第19話 大角と小角-大賢の剣
「何だ、この小汚らしいジジイは」
ソロンの前に通されたその領主は、まず開口一番にそう言った。
侮蔑もあらわな物言いだったが、ソロンは眉ひとつ動かさずに従者が携えてきた書類をひったくると中身を確認し始めた。
その間も、その領主はネチネチと嫌みを言い続ける。
やれ、下賤の輩は手際が悪い。やれ、無知な者たちに記録が理解できているのか? やれ、女だけではなく死に損ないの老いぼれまで駆り出すとは王城の財務省も品格を失ったものだなどと、もう言いたい放題である。
しかし、やはりソロンはまったく相手にしない。
果たして本当に目を通しているのかと疑わしくなる速さで書簡をめくり、資料を広げては閉じを繰り返し、帳簿の数字を目で追い、時折思いついたかのように手許の紙に何やら書き留めるだけであった。
そんなソロンの態度に領主は苛立つ。
「なんだ、この水に突き込まれた魚のようなジジイは!」
西域には「魚を溺れさせようと水に突き込む」という格言がある。
当然、水に突き込んでも魚が溺れるはずもない。このことから悪意や害意などをもって取った行動が、相手には何の痛痒も与えられない無意味なものだった。または、こちらが何をやっても真剣に取り合おうとはしない相手を悪く言う意味で使われる言葉である。
そして、ソロンはまさに水に突き込まれた魚のように領主の罵倒など気にも留めず、黙々と資料を確認していった。
そんなソロンの態度に、ついに領主の苛立ちが限界に達しようかというところで、ようやくソロンの手が止まる。
「……さて。よろしいかな?」
椅子に腰掛けたままのソロンに上目遣いに見つめられた領主は、どういうわけか気圧されてしまう。
そんな領主に向けて、ソロンは帳面のひとつを開いて示す。
「四年前に、大きな支出があるようじゃが、いったい何に使われましたかな?」
突きつけられた帳面には、確かに大きな支出が記載されていた。しかし、四年前のことである。はていったい何に使ったものだろうかと、しばしその領主は記憶を探った。だが、一向に思いつかない。随行させていた領内の財務を任せている従者も首をかしげるばかりであった。
そんな領主を前に、ソロンは別の帳面を広げてみせる。
「領内にある水車よりの納税が、四年前を境に変わっておる。こことここの水車より得られる税が大きく減っているのに、全体ではほとんど変わっておらぬ。と、なると――」
次にソロンは領内の絵図を広げた。
「収益の減ったふたつの水車小屋の間で地形と村々の位置から察すると、おそらくはここ。帳面には記されていない水車でも新しく建てなされたかな?」
ソロンの言葉に、領主はアッと口を開いた。確かに四年前に新しい水車小屋を建てている。しかし、その直後にそれまで領内の財政を管理を任せていた前任の老人が急逝したため、おそらくはそのゴタゴタで記載が洩れていたのだろう。
しかも、ソロンが指し示したのは、まさにその新しく水車を建てた場所である。
動揺する領主に、ソロンはニヤッと笑って見せた。
「大事な税の収入となる水車小屋を記載せずに持ってくる。もしや隠匿しようとしたわけではありませぬな?」
税の要ともなる水車小屋を意図して隠したまま帳面を出したとなれば、それはとんでもない大罪である。領主は顔から血の気が引いた。
「記載が洩れていた。すぐに改めさせよう」
本当に記載が洩れていただけなのか?
そんな厳しい追及があるかと思いきや、ソロンは「左様ならばよろしい」とあっさりと矛を収めた。
しかし、それに領主が安堵したのも束の間である。
「――それで、次はこれですが」
さらにソロンは立て続けに帳面の不備や誤記を指摘していった。指摘をひとつ受ける度に領主の尊大に反らしていた肩が落ちていく。そして、ついにはうなだれて「出直してくる」というのがやっとであった。
肩を落としてトボトボと立ち去る後ろ姿に、その後ろに並んでいた領主はふんっと鼻を鳴らす。
とかく武勇に自信がある領主ほど財政を金勘定と見下し、臣下に丸投げしてしまうものだ。おおかた、あいつも自分で確認するのを怠ったから、あのような小汚い老人に良いようにやり込められてしまったのだろう。そう思えば自業自得である。
そうせせら笑ったその領主は、不備を見つけられるものならば見つけてみせろと言わんばかりの尊大な態度でソロンへ書類を突き出した。
しかし、その領主も間もなく自分も肩を落として後を追うことになる。
そうして立て続けにふたりの領主を撃退したソロンは、まだ残る領主たちに向けて、にこりと微笑む。
「さて、お次の方はどなたですかな?」
これに領主らは、戸惑った。
互いに顔を見合わせて、誰が次に行くか目で牽制し合う。しばらく無言の牽制が続いたが、その中からひとりが自分の前にいた領主たちを押しのけて進み出てきた。
「小汚いジジイに、何を怖じ気づいている。――俺は忙しいんだ。早くしろ」
ぶっきらぼうな物言いのその領主は、投げ捨てるように持参した資料をソロンの前に出した。
見るからに自らの武勇に自信を持ち、その反面で財政などの政務を軽んじる典型的な武闘派の領主である。そして、それだけにやはり書類にはたくさんの不備や間違えが見つけられた。だが、それをソロンに指摘されても「細かいことを言うな」とか「それぐらい良いだろ」など悪びれもしない。
これにはさすがのソロンも手に負えないのか。
そう財務官吏が思いかけたとき、ソロンは何を思ったのかニカッと笑う。そして、その領主に向けて人差し指だけを立てた両手を突き出した。
「良いですかな。一と一を足し合わせると――」
人差し指だけ立てた両手をゆっくりと近づけ、ぶつけ合わせると、右手の立てた指を二本にする。それを領主の鼻先へずいっと突きつけた。
「このように、二となります。――おわかりかな?」
これには領主も呆気に取られた。
しかし、すぐに我に返ると怒声を返す。
「いったい何のまねだ?! その程度のこと言われんでもわかるわ!」
火を吐くようなこの怒声にも、ソロンは飄々として答える。
「いやはや。どうも算術の基礎すらご存じないようなので、こうして教えして差し上げております。わしは街の孤児たちにも算術を教えておりますので、そうしたことには慣れておりますのでな」
これに領主は、カッとなった。
ただでさえ気位が高い男である。それが街の厄介者である孤児と同列に扱われたのだ。これに激しないわけがない。
「このジジイめ! 下賤の者の分際で、俺を愚弄する気かっ?!」
そう言うなり、腰の剣の柄に手をかけた。
「ほう。剣を抜きなさるか?」
ソロンの淡々とした言葉に、頭に血を上らせていた領主もハッとした。
城内で刃傷沙汰など起こすのは死罪に相当する重罪である。ましてや破壊の御子に刃向かうのならばまとめて相手になってやると脅されてから、まだ日も浅かった。そんなときに、いかなる理由があったとしても破壊の御子の臣下を斬り殺せばタダではすまない。血の気が多い領主とはいえ、それがわかるぐらいの分別は持っていた。
しかし、このままでは引っ込みがつかない。
そこで領主は鼻を鳴らすと、偉そうなことを口にする。
「いかに下賤の者とはいえ、剣も持たぬ奴を切っては俺の武名に傷がつくというものだ。俺の慈悲に感謝することだな!」
そう言うと領主は尊大な態度で胸を張って見せた。
ところが、それにソロンは胸を反らして呵々と笑う。
「おまえさんには、わしが手にする剣が見えんようじゃの」
ソロンの言葉に、領主は眉をしかめた。
どう見てもソロンが剣を帯びているようには見えない。机に立てかけてある杖もねじまがったもので、中に剣を仕込めるようなものには見えなかった。
困惑する領主の前で、ソロンはおもむろに椅子から立ち上がる。そして、その手にしたペンの先を領主の鼻先に突きつけると啖呵を切った。
「とくと見よ! これぞ、我が剣よ!」
ペンを突きつけられて鼻白む領主に向けて、さらにソロンは吠える。
「これは国家の死命を制する宝剣ぞ! たかが人ひとりを斬り殺せる程度の剣などとは比べものにならんわ!」
何を馬鹿なことを!
そう領主は言い返そうとした。
しかし、その言葉が出ない。まるで咽喉を詰まらせたように、言葉が咽喉から出て行かないのだ。
そして、そうさせているのはソロンの気迫であった。
見た目はただの小汚い老人だ。しかし、その年老いた身体からは、いくたの戦場を駆け抜けた領主をも圧倒する威厳のような気迫がほとばしっていたのである。
あたかも本物の剣を鼻先に突きつけられたかのような恐怖を感じ、領主は全身に脂汗をかいた。
しばし緊迫した沈黙が落ちる。
それに先に耐えかねたのは領主の方であった。
「ふ、不愉快だ! 俺はこれで帰らせてもらう!」
そう捨て台詞を残して、その領主は足音を荒げて立ち去っていったのである。
しかし、いくら威勢を張ろうとも、誰の目から見ても逃げているようにしか見えなかった。
残されたソロンは「やれやれ」とでも言うように、ひとつため息をつく。それから残された資料を脇に追いやってから、まだ残っている領主たちに向けて、にこりと微笑む。
「さて。次はどなたかな?」
これに領主らは、たじろいだ。
これまでのやりとりを目の当たりにしていた領主たちからすれば、にこりと微笑むソロンは、まるで獲物を前に牙を剥く猛獣のようなものである。下手に飛び込めば、頭からバリバリと噛み砕かれるだけだ。とうてい、ここで「それでは私が」と前に出て行けるものではなかった。
領主たちは、しばらく互いに目で「おまえが行け」と押しつけ合っていたが、誰も前に出ようとはしない。
そのうちひとりの領主が、おずおずと口を開いた。
「不備があったかもしれん。確認してから出直そう」
そう言うなり、その場で踵を返した領主は足早に立ち去ってしまう。
それを皮切りに、他の領主たちも口を開き始めた。
「大事な記録を家に忘れたかも知れん。取りに戻らせていただこう」
「わたしも少し忘れていたものが……」
「私は急用を思い出したので、また後日に」
誰へともなく言い訳を口にした領主たちは、そそくさと帰り始めた。
そうして気づけば、その場の流れが読めずに立ち去る機を失った領主がひとりだけ取り残されてしまっていた。その領主はしばらく周囲をキョロキョロと見回していたが、いきなり「イタタタッ!」と自分の右肩を押さえる。
「戦場で負った右足の古傷が突然痛み出した! 私もこれで失礼させていただく!」
そう言うなり、なぜか右肩を押さえたまま痛み出したはずの右足を素早く動かして、その場から消え去ったのである。
◆◇◆◇◆
この光景に財務官吏たちは唖然としてしまった。
これまでさんざん自分らを苦しませてきた諸侯らが、あっという間に尻尾を巻いて退散してしまったのである。
財務官吏たちは今まさに目の前で起きたことだというのに、それをなかなか信じられず、これは白昼夢ではないのかと何度も目を瞬かせていた。
何事もなかったかのように書類の整理に戻っていたソロンに、若い財務士が恐る恐る声をかける。
「あのぉ……。あのわずかな時間ですべての記録を確認されたのでしょうか?」
当初の厄介者扱いから、へりくだった様子で尋ねてくる若い財務士に、ソロンは舌打ちしてから答える。
「こうした記録は、たいてい間違うところが決まっておる。そこだけを重点的に見ていけば良い。そして、わずかなりとも不備を見つければ、後は全部わかっているのだぞという顔でやればいいだけよ。そうすれば、あっちは勝手にすべてを見透かされていると勘違いしてくれる」
その答えに感嘆の眼差しを向けてくる若い財務士を手を振って追い払ったソロンは、ちらりと視線を部屋の出口へと向ける。
すると、そこには人目を盗むようにコソコソと部屋を出て行くメンダックスの後ろ姿があった。
それにソロンは、ふんっと小さく鼻をひとつ鳴らす。それからすぐに興味を失ったように、再び書類や帳面の確認を始めたのである。
そんなソロンをミシェナと古株の財務官たちは、驚愕の目で凝視していた。
「あなたの義父は、いったい何者なのですか……?」
それは先程と同じ言葉であった。だが、そこに込められた想いは先程とは比べものにならないぐらい重い。
「さ、さあ?」
それはミシェナの方こそ知りたいことだった。
「王様から国を任せられると言われたと、冗談を言っていたけど……」
そんなミシェナたちに、突然後ろから声がかけられた。
「冗談ではございませんよ」
驚いたミシェナたちが振り返ると、そこにいたのは子供のように小柄な禿頭の老人である。
「あの方は、ロマニア国の前王ナバスが『彼の者は、万里を翔る大鵬。なれど御しがたし』と、その才を愛しながらも使いこなすのは難しいと評した天下の大奇才。王子であったドルデア王に『我が身の幸運は、王族に生まれたことにあらず。あの者と友となったことである』とまで言わしめさせたほどの大賢人ですぞ」
その老人は、ふうっとため息をひとつついた。
「もし、何事もなくロマニア国の宰相となっていれば、どうなっていたことやら。ドルデア王と袂を分かったと聞いたときには、祝杯を挙げるか本気で検討したものです」
しみじみと述懐するこの老人はいったい何者かとミシェナと財務官たちが注視する中に、何かがひょいと投げつけられた。
老人の背後の壁にぶつかって音を立てて床に転がったのは、メモ帳代わりに使われている薄い木片である。
飛んできた方を見やれば、それを投じたばかりの右手を上げたままのソロンが、こちらを睨んでいた。
「無駄話に、おまえを呼び出したわけではないぞ! ろくでもない文官どもを育ておって!」
ソロンの怒声に、老人はつるりと自分の頭を撫でながら苦笑する。
「そうは申されても、私の部下だった者たちはことごとく地方に追放されてしまいました。呼び戻そうにも、すでに彼らは各地に根を下ろしてしまい、なかなかやってこられません」
それにソロンは、ケッと吐き捨てた。
「だったら、おまえがその分も働かんか! そこに書かれた内容に必要な書類を書庫より引っ張り出してこい!」
先程投げつけられた木片を手に取ってみれば、事細かに必要な書類が書き出されていた。
「はいはい。わかりました。人使いが荒いですね。――すみませんが、手を貸していただけますかな?」
老人の後半の言葉は、近くにいた財務官へ向けられたものだった。その財務官は、まったく見ず知らずの老人だというのに、なぜか逆らいがたい気品のようなものを感じ、思わず従ってしまう。
そうして財務官を連れて老人が書庫へと向かってから、しばらく経ったときである。
またもや廊下の先から、ドタバタと騒々しい音が聞こえてきた。
領主たちが早くも出直してきたのか?
部屋に残っていた財務官吏たちは、そう思った。
ところが、その予想は外れていた。
早足に部屋へ飛び込んできたのは、高級官吏の服を着た複数の男たちである。
そのうちひとりが声を荒げて言った。
「どけ、平民ども! ここは我らの仕事場だぞ!」
それまで出仕を拒んでいたホルメア国の財務官吏の登城である。




