第21話 大角と小角-命を奪う
夕闇が迫ろうという頃に、酒精で顔を赤らめたソロンがふらりふらりと千鳥足で王都の上流区を歩いていた。
ポンピウスの別宅で美酒を御馳走になった帰りである。
馬車で送り届けるというポンピウスの好意を断り、ちょうど良い酔い覚ましとばかりに徒歩で家路についたのだ。
ソロンが歩く上流区は、諸侯らが王より拝領した別宅や高級官僚たちの住宅が集う場所である。もとより庶民では立ち入るのがはばかられる地域なのに加え、ただでさえ少なかった地区の住人たちも新しい支配者となった蒼馬を恐れて逃げ出したり、ロマニア国との戦いでこの世からも立ち退かされていたりと、その数を激減させていた。
また、わずかに残った住人の中には、夕闇が迫ろうという時分に外出しようという物好きはなく、あたかも街は無人の様相を呈していた。
そんな上流区の中をふらりふらりと歩いていたソロンが、不意に足を止める。
道の先から、ミシェナが息を切らして走ってきたのだ。
おおかた仕事を終えてから、急ぎやってきたのだろう。すぐにでも自分に話を聞きたかっただろうに、きちんと仕事を終えてからやってくるとは感心感心。
そう相好を崩すソロンに、ようやく息を整えたミシェナが開口一番に尋ねる。
「ソロン様は、本当に侯爵様なのですか?」
「おお! 本当も、本当。本当の大侯爵様よ! そして、お嬢ちゃんが次の大侯爵様じゃな」
そう言うなりケラケラと笑い始めたソロンとは対照的に、ミシェナの顔色は冴えなかった。
つい数年前までは財務官吏の下働きとして、その日の糧すら困窮していた平民の娘である。それがいきなり臣下の至極ともいえる侯爵位をくれてやると言われて、「はい。そうですか」と言えるものではない。
困惑するミシェナにソロンは諭すように言う。
「爵位など、たいしたものではないわ。しょせん、じいさまやそのまたじいさまたちが偉かっただけのこと。そんな偉いじいさまたちのおこぼれにすぎん。それをもっていたからといって、ちいとも偉くなどないわ」
ソロンは爵位に対して嘲りすら込めて続ける。
「爵位というものは、ただの冠よ。ただ見栄えが良くなるだけのものに過ぎん。見栄えの良い冠をつけたからといって、それで人が変わるのか? そんな都合が良い冠があれば、この世はもうちっとマシなものになっておるわ」
これを他人が言えば、不敬や妄言と言われただろう。
しかし、それを口にするのは侯爵でありながら、領地も名声もすべてを投げ捨てたソロンである。それだけに、その言葉は決して軽くはない。
「いらなければ、どこぞのドブにでも捨ててしまえ。爵位など、その程度のものじゃ」
当のソロンはそう言うが、ミシェナの方は簡単に割り切れるものではなかった。
あれほど自分らを見下して傍若無人に振る舞っていたホルメア国の財務官吏たちが、侯爵家の養女と知ったとたんコロッと態度を翻し、へりくだってきたのである。
もちろん、それで浮かれるつもりは毛頭ない。だが、少なくともこれまでのように自分を軽視されなくなっただけでも大いに助かる。そうした爵位のありがたみを実感するだけに、それを自分ごときが本当にもらっていいものなのか?
ミシェナは、困惑というよりも恐怖すら覚えていたのである。
「ですが、私のような凡庸な者に……」
与えられた爵位を前に尻込みするミシェナに、ソロンは呵々と笑ってから断言する。
「凡庸。大いに結構! 財とは、国の基盤よ。そこに奇を求めて、何とする? 特にソーマの小僧は危なっかしい滑稽踊りを踊っているようなもの。それが足場となる舞台まで奇をてらっていては、たちまちスッ転ぶわ。
小僧に必要なのは、縦横無尽に滑稽踊りを披露できるしっかりとした舞台となる国の基盤。そして、たとえ地味と呼ばれようとも、馬鹿正直と評されようとも、その基盤を整えられる人材なのじゃよ」
こうまで言われてしまえばミシェナも納得せざるを得ない。
ミシェナは改めてソロンへ感謝の言葉とともに頭を下げた。
「しかし、ありがたがってばかりはいられんぞ」
そんなミシェナにソロンは悪戯っぽく目を細めて言う。
「これまでは平民の娘と見下されておった。だが、これよりは栄えあるエルバジゾ家当主として見られる。下手な仕事をしようものならば、『あれでも才を見出されて養女になった女なのか』と陰口に叩かれるに決まっておるわ」
その光景を想像したのか、ミシェナの頬が引きつる。それでも何と笑みを浮かべると、「そうならないように精進いたします」と言った。
その答えにソロンは満足そうにうなずく。
「精進するか。それこそ凡人が至極に至る唯一の道。善哉善哉」
そう言うとソロンは、カラカラと笑いながら杖を突いて歩き出した。
何と、この世は愉快なのだろうか。
このとき、ソロンの胸には喜びが満ちあふれていた。
かつての自分が見限り、軽んじていた凡人とも呼べる者たちが、苦しみながら無駄とも思えるあがきを続け、その果てに自分がまだ知らなかった新たな世界を切り開いていこうとしている。
その光景を目の当たりにする喜びに、ソロンは打ち震えていたのである。
「もうちっと長生きしてみたいものじゃのぉ……」
かつては世界のすべてを悟ったつもりとなり、何事をも達観し、世を儚み、いつ野垂れ死のうとも構わないとボルニスの街の片隅で鬱々と飲んだくれていた自分が馬鹿のようである。
再びカラカラと笑い声を上げたソロンであったが、ふとその眉をしかめる。
後ろから誰かがついてくる気配がするのだ。
振り返ってみれば、そこにいたのはミシェナであった。
「なんじゃ? まだ用でもあるんか?」
ソロンがそう尋ねると、逆にミシェナが不思議そうな顔で返す。
「いえ? 特にはございませんけど?」
嘘ではなさそうだ。
釈然としないものはあるが、たまたま帰路が重なっただけだろう。せっかく颯爽と立ち去りたかったのに、これは格好がつかなくなってしまった。
まったくこの世はままならないものだ。
そう思ったソロンは、苦笑を浮かべて再び歩き出した。
ところが、しばらくするとまた足を止める。
「……なんぞ用でもあるんか?」
やはり後ろからついてくるミシェナに、ソロンは言った。
すると、ミシェナも先程と同様に不思議そうな顔で返す。
「いえ。特に用というほどのことはございませんが?」
「では、いったい何があってわしの後についてくる?」
いかなる難事難問でも、その正答を見出せると豪語するソロンには珍しく、その声には困惑の響きがあった。
それにミシェナは、あっけらかんと答える。
「当然のことではございませんか? だって――」
◆◇◆◇◆
「ソロンさんは、ロマニア国の貴族だったんですね」
数日後。久しぶりに執務室へ顔を出してきたソロンに向かって、蒼馬はそう言った。
ただ辺境の一都市にすぎなかったボルニスの街でくすぶっていた老人とは思えぬ深い知識と驚くほどの見識には、かねてより何らかの理由から人目を忍んでいるのではないだろうかと推察していた蒼馬だったが、まさかロマニア国の大貴族とまでは思わなかった。
それにソロンは吐き捨てるように言う。
「もはや、どーでも良いくだらん過去よ」
しょせん、とっくに投げ捨てた爵位である。本来ならば、今さらそれを持ち出す気など、さらさらなかった。苦境に陥ったミシェナを助けるのに、一番手っ取り早く効果的な手段だったからこそ、あえて過去という泥に埋もれていたものを拾い上げたに過ぎない。
「すでに小僧が、爵位など名ばかりのものにすると言っておるのだ。今さらあんなものをありがたがるのは馬鹿ばかり。馬鹿に理を説いても無駄無駄。中身のないくだらぬものでも、それを大事にする馬鹿には良く効いた。ただ、それだけのことよ」
それでもあまり触れられたくない話題であったため、すぐにソロンは話を変える。
「して、小僧。今回の騒動をどう見る?」
ソロンの問いに、蒼馬は少し首をかしげた。
「僕の統治に不満を持った人たちの嫌がらせではないんですか?」
「それ自体は間違ってはおらん」
蒼馬の意見を大筋では認めながらも、ソロンは問題を指摘する。
「しかし、元来、王都の財務官吏と領主は仲が良いものではない」
領地の統治権を与えられている領主たちだが、定期的に税収や人別帳の国への申告を義務づけられていた。
これは領主らの内情を把握して反乱を未然に防ぐという目的の他に、その領地の税収や人口に応じた国への奉仕義務――参戦する際に率いてこなければならない最低限の兵数や公共工事の負担金など――を定めるのに参考とするためだ。
当然、領内の税収や人口を少なく申告した方が出費も少なくなる。そのため、領主たちはあの手この手で過少申告してくるのが当たり前だった。
そんな領主たちからしてみれば、その申告を審査する国の財務官吏は仇敵のようなものである。とうてい仲が良くなるわけがない。
「ところが、今回の騒ぎでは、その諸侯と官吏どもが歩調を合わせて妨害してきた。さて、ほとんど交遊などあろうはずがない者たちが、いきなりそれまでのわだかまりを捨てて、仲良くお手々をつないで嫌がらせをしてくるものだろうかの?」
ようやく蒼馬にもソロンが言わんとしていることが察せられた。
「つまり、裏で双方の糸を引いていた大物がいたというんですか?」
財務官吏と諸侯のいずれにも顔が利く誰かが、両者の仲を取り持ち、彼らをそそのかして今回の一件を引き起こしたと言われれば、確かにそちらの方があり得そうだ。
しかし、その蒼馬の推測に、ソロンは侮蔑もあらわに吐き捨てる。
「大物であるものか。これは、裏で暗躍する大物ぶった小人の仕業よ」
今回の騒動を引き起こした人物を小人と評したのに驚く蒼馬へソロンは言葉を続ける。
「おおかた小僧の基盤を揺るがそうと目論んだのであろう。じゃが、実際にやったことは立場の弱いミシェナ嬢ちゃんをいじめただけ。やることが小さい、小さい。
当人は裏で暗躍しているつもりじゃろうが、これはただの臆病よ。
どうせ財務官吏と諸侯をけしかけておいて、自分自身は小僧におもねって安全なところに身を置きながら、諸侯や財務官吏たちに内情を洩らしていたのじゃろう。わしが諸侯どもを追い払ってすぐに財務官吏が大慌てでやってきたのが、その良い証拠よ」
ソロンはひとつの格言を口にした。
「火を熾さねば鉄は打てぬ」
鉄を打つには強い火が必要だ。だが、同時に火は危険なものである。それが鉄を溶かすほどの火ともなれば、ひとつ扱いを間違えば当人の火傷ばかりか、周囲のものにまで被害が及んでしまいかねない。
それ故に、大望を成そうと思えば、時には危険も冒さねばならないという意味の格言である。
「しかけるとするならば、小僧がいまだホルメア国だったものを掌握し切っておらぬ今こそが好機。小僧の統治をひっくり返す手などいくらでもあろうというのに、小心から思い切った手が打てん。まさに小人よ!」
自分の統治を転覆させる手段がいくらでもあるというソロンの言葉に、蒼馬は驚いた。目をぱちくりとさせて、一体どんな手があるのかと尋ねると、ソロンはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら長い髭をしごきながら言う。
「そうさのぉ。――まずは放火と襲撃じゃな」
ソロンの口から飛び出した物騒な言葉に、蒼馬とシェムルは目を剥いて驚いた。それを前に、ソロンは淡々と言葉を続ける。
「人は本能的に火を恐れる。不安を煽るにはもってこいよ。それから適当な街の住人を襲撃し、その場にゾアンの山刀なりエルフの弓なりを放置する」
その光景を想像して、蒼馬はゾッとした。
少し考えれば、犯行現場に証拠を堂々と置いていくという怪しすぎる話だ。だが、それでも無視はできない。どうしても疑念は湧き上がってくるはずだ。
さらに調子が出てきたソロンは舌の動きもなめらかに続ける。
「お次に扇動じゃな。人間どもを煽って『襲撃してきたのは異種族の連中だ。そいつらを捕まえろ』と小僧に詰め寄る。生真面目な小僧のことよ。事件の真相を知ろうとして、時間がかかるじゃろう。そこで、『やはり小僧は異種族に重きを置き、人間種をないがしろにしている。だから犯人を見つけ出そうとしていないのだ』と、さらに煽れば、どのようになるかのぉ?」
蒼馬の脳裏に、現代日本のテレビニュースで見た外国のデモ行進のように、王都に住む多くの人間が怒りの声を上げる姿が思い浮かぶ。
「その後で、仕返しだといって異種族の者たちを襲撃する。どこにも血の気が多い馬鹿者はおる。そいつらを焚きつければ、あっという間じゃろうなぁ」
ソロンは悪戯っぽく目を輝かせて、蒼馬を見やる。
「これですべてはしっちゃかめっちゃかよ!」
そして、ケラケラと笑い始めたソロンに、蒼馬は顔からザアッと音を立てて血の気が引いた。
すべての種族に平等な国という、このセルデアス大陸では初めてという思想を掲げての建国が始まったばかりである。民ばかりか、蒼馬の身近にいる者ですら、本当にそんな国ができるのかと半信半疑でいるのだ。
そんなところに種族間の確執を煽られれば、たまったものではない。
誰もが蒼馬の思想をしょせんは叶わぬ夢想の類い。異なる種族とは決して相容れられないと思うだろう。
そうなった先に待っているのは、これまで以上の種族間の争いである。争いは報復を生み、その報復はさらなる報復を生む。その報復の連鎖をセルデアス大陸の人々が断ち切られるのは、気が遠くなるような時間と莫大な犠牲が費やされた後であろう。少なくとも、それまで自分が生きていられるとは、蒼馬はとうてい思えなかった。
ソロンが言ったことを実践されれば、まさに現状が瓦解してしまう。
蒼馬は慌ててみんなを集めて対策を練らねばと決意し、シェムルはそれを実行される前にソロンを殺した方が蒼馬のために良いのではないかと本気で検討しはじめた。
そんなふたりを前に、ソロンは真剣な面持ちを作る。
「しかし、小人と侮るなかれ。時に奴らは思いも寄らぬ行動を取る」
ソロンはひとつの昔話を語った。
それはエルフの姫の命を救った人間の狩人に、風の神が年にひとつだけ黄金の実を実らせる黄金樹を与えたという話である。
その狩人は黄金樹の実を売って豊かになったのだが、数年もすると欲が芽生えてきた。
もっとお金が欲しい。もっと豊かになりたい。
欲に憑かれた狩人は、黄金の実がなるのだから黄金樹の幹かその根の下にもっと莫大な黄金が眠っているのだろうと考えた。そこで狩人は、黄金樹を切り倒し、その根元を掘り返したのである。
しかし、黄金樹を灰になるまで焼いても、どこまで根元を掘り返しても一粒の黄金も見つからなかった。
結局、人間の狩人は欲をかいたせいで一年に一度手に入った黄金の実すら失ったのである。
「狩人は本当にあるかもわからない莫大な黄金を夢見て、今あるものすべてを台無しにしてしまった。それと同じように、時折小人というものは目先の欲や勝手な思い込みから、とんでもないことをしでかす。それが常人には思いもかけぬことだけに、時にはそれに足をすくわれることもある。ご用心、ご用心」
どこか確信めいたものを感じさせるソロンの物言いであった。
しかし、何か心当たりでもあるのかと蒼馬が問いただしても、ソロンはのらりくらりと言い逃れるばかりである。
こうなるとソロンは絶対に教えてくれない。
すべてを教えてしまっては当人のためにならない。自身が研鑽し、苦労し、その上で見出してこそ当人の糧となるのだ。
それがソロンの言い分であった。だが、それに対して「絶対に面白がっているだけだ」というのが蒼馬とシェムルの共通見解である。
と、そこへエラディアがミシェナの来訪を告げに来た。
何か財務に関わる報告でもしにきたのであろうとミシェナの入室を許可する旨をエラディアに告げた蒼馬だったが、とたんにソロンが挙動不審になるのが目に留まる。
いったいどうしたのかと不思議に思っていると、そこへミシェナが部屋に入ってきた。
「失礼いたします、ソーマ様。――あ、お義父上。ここにいらっしゃったのですね」
すでにソロンがミシェナを養女としたのは聞き及んでいた蒼馬は、ミシェナの発言自体には驚かない。しかし、どういうわけかソロンの様子がおかしかった。先程からそっぽを向いたまま、座り心地でも悪いのかしきりと身体を揺すっている。
ソロンから露骨に無視されても気にも留めずにミシェナはにこやかに言う。
「お義父様。今日もお食事の用意をいたしますから、必ずお帰りになってくださいね」
ミシェナの言葉に蒼馬は、はてと首をかしげた。ミシェナとソロンには、それぞれこの王都の住居を与えてある。しかし、今の口振りはミシェナとソロンが同居しているようだ。
それを蒼馬が問いただすと、ミシェナは当然とばかりに答えた。
「老いた義父ひとりだけにするわけにはいきません。これからも元気に長生きしていただけるように、一緒に暮らして孝養を尽くす所存です」
そこでミシェナは、ふうっとため息をついた。
「それだというのに、お義父様と来たらお酒を召し上がってばかりで……」
そう嘆くミシェナに、たまらずソロンが食ってかかった。
「何が孝養じゃ! わしの唯一の楽しみを奪おうとしても、そうはいかんぞ!」
「お酒のことですか?」ミシェナは小首をかしげる。「でも、お食事にはちゃんとお酒も出しているではないですか?」
それにソロンは吠える。
「かぁー! あんな馬の小便のように薄められたエールなど、酒のうちに入らんわ!」
ソロンが言っているのは、エールを水で薄めてスパイスやハーブを加えた飲み物のことである。いまだ飲料水の事情が悪いセルデアス大陸では、水を沸かす費用と手間がかけられない一般庶民が飲料水代わりに飲むものだ。しかし、それでは当然アルコールも薄まり、蒼馬ですら酔えないという代物である。
酒を愛するソロンからしてみれば、それを酒と呼ぶのも冒涜的なものであった。
しかし、ミシェナはソロンが駄々をこねているとばかりに、蒼馬へ言う。
「ソーマ様からも言ってください。昨夜なんて、おいしいものを食べて力をつけてもらおうと私が市場で買った鶏をさばいている間に、こっそりと逃げ出したんですよ。どこかで倒れてでもしないかと心配で大慌てで探せば、酒場に入り浸っているんですから。しかも、さんざんお酒を飲まれたようで、酔いつぶれていたのですよ」
そこでミシェナはソロンへ顔を向ける。
「お義父様。もう良いお歳なのですから、深酒はお命を縮めてしまいますよ?」
「だぁかぁらぁ、わしのことは放っておけ!」
いつもの何事にも飄々とした態度はどこへやら。ソロンは地団駄を踏んで抗議した。
そこへ、突然シェムルが声を上げる。
「ああ、そうだ! すっかり忘れていた!」
しかし、その口調はまるで棒読みの台詞のようである。
「今回の貢献に報いるために、ソーマからこれをソロンに渡すように頼まれていたのだ!」
そう言ってシェムルが取り出したのは、一本の瓶である。
それを見たとたん、ソロンはアッと口を開いて固まってしまった。
そんなソロンを前に、シェムルは人間でもそれとわかるぐらい意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「ソーマに深く感謝するがいいぞ! おまえの大好きな、とってもとっても強い酒うえすきーだ!」
それは今回の騒動を解決してくれたお礼として、蒼馬がソロンが帰るときにでも持たせようと用意していたものだ。
しかし、蒼馬は「あちゃー」と手で顔を覆う。
よりにもよって今こんな時にそんなものを持ち出せば、結果は火を見るよりも明らかだ。
蒼馬の予想どおり、ミシェナは小さな子供の悪戯を咎めるようにソロンを一瞥する。
「お義父様。このような強いお酒は身体に毒です。私が預かっておきますね」
そう言うミシェナに、当然だとばかりにシェムルがウイスキーの瓶を預けた。
それにソロンは絶叫を上げる。
「あああっ! わしの酒がっ! わしのうえすきーが!」
ウイスキーの酒瓶を抱えるミシェナにすがりつき、ソロンは慈悲を乞う。しかし、ミシェナは「こんな強いお酒は寿命を縮めてしまいますよぉ」の一点張りでとりつく島もない。
ついにソロンは床に寝転がると、手足をジタバタとばたつかせて駄々をこね始める。
「後生じゃ、わしの命を奪っていかんでくれぇ~! わしの命を返せ~!」
しばらく蒼馬の執務室に、ソロンの泣き叫ぶ声が響き渡るのであった。
◆◇◆◇◆
風に聞くところによれば、王都ホルメニアを警邏していた兵が、ある日の夕刻に血のついた刃物を手にして街を徘徊する怪しい女を見つけたという。
この不審な女を捕らえようとした兵たちだったが、いざ近くに寄ってアッと驚いた。
それは破壊の御子の腹心として知られるミシェナ・エルバジゾであったのだ。
これはただごとではないと兵たちは恐れた。相手は血の気の多いゾアンやドワーフからも恐れられる氷血の女傑と知られるミシェナである。下手に関わればいかなる災いに巻き込まれかねないと、兵たちはミシェナを前にしてためらった。
すると、そんな兵たちに気づいたミシェナの方から声をかけてきたのである。
「逃げた義父を探しております。いずこへ逃げたかご存じありませんか?」
ミシェナの言葉に、兵たちは驚いた。
何とミシェナは、家名を奪うのみに飽き足らず、老い先短い義父をその手にかけて命まで奪おうとしていたのである。
しかも、これが鬼気迫る形相というのならば、その行状は認められずとも理解はできたであろう。
ところがミシェナは子供のやんちゃに手を焼かされる母親のような困り顔で言ったというのだ。
さすがは氷血の女傑。まさに冷酷非情の極み。
大恩ある義父を手にかけることすら、ミシェナにとってはただの雑事に過ぎなかったのである。
恐怖に震える兵のひとりが、ソロンを酒場で見かけたと告げると、ミシェナはため息をついて、こう言った。
「ああ。自ら命を縮めんとするとは」
袋小路に獲物を追い詰めた猛獣のような言葉に、兵たちはその場に凍りついてしまった。そんな兵たちへミシェナはにこやかに警邏の労をねぎらう言葉まで残して、夕闇の中へと消え去っていったのである。
それからしばらく後に、酒場の方から聞こえてきた「我が命を奪い給うな!」というソロンの悲痛な叫びに、その場に居合わせた兵はひとり残らず腹の底から震え上がったと言う。
哲学者セネスの風聞録より抜粋
◆◇◆◇◆
「これは、わしのじゃ! わしのだからな!」
蒼馬が取りなしたことで、ようやくミシェナからウイスキーの瓶を取り戻したソロンは、二度と奪われてなるものかとばかりに瓶をしっかりと抱き締め、威嚇してくる犬か猫のように荒い息をついていた。
そんなソロンをやれやれと呆れて見ていた蒼馬だったが、ふとミシェナが自分へ報告するためにやってきたのを思い出す。
「そういえば、ミシェナさん。何か報告があってきたんでしたっけ」
それにミシェナもハッとし、表情を改める。
そのわずかに眉をひそめたミシェナの困り顔。
それに蒼馬は既視感を覚えた。
あれは確か五年ぐらい前だったかな。
蒼馬が記憶の底からそのときの情景を拾い上げていると、ミシェナはそのときと寸分違わぬ言葉を口にする。
「資金が不足しております」




