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破壊の御子  作者: 無銘工房
建国の章
303/548

第37話 撤退

「亜人どもの姿が消え失せただとっ?!」

 早朝、討伐軍の動向を偵察するために放った斥候がもたらした報告に、アッピウス侯爵は驚きの声を上げた。

 そこは辺境諸侯軍の野営地の中である。

 ホルメア国を征服した破壊の御子と名乗る亜人どもの頭目に降伏するのを良しとはしないホルメア国の北部諸侯を中心にした辺境諸侯らが集結した軍勢だ。

 挙兵に際しては王都奪還と王族解放のために急遽兵を挙げたとは喧伝しているものの、これまで辺境諸侯軍の動きは鈍かった。わざわざアッピウス侯爵のお膝元であるラフバンの街に兵を集めたのみならず、つい先日まで延々(えんえん)と愚にもつかない練兵と軍の編成に時を費やしていたのである。王都から討伐軍が自分らへ差し向けられたとの報せに、ようやく重い腰を上げて軍を南下させたかと思いきや、その行軍は亀の歩みのようであった。

 兵の一部からは、「本当に戦う気があるのだろうか?」と疑問の声が上がったのも当然である。

 しかし、いかにそれが亀の歩みであろうと前に進んでいることには変わりない。徐々に辺境諸侯軍と討伐軍との距離は縮まり、いよいよ明日には互いの姿を視界に捉えるであろう。

 誰もがそう思っていたときである。

 今度は討伐軍の足がピタリと止まったのだ。

 これにアッピウス侯爵はすぐさま何人もの斥候を放つと、討伐軍の様子を探らせたのである。そして、そのうちひとりがまだ夜が明けきらぬうちにもたらしたのが、この報せであった。

 いよいよ待ち望んでいた事態が起きたのか!

 アッピウス侯爵は、そんな(はや)る気持ちをぐっとこらえた。

 何しろ相手はホルメア最高の将軍と呼ばれたダリウスを翻弄し、ホルメアとロマニアの両大国を手玉に取った破壊の御子だ。迂闊(うかつ)に動くわけには行かない。

「よし! 兵たちを叩き起こし、追撃の準備をさせておけ。私は自らこの目で敵陣を見に行く」

 そう言うなりアッピウス侯爵はわずかな供回りだけを連れ、自ら馬に乗って討伐軍が野営していた陣地へと向かったのである。

「確かに人の気配がせぬ……」

 この強風を避けるために森に寄り添うようにして張られていた討伐軍の陣地は、遠目からでは動く者の姿はひとつとして見つけられなかった。そればかり、兵たちの立てる喧噪どころか馬のいななきひとつとして聞こえてこない。

 これは少なくとも何らかの異常が起きたのだと思ったアッピウス侯爵は伏兵を警戒しつつ、慎重に敵陣へと踏み入る。

 すると、斥候兵が言うように、すでに陣地はもぬけの殻であった。

 しかも、よほど慌てふためいたのであろう。陣地の中には武器や防具が散乱し、天幕が倒されたまま放置されているばかりか糧食の一部まで放棄されていたのである。

 そして、陣を引き払ったのが発覚するのを遅らせるために火がついたままにされていた篝火(かがりび)もすでに燃え尽き、今ではわずかに白い煙を立ち上らせているだけであった。

 供回りとしてついてきた騎士のひとりが困惑の色を浮かべて言う。

「閣下。これはいったい何が起きたのでしょうか……?」

 兵数とその練度を鑑みれば、辺境諸侯軍より討伐軍の方が優勢である。まともにぶつかれば、その勝敗は明らかだ。それなのに会敵寸前のこのときになってから、突如として兵を退くとは普通ならばあり得ない話である。これは何か不測の事態が亜人どもの側に発生したとしか思えなかった。

 その不測の事態を推測したアッピウス侯爵の唇が引きつれたように吊り上がる。

「メンダックスの奴め。やりおったな……!」

 当初は破壊の御子から有利な条件を引き出すために抵抗の姿勢を示していたアッピウス侯爵が、こうして本当に兵を挙げたのは、メンダックスとの密約によるものだった。

 その密約とは、北部諸侯の挙兵によって亜人どもの主力を王都より引き離し、その間にメンダックスが反乱を起こして亜人の頭目である破壊の御子の首級を挙げるというものだ。

 そして、おそらくはその反乱が成功したのだろう。それがために、討伐軍は急に兵を退いたのだ。

 そう判断したアッピウス侯爵の行動は早かった。

「急ぎ陣に戻るぞ! 亜人どもを追撃するのだ!」

 そう言うなり自らも馬首を(ひるがえ)して辺境諸侯軍の陣地に駆け戻った。

 メンダックスとの密約では、ホルメア国を奪還した後は救出したワリナ王女を女王にし、その王配としてアッピウス侯爵の息子をあてがわせる。そして、アッピウス侯爵は新女王の義父として、またメンダックスは再び宰相として互いに権勢を分かち合おうというものだった。

 しかし、このまま亜人どもの軍勢を逃がしては、破壊の御子の首級を挙げたメンダックスの功の方が自分よりはるかに大きい。

 それではあの裾持ちに大きな顔をされることになる。それは、いささか(しゃく)に障るというものだ。

 ここでメンダックスに負けぬ功を挙げるためにも、撤退した亜人どもを急ぎ追撃しなければならない。

 そう思ったアッピウス侯爵は帰陣するなり、追撃の準備を急がせる。いまだ寝ぼけている北部諸侯の盟友らの尻を蹴り飛ばして何とか追撃の準備が整うと、まずアッピウス侯爵はうち捨てられた敵陣へと向かった。

 アッピウス侯爵も自軍の状態は把握している。辺境諸侯軍とは名乗っていても、その大半が強制的に徴集した農民兵と金目的の傭兵だ。そのため兵の練度は低く、何よりも軍としての統率が取れていなかった。

 そんな軍で敵と戦うには、まずは兵ひとりひとりに自分らの勝利を確信させ、またその欲望を刺激してやる気を起こさせねばならない。

 そこでアッピウス侯爵は、追撃する前にうち捨てられた敵陣での分捕(ぶんど)りを認めたのである。

 すると、兵たちは歓声を上げ、我先にと打ち捨てられていた武具や糧食に群がり、思うままに分捕りを始める。しばらくすると辺境諸侯軍の兵の誰もが、ひとりで何本もの剣や槍を持ち、拾った鎧を重ね着し、糧食で背嚢(はいのう)をパンパンに膨らませた。

 そうした兵らを前に、アッピウス侯爵はさらに劇薬を投じる。

「続いて逃げた亜人どもを追撃するぞ! 敵将の首を取った者には、多大な恩賞を取らせる!」

 これの効果は覿面(てきめん)であった。

 つい昨日まで強風の中での行軍には誰もが不平不満を洩らしていたというのに、今や一兵卒にいたるまで目を欲望にギラギラと輝かせ、少しでも早く逃げた亜人類どもに追いついてやると足を動かしたのである。

 しかし、その日はさすがに討伐軍に追いつくことはできなかった。

 やむなくアッピウス侯爵はその日の追撃を諦めて野営を張ると、掠奪した糧食の中にあった酒類まで惜しみなく兵に振る舞い鋭気を養わせ、翌日の追撃に備えさせたのである。

 そして、その翌日は日の出とともに追撃を再開した。

 すると、昼前には逃げた亜人どもが張ったと思われる野営の跡が見つかった。その野営地跡に入ったアッピウス侯爵は、しばし周囲を観察していたが、やにわに笑い出した。

 突如笑い出したアッピウス侯爵に、驚いた北部諸侯のひとりが「いかがされた?」と問いかける。

 すると、アッピウス侯爵は手で野営地跡を指し示す。

「良くご(ろう)じろ! 昨日より(かまど)の数が減っておる!」

 アッピウス侯爵の言葉に改めて野営地跡を観察すれば、兵たちが糧食を調理するのに使ったと思われる石積みの簡易の竈の数が先日のものより数が少なく見えた。

「確かに。言われてみれば数が減っているように見えますな」

「しかし、それがいかがしたのでありましょうか?」

 竈の数が減っている意味がわからず、ただありのままを口にするだけの盟友たちに、アッピウス侯爵は得意げな顔で語る。

「竈の数が減っているということは、とりもなおさずそれを使う兵の数が減っているということだ」

 アッピウス侯爵は北部諸侯のみならず、周囲の兵士たちにも聞こえるように声を張り上げる。

「すなわち、亜人どもの軍勢から多くの兵が逃げ出しておるということよ!」

 北部諸侯たちは、なるほどと感心した。

「確かに。言われてみれば、逃げた亜人どもの足跡も減っているように見えますな」

「元は亜人どもと敗残兵の寄せ集め。統率を失えば、砂でできた城のごとく崩れたのでありましょう」

 脱走兵まで続出しているとなれば、いよいよもって王都でのメンダックスの反乱が成功し、破壊の御子が討ち取られたと見て間違いない。

「貴卿ら、すでに我らの勝利は確定いたしましたぞ!」

 このアッピウス侯爵の勝利宣言に、聞き耳を立てていた兵士たちは色めき立った。

 この自軍の様子に満足したアッピウス侯爵は野営跡を利用して早めの昼食を摂らせると、さらに兵を急き立てて逃げた亜人どもを追撃させたのである。

 すると、その日の夕方についに先行させていた斥候が亜人どもの姿を(とら)えた。

「アッピウス侯爵閣下! 逃げる亜人どもと思われる集団の姿を数里先に確認いたしました!」

 その斥候の報せに、アッピウス侯爵は労いの言葉をかけてから空を見上げる。すると、すでに空は茜色に染まり、東の地平線からは夜の闇が顔を覗かせていた。

 このまま追撃を続けて今日のうちに亜人どもに追いついたとしても、そのときには夜となってしまうだろう。夜戦ともなれば夜目が利く種族も多い亜人側が有利である。もはや大勢(たいせい)は決した今、ここで無理に追撃して不利な夜戦をする必要はない。

 そう判断したアッピウス侯爵は今日は早めに野営にし、兵たちを(いたわ)り、明日こそ亜人を徹底的に叩こうと決めた。

「この辺りで野営するに良い場所はないか?」

 アッピウス侯爵の問いに、斥候がすぐさま答える。

「これより少し先に、亜人どもが野営に利用した峡谷がございます。そこならば風も避けられ、兵も休めるかと思われます」

「よし! ならば、そこへ案内しろ」

 その斥候の先導によって、アッピウス侯爵ら辺境諸侯軍はいったん進路を変えて峡谷へと向かった。

 そこはガラムたちが野営をし、「蛇の地」と評した峡谷である。

 アッピウス侯爵は斥候を放って峡谷の安全を確認してから自身も峡谷へ馬で乗り入れた。

 峡谷は細長く伸びていて一カ所に固まって野営はできないものの、左右を急な崖に囲まれているために、そこだけは外の強風が嘘のように風が()いでいる。

 明日も逃げ足の速い亜人どもを追撃しなくてはならない。しかし、こう北風が強くては兵もおちおちと休めはしないだろう。だが、この峡谷ならば風を避けられる上に、亜人どもの残した竈や天幕跡を利用すれば兵にも楽がさせられる。

 今日はここに野営するとアッピウス侯爵は決めた。

 それを全軍に伝えると、追撃している間ずっとこの強風に悩まされていた兵士は歓声を上げつつ我先へと峡谷へ入り、さっそく野営の準備を始める。

「よいか! 明日には亜人どもに追いつくだろう。そこで功を挙げた者には厚く報いる! 今宵は、ゆっくりと身体を休め、明日に備えるのだ!」

 アッピウス侯爵は激励の声を上げながら、野営の準備をする兵たちの中を練り歩いた。

 兵たちの顔を見れば、その意気は軒昂(けんこう)だ。これならば明日は必ずや亜人ども打ち倒せるだろう。

 こうしてアッピウス侯爵は十分に兵たちの意気を盛り立ててから、自分用の天幕に入り、ようやく鎧の紐を緩めて自分も身体を休める。

 すると、そこへ一緒に軍を率いてやってきた息子が訪れた。

「父上。少しよろしいでしょうか?」

 もはや勝ち戦だというのに不安げな顔をする息子に、アッピウス侯爵は「何だ?」と返す。すると、アッピウス侯爵の息子はしばらく躊躇ってから言った。

「父上。ここはダリウスが言う『蛇の地』ではございませんか? このようなところに野営してよろしいのでしょうか?」

 それにアッピウス侯爵は「そんなことか」と笑う。

「だから、おまえはまだ凡将だと言うのだ。――良いか? そのとおり。ここはダリウスめが言う『蛇の地』に間違いない。通常ならば、ここに陣を張るのは愚かなことだ」

 アッピウス侯爵は従者の差し出した暖めたワインで唇を湿らせてから続けた。

「しかし、かつて建国王のホルメアニス王は、兵法書に『陣は山を背にし、川を前にすべし』とあるのに逆らって背水の陣を敷き、それによってロマニア国を打ち負かしたではないか?」

 ホルメア国の武将ならば誰もが知る背水の陣の故事に、アッピウス侯爵の息子は「それは……」と言葉に詰まる。それにアッピウス侯爵はニヤリと笑ってから言う。

「良いか? 兵法書の記述とは、あくまで基本に過ぎぬのだ。真の武将は、兵法書を理解し、そのときとその状況に応じて用いねばならぬ」

 それからアッピウス侯爵は残りのワインを一気に呷ると、酒精が混じる熱い息とともに言い切る。

「戦意ある敵を前にして、このようなところに陣を張るは愚将の極み。されど、今は敵に戦意はなく、ただ逃げるのみ。ならば『蛇の地』といって避けるよりかは、明日に備えて兵をいたわるべきなのだ」

 それから辺境諸侯軍の総大将という顔から肉親への顔になったアッピウス侯爵は、息子に優しく声をかける。

「安心するが良い。先を行く亜人類どもを監視するために、何人もの斥候を出している。もし、奴らが反転して攻めて来るようなことがあっても、すぐに対応できるだろう。おまえは安心して、明日に備えて身体を休めるが良い」

 それに「さすがは父上」と感心する息子の言葉とワインの酔いも加わり、アッピウス侯爵は上機嫌でその日は眠りに落ちたのである。

 しかし、アッピウス侯爵は知らない。

 今、自分と同じようなことを言った者が、夜陰に乗じて崖の上から自分たちを見下ろしていることを。

「さあ、予想どおり敵がきたよ……」

 野営する辺境諸侯軍を見下ろす蒼馬の言葉は、強い風の音に吹き消され、眠りこけるアッピウス侯爵の耳には届かなかった。

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