第103話 伝言(前)
シェムルのことは、すでにポンピウスも聞き及んでいた。
平原の砦に囚われていたところを破壊の御子とともに逃げ出したゾアンの娘。いまだ無名だった破壊の御子を平原のゾアンたちの中で最初に受け入れた〈牙の氏族〉なる一族に引き合わせたのも彼女の功績だと聞く。それ以降も、常に破壊の御子の身近に侍り自他ともに認める第一の忠臣と言われている者である。
ダリウスもまた、そのゾアンの娘が破壊の御子にとって何らかの重要な存在であると示唆していた。
そうしたシェムルへの興味もあり、ポンピウスがまず名乗るとシェムルもそれに応じる。
「私はゾアン十二氏族がひとつ〈牙の氏族〉、ガルグズの娘、シェムル。字は《気高き牙》だ」
人間であるポンピウスには微妙な表情を見分けられないゾアンだというのに感じる、この凜とした風格。
そうしたその字というのが示すとおりのシェムルの愚直と言っても良いほどのまっすぐな気質を感じ取ったポンピウスは、あえて迂遠な言い回しや喩えを使わず、真っ向から問いをぶつけてみる。
「あなたは、怖くはないのですか?」
何の駆け引きもない、まっすぐな問いをぶつけられたシェムルは、わずかに鼻白んだ。
しかし、すぐにポンピウスの意図を察すると、彼女もまた真っ向から答えを返す。
「ああ。怖かったぞ。それどころか、今も怖い」
愚直ではあるが、愚鈍ではない。
シェムルをそう評価しつつ、ポンピウスはさらに問う。
「怖いとわかっていて、なぜあなたは従うのです?!」
その問いにシェムルは苦笑いする。
「そうだな。正直に言ってしまえば、それしか選択肢がなかったという理由が大きい」
実際に、五年前の平原のゾアンたちは蒼馬という劇薬を受け入れなければ、そのまま滅亡してしまうという瀬戸際まで追い詰められていた。また、そうだからこそ異物である蒼馬を受け入れられたとも言えよう。
しかし、それだけではない。
この気持ちを何と説明すれば良いのだろうかと、しばらくウンウンと頭をひねっていたシェムルは、ふと思いつく。
「私が小さい頃の話だ。夜中に、たまたま用を足したくなって私は天幕を出たのだが、そこで亡霊を見た」
いきなり何を言い出すのかと困惑しながらポンピウスは相槌を打つ。
「亡霊……ですか?」
「そうだ。亡霊だ。私は怖くて、慌てて天幕に戻った。だが、それでは用は足せない。用を足したくとも亡霊が怖くて外には出られない。だんだん切羽詰まってきた私は、とうとう泣き出してしまったのだ。
その日、たまたまお婆様――私の氏族の巫女をしている老婆だ――がうちの天幕に泊まっていてな。私の泣き声で目を覚ましたお婆様は、それなら一緒に行ってやろうと言ってくれた。それで私はお婆様に手を引かれて外に出たのだ。
すると、やはり先程と同じところに亡霊がいた。
私は怖いと言って天幕に戻ろうとしたのだが、お婆様は大丈夫だと私の手を引いて亡霊のところへ行ったのだ。そして、亡霊の近くに行って、びっくりだ」
そのときのことを思い出すシェムルは、くつくつと笑った。
「何と、亡霊だと思っていたのは、私が日中に木の枝に干したままにして忘れていた私の乳帯だったのだ」
「ち、乳帯……?!」
ポンピウスは素っ頓狂な声を上げた。
蒼馬もまた「あちゃー」と言うように自分の顔に手を当て、護衛についてきたゾアンたちは礼儀正しく聞こえないふりをする。
それに構わず、シェムルは両手を使って布の大きさまで説明し始めた。
「これぐらいの大きさの布だ。私は子供だったので、乳帯も小さかった。まあ、多少は見栄を張って大きめ乳帯を使っていたのだがな。とにかく、これぐらい小さな乳帯を亡霊と思っていたのだ。そんなものを亡霊と騒いでいたと、今でも物笑いのタネだ」
そう言って楽しげに笑うシェムルに、普段は自分を乙女と言う同じ口で乳帯と恥じらいもなく連呼するのは勘弁して欲しいと蒼馬は心底から願っていた。蒼馬ですら、そうなのである。そのときのポンピウスの困惑は、その大きさが知れよう。
そんなポンピウスに、シェムルはしかつめらしい顔を作ると尋ねる。
「さて、なぜ私は小さな布を亡霊と思ったのだろう?」
質問の意図はよくわからないが、ポンピウスは思いついたままに答える。
「それは、夜の闇で布だとわからなかっただけでしょう」
「そうだ。そのとおりだ。私は夜の闇のせいで、たかが小さな乳帯をそうとはわからずに怖がっていたのだ」
うんうんと小さくうなずいてからシェムルは、こう言った。
「とどのつまり、私は怖いとはわからないことだと思う」
「わからない……ですか?」
おうむ返しに問い返すポンピウスに、シェムルは「そうだ」と答えてから言葉を続ける。
「何かわからない。何をするかわからない。何が起こるかわからない。どうすれば良いかわからない。そのわからないが、怖いだ」
そこでシェムルは隣で黙って話を聞いていた蒼馬へ顔を向ける。
「ここにいるソーマの怖いも、私は似たようなものだと思っている。ソーマは、どういうわけか他人より未来という闇の向こう側を見られる。いや、知っているというべきかな? だから、他人が真っ暗だと思うところを平気な顔でズンズンと前に進む。そして、そこで何かをする。他人から見れば、それは闇の中で変なことをしているとしか見えない。小さな布ですら亡霊に見えたのだ。ソーマが恐ろしい怪物に見えても仕方ないだろう」
そこでシェムルはポンピウスへ向きなおった。
「それならば、わかれば怖くないのではないか?」
あまりに率直な言葉に、ポンピウスは不意を打たれたように固まってしまう。そんなポンピウスにシェムルはさらに言う。
「怖がって遠ざけてしまえば、怖いままになってしまう。それよりも間近でみれば、ソーマが何を見ているかわかるだろう。何をしようとしているか見られるだろう。それでもわからなければ、聞けば良い。間近にいるのだから、わけないことだ」
「し、しかし! それがただの小さな布ならばの話でしょう。もし、それが本当に恐ろしいことだとしたらどうするのですか?! 大きな混乱と破壊をもたらすものだとしたら?!」
思わずポンピウスは感情のままに叫んでしまう。しかし、それにもシェムルは動じることはなかった。
「それもあり得る。実際に、ソーマのおかげでゾアンの生活はメチャクチャになっているからな」
こともなげに言っているが、シェムルが言うとおり蒼馬に従うようになってからゾアンたちの生活は一変していた。
それは人間の目を逃れて山岳部に隠れていたのが平原に戻れたという意味ではない。
かつては平原で暮らしていたゾアンたちは獲物を求めて季節ごとに領域の中を移り住むという半ば放浪の生活をしていた。
蒼馬によって平原を取り戻されたゾアンたちは、当然そうした生活に戻ると思われていたのだが、それも最初のうちだけであった。開拓村から土地の賃貸料として食料を得られるようになり狩猟の機会が減ったゾアンたちは、賃貸料である食料を運んだり、行商人らが訪れたりするのに便利なローマンコンクリートでできた「ソーマの道」の近くに定住するようになっていたのである。
そのため放浪するのに適したゾアンの生活様式が、しだいに定住するのに適した形へと変わりつつあるという。
それだけではない。狩猟はゾアンたちにとって戦士の武勇を示す大事なものだったのに、若い者たちの間からは従来の狩猟生活をやめて人間のように農耕をやった方が生活は豊かになるのではと言い出す者まで出ているという。
そのため、年寄りを中心に以前の生活を懐かしみ、蒼馬がもたらした変化に批判的なことを言う者すら出るようになっていたのだ。
しかし、それを知って誰よりも驚いたのは脇で聞いていた蒼馬である。
「そんな不満が出ていたの?」
「うむ。その中には、おまえはやはり死と破壊の女神の御子で、我らをじわじわと滅ぼそうとしているとまで言う奴もいるそうだ」
多少の批判はあるとは蒼馬も覚悟していた。だが、良かれと思ってやっていたのに、まさかそこまで言われているとは思っても見なかった蒼馬は一瞬愕然としてしまう。
しかし、その蒼馬にシェムルはこともなげに言う。
「何を驚いている。当然ではないか」
シェムルは一本だけ立てた人差し指を蒼馬の胸元に突きつける。
「おまえは、誰も彼もがおまえを賞賛し、その考えに賛同していると思っていたのか? みんながおまえを誉め称えているとでも考えていたのか?」
シェムルは鼻で笑った。
「それは、呆れるほど無恥で傲慢だぞ。何しろ、この私ですら人間の男にうつつを抜かしてゾアンの誇りを売ったと陰口を叩かれているのだからな」
自分が陰口を叩かれていると言う割には、シェムルは楽しそうにケラケラと笑った。
しかし、蒼馬にとっては笑い事ではない。シェムルはゾアンたちが崇める獣の神の御子として、すべてのゾアンから敬愛と尊敬を一身に集める存在のはずである。そのシェムルにまで陰口を叩いているとは、危険きわまりない状況に思えた。
ところが、その蒼馬の懸念すらシェムルは笑い飛ばす。
「それこそ今さらだ。おまえを『臍下の君』と認める以前から、私は『御子の自覚がなっていない』と言われていたのだからな」
シェムルは目をつぶって腕組みをすると、いかにも賢そうなすまし顔を作って小さくうなずきながら言う。
「確かに、おまえはすごい奴だ。さすが私の『臍下の君』だけはある」
シェムルは、蒼馬が自分の「臍下の君」であることをしっかり強調して言う。
「だが、な。この世には、万人を幸せにする方法などないのだ。神ですら、そんなことはできないだろう。ましてや、たかが人の身にすぎないおまえならば、言わずもがなだ。
何かを変えれば、それによって良いこともあるが、必ずその裏では悪いことも起きる。何かをすれば、誰かに良くも言われれば悪くも言われる。当然ではないか」
シェムルが言うとおり、蒼馬への不平不満を洩らすゾアンは今のところごく一部の者だけである。それなのに一々それを取り沙汰してはかえって蒼馬もその相手も変に意識し、よけいに事態がこじれてしまう。そう思えばこそ、シェムルはあえて蒼馬には知らせてはいなかったのだ。
しかし、それに食ってかかったのはポンピウスである。
「すでに弊害が起きているではありませんか! 今は小さいかも知れません。しかし、いつか必ず取り返しがつかなくなるような大きな災いを引き起こすとは思わないのですか?!」
ポンピウスの悲鳴のような問いに、しかしシェムルは不思議そうに小さく首をかしげた。
長くなってしまったので前後編。後編は近日中の予定。




