を支え、助けてくれる多くの者たちの存在がいるからだ。彼らがいるからこそ、私は何とか地位にしがみついていられるだけなのだ!」
蒼馬が挙げたものはとうてい凡人が英雄に劣っていないというものではなかった。それどころか、むしろ凡人が劣っていると強調するものでしかなかったのだ。
蒼馬の言葉にエルドア国軍の将兵らは、さらに混乱した。
しかし、すでに疑念すら浮かべ始めた将兵らを前に、蒼馬は落ち着いた声音で語りかける。
「そうだ! 凡人は弱い! 弱いから、ひとりでは生きてはいけない。だからこそ私たちは愛する人を見つけ、家を建て、助け合い、ともに生き、子をなし、家族を作るのだ」
次第に蒼馬の声に熱がこもっていく。
「そうした愛する家族と、その者たちが住む小さな家。それらが集まったものこそが村であり街であり、そして――」
蒼馬は焼けるほどの熱を込めて次の言葉を発する。
「それが国である!」
それはエルドア国の将兵らに衝撃となって駆け抜けた。
それまで漠然としていた国という概念が、明確な形として彼らの胸に突き刺さったのだ。
このとき、蒼馬が植えつけたのは帰属意識であった。
国とは家々や自分自身を含む家族などの集合体であるという概念を与えて、国という存在をより身近なものと感じさせたのだ。これにより将兵らは自らが国に帰属し、また守るべき家族と同一のものと錯覚させた。
さらに蒼馬は将兵らに語りかける。
「凡人は愚かだ! 愚かだから、ひとりでは迷ってしまう。だからこそ私たちは父祖たちから様々なことを学び、師に教えを乞い、そしてそれを我が子や弟子たちへと伝えていく。そうした知識や技術、そして何よりも大事な先人の想いと意志を時を超えて受け継いでいく! そうした連綿としたつながりこそが、時代なのである!」
蒼馬が与えたのは、誇りであった。
英雄のように大事を成せないと思っている人々に、時代という大きなものの一部を担っているという誇りを与えたのだ。
そして、蒼馬はいったん言葉を切ると、大きく息を吸ってから、それを今日一番の熱を込めて言葉として放つ。
「すなわち、私たち凡人こそが国を築く者である! 私たち凡人こそが時代を受け継ぐ者である!」
蒼馬の宣言に、エルドア国軍の中から言葉にならないどよめきが沸き起こった。
蒼馬は馬首を翻すと、ロマニア国軍へと相対する。
「ロマニア国の英雄どもよ、よく聞け!」
その背中にエルドア国全軍の好奇の視線を集めながら、蒼馬は腰帯にたばさんでいた小ぶりの山刀を引き抜くと、それをロマニア国軍へと突きつけた。
「英雄め! 英雄どもめ! 時代を切り裂き、壊す者たちめ! 何ひとつ築かず、何ひとつ伝えられず、何ひとつ受け継げない! 私たち凡人の助けがなければ何ひとつ成せず、ただ壊し、ただ奪うだけしか能がない貴様らごときが、私たち凡人を舐めるなっ!」
本来、英雄とは凡人が仰ぎ見る存在である。英雄とは凡人が従うべき存在である。英雄とは凡人よりも優れた存在である。
しかし、それを蒼馬は全否定して見せた。
英雄など大したものではない、と。英雄など恐れるものか、と。
その蒼馬の言葉を聞いたエルドア国の将兵らの胸の中に、ある感情が湧き起こる。
それは、反骨心であった。
人が誰しも胸の奥底に抱え込む、強大な何かに抑圧されたときに感じる反発する心の働き。
もはやエルドア国軍にとって、英雄など恐れるものではなくなっていた。ロマニア国軍が自らを英雄など称して攻めてくるというのならば望むところ。今こそ凡人である自分たちが、英雄たちを引きずり倒してやろう。
そんな闘志が燃え上がる。
再び馬首を翻してエルドア国の将兵らへと向き直った蒼馬は、ぐるりとエルドア国全軍を見渡した。
闘志をむき出しにする同胞たちの中で、ガラムは「これのどこが凡人だ」と自身もまた笑顔のまま沸き立つ闘志に牙を剥いていた。
抑えきれない興奮に牙をガチガチと打ち鳴らす戦士たちの中で、ズーグは誰よりも獰猛な笑顔で指をポキポキと鳴らしていた。
顔を紅潮させて興奮をあらわにする部下を前に、セティウスは「やっぱりこうなるのか」としかめっ面を深くする。
自らも沸き立つ興奮を感じながらアドミウスは「こればかりは閣下も及ばぬな」と苦笑いを洩らしていた。
ピピは奮い立つ心を抑えつつ、いつでも飛び立てるようにと、その翼となった両腕を大きく広げて大地に伏せている。
ジャハーンギルは「我は大英雄!」と胸を張り、三人の息子たちから「そういうことじゃないから」とたしなめられていた。
ドヴァーリンは愛用の斧槍の握りを確かめ、その隣ではノルズリがひげを撫でさすりながら笑い声を上げている。
そして、シェムルはいつもと変わらぬ揺らぎない信頼の目を向けていた。
エルドア国全軍の意志をその一身に集めた蒼馬は、そのすべてを迎え入れるかのように両腕を大きく開いた。
「さあ! 英雄どもに、思い知らせてやろう! 歴史上、もっとも無残に英雄たちを引き倒し、もっとも多くの英雄を打ち倒してきたのは同じ英雄ではない!」
蒼馬は握りしめていた小ぶりな山刀ごと右手を天へと突き上げる。
「それは私たち凡人であるということを!」
蒼馬の言葉に、エルドア国軍の全将兵らが手にした武器を振り上げ、「おお!」と唱和する。
「さあ、ロマニア国の英雄どもを打ち破るぞ!」
◆◇◆◇◆
どちらの陣営からともなく、どんっと大太鼓が叩かれた。
それから一定のリズムに合わせて太鼓が打ち鳴らされる。最初はわずかにズレていた両軍の大太鼓の音もしだいに拍子を合わせ、まるでひとつの太鼓の音となって戦場に鳴り響いた。
両軍の大太鼓の鼓手は、汗水を飛び散らせながら太鼓を連打する。
巨大な波濤のように、一匹の龍の巨体のように、うねるように戦場全体に轟く太鼓の拍子は、徐々にその速さを増していった。
そして、その連打の速さがついに限界を迎えようとした寸前。
両軍の鼓手は申し合わせたように、その手を止めた。
一拍の静寂が戦場に落ちる。
そして、双方の大太鼓が呼吸を合わせて一際大きく高く打ち鳴らされた。
それとともに、ふたりは叫ぶ。
「進めぇ! ロマニアの英雄たちよ!」とパルティス。
「行けっ! エルドアの仲間たちよ!」と蒼馬。
ふたりのかけ声を合図に、いっせいに双方の軍から鬨の声が上がる。
「「おおおおーっ!!」」
ロマニア戦役でも屈指の激戦「ベルテ川の戦い」の始まりである。




