変化
真人の私室に入って間もなくして、彼の部下がカートを押してやってきた。黒曜の一員としては背が低く、少しふっくらとした男性だ。調理人なのか、エプロンをしている。
「はじめまして、僕は黒曜の調理担当者です! うわ、本当に美人ですね。寮の中では噂になっていますよ! 隊長がすごい美人を連れ込んで部屋から出さないって。こういうのが隊長の好み……痛い、痛い、痛い!」
真人が部下の頭を鷲掴みにして揺らしている。目じりに涙をためながらも、にこにこしたまま調理人は悲鳴を上げた。
「余計な話はするな。さっさと準備しろ」
「わかりましたよ、あ、でも! 困ったことがあれば、寮にいる誰にでも相談してください。たいてい何とかなります」
「ふふ、ありがとう」
そのやり取りがおかしくて、結衣は自然と笑みがこぼれた。その笑みに、真人と調理担当者が固まる。
「うわー、すごい破壊力。今度一緒に――うわ、何でもありません!」
ギラリと真人に睨まれた彼は、すぐさま持ってきた食事をテーブルに並べ始める。
「隊長は食堂のメニューで、えっとお嬢さんはおかゆです。それではごゆっくり」
並べられた食事を見て、結衣は目を丸くした。真人の前には、湯気を立てる牛鍋と、山のように積まれた大量のとんかつ。対して結衣の前には、丁寧に炊かれた白いおかゆが置かれた。明らかに真人の食事の量がおかしい。お茶碗はどんぶりで、山盛りに盛り付けられている。さらに、味噌汁の椀も大きい。
「それ、ひとり分?」
「そうだが? おまえは……足らなそうだな」
そう言って、真人は自分のとんかつを結衣のおかゆの上に置こうとする。結衣はその食べにくそうな肉の塊を置かれまいと、手でおかゆを守った。
「それほどお腹がすいていないの。いらないわ」
真人は不可解そうに眉を寄せたが、すぐに手を合わせ、容赦なく肉を口へと運んでいく。結衣も彼の食べるのを見てから、スプーンでおかゆをすくい、口へと運んだ。
(……味が、しない?)
お米の甘みも、出汁の匂いも、何ひとつ感じられない。舌の上にあるのは、ただの味気ない糸の塊のようだった。ごくりと無理やり飲み込もうとしたが、喉が拒絶して、きゅっと閉まる。
一週間も眠っていたのに、不思議と空腹感も全くなかった。
「食わないのか」
真人が箸を止める。
「食欲がない、というよりも、受け付けないわ」
その言葉に返事をせず、真人は思案げに沈黙した。しばらくした後、立ち上がった真人はおもむろに結衣の手首を掴んだ。
次の瞬間、世界が反転する。手首の皮膚の薄いところから、彼の凶暴なほどの熱が流れ込んでくる。あの夜と同じ、焼ける生の圧力。だが刃ではなく、ただ注がれてくる。結衣は無意識のうちにそれを素直に飲み込んでいった。次第に体の中が熱で埋まっていく。
肺の奥まで満ちていくそれは、食事ではなかった。ただ生きるための糧の塊だった。
(神剣になるって、こういうことなのね)
結衣はふいに理解した。もう、人間の食事で満たされる身体ではないのだと。真人を見れば、彼も結衣の状態を理解したのだろう。目を細めどこか嬉しそうに笑った。
真人の保護の元、寮で暮らしはじめてから一カ月。
結衣はまだ戻らない真人を待ちながら、寮の中庭のベンチに座っていた。最近はここから見る夜空が好きだった。
「あー……。今日はよく星が見える」
そう呟きながら、空を仰いだ。
この独身寮に住む真人の部下たちは、基本いい人ばかりだ。世話好きというのか、命知らずというのか。
最初の方こそ、部屋から出ないようにと言われてたが、最近は気ままに寮の中を歩いている。半分は仕事で不在、残っている人や、寮を維持する仕事をする人たちが暇を見つけてはいろいろと教えてくれる。
(ありがたいけど――疲れる)
七条家では次期当主として、祖父から教育を受けていた。そのため、時間のほとんどを祖父と数人の側仕えと過ごしていた。これほどたくさんの人たちと交流したことがなかった。勉強に必死で、人恋しいと感じたことすらなかった。
だから、人懐っこい真人の部下たちは新鮮であったが、同時に無碍にもできずに、距離感がつかめぬまま無理に付き合う。正直、人とかかわってこなかった結衣にとって、ここでの人間関係は手探り状態だ。
ぼんやりと夜空を眺めていると、草を踏む小さな音が耳に入った。そちらに視線をめぐらせれば、制服姿の真人が立っていた。真っ黒な服装は闇に溶けてしまいそうなほどだ。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「後の会議は狭間に任せた」
そう言いながら、すぐそばまで近づく。結衣は座ったまま、真人を見ていた。背の高い彼がそばに立つと、大きな壁のようだ。彼はおもむろに結衣の頬に触れ、くっきりと眉間にしわを寄せる。
「冷えている。どれだけここにいたんだ」
「そんなに長い時間じゃないわ。それに、温度っていうのが、あまりわからなくなっちゃったのよね」
結衣は何でもないように笑った。真人はため息をつくと、結衣の頬から手を離し、自分の上着を脱いだ。そして結衣の体をくるむ。大きすぎる上着は結衣の上半身をすっぽりと隠した。
「大丈夫だから、いらないわ」
「寒いから着ていろ」
結衣は上着を返そうとしたが、真人は手早く上着のボタンを留め始めた。温度なんて感じないはずなのに、包まれた瞬間、温かさが体の中を巡った。結衣はすぐそばで俯いている真人をじっと見つめた。
合理的で、基準が軍人のそれなのに、妙に面倒見がいい。それは彼の部下にも言える。
「ここの人たちはみんな親切ね」
「そうか? 普通だろう」
「そんなことないわよ。どうしてかしらと思っていたけど……」
迷いなくボタンをどんどんと留めていく大きな手を見つめながら、結衣はふっと息を吐いた。
「真人がとてもマメなんだわ。だから、その背中を見ている部下たちも似てしまうのね」
「違うな。お前に対して親切なのは、俺の圧力が恐ろしいからだ」
心からそう思っているのか、真人は否定してくる。結衣は目を丸くした。
「真人が怖いからという理由だけで人は優しくならないわよ。あなたが部下に慕われている証拠だわ」
結衣の言葉に、真人は不可解な顔になる。どうやら信じていないようだ。
「……戯言はいい。部屋に戻るぞ」
「照れなくてもいいのに」
真人は無言のまま、結衣を立たせた。腰に手を回し、歩き始める。結衣は逆らわず彼の横を歩いた。だが、結衣の顔には面白そうな笑みが浮かんでいた。




