第129話 侮蔑
「厳命! 厳命! 破壊の御子ソーマ・キサキ様の厳命であるっ!」
何人ものハーピュアンたちが、そう声を張り上げながら抜けるような青空の中を舞っていた。
「ロマニア国との講和は結ばれた! ソーマ様は、信義を重んじるお方である! 一度結ばれた約定は必ずや守られる! いかなる者であろうと、いかなる理由があろうと、ロマニア国軍への攻撃は許されない! これを破る者は厳罰に処すっ! 厳命! 厳命!――」
繰り返し蒼馬の厳命を伝えるハーピュアンたちの下では、土嚢が取り除かれたガッツェンの街の東門からロマニア国軍が姿を現した。
しかし、ロマニア国軍とは知らずにその姿を見た者ならば、それが軍隊とは思わなかっただろう。
なぜならば、ロマニア国軍はひとりの例外なく、鎧ではなく肌着のような薄い鎧下だけを身につけ、その手には剣や槍ではなくわずかな糧食と水を詰めただけの小さな袋を持つだけであったのだ。また、本来は馬上から兵を指揮する指揮官の姿があるはずなのに、ひとりとして騎乗している者はいない。
これではせいぜい身なりの良い流民の集団にしか見えなかっただろう。
このロマニア国軍の有様は、蒼馬が講和の条件とした武装解除の結果に他ならない。
その約定がきちんと守られているのを確認したゾアンの戦士のひとりが、大きく太鼓を鳴らした。すると、ガッツェンの街から東へと伸びる街道を封鎖していたマルクロニスとドヴァーリンの部隊が左右へと退いていく。そうして空けられた街道をロマニア国軍はわずかな息も殺すかのような静けさで、しずしずと進んでいった。
異様な緊張感が、辺りに漂っていた。
湖の真っ只中で薄氷を踏むかのような、深い峡谷に張られた細い糸の上を渡るような、煮えたぎる油を満たす大釜の中を燭台を手にして覗き込むような、わずかな声ひとつ、ささいな指の動きひとつでも誤れば破滅を招いてしまう。そんな緊張感であった。
それも、そのはずである。
ロマニア国軍が進む街道の両脇には、万にも及ぼうかという数の人々がずらりと並んでいたのだ。
しかし、それはロマニア国軍を見送ろうという人々ではない。それは、暖かな血が滴る肉を目の前にしてお預けを食らった飢えた狼のような目をしたホルメア国の人々だった。
ガッツェンの街からのロマニア国軍の退去を認める。
この蒼馬の決断には、ホルメア国の人々から多くの反対の声が上がった。これまでロマニア国軍はホルメア国に侵攻してからというものの非道の限りを尽くしてきたのだ。その報復を望むのも当然であろう。
だが、それを蒼馬は頑として拒否したのである。
「昨日の恨みを晴らすより、昨日の自分を救い、明日へ導くことの方が大事だ」
蒼馬が示唆した「昨日の自分」とは、今なおガッツェンの街に取り残され、ロマニア国軍の支配下で辛酸を舐める元住民たちのことである。ロマニア国軍への復讐よりも、そうした同胞たちを救う方が大事だと蒼馬は説いたのだ。
これには、自らも蒼馬によってロマニア国の暴虐から救われていたホルメア国の人々から異を唱える者は出なかった。
しかし、だからといって全員が納得したわけではないだろう。
そこで蒼馬は不測の事態に備え、ジャハーンギルたちディノサウリアンを警備に動員していた。
蒼馬は自らの親衛隊と認知されているディノサウリアンを動員することで、退去するロマニア国軍への危害は絶対に許さないという自分の強い意志を表明するととともに、万が一怒りに我を失った人々がロマニア国軍へ殺到しようとした場合に、それを留める力を期待してのものだ。
その期待を知ってか知らずか、ジャハーンギルは鼻息も荒く、ホルメア国の人々の前を右へ左へとのし歩き、自分の前では暴発するのは許さないぞという姿勢をこれでもかと見せつけていたのである。
そのおかげで、今のところ暴発する者は出ていない。
しかし、それも時間の問題に思えた。
押さえつけられれば押さえつけられるほど、その中では圧力が増すものである。ホルメア国の人々の憎悪と怒りは、もはや我慢の限界に達しようとしていた。些細な何かをきっかけに、大爆発してしまう。そんな険悪な雰囲気が漂っていたのだ。
そして、ついに我慢しきれなくなったひとりの男が声を上げた。
「ロマニアのゲノバンダ野郎っ!」
周囲に緊張が走った。
ゲノバンダとは、七柱すべての神々の怒りを買って地の奥底にあるという糞尿の沼に落とされ、今もなお糞尿を漁りながら神々へ慈悲を乞うているという伝説の罪人だ。そのため、このセルデアス大陸では、ゲノバンダと呼ばれるのは種族を問わず最大の侮辱である。
それだけに、これが禁じられている危害に相当し、厳しく処罰されてしまうのではないかと恐れたのだ。
そして、そうした人々は当然、この場を任せられているジャハーンギルへと目を向けた。
みんなの視線を一身に集めながら、ジャハーンギルは、はてと首をかしげる。
今のは危害に該当するのだろうか?
ジャハーンギルは悩んだ。
しかし、それも一瞬だけであった。すぐに自分の後ろにいる息子たちに「どう思う?」という視線を投げかける。
問題を丸投げにされた三兄弟は、しばし顔を見合わせた。
しばらくして、父親と同じく難しい顔をする長兄と、わかっていても滅多に口を開かない次兄の代わりに、末弟のパールシャーが答える。
「罵倒ぐらいじゃ、危害とは言えないと思うぞ。それぐらいは許してやっても良いんじゃないかな?」
息子の答えに、ジャハーンギルは「我もそうだと思っていた」とばかりに大きく鼻息をひとつ立てた。それから「我は寛大だから許す」とでも言うかのように、自分を見つめる人々に向けて腕組みをして鷹揚にうなずいてみせる。
すると、周囲にホッとした空気が流れた。
しかし、すぐにそれを打ち消すかのような怒号と罵声が飛ぶ。
「この外道ども! てめえらゲノバンダの沼に堕ちやがれ!」
「人殺しども! 良くもおめおめと生き恥を晒せるなっ!」
「てめえらが殺した俺の息子に詫びて死にやがれ! このゲノバンダどもめ!」
罵倒だけならば許されるとわかったホルメア国の人々が、いっせいにロマニア国軍を罵り始めたのである。
直接に危害を加えられない鬱憤もあってか、その怒号と罵声はすさまじいものであった。それを万を超える人がいっせいに上げたのである。重なり合った罵声と怒号は、まるで間近に落ちた雷のような轟音となった。
このすさまじい轟音に、ロマニア国軍の人間はひとり残らず顔から血の気が引いてしまう。
これまで自分らが行った蛮行の報いとはいえ、ホルメア国の人々がこれほどまでの怒りと憎悪をたぎらせていると鼻先に突きつけられたようなものだ。
将軍や諸侯らは、この罵声や蔑視から逃れるように布を頭からひっかぶったり、部下を自分の周りに集めて壁にしたりする。
その光景に、ゴルディアは嘆息した。
ホルメア国の民の罵声や蔑視を避けようとする将軍や諸侯らの姿は、かえって恥をさらしているようにしかゴルディアには見えなかったのだ。
それに比べて、どうだろう。
ゴルディアは自分の隣へと目を転じると、そこにはこの罵声と怒号の嵐の中を満面に笑みを浮かべながら杖をついて歩くソロンの姿があった。
今、この場でもっとも危険な場所に置かれているのは、ソロンに間違いない。
万が一、ホルメアの民が襲いかかってくれば、約定破りの代償として真っ先に周囲の兵士たちによって撲殺されるだろう。また、仮にその難を逃れたとしても、暴徒と化したホルメア国の民たちがロマニア国軍とともにいるソロンを破壊の御子の配下と見分けてくれるとは思えない。いずれにしろ、待ち構えているのは無残な死である。
だというのに、怯えなど欠片も見せないソロンの姿にゴルディアは感銘すら覚えた。
かくありたいものだ。
そう考えたゴルディアは、自分の姿を隠そうとする近習らをあえて遠ざけた。
「現状は、私が結んだ講和の結果である。ならば、これは私が引き受けねばならないものだ。また、これはただの撤退ではない。これは、ロマニア国の長年の夢であったラビアン河の権益を手に入れるための行軍である。堂々と退去せずして、いかがする?」
そう言うと、ロマニア国軍へ投じられる罵声や蔑視を一身に引き受けようという気概とともに胸を張って歩き出したのである。
それに、近習らは慌てた。
ホルメア国の人々がこの場でもっとも憎しみを募らせているであろう者は、間違いなくロマニア国の王子であるゴルディアである。その姿を見せつけるようなまねをすれば、ホルメア国の人々の怒りの炎に油を注ぐようなものだ。
ところが、その心配をゴルディアはわざと大きく笑ってみせる。
「ならば、なお良い。破壊の御子は自らの信義を重んじるという名声を保つために、この私の身にひとつとして傷を負わせるわけにはいくまい。私を守るために、奔走してもらおうではないか」
このゴルディアの言葉どおりであった。
怒声や罵声をあげる人々のあまりの興奮ぶりに、ジャハーンギルたちだけでは押さえきれないかも知れないと思った蒼馬は、このときすでに大慌てでズーグやセティウスに指示を出すなど対処に追われていたのである。
屈辱的な撤退の中にありながら、ゴルディアは見事に蒼馬へ一矢報いたのだった。
後に、帰還したソロンからこのゴルディアの言葉を聞いた蒼馬は、ゴルディア王子を「軍事においては判断力と決断力に欠けるものの、こと交渉や駆け引きにおいては決して侮れない相手」と評価を改めざるを得なかったのである。
蒼馬から難敵と再評価されたゴルディアだったが、ところが味方であるロマニア国側の将兵からは、次のような評価を下されていた。
裏切り者におもねる恥知らず。
もともとゴルディア王子は将軍や諸侯からの人望が低かった。政務では実績があるものの、文官肌で軍事を不得手としているゴルディアは、軍事に関わる将軍はもとより、この時代では自らも武将として戦場に立つ諸侯たちからも頼りない王子と見なされていたのだ。
そのため、勇気を振り絞ってのゴルディアの行動もかえって裏切り者アウレリウスにおもねり、また徒での行軍を恥辱とも思わぬ恥知らずと捉えられてしまったのである。
そして、そうした諸将や諸侯らの侮蔑の念は、この場に居合わせた者のみにとどまらなかった。帰国した彼らの口から一連の出来事を聞いた多くの将軍や諸侯にまでゴルディアへの侮蔑の念は広まってしまう。それによって、ゴルディアは王位継承者としての求心力を急速に失ってしまうのだ。
それは後のロマニア国の混迷の要因となり、さらには一匹の毒蛇の介入を招いてしまうことになろうとは、このときは誰も知る由もなかった。




