第10話 毒蛇
蒼馬とソロンのふたりすらも見過ごしてしまった、この異才の持ち主ピアータ・デア・ロマニアニス。
ロマニア国内でも限られた、ほんの一握りの人たちにしか知られていないこの異才の存在をロマニア国以外で知る者が、たったひとりだけいた。
その者がいるのは、エルドアとロマニア両国のほぼ中間となる北の山岳部にある小さな国バルジボアだ。
バルジボア国は、小さく貧しい国である。国土の大半が山岳地帯で占められ、耕作に適した平地などほとんどない。国民は猫の額ほどのわずかな土地にしがみつき、痩せた土地でも実を結ぶような雑穀を育てて何とか食いつないでいるという有様だった。
当然、それだけでは国民すべてを養うには、とても足りない。
そこでバルジボア国では古くから武芸や芸能が盛んで、国民が傭兵や旅芸人となって他国へ出稼ぎに出る風習があった。バルジボア国は、そうした者たちがもたらす外貨によって何とか成り立っているような国である。
そんな小さく貧しい国であるバルジボア国の王都バルゼア。
峻嶺な山々に囲まれた王都バルゼアは、その広さだけを見れば間違いなく西域一小さな王都である。それと同時に王都の至る所にある急勾配の坂や階段が示すように、その内部の高低差は間違いなく西域一であろう。
その王都バルゼアの最北に、王城があった。切り立った岩山をくり抜かれて造られた王城は、あたかも山に城がめり込んでしまったようにも見える。
その王城の最奥にある薄暗い一室に、その者はいた。
「そうか。あの老いぼれは、まんまとロマニア国から逃げおおせたか」
画板に向かったまま、そう言ったのはバルジボア国の国王セサル・バルジボアだった。
そこはセサル王の私室である。しかし、私室の中に所狭しと置かれた絵画に、絵の具や画板といった画材、そして床と言わず壁と言わず、そればかりか天井にまでついた絵の具の痕を見れば、そこはどこかの画房にしか見えなかった。
それもそのはずである。セサル王は、その腕前は一流の画家たちをもうならせる程だが、絵画に没頭するあまりに国政をないがしろにする希代の暗君と呼ばれる王であった。そして、ついた異名が「絵狂い」だ。この部屋の有様を見れば、それも納得であろう。
しかし、西域の闇に属する者たちからは、また別の異名で呼ばれていた。
西域全土の闇に広がる諜報組織「根」の総帥にして、兄弟すべてを毒殺して王位を簒奪した毒薬使い「バルジボアの毒蛇」。
それがバルジボア国王セサルなのだ。
「御意にございます、陛下」
王宮勤めの女官の格好をした諜報組織「根」の女間者デリラは淡々と報告を続けた。
「今はソロンと名乗る老人は無事にエルドアに帰還いたしました。今頃はロマニア国の内情を破壊の御子へと報告していると思われます」
セサル王は小さく「ふむ」と洩らしながら、その手はせわしなく画板の上を踊っていた。手にしている筆だけではなく、ときには指の先や腹、さらには爪の先まで駆使してセサル王は画板に絵の具を乗せていく。
「あの老人もしぶとい。武闘派の将軍諸侯の刃のみならず、ゴルディアの策をも切り抜けるとはな」
そこでセサル王は、ふうっとため息を洩らす。
「これならば直接に手を下すべきであった。肝心なときに『根』の者たちが動かせぬとは、返す返すも残念だ」
セサル王の独白に、デリラは表情も変えずに「それも仕方ないのでは」と思っていた。
つい先頃、セサル王の命によってブルーセス侍従長とダライオス大将軍というロマニア国の重要人物ふたりの暗殺を決行したばかりである。そのため、今ロマニア国内ではゴルディア王子とモンティウス宰相による国内の密偵捜索が厳しく行われていた。そんなところで「根」を動かせば、せっかく張り巡らせたロマニア国内の「根」が丸ごと引き抜かれてしまう恐れすらある。当面は静かに深く地下に潜り、捜索の目が緩むのを待つしかなかった。
「咽喉が渇いた。水を持て」
自分の描いた絵をためつすがめつ眺めながらセサル王は言った。デリラは床に散らばる画材を巧みにかわしながら部屋の片隅にある机の上に置かれた水差しを手に取る。水差しの水を器に注いだデリラがそれを持って行くと、セサル王は絵の具でまだらに染まった両手を開いて見せながら言う。
「余の手は汚れている。水を飲ませよ」
それはセサル王の悪戯である。
しかし、デリラは何ら迷うことなく器の水を口に含むと、その唇を押しつけてセサル王へ口移しに水を飲ませた。
しばらくして、水を飲ませるだけにしては濃厚な口づけを終えたデリラは熱い吐息を吐きながらセサル王から離れる。それから手巾を取り出すと、ふたりの唇の間からわずかに洩れてセサル王の口許から首筋へと伝っていた水の滴を拭う。自分の前に膝を突いて咽喉を拭うデリラをセサル王はその目を冷たく光らせて見下ろした。
「毒は入れていなかったのだな」
セサル王の言葉に、デリラはわずかに背筋を震わせる。
「お戯れを……」
平静を装いながら手巾をしまって立ち上がったデリラに、セサル王はくつくつと笑いを洩らした。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
図星である。
しかし、「根」の間者であるデリラにとって、その総帥たるセサル王の意向に疑念を抱くのは、それだけでも死を賜る許されざる大罪である。即座にデリラは「ございません」と否定した。だが、セサル王からさらに言えと命じられれば答えないわけにはいかない。
「今回のロマニア国への介入は、いささかやり過ぎだったのではございませんでしょうか?」
言葉では「いささか」とはつけたものの、それはあまりにも控えめな表現であった。
ダライオス大将軍とブルーセス侍従長の暗殺は、いかなる愚挙や暴挙ですら一興とうそぶくセサル王にしても、さすがにやりすぎとしか思えない。
何しろ、そのせいでロマニア国の王城に張り巡らせていた根が寸断してしまっているのだ。
暗殺者となる根たちを国の柱石たるふたりの身近まで伸ばす。
言葉にすれば簡単だが、それを実現するには一朝一夕では叶わない。決してばれないよう、決して悟られぬように、何代にもわたってじわりじわりと根を伸ばし続け、ようやく国の柱石とも呼ばれる人物のところへまで届いたのである。
そこに至るまでかけた呆れるほどの時間と投じられた莫大な金、そして何よりも歴代の「根」の者たちの忍耐と努力がなければ、決してなしえなかったことだ。
しかし、それもそもそもはあたかも地中に広く伸ばした根が水と栄養を樹の幹へと吸い上げるがごとく、情報をバルジボア国へともたらすためのものである。決して暗殺などをさせるためではない。
暗殺などという凶行に及べば、当然ながら徹底的な密偵の洗い出しが行われる。それによって万が一にも正体が露見すれば、その密偵が捕らえられるのみならず、その仲間たちまでもがさらに芋づる式に吊り上げられてしまうだろう。
そうならないためには、これまでの定期連絡すらも取りやめ、ジッと息をひそめるしかない。
しかし、それだけでも「根」にとっては致命的になりかねない事態である。
諜報組織「根」は、西域諸国を巡る傭兵や旅芸人からなる情報網だけの組織ではない。そうした諸国を巡る者たちが訪れた土地の者と結ばれ、その地に根を下ろし、それでいてバルジボア国とつながり情報をもたらし続ける。しかも、それは一代限りの話ではない。周囲の友人知人ばかりか家人にすらその正体を隠し、子や孫へと役目を受け継がせていく。長年仕えてくれた従僕が、数十年来の友人が、祖父の代から付き合いがある隣人が、自分の情報を流していた「根」の間者であることすらあり得る。
そうして西域全土にまで広がり根づいた間者とそれをつなぐ情報網こそが、西域最大の諜報組織「根」なのだ。
しかし、その組織体制ゆえの弱点もあった。
間者は、その土地に根づけば根づくほどバルジボア国と物理的にも精神的にも離れてしまう恐れがある。そうならないためにも、常に連絡を保ち、「根」の間者としての自覚を促し、教化し続けなければならなかった。
その定期連絡までも行えない状況では、下手をすれば間者の役目を放棄してしまう枯死する根が出ないとも限らない。そればかりか、「根」の非合法な諜報活動の情報を握ったまま他国に亡命でもされれば、それこそバルジボア国の存亡の危機ともなりかねなかった。
それだけに「根」の間者をたった一度の暗殺で使い潰すなど、決してあり得ない選択なのである。
それこそバルジボア本国が攻め込まれ、亡国の危機となったときでもなければ使わない最後の手段。組織も致命傷を負う覚悟の上で、たった一度きり使える切り札なのだ。
しかも、使った状況も悪い。
エルドア国――元ホルメア国は先のホルメア戦役とその直後の内乱によって王城内部の勢力ががらりと書き換えられてしまった。そのため、せっかく長い年月をかけて王城の中にまで伸ばしていた根が寸断され、ほとんど機能していない。王都の街に残る根を少しずつ伸ばしているものの、あの鋭い女官長の警戒をくぐり抜け、再び王城の中に根を張り巡らせるまでには、どれぐらいの歳月を要するかは想像したくもない状況であった。
エルドア国がそのような状況にあって、さらにロマニア国に広げていた根まで立ち枯れさせてしまうのは、まさに片腕を失ったところに自ら残った腕まで切り落とすような暴挙に等しい。
そのデリラの指摘に、セサル王は小さく鼻を鳴らす。
「表の老人どもがうるさく騒いでいるのであろう?」
表の老人とは、諜報組織「根」の前身となるバルジボア人の互助会としての機能を受け継いでいる組織の表の顔となっている者たちのことだ。彼らはあくまで西域諸国でのバルジボア人の支援を目的としており、国家や地域の紛争に介入するのを良しとしていない。
「放っておけ。どうせ口ばかりで何もできぬ老人どもだ」
セサル王は嘲った。
かつては表と裏の両輪で動いていた「根」もセサル王の時代になってからは、裏の役割に傾斜し、それに異を唱えた多くの者たちは粛清されていた。今残っている老人らも行動に移す度胸も力もないからこそ、見逃されているだけに過ぎない。
「それよりも、今は破壊の御子だ」
セサル王の目が、ぎらりと輝いた。
「破壊の御子を打ち倒さねばならぬ。あやつを何としてでも絶望の闇に叩き込んでやらねばならぬのだよ」
虚無をたたえるセサル王の目に、脂ぎった狂おしいほどの炎が揺らめいていた。その口許には非人間的な爬虫類を思わせる笑みが浮かぶ。
それにデリラは違和感を覚えた。
セサル王の強みは、血が通わぬ冷たい判断力である。この世に絶望しているセサル王は、絵画以外に執着するものを持たない。
酒や女ばかりか、たとえ怪しい薬が一時の享楽を与えようとも、次の瞬間には虚無へと塗り替えられてしまう。
そんなセサル王だからこそ、誰もが中止を躊躇するような、莫大な投資をした計画も利がないと思えばあっさりと切り捨てる。必要とあれば、それまでの計画とは正反対のことも平気でやる。
それが亡霊とも蛇とも呼ばれるセサル王なのだ。
ところが、それが最近崩れつつあった。
破壊の御子である。
セサル王はどういうわけか破壊の御子に対して、異常な執着と敵意を示すのだ。
それをデリラは、恐ろしいと思った。
破壊の御子には、決して関わってはならない。あの破壊の御子と呼ばれる男に関われば、セサル王の未来には恐ろしい死と破壊が待ち構えている。
そんな確信めいた予感をデリラは覚えていたのだった。
だが、それを口にするのは僭越である。それを胸の奥にしまい込み、デリラは別の疑念を示した。
「ですが、破壊の御子めを倒すためならば、なおさらダライオスを失わせたのは痛手ではございませんか?」
弱小国であるバルジボアでは、西域の雄と呼ばれた大国ホルメアを呑み込んだエルドア国と戦えるはずがなかった。もはや西域でエルドア国に対抗できるのは、唯一ロマニア国だけだ。そのロマニア国を煽り、エルドア国へとぶつけるしか手はない。
だが、暗殺したダライオスはそのロマニア国の軍の柱石である。個人の武勇ばかりが目につくが、その戦術眼や統率力においても優れた人物であった。
ダライオスの死によって、ロマニア国軍の力は半減したといっても過言ではないだろう。
そのデリラの指摘に、セサル王は声を上げて笑った。
「おまえは、ダライオスが率いるロマニア国軍に破壊の御子を討てたと思うのか?」
冷笑とともにセサル王から投げかけられた質問に、デリラはうなずいて答える。
「ロマニア国に、あの戦神をおいて他にはいないかと存じます」
相手は、あの破壊の御子である。ダライオスができないのであれば、それを打倒できる者など考えられなかった。
「それは、違うな」
ところが、セサル王は一言の下に否定する。
「破壊の御子の恐ろしさは、その埒外の知識とそれに基づく思考にある。その埒外の知識と思考を振るう破壊の御子を討たんとすれば、同じ埒外の存在でなければなるまい」
それはデリラにも理解できた。
破壊の御子に執着を示すセサル王の傍に仕えているため、そこにもたらされる破壊の御子の情報は自然と耳に入ってくる。
そこから感じたのは、破壊の御子のあまりの異常性だ。その異常性を打破するのは、常識の範囲に収まるようなまともな力では不可能だろう。
「確かに、ダライオスの武は埒外のものであった」
セサル王は視線を天井に向けるとホルメア戦役におけるダライオスの勇姿を思い浮かべながら言う。
「しかし、エルドア国の大将軍は、ダライオスと互角に打ち合ったと聞く。さらに、埒外の強さというのならば、噂に名高いディノサウリアンの将がいるのだ。それでもロマニア国軍を背負うダライオスならば、そうした者たちを相手にも互角以上に切り結べたやもしれん」
セサル王は、嘲笑を浮かべた。
「しかし、それでどうなる? その者たちの後ろには、あの破壊の御子が控えているのだぞ」
セサル王が言わんとしていることに気づいたデリラは小さく目を見開く。それを楽しげに見やりながらセサル王は言葉を続ける。
「そもそもダライオスの埒外の剛勇は、宿敵ダリウスに打ち勝たんがためのもの。知謀ではダリウスに敵わぬからこそ、埒外の剛勇を身につけねばならなかったのだ。その剛勇を止められたところに、ダリウスをも打ち破った破壊の御子の知謀が襲いかかれば、ひとたまりもないわ」
そこでセサル王はいったん言葉を切った。
そして、セサル王は断言する。
「ダライオスでは、破壊の御子に勝てぬ」
デリラの耳に、その言葉は世界の真理の如く響いた。
「まだしも破壊の御子にその知謀を恐れられたダリウスの方が勝機があったわ」
小さく鼻を鳴らしてダライオスを嘲笑するセサル王に、デリラは困惑とともに尋ねる。
「しかし、それでは如何様にして破壊の御子を討とうとおっしゃられるのでしょうか?」
デリラの問いに、セサル王の目がここよりはるか彼方――ロマニア国のある方へと向けられる。
「あの国には、一頭の狼がいるのだ」
セサル王の口から独白のような言葉が洩れた。
「その立場や生まれ故に、今までその牙を隠さざるを得ず、多少やんちゃな飼い犬の分に収まっていた一頭の狼だ」
いったい何を言っているのか困惑するデリラを置いてけぼりにし、セサル王の独白のような言葉は続く。
「その狼の本性に気づき、何くれとなく世話を焼いていたのがダライオスよ。ダライオスは自分の裁量が許す限りで、その狼の首輪をゆるめ、鎖を伸ばしてやり、自由に動ける範囲を広げてやったのだ」
穏やかだったセサル王の声にしだいに熱がこもり始める。
「そして、それを知るからこそ狼もまた自らの首輪をよしとし、鎖の届く範囲に留まっていられた。逆に言えば、ダライオスがいたからこそ、狼はおとなしくせざるを得なかったのだよ」
すでにセサル王の意識の中からデリラは消え失せていた。ただセサル王は自分の胸から湧き上がる熱意のままに言葉を紡ぐ。
「しかし、そのダライオスはいなくなった。周囲にいるのは、破壊の御子を侮る愚か者ばかり。さて、おまえはその状況に我慢できるかな? いいや、できまい。できるはずがない!」
ギラギラと目を輝かせたセサル王は、目の前の画板を食い入るように見つめながら人差し指に絵の具をすくい取った。
「ロマニア国の雌狼よ。貴様をつないでいた首輪は、もうない。思う存分破壊の御子の喉笛に食らいつくが良い!」
そして、セサル王は最後の色を画板へと乗せた。
そうして完成した画板に描かれていた絵は、異様な風体の騎兵たちとその先頭に立ち、長い黄金の髪を波打たせて馬を駆けさせるひとりの女騎士の姿であった。
◆◇◆◇◆
王都ロマルニアの郊外に、まだ建てられて間もない兵舎があった。
いまだ新しい建材の臭いが残るその兵舎の脇に隣接する練兵場では、何人もの屈強な騎士や兵士が声を張り上げ訓練に励んでいた。
そこにやってきたのは、長い銀髪を三つ編みにして背中に垂らした娘である。女だてらに鎧を身につけて腰に剣を吊していたが、それが妙に様になってる、そんな娘だ。そして、その後ろには見るからに歴戦の戦士と思われる屈強な騎士たちを付き従えていた。
彼女の名は、デメトリア・ローガ。
先頃、その死が公になったロマニア国大将軍ダライオス・ローガの孫娘である。
デメトリアは練兵場の中を真っ直ぐに歩き、近くに旗が立てられた指揮台のところにくると、鎧を鳴らしながら片膝を突いて頭を垂れた。
「姫殿下。ご無沙汰しておりましたが、本日をもって、このデメトリア、姫殿下の許に帰参いたします」
デメトリアの言葉を聞くと、指揮台の上に立って兵たちの訓練の様子を見ていた彼女の主君がくるりと踵を返して振り返る。すると、緩やかに波を打つ長い金髪がその勢いでふわりと大きく広がった。
髪は高く結い上げるのが貴族の子女のたしなみとされるこの時代においては、結い上げるどころかデメトリアのようにひとつに編むことすらしない髪ははしたないと言われても仕方ないものだ。しかし、光を透かして燦然と光り輝く黄金の髪は、あたかも光背のように神々しく映った。
デメトリアの主君は輝かんばかりの笑みを満面に浮かべて口を開く。
「よくぞ戻ってきてくれた、デメトリア!」
ロマニア国のじゃじゃ馬姫との異名を持つピアータ・デア・ロマニアニスの後ろでは、狼に白百合を描いた旗が風の中ではためいていた。




