町民Cと、切実な体操
のんびり三人旅の頃の番外編です。
壁の前で、心を静かにします。足を肩幅に開いて、壁との距離は手をまっすぐ伸ばしたのより少し短いだけにするのです。
「んっ!」
気合を込めて、壁をグイッと押します! これで! 胸の筋肉が! 鍛えられる! はず!
ううう、と唸りながら壁を押していると、冷静な声でツッコミが入りました。
「力を込めても、壁は動かない」
いいから勇者様は黙っておいてください! 壁が動かないのは分かっています。動いてほしいのは胸筋ッ! つまり、胸ですから。
「彼女なりに頑張っているみたいなので、そっとしておいてあげては? 多分、本に影響されたのでしょう」
優しい声音でフォローしてくださるのは神官様。相変わらず、微妙なフォロー、ありがとうございます。
「また妙な本を渡したのか?」
「一応中身は厳選したはずなのですが……」
妙な本とは無礼な! 私にとっては聖典ですよ。崇め奉れるぐらいです。
ひとしきり壁を押して小一時間、力を籠めすぎて、息が荒くなりました。
胸のあたりと腕に感じる疲労感に、ガッツポーズをしていると、
「そういう運動は、人目につかないようにするものでは?」
と神官様のご意見が投げかけられました。
「本に書いていました。筋肉の道は、千里の道のり……合間を見つけて実行することが、一番大事なんですッ!」
「で、私と勇者が話し合っているときが暇な時間になった、と」
まったくもって、その通りです。勇者様は相変わらず何を考えているかわからない顔で、首を傾げています。
次にどこに行くかという話のため、宿のお二人の部屋に私が入り込んでいるのです。それにしても、相変わらず整理整頓が行き届きすぎていて恐ろしいですね。独身男性の部屋って凄いの! 私が片付けなきゃ! とか、そういう状況を見たことがありません。いつでも出発できるように、私の部屋より荷物がまとめられていますよ。私の女子力が敗北しそうです。
それはともかく。
次の目的地を巡り、めずらしくお二人の意見が割れていたのでした。
暗号のような隠語がバンバン出てくるので、半分ぐらいしか話が分かりませんでしたが。
政情が不安な地域と、魔物の被害が大きい地域と、もろもろの要素が絡み合って、どちらに行くか結論が出ない様子。
ともかく、ぼーっとお二人の話を聞くしかできません。それに気づいた神官様が、結論が出るまで本でも読んでいてはどうかと勧めてくださいました。私の暇つぶしのために、何冊か貸本を確保してくださっているのですよ。さすが気遣いの塊ですね、神官様! いつもありがとうございます。
本を抱えて、そっとお二人から距離を取ります。珍しく勇者様が単語でなく喋るほど、議論が白熱しているので。私がいたら邪魔ですよね!
ありがたくその本を読んでいたところ、私は聖典と出会いました。
胸の形をよくする体操……それを明記した聖典とッ!
こんな本を読んだら、実行しないわけにはいきませんよね?
飢えた人の前に、パンを置くようなものですよ! 待てなんて、無理!
お二人の議論はまだまだ白熱していて、離れたところで本を読んでいる私に注意は払っていませんでした。というわけで、私はこっそり壁に向かい、胸の体操を実行したのでした。
私の読んでいた本をぱらぱらとご覧になって、神官様がおっしゃいます。
「ですが、これをすると筋肉が鍛えられてしまうのでは?」
「筋肉でも、胸は、胸です!」
私は熱く主張しました。たとえ筋肉でもいい、大きく育ってほしい!
私の胸については、正直どうでもいいので、お二人の話の結論は出たのでしょうか。
私はおとなしく席に戻りました。さすがにこの状況で運動を続けるのは、空気が読めていないにもほどがあります。
「あなたの空気を壊す技術は、評価に値します」
ええっ。空気を読んだつもりがけなされたッ! さすがにそれはひどくないですか、神官様。いや、ひどくないですね、いきなり体操を始めた私のほうが、読めてないんですよね。すみません。謝ります。
「す、すみません……」
「いや、褒めていますよ」
あれで褒められてたんですかああああ! 驚きの展開です。仰け反りますよ。
「おかげで少し冷静になった」
珍しく勇者様からもお褒めの言葉が! でもなぜですか、全くうれしくないんですが。
微妙な顔で固まる私をよそに、お二人は再び話し合いを始められました。先ほどよりは空気が柔らかいです。だけど、私は場を和ませたのか、空気を壊したのか、どっちなんでしょうか。
とりあえず、一人で壁を押していたほうが、建設的な気分になるかもしれませんよね。
何とも言えない気分を味わった、午後でした。