第7話 窮兎の策
ロマニア国軍の将校の多くは、貴族の次男坊や三男坊と、それ以下の弟たちである。
貴族の家においては、長男以外の立場は弱い。家屋敷や爵位や領地などは、たいてい長男が受け継ぐと決まっている。そのため、領地を割るような要因ともなる弟たちの存在は、厄介者になりかねないからだ。
それでも次男坊や三男坊までならば、長男が不慮の事故で死んだ場合などの代用品として扱いがまだしもマシではある。だが、それ以下の弟ともなれば本当の厄介者でしかない。また、次男坊や三男坊とて長男に実子が生まれれば、とたんに厄介者に落とされてしまう。
そのため、貴族の家において長男以外の男子は、そうした冷遇に遭いながらも冷や飯を喰らうのを我慢するか、さもなければ家を出て自身の力で身を立てるしかなかったのである。
そして、そうして家を出た男たちが向かう先は決まっていた。
何しろ貴族の子弟として育った彼らには、商人になるための金も人脈もない。職人になるための技術もない。農民になるための土地も知識もない。あるのは己の身体と貴族の男子の嗜みとして覚えさせられた武芸のみである。そうなれば、おのずと道は限られてしまう。
すなわちロマニア国軍だ。
当初は剣一振り、槍一本の腕のみで戦場の英雄にならんと夢見て、ロマニア国軍の門戸を叩く貴族の子弟たちだが、すぐに過酷な現実に直面する。
それは、自分は英雄などではなく、その他大勢のひとりにすぎない、と言うことだ。
戦場に夢などはなく、ただ過酷で苦しい現実があるのみ。ひそかな自負すら持っていた剣や槍の腕前も、平凡の域を出ないものだと気づかされる。そして、何よりも真に英雄と呼ぶに相応しい者たちを前に、自らの凡庸さを思い知らされ、打ちのめされるのだ。
そして、いつしか現実を受け入れるしかなくなってしまう。
しかし、その中には――特に年若い者たちは、「きっかけさえあれば、俺だって」と胸の奥底で灰に埋もれた熾火のような野心をくすぶらせていたのである。
ソロンが泊まるラウゼンの屋敷の前に集まった七人の青年将校たちもまた、そんな者たちであった。
彼らの目的は、もちろんソロンの暗殺だ。
この凶行に彼らが踏み切ったのには、もちろん国を裏切ったソロンへの義憤もある。
しかし、それ以上に強いのは、ここで名を上げようという野心であった。
武闘派と呼ばれる将軍諸侯たちが「その首をあげよ」と息巻きながらも、ゴルディア王子の厳命によって手が出せないアウレリウスである。
そのアウレリウスの首をあげれば、自分らは一躍時の人となれるだろう。
そんな目論見があってのものだ。
無論、ゴルディア王子は激怒するだろう。だが、しょせんは落ち目の王子である。武闘派の将軍諸侯らがこぞって自分らの擁護に回れば、厳罰には至らない。それどころか王子の厳罰をも顧みず、亡き王と国の双方を裏切った卑劣漢を討ち取った忠義の士である。多くの者が喝采を上げて称賛するに違いない。それで将軍や有力諸侯たちの目に留まれば、立身出世も夢ではなかった。
そんな甘く甘い夢を見て集まった青年将校たちであったのだ。
七人の青年将校らがラウゼンの屋敷の扉を乱暴に叩くと、何事かと屋敷の従僕が顔を出した。
「ここにいる卑劣な裏切り者を出せ!」
そう言うなり青年将校らは問答無用とばかりに従僕を押しのけて屋敷の中へ押し入った。突然の侵入者に恐れをなしながらも従僕が必死に出て行くように訴えても青年将校らは耳も貸さない。逆にソロンを出せと詰め寄る始末である。
そこへ騒ぎを聞きつけてやってきたのは、屋敷の主人であるラウゼンであった。
「これは一体何の騒ぎですかな?」
ラウゼンはいつもと変わらぬ満面の笑みを浮かべて、屋敷に押し入ってきた青年将校らに声をかけた。
「卑劣な裏切り者アウレリウスを出せ! 庇えば、ラウゼン殿とて容赦はせぬぞ!」
青年将校らは今にも剣を鞘から抜き放とうとするように、剣の柄に手をかけながら恫喝した。
するとラウゼンはニコニコと微笑んだまま言う。
「はいはい、わかりました。では、アウレリウス殿の部屋にご案内いたしましょう」
そう言うとラウゼン自身が先に立ってソロンがいる二階の客室へと歩き出した。
てっきり自分らを諫めるか、それとも抵抗するかと思っていたのに、この対応である。
青年将校らは拍子抜けしてしまう。
思わぬ展開に半ば呆気に取られる青年将校らをぞろぞろと引き連れて、ラウゼンはソロンが泊まる客室の前に立った。そして、扉を叩きながら、のんきな声を上げる。
「アウレリウスよ。おまえさんに客人じゃぞ」
これに青年将校らは、慌てた。
これは、彼らが想像していた展開とは違う。
彼らが思い浮かべていたものとは、次のようなものである。
まず、アウレリウスをかばうラウゼンを押しのけて屋敷に乗り込む。そして、固く閉ざされた扉を蹴破って客室に乗り込み、そこで抵抗する卑劣な裏切り者を捕らえる。その後で、その罪状を声高に突きつけてから見苦しく命乞いをするアウレリウスの首を刎ね、それを高々と掲げて凱旋するというものだ。
少なくとも、こうして断りを入れてから客室に乗り込むような展開ではない。
「待て待て待て! すぐに乗り込む! そこを退いていただこう!」
そう言ってラウゼンを押しのけた青年将校のひとりが扉を蹴破ろうと足を上げた。すると、ラウゼンはのんびりとした声で制止する。
「扉が傷むのでやめていただきたい。それに、その扉には鍵などありませんよ」
青年将校は無意味に足を上げたまましばらく動きを止める。それからやや気恥ずかしげな顔で足を下ろすと、「失礼する」と言って扉を開けた。
これから襲撃しようとする相手へ「失礼する」はないだろうと自身でも思ったが、ついつい場の流れで口から出てしまった言葉である。
その恥ずかしさを誤魔化すように、扉を開けるなり剣を引き抜いて勇ましい声を上げた。
「国を裏切り、陛下を殺めた大罪人アウレリウスめ! 俺たちが国と亡き王に代わり誅伐を加えてや…る……?」
勇ましい声は尻つぼみに消えていった。
なぜならば、客室はもぬけの殻であったのだ。
部屋の中には人が隠れるような場所はない。代わりに窓が大きく開け放たれ、そこからは部屋に置かれた寝台の足に結ばれ縄が外へと垂らされていた。
「あなたたちは、アウレリウス殿の弔辞を噂にも聞いておられなかったのですかな?」
茫然とする青年将校らに、ラウゼンが苦笑とともに言う。
「アウレリウス殿は、近衛兵たちの厳しい警護と監視の下から世間知らずの王子であったドルデア王陛下を誰にも気づかれることなく王宮から連れ出していた脱走の大名人ですぞ。老いたりといえど、たったひとりならばこの屋敷から逃げ出すなど造作もありません。あなたたちが騒ぎ立てたときには、とっくにこの屋敷から逃げ出しておられたに決まっておりましょう」
ラウゼンの言葉に、ようやく事態を把握した青年将校らは慌てる。
「外だ! 急いで外に回れ! 卑怯者を逃がすな!」
血相を変えた青年将校らは、ラウゼンが「やれやれ」とため息を洩らすのを背に受けながら屋敷を飛び出していった。
「捜せ! 相手は老いぼれだ! まだ、そう遠くまでは逃げられまい!」
青年将校らは血眼になってソロンを捜した。
喪に服しているとはいえ、そこは数万の民がいる王都である。夜に出歩く者も何人かは見かけられた。そうした者たちを片っ端から捕まえて怪しい老人を見なかったかと問いただすと、そのうちひとりがロバに乗って王宮へと走り去るソロンらしき老人を見たと言う。
「おのれ、卑怯者め! ゴルディア殿下のところへ逃げ込むつもりだな!」
王宮には王族であるゴルディアの屋敷がある。ゴルディアは王子であり、またアウレリウスへ危害を加えるのを固く禁じた当人だ。この王都ロマルニアでは、ゴルディアの屋敷こそがもっとも確実な安全地帯である。暗殺から逃れようと思えば、そこへ逃げ込むのは道理であった。
ソロンの逃亡先はわかったが、青年将校たちはソロンを追いかけるかどうか迷った。
すでにソロンが逃げ出してから、ずいぶんと時間が経っている。とっくにゴルディアの屋敷に到着しているだろう。ソロンを追いかければ、当然ゴルディアの屋敷へ押しかけることになってしまう。
血気に逸る青年将校たちだが、王子であり第一王位継承者であるゴルディアの屋敷へ押しかけるのには、さすがに躊躇した。
だが、すでにこれだけの騒動を引き起こしてしまったのだ。ここで諦めれば、ただ処罰されるのを待つだけになってしまう。
青年将校らは意を決すると、王宮へと乗り込んだ。
王宮の門衛から事前のゴルディアの許しを得たソロンが門を通り抜けたとの証言を得た青年将校らは、思ったとおりであったとさらに勢い込んでゴルディアの屋敷へと向かった。
王宮の一角にあるゴルディアの屋敷に着いた青年将校たちは、もはややけくそとばかりに扉を殴りつけるように叩くと、その対応に出てきた侍従へ食ってかかる。
「ここに卑劣な裏切り者アウレリウスが逃げ込んだのはわかっている! すぐにあやつを引き渡せ!」
これに侍従は仰天した。
本来ならば屋敷に詰めている衛兵たちが、このような無礼者たちを追い返すのだが、間の悪いことに今夜ばかりは衛兵がいない。ゴルディアが今宵は家族だけで喪に服したいといって、衛兵を下がらせていたのだ。
そのため、やけになって息巻く青年将校たちの矢面に立つことになった侍従は、目を白黒とさせながら主人であるゴルディアに助けを求めた。
すぐさまやってきたゴルディアは、訝しげに眉間にシワを寄せながら青年将校らに問いかける。
「そなたたちは、何者か? かような夜更けに私の屋敷にいかなる用か?」
普段ならば直答どころか、まともに顔を拝することも許されないゴルディアの登場に、青年将校たちは内心では尻込みしながらも虚勢を張って声を荒げる。
「ここにアウレリウスが逃げ込んだのは承知しております! 如何にゴルディア殿下とて、亡き陛下の仇を討たぬばかりか、それを匿うとは言語道断! 殿下がお出来にならぬというのならば、私たちがアウレリウスの首を刎ねましょう! 即刻、引き渡していただきたい!」
青年将校たちは、そう啖呵を切った。しかし、それにゴルディアは眉間にシワを寄せると、それから脇に控える侍従へと振り返る。
「アウレリウスが来たならば、即座に私へ伝えるように申しつけておいたはずだぞ」
ゴルディアの問いに、侍従は顔を青くさせながら答える。
「御意にございます、殿下。――しかし、いまだにそれらしいお方は当家を訪れてはございません」
侍従の答えに、ゴルディアはさらに眉間にシワを寄せた。
「そなたたち。真にアウレリウスはラウゼン殿のところから、当屋敷へ逃げたのだと申すのだな?」
「と、惚けないでいただきたい! 王宮の門衛は、アウレリウスが殿下の許しを得て門を通ったと申しております! 殿下がアウレリウスを匿われているのはわかっているのですぞ!」
ゴルディアがソロンを匿い、それを惚けているのだと言い張る将校たち。しかし、その声には先程までの勢いがない。ゴルディアが本気で困惑していることに彼らも薄々気づき始めていた。
ゴルディアは苛立ちとともに言い切る。
「そうまで言うのならば、家捜しでも何でもするがいい。しかし、私をこの国の王子と承知した上でのことだろうな? それでもなおアウレリウスが見つからねば、そなたらは王子たる私に刃を向けた反逆者のそしりを受けるものと覚悟いたせ!」
これに、青年将校らはたじろいだ。
王子の屋敷に押しかける暴挙も、ソロンの首さえ取ってしまえば多くの将軍諸侯らが擁護してくれるだろうという打算があっての行動である。
しかし、それも肝心なソロンの首も挙げられなければ意味はない。それどころか、王子であるゴルディアに非礼を働いたとなれば、ただですむはずがなかった。自身が斬首されるのみならず、実家にまで累が及ぶのは確実だ。
かといって、ここまで意を決してやってきたのに、ここですごすごと引き下がっては何のために行動を起こしたのかわからなくなってしまう。
青年将校たちは押すに押せず、引くに引けなくなってしまった。
そのとき、ゴルディアは何かに気づいた表情となる。
「少し待て。――そなたたち、アウレリウスが王宮に来たのは間違いないのだな?」
青年将校たちがそれを肯定すると、ゴルディアはしばし何か考え込んだ。それから不意に顔を上げる。
「……もしや?!」
そう言うなり、ゴルディアは青年将校たちには目もくれず屋敷を飛び出して行った。これに呆気に取られた青年将校たちだったが、この場に留まっていても仕方ない。とにかく、ゴルディアの後を追いかけることにした。
ゴルディアが向かったのは、自分の屋敷の程近くにある別の屋敷であった。それは王子であるゴルディアの屋敷と比べても遜色がない立派な構えの屋敷である。
ゴルディアはその屋敷の扉を乱雑に叩くと、顔を出してきた家の侍従へ「私が尋ねてきたと伝えよ」と言い捨てた。
この突然の王子の来訪にびっくり仰天した侍従は転ぶようにして慌てて屋敷の奥へと駆け戻る。そして、しばらくしてその侍従が戻ってきたときには、この家の主を連れていた。
「このような夜更けに何事ですかな、兄上?」
それは、弟のパルティスであった。
父王が亡くなり、王都すべてが喪に服しているというときである。それだというのに、パルティスの上機嫌な顔は酒精で赤く染まっていた。すでにかなりの酒量をたしなんでいるのか、そのろれつも危うさを感じさせるものだ。
パルティスの問いかけに、しかしゴルディアは答えず、弟に続いて姿を現した人物へと鋭い視線を向ける。
「こりゃ、殿下! 飲み比べの真っ最中ですぞ! 負けそうだからといって逃げるのは許されませんぞ!」
王子であるパルティスに対して暴言を吐きながら、酒杯を片手に千鳥足で現れたのはソロンである。ソロンもまたパルティスに負けず劣らず酒精で顔が真っ赤であった。
これにパルティスは大口を開けて笑う。
「逃げたとは心外! このパルティス、逃げも隠れもせん! これは老いたおまえに少し酔いを冷まさせてやろうという、私の優しさよ!」
「こちらこそ老いたとは心外。酒ならば、まだまだいけますぞ!」
そうしてパルティスとソロンは、そろって笑い声を上げた。
これに青年将校たちは、唖然としてしまう。
その首を取ってやろうと躍起になって追い回していたというのに、当の相手はパルティスと酒の飲み比べをしていたというのだ。
ドルデア王の信頼厚く、身内以上に親しくしていたソロンである。当然、ゴルディアと同様に、パルティスともまた旧知の間柄だ。
しかし、つい少し前まではパルティスは「父の仇!」と息巻いていたのである。それが、こうして仲良く酒の飲み比べをしているとは予想しておけと言われても無理な話であった。
しばらくして、ようやく我に返った青年将校のひとりが恐る恐るパルティスに問いかける。
「失礼ながら、パルティス殿下に申し上げる。そこにいるアウレリウスは、亡きドルデア王陛下の憎き仇。なぜ、その首を刎ねなされぬのですか?」
言外に「アウレリウスの首を刎ねる」と公言されておられたではないですかとなじる青年将校に、パルティスは闊達な笑顔を浮かべて答える。
「うむ! 私も一時は殺してやろうと思っていた。――しかし、あの弔辞を聞いて気が変わったのだ!」
これに青年将校たちは愕然としてしまう。
パルティスが他人の言にすぐ左右されてしまう素直すぎる性格なのは知っていた。しかし、いくら何でも父の仇を弔辞だけで許してしまうのは、あまりに軽率ではないかと思う。
そんな青年将校を前に、さらにパルティスは言う。
「無論、それだけではないぞ。先程、このアウレリウスが不逞の輩に追われたと言って、当屋敷にやってきたときだ。こやつは、こう申したのだ。『本葬まで生き延びられれば、それで本望。それまで匿っていただきたい』と、な!」
パルティスの目が潤む。
「こやつは父上の葬儀を終えられれば、それで死んでも本望だと申すのだぞ?! 息子として、これが泣かずにいられようか?!」
その言葉どおり、パルティスは号泣し始めた。
しばらくして泣くのが落ち着いた頃を見計らってソロンが手渡した手巾で、パルティスはズビビッと鼻をかむ。
「それでな、私は言ってやったのだ! 『おまえの身は、私が預かろう! おまえへ危害を加えようとする者は、何人たりとてこの私が許さん』と、な!」
パルティスが誇らしげな顔で言い放つと、すかさずソロンが合いの手を入れる。
「さすがは、パルティス殿下! その慈悲と寛容さは、あまねく天下に知れ渡り、称賛されましょうぞ!」
これにパルティスは酒精とは別の理由で顔を赤くした。
それからパルティスは青年将校たちを見やって言う。
「そのような理由で、おまえたちの父への忠義は嬉しく思うが、このアウレリウスを討つのは許さん。今宵のことは私は知らなかったことにする故、おとなしく帰れ」
青年将校らは、ぐうの音も出せなくなってしまった。
これで我を通してソロンの首を刎ねれば、第一王位継承権者のゴルディアに非礼を働いた上で、第二王位継承権者のパルティスの不興を買うことになる。それでは、いずれが次代のロマニア国王になっても、ロマニア国に自分らの身の置き所がなくなってしまう。
青年将校らは、すごすごと立ち去るしかなかった。
そうして、その場に残ったのはゴルディアだけである。
「おう、兄上! 兄上も、アウレリウスとともに亡き父上の思い出話をせんか?」
自分を酒宴に誘うパルティスに、ゴルディアは首を横に振るう。
「私は明日も使者を迎えねばならぬ身だ。酒の臭いをつけていくわけにはいかぬ。それに明日も早い。帰らせてもらおう」
「そうか。それは残念だ」
皮肉ではなく、心底残念そうにパルティスは言った。それから兄へ別れの言葉を告げると、パルティスは侍従に付き添われながら酒宴の席へ戻っていった。
「アウレリウスよ……」
パルティスの後に続こうとしたソロンをゴルディアは呼び止める。
何ですかな、と振り返ったソロンにゴルディアは淡々と言う。
「故事に曰く、『傷つき弱った兎が胸に跳び込んでくれば、猟師もこれを捕らえられず』。あえて死地に跳び込み、生を得る策か。見事だ」
兎を獲って生計を立てる猟師といえど、傷ついて弱った兎が自分にすがって飛びついてくれば、それに情が湧き、獲ることができなくなってしまう。それを転じて、あえて自分を害しようとしている相手の懐に跳び込み、情に訴え、その危難をかわす「窮兎の策」である。
人の言葉を疑わず、また情にもろいパルティスには効果覿面の策であろう。
そう称賛するゴルディアに、ソロンはへらりと軽薄な笑みを浮かべて見せる。
「いやはや、たまたまでございます」
そう言うのならば、そういうことにしておこうとゴルディアはあえて追求はしなかった。しかし、すぐに恨めしげな顔を作る。
「できれば弟ではなく、私を頼ってもらいたかったのだがな」
これにソロンは困った顔になる。
「わしを庇えば、殿下のお立場がさらに悪くなりましょう。それに万が一、先程の若者たちが殿下をないがしろにして凶行へ及べば、わしも逃げ場を失い殺されるしかない。
それでは殿下のお立場ばかりか国の名誉にまで傷がつきます。さすれば殿下とて、我が主君であるソーマ様に詫びるために、あの若者たちの首を刎ねねばなりますまい」
ソロンは耐えられぬといった表情で首を左右に振った。
「この老いぼれのみならず、前途ある若者たちまで首にしてしまうとは、あまりにも悲しい。また、国の名誉を守るためとはいえ、そのような処置を取れば、なおさら殿下のお立場も悪くなりましょう。
そう思えばこそ、あえてパルティス殿下におすがりした次第。決してゴルディア殿下を頼りないと思ったわけではございませんぞ」
ソロンの言葉に、ゴルディアは小さく目を見張った。
そのゴルディアに向けて、ソロンは再びへらりと軽薄な笑みを浮かべて見せる。
しかし、その軽薄な笑みとは裏腹に、ソロンはまるで何かを見通すかのような鋭い目でゴルディアの目をジッと見つめていた。
しばらく二人は無言で見つめ合う。
そして、先に視線を外したのはゴルディアだった。
「では、私は明日も早いので帰らせてもらおう。弟にはよろしく伝えてくれ」
そう言い残すとゴルディアは踵を返した。パルティスの屋敷から立ち去るゴルディアの背中にソロンが声をかける。
「殿下、良き夜を。また明日、お会いいたしましょうぞ」
しかし、ゴルディアは振り返りもせずに歩き続ける。
パルティスの屋敷を出たゴルディアが門のところまでいくと、そこでは後を追いかけてきた侍従が夜道を照らす灯りを手に待っていた。
「お待ちしておりました、殿下。奥様がご心配になられております。ささ、帰りましょう」
侍従は夜道を照らすためにゴルディアの先に立って歩き出そうと背を向けた。
すると、突然ゴンッと音がした。
驚いた従僕が振り返れば、そこにはゴルディアがこれまで見たこともない険しい表情でたたずんでいた。そして、その右手は脇に立つ門柱を横殴りにしたままふるふると震えていたのである。
「で、殿下……? いかがされたのですか?」
心配する侍従の言葉に、ゴルディアの口から小さな声が絞り出される。
「いや。何でもない。――帰るぞ」
そう言って歩き出したゴルディアの右拳からは、ぽとりと血がしたたり落ちた。




