第20話 大角と小角-大賢の権
「下賤の者どもが、ここを何と心得ている!」
そう怒声を張り上げる男たちが身にまとっているのは、その生地といい仕立てといい立派な高級官吏の服であった。しかし、その高級官吏の服も今は着崩れており、中には今慌てて帯を締めている者までいる始末である。また、額に汗を浮かべ、肩を上下させて荒い息をつく様から、よほど大慌てで登城したようだ。
「寄越せっ! それはおまえらのような者が触れて良いものではない! 席もだ! 誰の断りを得て、そこに座っている?!」
部屋に雪崩れ込んできたホルメア国の財務官吏たちは、ミシェナの部下たちの手にしていた書類などをひったくり、席から追い立てる。
そして、それはミシェナも例外ではなかった。
ホルメア国の財務官吏たちの中でも、ひとりだけ刺繍入りの細い帯を肩からかけるなど他より高位と思われる男が財務長官の席に座るミシェナの前に立つ。
「女! そこは私の席だ! 貴様ごときが座っていいところではないのだぞ!」
ミシェナは、とっさに椅子から腰を浮かしかけてしまった。
しかし、それをミシェナの臆病と誹ることはできない。
この時代において、王城で官吏を勤める者は例外なく貴族の家につながる者である。そして、平民にとって貴族とは自分らの生殺与奪の権を握る絶対権力者だ。逆らえば厳しい処罰どころか、その場で斬り殺されても文句は言えない相手である。
平民は貴族に逆らってはいけない。
それが、この世界の常識なのだ。
いかに蒼馬が身分制度を廃すると宣言していても、生まれ落ちてからこれまで疑わざるべき常識として根づいてしまったものをおいそれと振り払えるものではない。
むしろ、あわやのところで席を立つのを踏み止まっただけでも称賛すべきことなのだ。
しかし、逆の立場からすれば、それは言語道断な行為である。怒りに顔を赤く染めて男はミシェナを悪し様に罵った。
「女が男のまねごとなど笑わせてくれる! 女はとっとと家に戻り、男にかわいがってもらえ!」
現代の女性の権利向上を訴える活動家が聞けば、頭から火を発するような言葉であった。しかし、この時代では、それは至極真っ当なものである。
それだけにミシェナは何も言い返すことができず下唇を噛んだ。
そんなミシェナの様子に、男は勝ち誇ったように肩をそびやかした。
ところが、そこへ大音声が轟いた。
「黙らっしゃい!」
思わず耳を手で塞いでしまうような大喝であった。
これにはさしもの傍若無人なホルメア国の財務官吏たちも度肝を抜かれ、茫然としてしまう。
その中をソロンは杖を突きながら、ズカズカと男に詰め寄った。
「この無礼者が! ようもそこまで口にするも汚らわしい暴言を吐きおったな?!」
「ぶ、ぶ、無礼者だとぉ?!」
男は目を白黒させて驚いた。
一番上の兄が家を継いでいるために男自身には爵位がないものの、貴族の家につながる者であるのには間違いない。そんな自分を小汚い平民の老人が一喝するとは、あり得ない事態であった。しかも、それが言うに事欠いて無礼というのだから驚きだ。礼を払うべきは貴族の自分に対して平民である老人の方だ。それを無礼とは、まさに天地を逆するような暴言であった。
驚きが過ぎ去ると、次いで激しい怒りが男の中に湧き上がる。
「私は財務省長官のウルス・トリニーだ! 父は、前トリニー子爵のルブナス。兄は現トリニー子爵だぞ。栄えあるトリニー子爵家につながる私に無礼だと?!」
まさに、火を吐くような怒声である。
しかし、これに対してソロンは恐れ入るどころか、むしろ面白がるような顔であった。
「ほうほう、それはさぞご立派な家なのじゃろうな」
この人を小馬鹿にしたような物言いに頭に血を上らせたウルスは、いかに自分の家が立派であり名誉ある家柄なのかと唾を飛ばしながら力説する。
トリニー子爵家の来歴から歴代当主の勲。それらをすべてを言い終えたときには、大声で一気にまくし立てたための酸素不足と興奮によって、ウルスは肩を激しく上下させる荒い息をついていた。それでもウルスは、どうだと言わんばかりに胸を張る。
それにソロンは呵々と笑った。
「では、わしもまた名乗るとしよう」
ソロンの顔から道化じみた色が消え失せた。あたかも蛹から蝶が羽化するかのように、飲んだくれの老人の顔の下から威厳ある老賢者の顔が現れる。
「我が名は、アウレリウス・エルバジゾ。ロマニア国よりエルバジゾ侯爵領を拝領したるエルバジゾ侯爵家。その当主である!」
老人のものとは思えぬ声量と良く通る声に、ウルスはぎょっとした。
敵国とはいえ、ホルメア国もロマニア国も元をたどれば同じ大国から分かれた国同士である。さらに長きにわたり西域の覇を競い合うなど国としての格も同等だ。そのため、ロマニア国における爵位といえど、ホルメア国においても同様に扱うのが礼儀であった。
そして、侯爵と言えば、とんでもない大貴族である。広大な領地を所有するのみならず、その意見には国王とて軽々にはできない強い権力すら有している。
驚くウルスに向けて、さらにソロンは蕩々と語る。
「そもエルバジゾ家の祖をたどれば、ロマニア国建国にまで遡る。ロマニア建国王であらせられるロマニアニス王子が兵を挙げた折、真っ先に駆けつけ膝を突いたのがエルバジゾ家初代当主マシアス。マシアスは、その功績によりエルバジゾ伯爵領を拝領し――」
まさに立て板に水。ソロンの口からよどみなく流れ出るのは、エルバジゾ家のかくかくたる来歴であった。そして、その内容もさることながら、それを語る口調は抑揚に富み、さながら一流の詩人が詩歌を吟ずるが如くである。まるで英雄伝を語られているかのように、誰もがソロンの口上に聞き入ってしまった。
「――そして、長年の功績を認められ、ついには侯爵の位を賜った。その間にロマニア国の重職についた者は数えきれず。宰相となった者すら五指にあまろう!」
呆気に取られて聞き入ってしまっていたウルスに、ソロンは「いかがかな?」と目で問うた。
それに我に返ったウルスは、自分の失態に顔を赤らめながらも言い返す。
「よくも、そのような大法螺を――」
しかし、ウルスが最後まで言い終わらぬうちに、それを遮るように穏やかな声がかけられた。
「その方が、今おっしゃられたのは本当のことですよ」
ウルスは、「こんな大法螺に荷担する発言をするのは誰だ?!」とばかりに声がした方を睨みつけ、そして驚きに目を見張った。
「だ、大宰相閣下?!」
そこにいたのは、先程ソロンに資料を取ってこいと言われた禿頭の老人――かつてはホルメア国の大宰相とも呼ばれたポンピウスその人であった。
前王の右腕として活躍し、あのダリウス将軍とともにホルメア国の両輪とまで讃えられたポンピウスである。王宮に勤めていた者で、この小さな巨人を知らない者はいない。ましてや内政に従事している者にとってみれば、もはや伝説のような人である。
そのポンピウスがソロンの言を請け負った。
「その方は間違いなく、ロマニア国屈指の名家エルバジゾ侯爵家、その当主アウレリウス殿に他なりませんよ」
しんっと静まり返った。
それまでの手腕を見れば、ソロンがただ者ではないというぐらいはわかっていた。だが、臣下としては至極の地位とも言える侯爵位を持つ家の当主であるとは、さすがに誰もが想像の範疇を超えるものだった。
しばし息苦しいほどの静寂が舞い降りる。
そんな静寂を打ち破ったのは、ソロンが床を突いた杖の石突きの音であった。
はっと我に返ったウルスに向けて、ソロンはにこやかに微笑んでみせる。
「我がエルバジゾ家の勲をご理解いただけたかな?」
ウルスは、うっと言葉を詰まらせた。
まさに、格が違う。それは爵位ばかりではない。宰相とは、国王に代わって国の政務を取り仕切る役職だ。その能力ばかりか、国王からの篤い信頼がなければ、とうてい務められるものではない。そのため、大将軍と同様に国によっては相応しい者がいなければ宰相の座を空けたままにするというほどの重職である。その宰相を五人以上も輩出しているとなれば、それは名家中の名家だ。とうてい自分の家など及びもつかない。
そんな名家の当主に知らぬこととは言え無礼を働いたのだ。
ウルスは震え上がった。
ところが、ソロンはそこで急に自嘲じみた弱気な表情を見せる。
「もっとも、とっくにドルデア王に領地を返上したので、名ばかりのものじゃがな」
まさに奈落に落ちんとしていたところへ投げ与えられた命綱のような言葉である。ウルスはとっさにその言葉に飛びつき、言い返そうとした。
しかし、それに先んじてソロンが言う。
「もっとも、小僧によってホルメア国を滅ぼされたおまえらも、同様よ」
そう言ってからケラケラと笑い始めるソロンを前に、ウルスは愕然としてしまった。
掴んだばかりの命綱を目の前でぶっつりと切られたような心境である。なまじ助かったと思っただけに、その反動は大きい。ウルスは何と言い返せば良いものかわからず、無意味に口を開閉させるだけしかできなかった。
ソロンは、そんなウルスの鼻先に杖を突きつける。
「さあて、何か言いたいことはあるかな?」
ウルスは、圧倒されてしまった。
鼻先に突きつけられた杖が、あたかも刃物の切っ先にすら感じられる。そして、それ以上に小汚い老人からほとばしる品格と気迫に、完全に飲み込まれてしまっていた。
ウルスは息も絶え絶えな様子で声を振り絞る。
「た、大変な無礼を働いてしまいました。なにとぞご寛恕を願います」
まさに血を吐くような謝罪である。
しかし、この謝罪にソロンはさらに叱責の声を上げた。
「謝る相手が違うわ!」
ソロンは事の成り行きを呆然と見ているミシェナを杖で指し示した。
「そこな娘! あの者こそ、わしがその才を見出してエルバジゾ家に養女として迎え入れたミシェナ・エルバジゾ! 次代のエルバジゾ家当主なるぞ!」
ソロンの言葉に、ウルスは小さな悲鳴を洩らした。
この時代、家や領地を受け継ぐ子供が病死や戦死したり、そもそも子供に恵まれなかったりした貴族が、有能な人材を養子に迎え入れて次代の当主とするのは、ごく当たり前のことである。また、身分の低い女性を見初めた貴族が、他の貴族の家に養女として迎え入れさせた後に妻として娶るのも、ごくごくありふれたことだった。
そのため、どこの家でもその家系図を紐解けば、どこかにそうした元平民の養子や養女が迎え入れた記録が見つかるものだ。
それだけに貴族の間では、いったん養子や養女と迎え入れられれば、その出生はどうあれ、その家の者として扱うのが不文律である。
なぜならば、そこに言いがかりをつけようものならば、「では、おまえの家はどうなのだ?」と返されてしまうからだ。
その不文律を破るなど、貴族の社交界からつまはじきにされかねない非礼の極みである。
あまりのことにウルスは顔も上げられず、うなだれてしまう。
その肩をソロンは手にした杖で、ぽんぽんと叩く。
「さあて、どうしてくれようかのぉ……」
杖で肩を叩かれるなど、ひどい侮辱である。しかし、ウルスは屈辱を感じるよりも恐怖に震え上がっていた。
はるか格上の侯爵家に対しての無礼ばかりか、貴族としての不文律を破ってしまう非礼。
かつてのホルメア国であったのならば、まず確実に実家から縁を切られて放逐されてしまう。それどころか家への批難の矛先をかわすために、自害を言い渡されるやもしれない。しかも、そうまでしても実家そのものが苦境に立たされるのは避けられないであろう大失態である。
今まで自分の権威と自負の基盤であった血筋と家柄が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのをウルスは感じていた。
今や自分の肩を叩くソロンの杖が、ウルスにはまるで処刑人の斬首斧にすら思えた。
ウルスを震え上がらせたソロンは小馬鹿にしたように小さく鼻を鳴らしてから、この事態を茫然自失といった態で見つめるミシェナへ振り返る。
「娘よ。この無礼者をいかがしたものだろうかの?」
話を振られたミシェナは、ハッと我に返った。しかし、この事態にどう対処すれば良いかと困惑を示すように目をあちらこちらへとさまよわせる。
そんなミシェナへソロンはおどけた口調で言う。
「まったく、けしからん。仕事を邪魔ばかりして悪い奴よ。そうじゃろ? ミシェナ嬢ちゃんよ」
それはボルニスの街で、ズーグやドヴァーリンと一緒になって酒宴の費用を出せと詰め寄ってくるときの口調であった。
威厳のある老侯爵から一転して、いつもの飲んだくれの老人に戻ったソロンにつられ、ミシェナもつい普段どおり返してしまう。
「それならソロンさんも邪魔しないでください」
言ってからミシェナは、さあっと顔から血の気が引いた。
もはやソロンは飲んだくれの老人ではないのだ。侯爵家の当主という地位ある相手に言い返して良いものではない。
ところが、ソロンはぴしゃりと自分の額を打った。
「こりゃ痛いところを娘に突かれてしもうたわい」
ソロンはカラカラと笑い声を上げてから、ミシェナに言う。
「というわけで、娘よ。わしは頑張りすぎて疲れた。これで帰るが、後はおまえが頑張るのだぞ」
それから事の成り行きを苦笑とともに眺めていたポンピウスへと声をかける。
「おい、ポンピウス。わしは咽喉が渇いた。うまい酒を飲ませろ」
「まったく。あなたという方は……」
ポンピウスはため息をひとつ洩らす。
「よろしいでしょう。私の秘蔵の一本を開けて差し上げます」
それにソロンは「そりゃ重畳」と破顔した。それからポンピウスと連れだって、ソロンは杖を突きながら立ち去ってしまったのである。
後に残された者たちは、茫然としてしまっていた。
まるで、嵐である。ソロンは常識も難題もすべて巻き込み吹き飛ばし、そして颯爽と去ってしまったのだ。
しばし茫然とソロンが立ち去った方を見やっていたみんなを我に返らせたのは、大きく打ち合わされた手の音だった。
「皆さん、仕事を再開してください!」
ミシェナの凜とした声が響き渡る。
「元の財務官吏の方々は、書類と帳簿の整理をお願いします。私たちは、記録の数字を『あらびゃー数字』への書き換えを中心にやります。皆さん、協力してやっていきましょう」
それからミシェナは、いまだ茫然としたままのウルスへ顔を向ける。
「皆様も、ご協力いただけますね?」
ウルスをはじめ、ホルメア国の財務官吏だったものたちに、もはや否やはなかった。
◆◇◆◇◆
ミシェナを中心に動き始めた財務省の様子を物陰から窺っている男がいた。
「ちくしょう。聞いてないぞ、あんなジジイがいるなんて……!」
男は悔しそうに自分の親指の爪を噛んだ。
やることなすことすべて裏目に出てしまっていた。
諸侯や重臣をけしかけて、邪魔なヴリタスを亡き者にしてやろうとすればロマニア国へ亡命されてしまった。
人間種と他の種族の対立を煽ろうと聖教の神官を焚きつけてやれば、法治とかいうわけのわからない話を持ち出されてうやむやにされてしまった。
そして、今回も破壊の御子の基盤を崩してやろうと、諸侯と財務官吏たちを扇動してやったというのに、この結果である。
「くそっ! 悪運が強い奴め! しぶとい、ゴミめ!」
男は脳裏に浮かべた蒼馬の顔に向けて悪態をついた。
しかし、悪態ばかりをついてはいられない。早く次の手を打たなくてはならなかった。
「こうなればアッピウス侯爵たち北部諸侯を利用するしか……」
男は爪を噛みながら、ひとりごちた。
アッピウス侯爵ら北部諸侯たちは、いまだ破壊の御子へ臣従を示していない。それどころか反乱奴隷の手から王都を奪還し、王族を解放するとの檄を発し、兵を募っているらしい。
しかし、破壊の御子が王都に迎え入れられてから、すでに数ヶ月が経過している。それだというのに今なお挙兵の報せがないのは、アッピウス侯爵ら北部諸侯の抗戦の姿勢も、臣従するか講和を結ぶ際に破壊の御子からより良い条件を引き出すための虚勢であろう。
まったく臆病な奴らだ。
そう内心で罵倒してから、男はしばし考え込む。
このままでは破壊の御子の治世が安定なものとなってしまう。そうなってしまう前に、何とかしなければならなかった。
そのためにも臆病なアッピウス侯爵ら北部諸侯を釣り出すだけの餌を。そして、何よりも少しずつ固まりつつある破壊の御子の治世を揺さぶる騒動を引き起こさなくてはならない。
そのとき男の脳裏に、飴色の髪をした少女の姿が思い浮かぶ。
「……やむを得んな。下手に関わりたくはなかったが、そうも言っていられないか」
そう呟くと、男はそそくさとその場を立ち去ったのである。




