七条家の新たな当主
その会話が耳に入ったのは、本当に偶然だった。
「本当にねぇ。何が起こったのか」
廊下の片隅で数人が集まっている。その中心にいるのは、祖父の妹の娘だ。父・源一郎には兄弟がいないことを考えると、直系と言っても差し障りがない人で、よく祖父の元にもご機嫌伺に来ていた。正直、扱いが面倒くさい。だからこそ、美結の足は止まった。
「伯父様が亡くなった後に、辰見まで。結衣さんも中央に連れて行かれたけど……あれほどの血ですもの。きっと助からなかったのでしょうね」
それは事実だ。だから特に気にすることはない、とその場を離れようと踵を返した。
「でも、美結が当主になるなんて」
言葉だけを聞けば、意外だったという意味しかない。でもその声に滲んだ否定に、美結はかっとなった。わざと足音を立てて、板張りの廊下を歩く。
「あら、面白いお話をしているのね」
美結が声をかけると、ぴたりと会話が止まった。その中心にいた中年の女性が、品よく微笑む。細められた目は蛇のようだ。この女は源一郎を差し置いて、いつも祖父のそばに居続けた。昔から気に食わない女だった。
「美結さん。ちょうどよかった。ちょっとお聞きしたいことがあったのよ」
何がちょうどいいのか。
美結はぐっとこぶしを握り締めた。睨みつけないように気を付けながら笑みを浮かべ、先を促す。
「何でしょう? 私がお話しできることならいいのですが」
「もちろん、美結さんにお話しできることですよ。わたくし、とても不思議で。先代様は常に先を読んでいらしたのに……どうして結衣さんが当主になれなかったのかしら?」
遠まわしにもなっていない、あからさまな問いかけに、美結の顔から笑みが消える。
「私では不服ということ?」
「いえいえ。どちらも優秀で、優劣はつけがたいとは聞いていますけど。でもねぇ」
彼女は頬に手を当てて、少しだけ首を傾げた。
「――本当にあなたは継承できているのかしらって思うのよ。だって、結衣さんが失敗した後でしょう? 前当主からの引き継がれるもの、ちゃんと美結さんの中に存在しているのかしら?」
息が苦しい。目の前が真っ赤になり、あの日の夜の血の匂いがふわりとあたりに漂う。
選ばれなかった自分、だから、偶然知り合った男から教えられた通り、結衣に呪いをかけた。そして、継承の手続きは完遂できたのだ。
(私は間違っていない……ちゃんと、前当主の、結衣の死を私は引き継いでいる。当主である時間なんてほんの少しでもあればいいのよ)
暴れる感情を無理やり抑え込み、唇の端を持ち上げた。そして、わざとらしく自分の胸元へ手を置く。そこに神がきちんといるのだと示すように。
「ええ、もちろん。ここに私の神はいますわ。見せられないのは残念。結衣はとても責任感が強いから自分では継承できないと悟って、私に」
強く断言すれば、周囲から疑うような眼差しがわずかに緩んだ。皆の疑念が溶け始めたことをかぎ取った彼女はすぐさま、歓迎の笑みを浮かべる。
「皆様、これで安心ですわね。きちんと手順通り継承は行われているのですって。よかったですわ」
「ええ、安心ですわね」
彼女の一声で、周囲の空気が変わった。美結は忌々しく思いながらも、笑みを浮かべ続けた。そして、胸に両手を重ねる。
「そうですね、本当ならばお披露目の時にでもお思いましたが……そのように疑われるのは私も本意ではありません。ですから」
そっと手を胸から放し、ほんの少しだけ力を引き出す。ふわりと光の玉が美結の中から現れた。それはまさしく、継承し当主になったものしかできない御業。
美結は冷めた目で、一族の者たちを見やる。だが、彼らの目にはまだ完全に認めた色が見えなかった。美結は内心舌打ちして、さらに力を籠める。その時、一瞬、息が詰まった。ふらつく体を何とか支え、足に力を籠める。すると、胸の奥から何かが飛び出してきた。光の玉と融合し、中にまがまがしい何かが現れる。
「それは……神だわ。しかもかなり上位の」
人々の声を代弁していた女性が、その場にいた一族の者たちがすぐさま膝をつく。
「お祝い申し上げます。七条家のご当主様」
美結はようやく一族に当主として受けれられた。たくさんの疑惑を無理やりねじ伏せて。だが、それでよかった。美結はようやく手に入れて、恍惚とした眼差しで自分に膝をつく一族の者を見下ろした。
そして、その夜。
美結は恐ろしいほどの飢餓に襲われていた。使用人に用意させた料理を片っ端から食べ始める。だが、いくら食べても食べても空腹感が収まらない。
「なんで……どうして! 足りない……足りないわ! もっと持ってきてちょうだいっ!」
「お、お嬢様。それ以上は」
大量の食事を貪り食う美結に、使用人が恐る恐る声をかけた。美結はぴたりと箸を止めた。ギラリとした目を、使用人へ向ける。彼女はひっと小さく悲鳴を上げた。
「何か言った?」
「いえ、申し訳ございません。今すぐ、次の料理をお持ちします」
この場からすぐにでも離れたいのか、使用人は慌てて部屋を出た。ひとり残された美結は残っている料理に手を付ける。芋に箸を刺し、齧りつく。何度か咀嚼して飲み込むことを繰り返して、手が止まった。
「どうして、どうして、どうして……! 味がしないの、お腹が満たされないの!?」
最後の芋に手を伸ばして――座卓に並んだ食器を薙ぎ払った。空の食器が音を立ててぶつかり、畳にごとりと落ちる。最後の芋が畳に転がり、美結のそばで止まる。
美結は畳の上に落ちた芋をしばらく見つめた後、手でつかんで口の中に入れた。涙を流し咀嚼していると、襖が音もなく開いた。
「美結、何をしているの!?」
のろのろと顔を襖へと向ければ、愕然とした母・織江がそこにいた。
「お母様、どうしてここへ?」
「使用人があなたの様子がおかしいと言ってきたから……」
そう言いながら、畳に落ちた皿と荒らされた座卓を交互に見る。そのうち、織江の眉間が険しくなっていく。
「あなたは当主になったのよ。食事ぐらいで癇癪を起こすなんて、なんてみっともない」
そう言いながら、着物の袖で口元を隠した。美結は目を見開き、織江の顔を仰ぎ見る。
「癇癪? みっともない?」
「そうよ。はあ、こんなことなら、あなただけを可愛がるんじゃなかったわ。旦那様が美結の方がいいというからそうしたけど……お義父様がいなければ、いくらでも懐柔できたのに」
思わず出た言葉だっただろう。だが美結には到底聞き逃すことのできない言葉だった。
「お母様は私の方がお姉様よりもふさわしいと言っていたじゃない」
「ええ、ええ。そのとおりですよ。だけど、当主になった途端、このありさま。当主だというのなら、それにふさわしいふるまいを……」
美結の中で、ぷつんと何かが切れる音がした。その瞬間、体の中から大きな手が飛び出した。枯れ木のような細い節くれだった手は容赦ない力で織江の右腕を握り締める。
「み、美結? きゃあああ、痛い、痛い! その手をはなしなさい!」
「お腹がすくのよ。どんなに食べても味もしないのに、お腹がすくの」
美結は瞬きもせずに、織江の顔を覗き込んだ。焦点が合わず、光もない目で覗き込まれた織江は恐ろしさに体を震わせた。次第につかむ手に力が入り、腕に食い込んだ爪が肌を傷つける。
「あ……。あ、み、美結。言いすぎたわ」
口元を歪ませ謝りながらも、少しでも離れようと彼女は体を乱暴に引いた。だが、黒い手は離れることなくそのままずるりと何かが引き出される。人の頭よりも二回りほど大きなそれには大きな目が中央にひとつ、ついており、手足は異様に長くて枯れ木のようだ。だが、力は恐ろしいほど強かった。
「ひっ……!」
織江のかすれた悲鳴は美結の心には届かなかった。微かな血の香りに、美結は口元を緩めた。
「ああ、これだわ。そうね、私は喰らっていないからお腹がすくんだわ」
正解を見つけて安心したように美結は笑った。織江はそんな美結から離れようと、さらに体をよじる。
「あなた、変よ! それ、七条の神じゃないわ! いったい何を受け継いだの!」
「ふふ! 七条の神は黒曜が滅しちゃったじゃない。だから、私が当主になるには代わりが必要だったの。これを荒神なんて呼んで忌み嫌うけれど、間違いなくこの国のひと柱だから。安心して?」
「代わりの神? そんなの聞いたことがない」
痛みと現状に、混乱しながら織江は言葉を放つ。美結は肩をすくめた。
「そうかもしれませんわね。特別な縁から知った方法ですから。お母様だって、七条家がなくなるのは困るでしょう? だから協力してくださいね」
そう囁くのと同時に、美結と繋がってる異形が掴んでいる腕を乱暴に引き寄せた。異形は繋がった部分から、命をすすり始める。美結の中から出てきたそれはすでに繋がりが切れているというのに、不思議と体の奥底が熱くなっていく。
「ああ、なんて……おいしいの。体の奥から力が湧き出てくるわ」
「ひい、ひい……っ! 誰か! 助けて! 異形よ! こ、殺される!」
「あら、いやだわ、お母様。殺さないわよ。生きていてもらいたいもの」
織江は嘘だと首を左右に振り、泣きじゃくりながら畳の上を這うようにして廊下へと移動した。その無様な姿を見つめたまま、ゆっくりと美結も廊下へと向かう。そして、異形が織江に向かって手を伸ばした時。
「何を騒いでいるんだ?」
ちょうど源一郎が廊下の奥から出てきた。織江の声が響いたのだろう。美結は目を細め、袖を口元に当てた。
「あら、お父様。どうかなさったの?」
「あ、あなた! 助けて! 美結が……美結がおかしいの!」
助けが来たと思ったのか、目を輝かせて織江は源一郎の方へとはいつくばって移動する。美結はゆっくりとその後に続いた。
「はあ? おまえは何を言って……。うわっ!?」
不審げに眉を寄せた源一郎は織江を見てから、美結を見た。その目が床に向かった瞬間、驚きに声を上げる。
「なんだ、それは!?」
「ふふ。新しい七条家の神よ。お父様にも紹介できてよかったわ」
「それが新しい神だと? 何を言っている?」
混乱と恐怖で青ざめながら疑問を繰り返した。美結はほんのわずかだけ首を傾げる。
「仕方がなかったの。ほら、お父様はお祖父さまに認められてもらえず、当主になれなかったから、私を継承者にすることができなかった。私がこの家の当主になるには、新しい神を迎え入れるしかなかったの」
「だからといって、それが神だと認められるか!?」
唾を飛ばす勢いで、言い捨てる。美結はため息をついた。
「はあ、こんなこともわからないだなんて。お父様って無能ね。新しい神がいなければ、七条家は滅んでいたのよ。喜んでくれると思ったのに……がっかりだわ」
「なんだと!」
無能と娘に言われ激昂した源一郎は美結に殴りかかろうとした。それを縋って織江が止める。
「あ、あなた。逃げましょう。美結はおかしくなってしまったのよ!」
「逃げるだと!?」
二人がもめ始めたのを面白そうに美結は笑う。
「逃げられるかしら?」
その言葉に反応するように、異形が枯れたツタのようなものをシュルシュルと伸ばした。ハッとした二人は慌てて距離を取る。悍ましいツタは二人に狙いをつけて蠢いた。その瞬間、源一郎が織江を異形へと突き放した。織江は愕然とした顔で、源一郎を見つめる。
「あなた! 待ってちょうだい!」
はくはくと息を吐きながら、織江は助けを求める。だが、源一郎はこちらを振り返ることなく廊下の突き当りをめがけて行ってしまう。
「お父様ったら薄情ね」
美結は頬に手を当て困った顔をした。ツタは迷うことなく、織江を包み込んだ。見る間にツタが身体を何重にも巻き込み、まるでどす黒い繭のような形へと変わっていく。
「いや! 助けて!」
繭のゆりかごに入れられた織江は悲鳴を上げながら暴れていたが、それもすぐに収まる。
「ひっ、なんだそれは!」
源一郎が恐怖の声を上げたがそれもすぐに消える。音もなく源一郎も繭の中へと仕舞った。こちらも大暴れしたが、それも数秒だけ。
「ふふ、居心地がいいのね。そうねぇ。どうせなら、一族全員から献上してもらおうかしら。お祖父様は孤高の人だったけど、私はみんなに支えてもらいたいもの」
美結は目を細めて薄く笑った。その足元には異形の神がへばりついていた。
「結衣じゃないのよ、選ばれたのは私なの」
そう呟いた瞬間、美結の体から空に向かってどす黒い靄が立ち上った。空へと立ち上った靄は、やがて帝都の空へと向けて溶けていった。




