第1話 戴冠宝器
振り下ろされた斧の刃が、金床を叩いた。
鼓膜を突き刺すような甲高い音がほとばしり、それとともに激しく散った火花がストロボライトのように閃く。
そして、その中を何かが軽い音を立てて床へと転がった。
それは小ぶりな木製の杖である。
熟練の職人の手によって彫り込まれた精緻な紋様に、金銀珠玉の象嵌、造られてからの長い年月を思わせる古めかしさ。
見た者は誰しも、それがただならぬ価値のあるものと認めるであろうものだった。
それもそのはずである。
それは、王錫であった。
王の権威を表し、王者のみが持つことを許される国の至宝。王の即位の際に用いられる戴冠宝器のひとつである。
しかし、その国の至宝も今や斧で真っ二つに叩き折られ、無残な残骸と成り果ててしまっていた。
かつて国の至宝であった残骸を文官の装いをした男が沈痛な面持ちで拾い集める。そして、その哀れな姿を衆目から隠すように白い布をかけてから持ち去った。
「次、印章」
感情を排した無機質な声にうながされて前に歩み出たのは、ワリナ・デア・ホルメアニスであった。
彼女は、西域の大国ホルメアの王女である。
いや、だったというべきだろう。東のロマニア国とともに西域の両雄と呼ばれたホルメア国も、今や過去のものだ。
反乱奴隷討伐の失敗を皮切りとし、王弟ヴリタスの反乱に、それによって国内へ手引きされた宿敵ロマニア国軍の侵攻によって、国は傾き、転覆の憂き目に遭ってしまった。そうした中でロマニア国の暴虐に喘ぐ民を救うためには、反乱奴隷の頭目と蔑視していた破壊の御子の庇護を受けざるを得ず、ホルメア国は事実上滅亡してしまったのである。
そんな亡国の王女であるワリナが、その両手で捧げ持つのは大陸中央渡来の上等な布の上に置かれた一個の指輪であった。
わずかな光を受けて鈍く金色に輝くその指輪には、輪の部分とは不釣り合いに大きな頭がつけられている。親指の頭ほどの大きさの厚みのある円盤状のそれを真正面から見れば、そこには獅子の横顔が彫り込まれているのが見えたであろう。
それは、王錫と並び戴冠宝器のひとつに数えられている印章――王が公文書に押す印がついた指輪である。
それをワリナは自らの震える手で、たった今、王錫を叩き割ったばかりの金床の中央へと置く。それから、別れを惜しむかのように、しばし間を置いてから、ワリナは後ろへ下がった。
斧を手にして金床の脇に立っていたドワーフ種の男は、それを見届けると、最後の確認を得るように後ろへと振り返る。
そこにいたのは、ひとりの人間種の青年であった。
この西域では珍しい黒髪に黒い瞳。どこか頼りなさを漂わせる柔和な顔立ちには、今は痛ましげな表情が張りついている。その身体は貧弱とは言えないまでも、とうてい戦いを本職とする者の体つきでありえなかった。
そして、そんな彼に寄り添うようにして立つのは、ひとりのゾアンであった。
染料で染め上げられたツタを細かく編んだ胴鎧の胸の部分が豊かに盛り上がっているところから女性なのだろう。しかし、一切恥じるところがないとでもいうような毅然とした態度でたたずむ様は、さながら誇り高き騎士のようである。また、実際に彼女の目の動きやわずかな仕草を見る者が見れば、そばに立つ人間の青年がいつどこから危害が加えられようとも、まさに守護騎士のごとくその身を盾にしてでも守ろうとしていることに気づいたであろう。
ゾアンの娘を無二の忠臣として従える人間の青年。
もはや、それが誰か知らぬ者など、このセルデアス大陸の西域には誰ひとりとしていない。
人間とゾアンが相争うソルビアント平原に忽然と現れたかと思うと、ゾアンたちを瞬く間に従え、ホルメア国へ反旗を翻した大逆者。
あの名将ダリウスを撃退したばかりか、ホルメア国すべてを翻弄し、最強の軍団と呼ばれた「黒壁」すら粉砕した戦乱の申し子。
さらには西域の両雄と呼ばれたロマニア国すら打ち払い、ホルメア国に至ってはその大半を手中におさめんとする侵略者。
そして、秘匿されていた死と破壊の女神が、この世でたったひとり愛おしむ御子。
彼こそが、今や西域全土から「破壊の御子ソーマ・キサキ」と呼び恐れられている木崎蒼馬その人である。
斧を持ったドワーフから目を向けられた蒼馬は、ややためらってから、しかしはっきりとうなずいて承諾を示す。
それを確認したドワーフは、斧をゆっくりと振りかぶった。そして、金床に置かれた印章目がけて、その斧を一気に振り下ろす。
再び斧の刃が金床を叩く激しい音が鳴り響いた。その中で、チンッと小さな金属音を響かせて、印章が真っ二つになって飛び散り、王錫の後を追う。
それを見ていた者たちの間から、悲嘆の吐息が洩れた。
これは、ホルメア国の終わりを告げる儀式である。
ホルメア国の建国以来、歴代の王たちが受け継いできた戴冠宝器は、もはや国そのものに等しい。その破壊をもって、ホルメア国の滅亡を確固たるものとし、それを国の内外に知らしめることにより、名実ともにホルメア国の終焉を迎えさせようという儀式である。
「最後、王冠」
その声にうながされ、再び前に出てきたワリナが捧げ持つのは、王が普段着用する略式のものではなく、戴冠式に用いられる正式な王冠であった。
戴冠宝器の中でも、王位そのものを象徴する王冠が、今まさに破壊されようとしている。これには、多くのホルメア国旧臣らは痛ましげに顔を歪ませた。
そうした視線を浴びながら、静々と歩んだワリナは王冠を金床の上に優しく置く。目尻に涙を浮かべたワリナは、王冠の縁をかすめるように指先でなぞった。そのとき、かすかに開く唇の間から洩れたのは、王冠への別離の言葉なのか、それとも謝罪の言葉なのかはわからない。
ワリナが下がると、再びドワーフ種の男は蒼馬へ目でお伺いを立てる。
それに蒼馬がひとつうなずくと、ドワーフ種の男は斧を振りかぶった。
そして、斧が振り下ろされる。
斧が金床を叩く音が鳴り響き、ホルメア国の王位を象徴する王冠は真っ二つに割られて、床へと転げ落ちた。
この日、西域の雄と呼ばれた大国ホルメアは名実ともに破壊の御子に滅ぼされたのである。
◆◇◆◇◆
ともに大地へ座する。
これは、相手の掲げた大望へ協力する意志を表す格言である。なお、その大望となるものが、裏切りや反乱などのあまり良くない目的の場合に使われるのが一般的だ。
また、逆に相手へ「ともに大地へ座するか?」と問いかける場合においては、自分に協力しろという脅し文句にもなっている。なぜならば、それを拒否すれば、絶縁ばかりか死を含めた制裁を与えるぞという意味も含まれるからだ。
現代でもごく普通に使われるこの格言だが、あの破壊の御子ソーマ・キサキがホルメア国を征服した当初の故事に由来しているとは、あまり知られていない。
その由来となった故事は、西域史のホルメア国滅亡を記した箇所に見つけることができる。
それによればホルメア国を征服した破壊の御子ソーマ・キサキは、まず戴冠宝器の破壊によってホルメア国の滅亡を国の内外に明らかにしたという。さらにその後、新たな支配者としてホルメア王の玉座に座るのを勧められた破壊の御子は「恥辱である」と吐き捨てると、恐れおののく者たちを尻目に王宮の中庭へと出た。そして、おもむろに大地に座り、次のようにうそぶいたという。
「この大地こそが私が座るに相応しい玉座である」と。
ああ、何という傲慢さであろうか。
仮にも西域の雄と呼ばれた大国ホルメアの玉座である。それに座るのを恥辱とする自尊心。さらには、西域では大国であろうと大陸全土から見れば西域の一部に過ぎないホルメア国を征服したばかりだというのに、早くもセルデアス大陸そのものを玉座とし、大陸全土を征服してくれんという遠大な野心をこのときすでに明らかにしていたのである。
まさに、破壊の御子ソーマ・キサキと言えよう。
さらに破壊の御子は戸惑うワリナ王女やホルメア国の旧臣らに、次のように告げたと記されている。
「我が大望に尽力する気がある者は、ともに大地へ座せ。さもなくば、この場より去れ」
玉座と称した大地へともに座ろうとは、セルデアス大陸全土を征服した後に得られる富貴を分かち合おうという誘いで間違いない。そして、それを断るのならば、この大地に居場所はなくなるぞという脅しでもあった。
これにはホルメア国の旧臣たちは残らず震え上がったという。
これが現代にまで残る格言となったのだから、当時の破壊の御子の恐ろしさのほどが知れよう。
この故事からもわかるように、破壊の御子ソーマ・キサキのホルメア国の支配は苛烈を極めたものだったという。
そして、その矛先が向けられたのは、王族や旧臣や諸侯といったホルメア国の旧為政者たちであったのだ。
それまでの国を拒絶し、身分制度の転覆を図り、国の独裁を目論む破壊の御子にとって、旧来の為政者の否定から行ったのも当然である。
そのために破壊の御子は、ホルメア国の為政者だった者たちに対して苛烈な処置を取ったと多くの史料は語っている。
たとえば、破壊した戴冠宝器も当初は衆目に晒して徹底的にホルメア王家を貶めようとしていたという。また、戴冠宝器を破壊した後で悲嘆に暮れるホルメア国の旧臣らの前で祝宴を催したとも、さらには王族であったワリナ王女にいたっては亡き者にしようと画策し、さすがに心ある臣下がそれを止めたともある。
他にも、反抗的な諸侯らに対しては「大賢」ソロンを差し向け、剣を突きつけて強圧的に服従をしいたとか、王都ホルメニアにいた聖教の聖職者らを衆目に晒して辱めたとか、かつてのホルメア国の将兵らを魔術によって支配したなど、破壊の御子の暴虐な行いを語る逸話には枚挙に暇がない。
これより後に虐殺と破壊の限りを尽くし、大陸全土にまでその侵略の手を伸ばす破壊の御子だが、その邪悪な本性はこのときすでに完成していたのは明らかであろう。
「史料より見る破壊の御子のその残虐性」より抜粋




