第18話 大角と小角-大賢の賢
何だ、この老人は?
そんなみんなの批難混じりの視線をものともせず、ソロンはズカズカとミシェナのところに歩いて行った。
「なんじゃい、辛気くさい顔をしおって。この義父が、せっかくおまえの仕事ぶりを見に来てやったのだ。こう、にこやかに迎えられんのか?」
そう言うなりソロンは両手の人差し指を立てると、それでミシェナの唇の両端を押し上げ、無理矢理に笑みの形にした。
心労から感情が鈍磨していたミシェナも、これには羞恥に頭がカッとなる。
「やめてください! いったい、何なんですか?!」
自分の手を強く払いのけて叫ぶミシェナに、しかしソロンはニカッと笑ってみせる。
「今にも死にそうなほど辛気くさい顔をしていたと思ったが、まだまだ平気そうじゃの」
それにミシェナは、うっと詰まる。
つい先程まで心がへし折れかかっていたというのに、ソロンの失礼な行動に怒りを覚えたことで、わずかだが心に活力が戻ったのだ。
そんなふたりのやりとりをその場に居合わせた財務官吏たちは驚いた目で見ていた。
ボルニスの街からミシェナとともにやってきた財務官吏たちならば、ソロンのことは以前から聞き及んでいた。
ボルニスの街で飲んだくれていた、ひねくれた老人。それがどういうわけか蒼馬に気に入られ、よく執務室に入り浸っている姿が見受けられている。
噂では、それなりの知識があり、見識もある老人らしい。
だが、とにかくその行状が悪すぎた。
安酒場で飲んだくれるのは毎晩のこと。領主官邸ばかりか街の大通りで酔いつぶれている姿を見受けるのは、もはや日常茶飯事だ。
そればかりか衆人環視の中で、領主である蒼馬を棒叩きにしたという経歴さえある。その後も、縛り首にされるどころか法務官吏の相談役に抜擢されるという蒼馬の恩情に対しても、感謝するどころか裁判所にはほとんど顔も出していないらしい。
そのあまりの怠慢ぶりには、当の法務官吏たちも憤っていたものだ。
ところが、何の気まぐれを起こしたのか、一度だけソロンがふらりと出仕してからは、それも一変する。法務官吏たちは口を揃えて「あの方は、たかが地方の法務に携わるような方ではない」と歯の浮くようなことを言い始めたのだ。
これには、そんなおべっかを使ってまで遠ざけておきたいとは、よほどソロンに振り回されて苦労したのだろうと皆は噂し合ったものである。
そのため、多くの財務官吏たちのソロンに対する認識は「とてつもなくはた迷惑な老人」といったものだった。
そんな迷惑な老人であるソロンと、自分らの上官であるミシェナが親娘だったのかと、誰もが驚いてミシェナを注視した。
部下たちの視線に気づいたミシェナは、あえて自分とソロンの関係を口にする。
「それは、私も養女になるとお約束しましたが、わざわざここに来なくてもいいでしょ」
これに部下たちが大方の事情を理解してくれた様子に、ミシェナがホッと安堵したのも束の間である。ソロンはいきなりとんでもないことを言い出した。
「よし。ただ娘の仕事ぶりを見ているだけでは暇じゃ。どれ、少しばかり手伝おうかい」
そう言うとソロンは部屋の隅に置いてあった机を勝手に用意し、そこに座ってしまったのである。
こうなると、ソロンはテコでも動かない。しかも、放置しておけばまた何をやらかすかわかったものではなかった。
そんなソロンの人柄を多少なりとも知っていたミシェナは、嘆息をひとつ洩らすと、近くにいた若い財務士に声をかける。
「今、大変なのはわかっていますが、ソロン様に何か仕事を割り振ってあげてください」
ミシェナの指示に若い財務士は了承したものの、内心ではげんなりとしていた。
ただでさえ自分の仕事も片付かないのだ。こんな状況で足を引っ張るのはメンダックスだけでも十分だというのに、さらにわけのわからない老人の世話である。げんなりとするのも無理はなかった。
しかし、見た目は小汚い老人だが、財務長官であるミシェナの義父らしい。それを粗雑に扱うわけにもいかない。
ソロンが孤児院では孤児たちに算術や文字を教えていると聞いていた若い財務士は、まずは簡単な計算だけですむ書類を見つくろい、それをソロンへ手渡した。
自分から手伝うと言い出したくせに、書類を受け取るときにはやけに不服そうな顔をするソロンに、若い財務士は「本当にやってくれるのか?」と不安になる。しかし、いかにも渋々といった様子だがソロンが書類をめくり始めたのに、ホッと胸を撫で下ろした。
これでしばらくは自分の仕事に取りかかる時間が稼げるだろう。
そう思って自分の仕事に戻った若い財務士だったが、すぐソロンに呼ばれた。
どうせ、わからないところがあったのだろう。よけいな仕事を増やさないで欲しいものだ、と内心で愚痴りながらソロンのところへ行くと、作り笑いを浮かべて「どこがわかりませんでしたか?」と尋ねようとした。
ところが、若い財務士がそれを口にするよりも早く、ソロンは渡された書類をずいっと前へと押し出した。
「終わった。次のを持ってこい」
まさか、と財務士は思った。
確かに簡単な計算ですむ書類である。だが、それなりの量を渡したのだ。そのすべてを終えたにしては、いくらなんでも早すぎる。
どうせ適当にやったのだろうと、その場で急いで確認したが見る限りでは間違いはない。
本当にこの老人が計算したのかと疑いの目を向けると、ソロンはムスッと顔をしかめ、声を低くして言う。
「次のを持ってこい」
横柄な物言いである。
それにカチンッと来た若い財務士は、先程の倍はある書類をわざと音を立てて机の上に置いた。そして、「さっさとやってみせろ」とばかりに小さく鼻を鳴らすと、自分の仕事に戻っていった。
やれやれ、これでやっと自分の仕事に取りかかれるぞ。
そう若い財務士が思ったのは、しかし早計であった。
程なくして、再び若い財務士はソロンに呼ばれてしまう。
またもやまさか、と思いつつやってきた若い財務士にソロンは渡されたばかりの書類をずいっと押しやった。
「終わった。次のを持ってこい」
若い財務士は驚いた。
大慌てで書類を確認したが、確かにすべて終わっている。しかも、若い財務士が確認した限りでは今回も間違いはなさそうだ。
そうやって若い財務士が内容を確認している間にも、ソロンは不機嫌そうに指で机を叩いて催促してくる。
その態度に若い財務士は、再びカチンッときた。
急いで自分の作業机に戻った若い財務士は、自分の手には負えずに後回しにしていた書類の山を掴み取る。そして、ソロンのところへ取って返すと、それを目の前にどさっと積み上げた。
「では、これをお願いします」
若い財務士は言外に「これができるものならやってみろ」とばかりに告げてから自分の作業に戻っていった。
さすがに、今度ばかりは先程までのようにすぐには呼ばれない。
それに若い財務士は、意味不明な達成感を覚えていた。
ところが、それも束の間のである。
しばらくすると、またもやソロンに呼ばれた。
「な、なんでしょうか……?」
そんなはずがあるわけがないとは思いつつも、戦々恐々といった様子でお伺いを立てる若い財務士に、ソロンは渡されていた書類をずいっと押しやる。
「終わった。次のを持ってこい」
◆◇◆◇◆
あまりに予想外の事態に半ば茫然自失となった若い財務士は、ソロンに言われるがままに未処理の書類を次々と持ってこさせられた。その中には自分ばかりか同僚の誰もが手をつけたがらなかった難解かつ重要なものも含まれていたのだが、ソロンは「この程度なら、よしとするか」とむしろ楽しげですらあった。
もう用はないとばかりに手を振って追い払われた若い財務士は、いまだ自分を取り戻せないまま、機械的にソロンが整理した書類の確認を始めた。しかし、それもすぐにウッとうなってしまう。
完璧としか言いようがない。
ただ不備なく整えられているだけではない。作成された目録をさっと流し読みしただけでも、まとめられた書類の全体がおおよそ見えてくる。つまり、それだけわかりやすくきれいにまとめられているのだ。
そして、整理された書類にいたっては、いたるところに付箋が差し込まれ、事細かく注釈が入れられている。その注釈ときたら、それに目を通せば、皆目わからずに投げ出してしまった自分でも「あ、こういうことだったのか!」と思わず手を打ってしまうというものだった。そればかりか、記録や数字の間違えさえ指摘し、修正されているのに至っては、若い財務士は「なんでこんなことができるのだ?」と頭を抱えてしまう。
これをあの小汚い老人が、この短時間でやったことなのか?
そんな驚愕と疑念の目で若い財務士が見つめていると、それに気づいたソロンが顔を上げる。
「なんじゃ? わからんところでもあるんか?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
ソロンの横柄な物言いに呑まれ、しどろもどろに答えた若い財務士だったが、ちょうど自分の作業がわからないところがあって行き詰まっていたのを思い出す。
若い財務士はしばしためらってから、その書類を手に取ってソロンのところへ赴くと、いかにも恐る恐るといった様子でソロンへそれを見せる。
「……申し訳ありません。ここはどうすればよろしいのでしょうか?」
「ああん?」
示された書類を一瞥したソロンは、顎をしゃくって若い財務士が座っていた机のある方を示す。
「それは、先程持って行ったあの赤い帯のされているものと数を合わせれば、すぐにわかるわ」
いったん自分の机の方を振り返ってから、若い財務士は震える声で言う。
「失礼ですが、覚えていられたのでしょうか?」
「悪いか?」
悪くはない。悪くはないのだが、若い財務士が記憶している限りでは、あの赤い帯の書類は最初にソロンへ渡したもののうちの一冊である。まさか、ただ簡単な計算を確認するためだけに渡した書類の内容ひとつひとつまで記憶しているとは、とうてい信じられない。
しかし、それを手にとって確認してみると、確かに記載されている内容や数字が合致した。
とにもかくにも、これで作業が進められる。そう安堵して作業を再開した若い財務士だったが、再び難解な箇所につまずき、行き詰まってしまう。
しばし目の前の帳面とソロンを交互に見やっていた若い財務士だったが、再び恐る恐るソロンへ声をかける。
「あのぉ……」
「ああ? なんじゃい?」
ソロンの横柄な物言いに気後れしながらも、若い財務士は開いた帳面を差し出した。
「ここはどうすればよろしいのでしょうか?」
◆◇◆◇◆
仕事に行き詰まるたびに若い財務士がソロンのところへ行き、何か教示を受けては顔を明るくさせて仕事に戻る。
その光景は、しだいに周囲にいた他の者たちの目にも留まった。
よく見れば若い財務士の作業が、明らかに進んでいる。誰もが書類の内容を確認するだけでも四苦八苦しているという中でのことだ。その若い財務士が知識も経験も浅く、同僚の中では決して仕事が早い方ではないのを思えば、それは異常とも呼べる光景であった。
しばらく同僚の財務官吏たちは、これはいったいどういうことだと互いの顔を見合わせた。
すると、どうしても目が向いてしまうのが、ソロンである。
ソロンは若い財務士が運び込む書類や帳面を驚くほどの速さで積み上げていた。あれは、てっきりできないで投げ出していると思っていたのだが、書類が積み上がると若い財務士が小間使いよろしく運んで片付けている。
あれは、もしかして全部処理を終えたのでは?
とうてい信じられない状況に、またもや財務官吏たちは互いの顔を見合わせてしまった。
そのうち、財務官吏のひとりが意を決してソロンのところへ赴くと、恐る恐る開いた帳面を差し出した。
「申し訳ない。ここはどうすればよろしいのでしょうか?」
「ああん? それは――」
口は悪いがソロンの教示は明快の一言である。それまでずっと苦しめられていた胸のつかえが取れたような、そんな爽快な笑顔で財務官吏は「ありがとうございました」と一礼して自分の仕事机に戻った。
その光景に、同僚の財務官吏たちは横目で互いを確認し合う。
それからいっせいに書類を手に立ち上がると、我先へとソロンのところへやってくると、異口同音にこう言った。
「ここはどうすればよろしいのでしょうか?」
◆◇◆◇◆
「……これは、いったいどういうことでしょうか?」
父親の友人でもあった古株の財務官の言葉をミシェナは半ば茫然と聞いていた。
財務省の空気が一変していたのである。
つい先程まで、あれほど一向に進まない作業に誰もが暗澹とした顔をうつむかせ、室内には陰鬱な空気がよどんでいた。それが今や財務官吏たちは自分らの仕事に達成感を見出して顔を輝かせ、爽快なそよ風が吹き抜けたのではないかと錯覚するほど空気が軽くなっていたのである。
この光景には、ミシェナも我が目を疑うしかなかった。
今や部下たちがお伺いの列を成しているソロンを驚愕の眼差しで見やりながら古株の財務官が、ミシェナに問う。
「あなたの義父は、いったい何者なのですか?」
「さあ……?」
ミシェナは、そう返すしかできなかった。
以前より蒼馬と何やら難解な話し合いをしている姿をよく見かけている。また、自分自身も困っているところへ適切な助言を与えられたことも数え切れない。
しかし、まさかこれほどとは思っても見なかったことである。
「これは、法務官吏たちが言っていたのはお世辞ではないのかもしれませんね」
冗談めかしてそう言った古株の財務官の顔に浮かんでいたのは、無理に笑おうとして失敗した引きつった表情である。
だが、今やそれを笑えるものはいなかった。
「いずれにしろ、あの方のおかげで何とかなるやもしれません」
誰かが口にしたその言葉に、ミシェナを始め皆はそろってうなずいた。
ソロンが何者であるかはわからない。しかし、これまでずっと停滞していた業務が、彼のおかげで回り始めたのは事実である。
「これは、直接にお礼を申し上げねば気がすみませんね」
そう言ってソロンのところへ行こうとした財務官の肩を年配の同僚がむんずと掴む。
「ちょっと、待て。礼を言うのに、それを持って行く必要があるのか?」
年配の同僚が視線で示したのは、その財務官が手にしていた書類の束である。
「いや、これはついでと申しますか……」
しどろもどろになって釈明をする同僚に、ミシェナを含めた財務官たちは笑いを洩らした。
しかし、そんな明るい雰囲気が一瞬にして吹き飛ばされる。
この部屋に通じる通路の先から、ガヤガヤと騒々しい物音が聞こえてきたのだ。
それにミシェナたちは、顔から笑顔が消え失せ、身体が緊張でこわばる。
それは王都近郊の領主たちだった。
今日もまた大量の資料や帳面を持ち込んでミシェナたちへ嫌がらせにやってきたのだ。
刻々と近づいてくる騒々しい物音に、財務官吏たちはどうしたものかとミシェナに目でお伺いを立てる。
ミシェナの顔からすっと血の気が引いてしまう。それでもミシェナは震える唇を動かして、自分が応対すると言おうとした。
しかし、それよりもわずかに早く、パシンッと甲高い音が鳴る。
その音に釣られて皆が目を向けると、それはソロンが手にしたペンを机に叩きつけるように置いた音だった。
皆の視線を一身に集めたソロンは、おごそかに告げる。
「娘よ。おまえは自分の仕事に専念せよ。邪魔者は、こちらに寄越しなさい」
-ネタ-
蒼馬「チート能力に、知識無双に、チラチラ(前話参照)に、重責がある役職につきたくない――つまりはスローライフ! もしかして、ソロンさんはなろうの転生主人公?! きっとタイトルは『わし、異世界に転生しちゃったけどジジイになっちゃったので知識無双で後輩異世界転移者を影から助ける老後ライフ』だ!」
蒼馬「ソロンさん、もうわかっているんですよぉ。アニメ、漫画、ライトノベル、なろう、チーレム、俺TUEEE、ステータス、スキル……。本当は、知っているでしょ? 僕にもステータスの開き方を教えて下さいよぉ」
ソロン「やれやれ。また小僧が意味不明なことを言い出したわい」
シェムル「わけのわからないことを言い出すのは、ソーマの病気だな」
兵士A「おい、聞いたか? ソーマ様がソロンに向けて怪しげな呪文を唱えていられたぞ!」
兵士B「あのひねくれた老人がおとなしくしたがっていたのは、やはり呪いか魔法のせいだったのか! 恐ろしい!」




