目が覚めた場所
苦しさに、重い瞼を押し上げる。
視界は白く霞み、体中が燃えるように熱い。そして、喉が異常なほど乾いていた。呼吸をするたびに、喉がひりつく。
(継承の儀式……辰見は……あの異形の神はどうなったの?)
心が焦っているのに、頭は全く回転しない。ぼんやりとした頭に次々と疑問が浮かんでは消えた。だが、美結の顔がぱっと思い浮かんび、彼女の目が憎しみをのぞかせた瞬間、記憶が一気に押し寄せてくる。
美結の放った禁呪、そして彼女の耳障りな笑い声。その後に続いたのは、冷たい刃の感触、自分を喰らおうとした神、あの悍ましい咀嚼音。
同時に、死にたくない、という強い衝動。あの異形の神の息遣いがすぐそばにあるような感覚が、結衣の感情をわしづかみにする。
(私は生きている。そうだ、呼吸が苦しいのも、恐怖を感じるのも、生きているからだわ)
今だに感じる、死に直面した生々しさに体を震わせながら、自分の感情を宥めていく。
目を瞑り、意識して大きく呼吸をした。何度か繰り返していくうちに、心が落ち着いてくる。不思議と、冷静になったことで呼吸も少しだけ楽になった。
大丈夫だと思える頃、ゆっくりを目を開ける。ぼんやりとであるが視界の霞が和らいでいた。そして、見えるのは見覚えのない天井と、冷ややかな、けれど確かな人間の指先だった。
「指?」
訳が分からず呟くと、かすれた声が出た。
「……起きたか」
低く、落ち着いた声。
驚いて首を横にすれば、そこには結衣を生かした男がいた。男は無表情のまま、結衣の額に乗っていた温まった氷嚢を取り上げ、傍らに置いた新しいものと取り替える。その手つきは、驚くほど丁寧だった。
(この男……黒曜の死神よね? なぜ氷嚢を……?)
結衣の右手には、自ら刃を握りしめた時の熱い感触が残っている。死にたくない気持ちがあったとしても、結衣の状況に少しもひるむことなく望むまま恐ろしいほどの神力を流し込む狂った男。なのに今、横にいるこの男は間違いなく結衣の看病をしている。
「なんで……?」
結衣は状況が理解できずに、側にいる男を凝視した。黒の詰襟、整った顔。間違いようがない。何度確認しても、そこにいるのは黒曜の死神だ。
「熱がまだ下がっていない。氷嚢を乗せてやるから、もう少し寝ていろ」
「そうじゃなくて、どうしてあなたが側にいるの?」
「俺が責任を負う案件だ。保護対象は俺の管理下に置くのが規定だ」
彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。その説明は間違っていないと思うものの、釈然としない。
「……保護なんてしなくてもよかったのに」
「そうか? だが、お前は俺の力を神剣ごと取り込んで、同化した。神剣の権能はお前に移譲されている」
「私が神剣? どうしてそんなことに?」
言われている意味が分からず、結衣は不可解そうに眉を寄せる。苦しさに耐え、美結に継承させないために、必死になって受け取り続けたのは確かだ。それがどうして神剣と同化とことになるのか、さっぱり理解できない。
「細かいことは後でいい。お前を側に置くには――そうだな、身分を固定するなら婚姻が一番簡潔だ。対外的にも、内部規定的にも齟齬が出ない」
どんどんと結論を着けて真人が勝手に話を進めていく。
まだ状況の整理ができておらず、ただ彼の合理的な話を聞いていた。無意識に、自分の心臓に手を当てる。
ここに剣が突き刺さっていた。その剣が彼の理屈によると結衣がとってかわったという。お互いの目を覗き込んでいたあの時間、確かに二人は繋がったのを感じたが、それでも神剣になったとは到底思えなかった。
「まだお互いに名乗ってもいないのに……」
そう呟いて、思わず髪を払った。視界の端に映った自分の髪にぎょっとする。
「白?」
「ああ、そうだな。目の色も綺麗な赤だ。ほら、鏡」
ベッドの脇にあるチェストから手鏡を持ってきた彼は結衣に渡した。丸い手鏡を覗き込んだ。そこに映し出されたのは、癖のない白銀の髪と赤い目だった。その色彩に息を呑む。
「なんで、こんな色に」
「七条家の異形の神の力が目の色に、神剣の力が髪の色に出たのだろう」
そういうものなのか、と頷くしかなかった。そもそも、継承は失敗。結衣は美結への怒りのあまりに神を喰らったのだ。どんな変化が起こっていようと不思議はない。結衣は気付かれないほど小さく息を吐いた。
(私、まだ人間なの?)
ふとした疑問が思い浮かんだ。心臓を貫かれ、さらに神の力とこの男の力を取り込んでいる。おそらく生きているのは、男の力が大きいのだろう。手鏡の中の自分を見つめたまま、髪を指で梳く。白銀の輝きが見慣れない。
「七条の継承の儀式を失敗したのに、私を処分しなくていいの? あなた、黒曜の隊長なんでしょう?」
強い眼差しで、すぐそばにいる男を見た。継承の儀式の失敗だけではない。双子の妹の美結は、神穢しの罪も犯している。どんな理由があったとしても、許されない。七条家は取り潰し確定だ。帝は決して優しくはないのだ。
「なんだ、処分されたいのか?」
「死にたくないわよ。人じゃなくても生きたいと願ったのは私なんだから」
「それなら、黙って俺のそばにいればいい」
初めて男の顔に笑みが浮かんだ。細めた目は初めて目があった時とは違い、温かさを感じた。
「はあ? 意味わからないわ」
「俺もそう思う」
そう言って、男は大きな手で結衣の頭を撫でた。そしてそのまま髪に指を滑らせ、絡ませる。その動きはとても繊細で、大切なものを扱うかのようだ。
「それから、名乗りだったか。知っていると思うが、朽木真人だ。帝直属特殊任務軍・黒曜の隊長をしている。そうだな、これからは真人と呼べばいい」
「……真人。私は七条結衣よ。よろしくね、私の強引な旦那様」
真人は小さく笑みを浮かべた。その時、どんどんと扉が叩かれる。真人はちらりと扉に目を向けただけですぐに興味を失う。
「誰か来ているみたい、出なくていいの?」
「でなくていい」
ドアを叩く音は次第に大きくなっていき、ついにはバリンと何かが砕けた音がした。呆気に取られていれば、大きな音を立てて真人と同じ制服を着た一人の男が入ってきた。
「いい加減、この結界――あれ、目が覚めている」
額に青筋を立てた男が結衣を見て、驚きの表情をする。声に聞き覚えのあった結衣は体を強張らせた。
「うるさい。静かにしろ」
「……僕がいなかったら氷嚢すら使えなかったのに、この扱いはひどくないか?」
そう言いながら、彼は近づいてくる。ベッドから三歩ほどの距離で立ち止まって急に人好きのする笑みを見せた。
「初めましてだね。狭間律だ。僕は真人の副官なんだ」
「七条結衣です」
手短に名前を告げると、狭間は頷いた。
「起きてもらってよかった。ちょっと触るね。気分が悪いとか、なんか違和感、ある?」
そう一言断ってから、結衣の手首に触れ、目を覗き込む。触れている手首から何かが流れ込んできた。ピクリと体を揺らしたが、すぐに通り過ぎていく。ほんのわずかな干渉。
「いいえ。気になるのは……色が変わってしまったところぐらい」
「それは仕方がないね。文献によると、稀に神剣と同化すると色変えが発生するらしいから」
狭間は手首から手を離すと、結衣から一歩下がる。
「へえ、そうなのか」
初めて知ったのか、真人が感心して頷く。
「やっぱり、知らないでやっちゃったんだよね、お前は! 肉体を作り替えるのは死ぬ方がマシなほどの苦痛だと書いてあったぞ」
「それで、体には問題はないのか?」
狭間の責める言葉を聞き流し、真人は確認する。
「まったく……でも、体は大丈夫そうだよ。一週間も目が覚めなかったから、正直、駄目かと思っていたよ」
「え、一週間?」
結衣はその時間の長さに、絶句した。狭間は不思議そうな目を彼女に向ける。
「聞いていない? 真人が君の実家から連れて帰るって手放さなくて、大変だったんだ。血だらけの君を着替えさせるのも大変で」
着替え、と聞いて思わず自分の体へと視線を落とした。男性用の大きな着物を使っているのか、だいぶ緩めに着つけられている。合わせもいい加減で、長襦袢が見えていて恥ずかしい。結衣は顔を赤らめながら、慌てて胸元を整えた。
「ああ、うん。ごめん。あとで整えてほしい」
「いいえ。お気遣いなく。ところで、ここ、どこですか?」
ようやく自分がどこにいるのか聞くことができた。ちらりと真人を見れば、彼はあまり興味がないのか、氷嚢を片付けている。
「それ、なんで説明していないんだ」
「説明する前にお前が乱入した」
「乱入? 凶悪な結界なんか張ってるから、こっちが命がけで破る羽目になったんだ。本部からも問い合わせが何度も来てるんだぞ」
狭間の怒りの滲む声に、結衣は首を傾げた。どうやら、随分とこの男は無茶をしているようだ。
「この部屋は俺の部屋だ。どう扱おうと勝手だ」
「そうだね、ここが独身寮じゃなければね!」
真人の行動は問題しかないようだ。それは結衣にもわかる。
「あの」
ぴたりと二人の言い合いが止まる。視線が結衣に集まった。
「お客様が来ています」
扉の方を指させば、黒曜の制服をきっちりと着こんだ複数の人がこちらを興味深く覗いていた。目が合うと、さっと逸らされてしまう。
「とにかく、お前はさっさと上司に報告しに行け!」
「結衣を一人にしておけない」
「お前は黒曜の隊長。つべこべ言わず、行け!」
狭間は頑として動かない真人を部屋から追い出した。




