第36話 抜け穴
話はいったんメンダックスが反乱を起こした当日の夕刻に遡る。
王都より北へ少し離れた小さな森の中で、大きないびきが響き渡っていた。まるで嵐かと思うようないびきを上げているのは、地面に横たわる赤毛のゾアンの巨漢――ズーグである。
本来ならばガラムとともに討伐軍を率いているはずの彼が、少数のゾアンの戦士とともに森の中に潜んでいるのは、もちろん人を待っているからであった。
「《怒れる爪》。族王が来たみたいだぞ」
見張りに立っていた戦士が待ち人の到来を告げたとたん、寸前まで高いびきをかいていたズーグはガバッと上半身を起こした。
「おう。ようやく来たか!」
毛に絡みついた落ち葉を手で払いながら立ち上がったズーグは森の外まで迎えに出る。すると、ちょうどそこへ数人のゾアンの戦士をともなった蒼馬が馬に乗ってやってきたところだった。
「お待たせしました、ズーグさん」
馬上から朗らかな笑みとともに声をかけてくる蒼馬に、ズーグはその目を細めて笑みを返す。
「無事に脱出できて何よりだ、ソーマ殿」
これに蒼馬が「おかげさまで」で笑って応じると、ズーグは知人の無事を祝う親しげな表情から一転して戦士の顔になる。
「それで首尾よくやれたのか?」
それに蒼馬は「もちろんです」と返した。そして、その後をシェムルが得意げな顔になって続ける。
「王城の連中には気づかれず、逆に王都の人間たちにはしっかりと覚えてもらえるように愛想を振りまいてきてやったぞ」
その豊かな胸を張り、自分の功績と言わんばかりに語るシェムルにズーグは呆れた顔になる。
「御子様よ。王城から無事に抜け出せたのは、あのおっかない女官長様の手配があればこそだろうが」
ズーグの真っ当な指摘に、さすがのシェムルも「うっ」と言葉を詰まらせた。
この王城からの脱出劇をすべて計画し、手配したのはズーグが言う「おっかない女官長」ことエラディアによるものだった。
蒼馬がワリナ王女をいじめていると悪評を流した上で月下の小宴を提案したのは、それを機にさらなる蒼馬の不祥事をでっち上げようというメンダックスの意図は見え透いていた。
これを事前に防ぐのはたやすい。
しかし、それでは反乱を企てていた確証が得られず小心者のメンダックスは共謀者であるアッピウス侯爵を切り捨てても保身に走り、知らぬ存ぜぬとしらを切るのは目に見えていた。それを許しては、いつまで経っても蒼馬の統治に禍根が残ってしまう。
そこでエラディアは、メンダックスに自分の目論みどおりになっていると思わせて実際に反乱を起こさせ、その上でそのすべてをひっくり返すのを計画したのだ。
そのために用いられたのは、王城にあった秘密の抜け穴であった。
古来より王城には敵の侵略や臣下の反乱に備えて王族だけが知る秘密の抜け穴がつきものだ。特に王都ホルメニアの王城は、ホルメア国とロマニア国という両大国の前身ともなった古王朝の城でもある。それだけ歴史を積み重ねていれば歴代の王のひとりぐらいは、秘密の抜け穴のひとつぐらいは用意していたとしてもおかしな話ではない。また、実際にはひとつどころか複数の抜け穴が存在していたのだった。
まさにエラディアが口にした「気位はエルフに似て、その行いはドワーフに似る」との言葉どおり、歴代のホルメア王たちは樹上で生活するエルフのように王宮を高いところに建てておきながら、その下ではドワーフのようにせっせと穴を掘っていたというわけである。
しかし、そうした抜け穴の存在は、王たちにとっては最後の生命線だ。それだけに抜け穴の存在は歴代の王たちの間にだけ伝えられ、それが嫡子であろうと王は死ぬ間際まで秘匿するというものである。ましてや亡くなったワリウス王は猜疑心が強く、とうてい誰かに打ち明けていたとは思えなかった。
しかし、当然ながら抜け穴の出入り口は巧妙に隠されているものだ。探したからといって、そう簡単に見つかるものではなかった。
そこでエラディアが目をつけたのは、かつて大宰相とまで呼ばれたポンピウスである。
ホルメア国前王サドマ王の右腕と讃えられ、サドマ王自身からも深く信頼されていたポンピウスならば、有事に際して抜け穴を使って逃げ出した王を保護し、または王宮へ王を救出に向かうために、密かにサドマ王より抜け穴を教えられているのではないかと推測したのだ。
そのエラディアの推測は当たっていた。
ポンピウスは、ふたつの抜け穴をサドマ王より教わっていたのである。
そのひとつは、王宮から何とポンピウスの屋敷の裏庭の涸れ井戸に通じているもの。そして、もうひとつは王宮より直接王都の外へ通じるものだった。
今回、蒼馬はワリナ王女が登城する時刻を見計らい、抜け道を使って王城よりポンピウスの屋敷へ脱け、そこから門衛や王都の民たちの前にわざと姿をさらしながら堂々と王都の外へ脱出したのである。
そうした計画のすべてを考えたエラディアもまた蒼馬とともに王城に残っていたはずだが、その姿がこの場にないのにズーグは尋ねる。
「で、おっかない女官長様は、まだ来ないのか?」
それに蒼馬は「ええ」とうなずいた。
「エラディアさんは予定どおり僕の代わりにワリナ王女を接待しつつ、メンダックスが反乱を起こすのを確認してから王都から脱出する手筈になっています」
小心者のメンダックスに反乱を決行させるためにも、わずかたりとも不審を抱かせてはならない。また、可能性としては限りなく小さいがワリナ王女がメンダックスと共謀している恐れもあった。
そのためエラディアは蒼馬の不在を誤魔化し、メンダックスが反乱を起こすのを見届けるために王都に残っていたのである。
「あの女官長様なら、問題なかろう」
エラディアのしたたかさは、すでにズーグも十分に承知している。彼女ならば押っつけ追いついてくるだろうとズーグは判断した。それからズーグは空を見上げると、強い北風によって雲が飛ばされるように流されている光景が目に入る。
「こう風が強いと夜の強行軍は避けたい。日が暮れるまで距離を稼ぎたいが、大丈夫か?」
王城から駆けてきたばかりの自分たちの体力を気遣うズーグに、蒼馬は問題ないと答えた。
正直に言えば少し休憩を入れたいところである。だが、万が一にも自分らの脱出に気づいたメンダックスの追っ手がかかっていれば大変だ。それにここまで自分らの手足を使って駆けてきたシェムルたちゾアンが不平不満ひとつも洩らしていないのに、まさか馬に乗っていた自分が弱音を吐くわけにはいかない。
「一刻も早くガラムさんたちと合流しましょう。先導をお願いします」
蒼馬がそう言うと、ズーグは「承知した」と短く答えるなり、四つ足となって駆け出した。
そのズーグを先頭にし、先行しているガラムが率いる討伐軍へ合流するために蒼馬は周囲をゾアンの戦士で固めながら馬を駆る。
その日は太陽が沈むとともに野宿をし、翌日は日の出とともに北へと蒼馬たちは馬を走らせた。途中で遅れて王都を脱出してきたエラディアたちエルフと合流しながら、ついに蒼馬たちはガラムが率いる討伐軍に追いついたのである。
出迎えにきたピピに蒼馬が案内されたのは、北部へ向かう街道より少し外れた山間にある峡谷となったところであった。
「待ちかねていたぞ、ソーマ。何か問題はなかったか?」
わざわざ峡谷の入り口に出迎えに来ていたガラムを前に、蒼馬はシェムルの手を借りて馬から下りて答える。
「エラディアさんの予想が的中し、計画どおりってところです」
それから蒼馬は自分の身体を叩きながら、辟易したように言う。
「ですが、この風にはまいりました」
この季節になると北から強い季節風が来るのはボルニスの街にいたときから知っていたが、ホルメア国の方がはるかに風が強いようだった。その強い向かい風を受けながら馬を走らせてきたのである。蒼馬の髪はボサボサに乱れ、露出していた顔や手足は砂塵まみれであった。口の中まで砂がジャリジャリと自己主張している。
それだけに峡谷の中に入って風を避けられた蒼馬はホッと肩の力を抜いた。
「そうか。それならばいいが……」
そのガラムの口振りに、蒼馬ははてと小首をかしげた。
蒼馬が知るガラムは平原最強の勇者の呼び声に相応しく果断を好むさっぱりとした気性の戦士である。それがこのような歯にものが挟まったような物言いするのは珍しい。
不思議に思った蒼馬が「何か問題でもありましたか?」と水を向けると、ガラムはやや躊躇いつつも口を開いた。
「風が強いため、ここで野営を決めたのだが、それで本当に良かったのだろうかと悩んでいる」
ガラムの言葉に、蒼馬は釣られるように頭上を見上げた。
峡谷の中に入ったため風もずいぶんと和らいでいるが、頭上では崖の上に生い茂る森の木々が激しく揺さぶられ、騒々しい音を立てているのが見える。あのような強風では、吹きさらしの中で野営などすれば、誰もまともに休めはしないだろう。ガラムがここに野営すると決めたのも真っ当な判断に思えた。
何を悩んでいるのかわからず、きょとんとする蒼馬にガラムは言葉を足す。
「ここは『蛇の地』とかいうところではないか?」
蒼馬は「『蛇の地』?」とおうむ返しに口ずさんでから、すぐにその単語を記憶の中から拾い上げる。
それはホルメア最高の将軍と呼ばれたダリウスがサドマ王のたっての願いに応え、後進のために記したという「ダリウスの指南書」の中の記述であった。
この「ダリウスの指南書」は将の適正や用兵の方法を論じるのみならず、地形について言及する章がある。そこでは行軍や駐屯するときに気をつけねばならない地形の特徴を挙げ、それぞれを獣になぞらえて解説されていた。
そして、その中のひとつが「蛇の地」である。
「峡谷、あるいは左右に山河が迫り、道が細く、また長く伸び、自ずと軍が長蛇の如く細く長く伸びる地を『蛇の地』と呼ぶ」という文から始まる「蛇の地」について、ダリウス将軍は以下のように記述している。
まず、行軍するのは避けるべき土地だが、それができない場合は決して立ち止まらずに速やかに通り抜けなくてならない。駐屯するなど、もっての外である。
また、この地にいる敵を攻める場合には頭と尾を押さえて蛇を捕らえるが如く道の前後を塞ぐか、または伏兵をもって伸びきった胴を側面より一刀のもとに断つのが良策。
逆に守りに際しては前後の守りを固めつつ、機を見て前後のいずれにも速やかに打って出られるように長く伸びた軍全体の連携を密に図る必要がある、と。
ガラムの言葉に改めて周囲を見回せば、なるほどそこは「蛇の地」である。
しかも、崖の上に生い茂る木々が強風に揺さぶられる音の中に、兵たちのざわめきが峡谷に山彦のように反響するのが聞こえた。これでは敵に奇襲を受けた際に軍全体の連携を取るのも難しいだろう。
地形を見る限りではダリウス将軍が指摘するように、ここに野営するなどもっての外である。
大将軍になってから「ダリウスの指南書」をはじめとした兵法書を学び始めているガラムにしてみれば、強風を避けるためにやむなく取った選択ではあるものの気が気ではないのだろう。
しかし、蒼馬はしばし考えてからガラムに気安く問いかける。
「敵との遭遇は、まだ数日後なんでしょ? それに斥候も出しているんだよね?」
「ああ、そうだ。戦士だけではなく、ピピたちにも監視してもらっている」
ガラムの言葉のとおり、すでに茜色に染まった大空を大きな翼を広げたハーピュアンが何人も大きく円を描いて飛んでいた。
「それなら大丈夫だと思うよ」
蒼馬は、そう請け負った。
「こんな強風じゃ、吹きさらしの中で野営するより、ここの方がみんなの負担も少ないからね。まだ敵と交戦するまで余裕があるなら、今は兵を労るべきだよ」
蒼馬の言葉にようやく安心できたガラムは、肩の力をわずかに抜いて「そうか」と短く言う。蒼馬に請け負われて胸のつかえが取れたガラムは、晴れ晴れとした顔となって「皆の様子を見て回ってくる」と言い残して副官のシシュルをともなってその場を後にした。
そうしてガラムがいなくなると、今度はそれまで黙っていたシェムルが不安げな声を上げる。
「なあ、ソーマ。ここは『蛇の地』なのだろ? 本当に大丈夫なのか?」
この世界の文字が読めない蒼馬に代わり、「ダリウスの指南書」を読み聞かせたのはシェムルである。そのため彼女も「蛇の地」については知っていた。
ゾアンにとってダリウス将軍は「黒い獣」と忌み恐れられていたが、それだけにその力は高く評価されている。そのダリウス将軍が「もっての外」と言い切る蛇の地での野営に、シェムルは不安を覚えている様子だった。
そんな憂い顔のシェムルに、蒼馬は「ふふん」と得意げに鼻を鳴らして説明する。
「僕がいた世界には、様々な兵法書に通じた馬謖という天才がいたんだ」
蒼馬が言う馬謖とは、三国志の人物のひとりである。
馬謖は小さい頃より学問に秀で、あの諸葛孔明からもその才を深く愛されていた武将だった。その馬謖が、蜀軍の重要な糧道である街亭の防衛を任されたときである。諸葛孔明からは細い山道を押さえて守りを固めるように言い渡されていたのにも関わらず、馬謖は「高きによりて下きを視れば、勢い、竹をさくが如し」と兵法にあると言い張り、周囲の反対を押し切って山の上に布陣してしまったのだ。
そうして水のない山の上に馬謖が布陣したのを見た敵の司馬懿仲達は、すぐさま細い山道を通り抜けて馬謖の軍を包囲したのである。そのために水を断たれた馬謖の軍は瞬く間に崩壊し、司馬懿仲達にあっさりと街亭を奪われてしまった。
こうして生命線とも言うべき糧道を奪われた蜀軍は大敗し、全軍を引き上げねばならなくなってしまったのだ。
これが世に言う「街亭の戦い」である。
その後、諸葛孔明はその才を惜しみながらも、大敗の責を取らせ、また軍の規律を維持するためにも泣く泣く馬謖を処刑しなくてはならなくなってしまった。これが今日まで格言として残る「泣いて馬謖を斬る」である。
そうしたことを得々と語った蒼馬は、次の言葉で締めくくった。
「いくら兵法書を暗記し、そのとおりに戦っても意味はないんだ。兵法書に書かれているのは、あくまで基本さ。それを理解し、そのときの状況に合わせて活用するのが大事なんだよ」
蒼馬の説明にシェムルは大いに感嘆した。
「なるほど、言われてみればそのとおりだ。私も親父から『山刀を使うのと、使いこなすのでは天と地ほど差がある』と教えられたが、それと同じなのだろう。さすがは我が『臍下の君』だな!」
信頼するシェムルから、そう絶賛された蒼馬はわずかに頬を赤らめて照れくさそうに笑った。しかし、その笑顔も次のシェムルの一言でこわばってしまう。
「――ところで、そのような知識をどのようにして学んだのだ?」
こわばった笑顔を貼りつけたまま、蒼馬はしばし沈黙する。
その間も無邪気な好奇心に輝く目で「私に教えてくれ」と無言で訴えてくるシェムルの圧力に負け、蒼馬は絞り出すように言う。
「……内緒」
それにシェムルから「おまえと私の間で内緒とは、ケチ臭いではないか」となじられるが、蒼馬は頑として教えようとはしなかった。なぜならば、まさか「漫画を読んで覚えました」とは、とうてい言えなかったからである。
蒼馬はシェムルの追求から逃れるべく話を続けた。
「とにかく、今はここで野営しても問題ないんだよ。もちろん、敵の目の前だったり、伏兵の恐れがあれば違うよ。そんな状況で、こんなところで野営をするような馬鹿なことは……」
そこで蒼馬の声が、ピタッと止まった。
どうかしたのかとシェムルが見つめると、蒼馬は難しい顔をうつむき加減にし何やら独り言をブツブツと口にしていた。
「待てよ。じゃ、今の状況は……。アッピウス侯爵なら……」
いきなり周囲の様子も目に入らぬ様子で自分の思考の中に没頭し始めた蒼馬に、シェムルは我知らず口許に笑みを浮かべた。
蒼馬がこうなるのは、決まって悪いことを考えているときだ。
この難しい顔が段々泣き顔のように歪んでくれば、それは自分たちにとっても最悪のことである。しかし、今のようにとっておきの悪戯を披露する悪ガキのように目を輝かせ始めるのは、自分らにではなく敵にとって悪いことに決まっていた。
「何か面白いことでも思いついたのか?」
ようやく自分の思考の中から抜け出して顔を上げた蒼馬に向けて尋ねたシェムルの推測は外れていなかった。
蒼馬はニィッと人の悪い笑みを浮かべて言う。
「うん!――すぐにガラムさんを呼んできて。とっても良いことを思いついたって!」
間もなく書籍版第1巻の冒頭の書下ろしのあの戦いが始まります。




