森に灯る青い光
俺は重心を落としたまま、一歩も動かない。
風が止み、森が静まり返る。
聞こえるのは沢の流れる音だけ。
十数メートル。
一気に距離を詰めるには遠く、逃げるには近い。
お互い、一番動きづらい距離だった。
少女は俺から目を逸らさない。
そして、小さく瞬きをする。
青白く光っていた瞳は、もう元に戻っていた。
「……」
数秒。
沈黙だけが続く。
やがて少女は、観念したように肩を落とした。
「あっ、ご、ごめん!」
さっきまでの張り詰めた空気が、一瞬で崩れる。
「警戒しちゃうよね!? あの、敵意はないです! 私、Eランクの小鳥遊ひより!」
少女は慌てて両手をぶんぶん振った。
「えっと……同じクラスの、黒瀬くん……だよね?」
少女は可愛らしく首を傾げる。
「違った?」
ここで名前を偽る理由もないか。
「いや、あってる」
「よかったぁ……。」
少女は胸をなで下ろすように、小さく笑った。
俺は答えたまま動かない。
敵意は感じない。
だからといって、信用できる理由にもならない。
この島で、わざわざ知らない相手に声をかける理由は何だ。
協力か、それとも油断をさせて不意打ちでもしてくるつもりだろうか。
「小鳥遊ひより、俺に話しかけた目的は?」
「普通にひよりでいいよ。」
少女はえへへ、と笑った。
「話しかけた理由は……協力、しようと思って。」
「それなら、なんで俺なんだ?」
「黒瀬くん、非晶者なんでしょ?」
「だったら、一人じゃ大変かなって思って。私もEランクだし、お互い様かなーって」
「……それだけか?」
「うん?」
「それだけの理由で、初対面に声を掛けたのか」
「うん」
「俺はお前を信用したわけじゃない」
「うん」
「それでも協力したいのか?」
「したいよ」
「……能力は?」
「え?」
「協力するなら、お前が何をできるか知る必要がある。」
ひよりは「あっ」と小さく声を漏らした。
「蛍石。」
「私の能力。」
「蛍石?」
「うん。」
ひよりは足元の小石を一つ拾い上げた。
「戦うのは、苦手。」
少し照れくさそうに笑う。
「硬くないし。」
「でもね。」
小石を握る指先が、ほんのり青白く光る。
それに呼応するように、ひよりの瞳も淡く光を帯びた。
暗くなり始めた森の中で、その光だけが静かに浮かぶ。
「光を見つけたり、光らせたりできる。」
「夜でも少しだけ周りが見えるし、人が動いた跡とか、光の残り方も分かることがあるよ。」
「……さっき黒瀬くんが木の後ろに隠れてたのも、見えてた。」
「だから声をかけたの。」
俺は眉をわずかに動かした。
あれは気配で見つかったと思っていた。
違う。
見えていたのか。
夜に視界を確保できる能力。
索敵も多少できる。
少なくとも、この島では足手まといにはならない。
「……」
少し考える。
一人より二人。
利点の方が多い。
もちろん、裏切られる可能性もある。
それでもーー。
「協力するなら条件がある」
「条件?」
「寝床は同じ場所に作る」
「……え?」
ひよりはキョトンとした顔をした後、首をぶんぶん振りながら。
「いやいやいや待って待って!一緒に寝るって何、黒瀬くんってそういう人だったの?」
「一人で寝たら、寝込みを襲われた時点で終わりだ。」
「二人なら、片方は必ず起きていられる。つまり見張りを交代でできる」
「合理的だろ。」
ひよりは数回瞬きをしたあと、
「あっ、そっか!なるほど!」
「じゃあ私、夜番できるかも!」
「夜でも少し見えるし!」
「……それなら都合がいい。」
そう言っただけで、警戒を解いたわけじゃない。
二人で簡単な寝床を整える。
「……風、強くなりそうだね」
「まあ、このくらいなら平気だろ」
俺はそう答えた。地面は硬いし、周囲に倒れそうな木もない。
「じゃあ最初は俺が寝る。見張り、頼んだぞ」
「うん。任せて」
俺は落ち葉の上へ横になった。
目を閉じる。
もちろん、眠る気なんてない。
初日だ。
知り合って数十分しか経っていない相手の隣で、本当に眠れるほど、俺は楽観的じゃない。
呼吸だけをゆっくり整える。
寝息を装う。
もし襲ってくるなら、今夜しかない。
そう思っていた。
森は静かだった。
沢の水が岩を撫でる音。
どこかで鳴く虫の声。
葉の擦れる、かすかな音。
ひよりは沢の方を見たまま、小さく鼻歌を口ずさんでいた。
そのどれもが、妙にはっきり耳へ届く。
目を閉じているせいか、音だけが少しずつ大きくなっていくようだった。
時間の感覚が薄れていく。
どれくらい経ったのか。
「……黒瀬くん」
小さな声が、静寂を揺らした。
返事はしない。
「寝たふり、下手だよ」
心臓が、一瞬だけ跳ねる。
「呼吸、さっきから全然変わってないもん」
くすり、と小さな笑い声。
「眠る人ってね、もう少し肩の力が抜けるよ?」
俺は黙ったまま動かない。
すると、少し間を置いてひよりが続けた。
「あと」
また少し笑う気配。
「右手だけ、ずっと拳を握ってる」
図星だった。
いつでも飛び起きられるよう、無意識に拳へ力が入っていたらしい。
「……」
静かな沈黙が戻る。
沢の音だけが、また耳に流れ込んでくる。
「安心して」
ひよりが、今度はさっきより少しだけ優しい声で言った。
「襲わないよ」
「襲うなら、さっき近づいたときにやってるもん」
俺は数秒、その言葉を飲み込むように黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……観察力、すごいな」
「えへへ」
暗闇の向こうで、照れくさそうに笑う気配がした。
「褒められた」
その言葉を最後まで聞き終える前だった。
ゴォォォッ!!
山肌を抜けてきた風が、一気に寝床へ叩きつける。
落ち葉が舞い、枝が飛ぶ。
組んだ寝床が、一瞬で崩れた。
「うわっ!」
ひよりが慌てて押さえる。
俺も飛び起きた。
乾いた枝は全部飛ばされ、積み上げた落ち葉も沢へ流されていく。
「……しまった」
高台は見晴らしがいい。
その代わり、
風を真正面から受ける場所だった。
そこまで考えていなかった。
風が去ったあと、森には妙な静けさだけが残った。
さっきまでの轟音が嘘みたいに消え、代わりに沢の流れる音だけが、やけに遠く感じられた。
俺は寝床へ目を向けた。
──半壊している。
積み上げていた枝は、見事に崩されていた。
落ち葉は吹き飛び、地面に敷いていたはずの層は、無残にめくれている。
「……」
言葉が出ない。
地面は確かに硬かった。
周囲に倒れそうな木もなかった。
そこまではよかった。
だが、それだけだった。
高い場所だということを、俺は見ていた。
けれど、風の通り方までは見ていなかった。
「黒瀬くん」
落ち葉を払いながら、ひよりが小さく声をかけてきた。
「……ちょっと、派手にやられちゃったね」
その言い方が、妙にやさしい。
「怪我とかなかった?」
「……悪い」
ぽつりと口にすると、ひよりは首を横に振った。
「ううん。仕方ないよ」
そう言いながら、すぐ近くに落ちていた細枝を拾う。
その指先が、ほんの少しだけ青白く光った。
光が強いわけじゃない。
けれど、こうして近くで見ると分かる。
彼女の能力は、ほんの小さな熱や光を拾っているみたいだった。
「……今、光ったか」
「え?」
「お前の手」
ひよりは自分の指先を見て、それから少しだけ困ったように笑った。
「あ、これ?」
「なんか気分によってピカピカするんだよね」
随分、あっさりした答えだった。
本人は深刻そうじゃない。
だが、隠したくても隠しきれないらしいことだけは分かる。
「……便利なのか、それ」
俺がそう聞くと、ひよりは少し考えてから言った。
「夜はね。かなり」
「でも、明るい場所だと、あんまり目立たない」
そう言って、ひよりは崩れた寝床の残骸を見下ろした。
「それにしても、ここ、風がすごいね」
「……見晴らしは良かったんだがな」
「うん」
ひよりはあっさり頷いた。
「なんでもできそうな感じなのに、案外抜けてるんだね」
なんだこいつ。
俺は組んだ枝を一本拾う。
乾いている。まだ使える。
「お前、分かってたのか」
「いや全く」
ひよりは枝を拾いながら、悪気なく言った。
まぁそりゃそうか。
地盤、湿り気、岩の硬さ、水場との距離。
そこばかり気にして、風の通りなんて考えてなかった。
俺は折れた枝をいくつかまとめ直す。
完全に元通りにはならないが、寝床として最低限使える形には戻せそうだ。
「……手伝うぞ」
「うん。お願い」
ひよりは、壊れた落ち葉を集め直しながら頷いた。
二人で崩れた寝床を組み直す。
ひよりは思ったより手際がよかった。 力はないが、枝を組む手つきに迷いがない。
しばらく枝を組んでいると、ひよりがふと口を開いた。
「なんで、拠点にここを選んだの? 少し離れたところに水場あるじゃん」
俺は枝を差し込みながら答えた。
「水場は、人が集まる」
「集まれば、奪い合いになる」
「だから少し離した」
「へえ」
ひよりは小さく息を漏らした。
「黒瀬くん、ちゃんと考えてたんだ」
「当たり前だろ」
そう返したあとで、少し気になる。
「……お前も、水場を見てから離れてただろ」
ひよりはきょとんとした。
「え?」
「人が集まるから、離れたんじゃないのか」
「ああ、それはあるかも」
ひよりはあっさり頷いた。
「でも一番は、なんとなく居づらかったから」
「……それだけか?」
「うん。それだけ」
拍子抜けした。
俺は上流から何か流される可能性まで考えていた。
だが、ひよりはそこまで理屈で動いていたわけじゃないらしい。
「お前、勘がいいんだな」
「えへへ」
ひよりは少し照れたように笑った。
「そうかも」
その返事だけで、夜の空気が少しやわらいだ。
「でも、あんまり考えて動いてるわけじゃないよ」
「……そういうやつが、一番生き残るのかもな」
俺はそう呟いて、組み直した寝床へ体を横たえた。
まだ眠るつもりはない。 何かあれば、すぐ動けるように、 そのつもりで目を閉じる。
沢の流れる音が、一定の速さで耳を満たす。 風はさっきほど強くない。 木々が小さく揺れ、葉が擦れ合う音だけが夜の森に溶けていた。
少し離れた場所では、ひよりが小さく鼻歌を歌っている。 青白い光が、ときおり枝の隙間で瞬いては消えた。
だが、張り詰めていた気持ちは、いつの間にか少しだけほどけていた。
今日一日、歩き続けた疲れが、じわじわと体を重くしていく。
沢の音が遠ざかる。
鼻歌も、風の音も、少しずつ輪郭がぼやけていく。
もう少しだけ、目を閉じているつもりだった。
その“少し”がどのくらいだったのかは分からない。
次にまぶたを開けた時には、空がわずかに白み始めていた。
ひよりに敵意があったとしたら、二度と目が覚めなかったなんてこともあったはずだ。
飛び起きる。
「ひより?」
少し間が空いて、昨日よりも弱々しい声が返ってきた。
「黒瀬、くん……」
声のした方を見る。
ひよりは木にもたれたまま、ぐったりしていた。
「どうした。昨日の夜、何かあったのか?」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
動物か、誰かに襲われたのか。
そう身構えた俺に、ひよりは力なく笑って言った。
「お腹……すいたよぉ……」
「……」
俺の腹が、ぐぅぅぅ、と盛大に鳴った。
「……俺もだ」
朝一番の敵は、人でも魔物でもなかった。
空腹だった。
そうと分かれば、やることは一つだ。
「とりあえず、なんか食えるもん探すぞ。ひより、歩けるか?」
「うん。あ、でも黒瀬くん」
ひよりが木にもたれたまま、沢の向こうーー朝靄がかかる森の奥を指さした。
瞳が、朝光の中でうっすら青く光っている。
「あっち、すごく香ばしい、煙の匂いがする」
「……煙?」
「うん。それと、誰かがお肉を焼いてる匂い」
朝の静かな森に、風に乗ってかすかに漂ってくる香ばしい匂い。
この島で、悠々と火を焚いて飯を食っているヤツがいる。
俺とひよりは顔を見合わせた。
腹の虫が、さっきより大きく鳴った。
「……行くか」
「うん。奪い取……じゃなくて、分けてもらいに行こう」
こいつ、案外サバイバルに向いてるかもしれないな。
【あとがき:鉱石豆知識】
今回登場した蛍石は、実際に「光ることがある」鉱物です。
ただし、蛍石そのものが発光しているわけではありません。
蛍石に含まれる微量な不純物(主に希土類元素など)が、紫外線などのエネルギーを受け取ると、一度エネルギーを蓄えます。
そして、そのエネルギーを光として放出することで、青や紫、緑などの蛍光を示します。
この現象は「蛍光」と呼ばれ、蛍石(fluorite)の名前の由来にもなっています。
同じ蛍石でも、含まれる元素や結晶の状態によって光り方や色は変化します。




