第四話 右腕の記憶
第四話 右腕の記憶
翌朝、朔は約束どおり、千鶴の白い手巾を持って迎えに来た。
手巾はきれいに洗われ、四角く折り畳まれていた。泥の跡はすっかり消え、千鶴が受け取ると、かすかに石鹸の香りがした。
「一晩で洗ってくださったのですか」
「お借りしたままにしたくありませんでしたので」
「急がなくてもよかったのですよ」
「昨日、必ずお返しすると約束いたしました」
朔は生真面目な顔で答えた。その表情を見ていると、千鶴には、それ以上何も言えなくなった。
「ありがとうございます。大切に使います」
そう告げて手巾を鞄へしまうと、今度は朔が戸惑ったように目を瞬いた。
「泥を拭いたものを、大切になさるのですか」
「洗えば、またきれいになります。それに、約束どおり戻ってきたものですから」
千鶴は何気なく答えたが、朔はしばらく黙っていた。やがて小さく「そうですか」と言い、左右の梶棒を握って静かに持ち上げた。
女学校へ向かう道すがら、千鶴は朔の右肩が、いつもよりわずかに下がっていることに気づいた。前日の馬車を助けた際、古傷のある腕へ無理をかけたのかもしれない。
「右腕は痛みませんか」
「問題ございません」
「昨日、ずいぶん力を使っていました」
「車夫は、力を使う仕事です」
朔はいつもの穏やかな声で答え、歩調も乱さなかった。それでも千鶴には、右手が梶棒を握るたび、指先に余計な力が入っているように見えた。
女学校へ着くと、遥、奈緒美、洋子の三人が校門近くで待っていた。昨日とは違い、遥も朔をからかうようなことは言わず、行き交う生徒の邪魔にならぬ場所できちんと一礼した。
「昨日は、三原家の馬車を助けてくださって、ありがとうございました」
「大事がなく、何よりでございました」
「もし過去を探してほしくなったら、そのときは三原家を頼ってくださいな。昨日の無礼のお詫びです」
遥の率直な申し出に、朔は少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます。ですが、今はまだ、自分で考えてみます」
「分かりました。無理には勧めません」
四人が校門へ入ろうとしたとき、洋子だけが足を止めた。
「朔さん。昨日痛めたところは、今日のうちに休ませたほうがよろしいですよ」
「ご心配には及びません」
「そうおっしゃると思いました」
洋子はそれ以上追及せず、奈緒美に袖を引かれて校門へ向かった。朔は返す言葉が見つからない様子で、その後ろ姿を見送っている。
「洋子さんは、細かなことによく気づく方なのです」
千鶴が説明すると、朔は苦笑に近い表情を浮かべた。
「お嬢様のご学友は、皆様それぞれに手強い方々ですね」
「わたくしも、そう思います」
二人は初めて、同じことで小さく笑った。
*
午後になると、風が強くなった。
授業を終えた千鶴が校門を出ると、朔はいつもの場所で待っていたが、朝より顔色が悪かった。千鶴に気づくと姿勢を正し、何事もないように人力車へ案内する。
「本当に大丈夫なのですか」
「はい」
短い返事だった。
人力車が走り始めて間もなく、朔の右腕に鋭い痛みが走ったらしい。右の梶棒が一瞬沈み、車体ががくりと揺れた。朔はすぐに踏みとどまったが、右腕を押さえて足を止めた。
「朔さん」
「申し訳ございません。すぐに参ります」
「いけません。車を止めてください」
「屋敷まで、もう遠くはありません」
「だからといって、痛む腕で無理をしてよい理由にはなりません」
千鶴が普段より強い声で言うと、朔は驚いたように振り返った。
「わたくしは降ります。少し休みましょう」
「お嬢様を歩かせるわけにはまいりません」
「では、ここで一緒に休みます」
千鶴が譲らないと分かったのか、朔はようやく人力車を道端の平らな場所へ寄せた。梶棒を静かに下ろし、車体が動かぬことを確かめる。
近くには小さな神社があり、境内へ続く石段の脇に、参詣人が休むための腰掛けが置かれていた。
境内では参詣人が行き交い、茶店の老女が店先を掃いていた。千鶴が腰掛けへ座ると、朔は一人分以上離れた石段の端へ腰を下ろした。送り迎えの途中で、二人が足を止めて話すことは初めてだった。
「袖の上からでは様子が分かりません。ご自分で、少しだけ見せていただけますか」
「そこまでしていただくわけには」
「お医者様ではありませんから、治すことはできません。でも、腫れているかどうかくらいは分かります」
朔はためらった末、自分で半纏の右袖口を肘までたくし上げた。千鶴は手を伸ばさず、少し離れたまま腕の様子を見た。
目立つ腫れはなかった。
しかし、日に焼けた腕には、肘の内側から袖の奥へ続く古い傷が残っていた。今できた傷ではない。皮膚はすでに塞がっているが、かつて腕を深く傷めたことが一目で分かるほど、白く引きつれた跡が続いている。
千鶴の脳裏に、十三年前の光景がよみがえった。
折れた桜の枝。
土の上に倒れた少年。
血に染まった右腕。
「どうかなさいましたか」
朔の声で我に返り、千鶴は首を横へ振った。
「昔、同じように右腕へ大怪我をした方を見たことがあります」
「その方は、お知り合いですか」
「お名前も知りません。わたくしが三歳のころ、木から落ちたところを助けてくださった方です」
千鶴は、幼い日の出来事をゆっくり話した。
桜へ登って降りられなくなったこと。枝が折れて落ちたこと。偶然通りかかった少年が、下敷きになって守ってくれたこと。
その少年の右腕がひどく傷つき、破れた着物の肩近くに、桜の花のような赤い痕が見えたこと。
「それで、桜の兄さんと呼んでいるのです」
話を聞くうちに、朔の表情から血の気が引いていった。
「朔さん?」
朔は左手で額を押さえ、目を閉じた。右腕をかばうように胸元へ引き寄せ、深くうつむく。
「頭も痛むのですか。やはり、お医者様へ」
「少し待ってください」
朔はしばらく呼吸を整え、やがてゆっくりと目を開いた。
「もう大丈夫です」
「大丈夫には見えません」
「今のお話を聞いたら、右腕に急に重みを感じました。何かを受け止めたような……けれど、それが何なのかは分かりません」
千鶴は朔の横顔を見つめた。
ひとすじの古傷と、意味を結ばない身体の感覚。それだけで十三年前の少年と結びつけるには、あまりにも頼りなかった。
「わたくしのお話が、何かを思い出すきっかけになったのでしょうか」
「そうかもしれません」
朔は自分の右腕に残る傷を見つめた。
「私は、この傷を負った理由も覚えておりません。医者からは、ずいぶん昔の怪我だと聞きました」
「もしかすると、昔の出来事を、頭より先に身体が覚えているのかもしれませんね」
「身体が、覚えているのですか」
「昨日、馬を落ち着かせたときも、身体が先に動いたのでしょう。思い出せないことまで、すべて失われたわけではないのだと思います」
朔はすぐには答えなかった。やがて、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「失ったのではなく、見えなくなっているだけでしょうか」
「きっと、そうです。桜の兄さんも、ご自分のことをわたくしが十三年間覚えているとは、ご存じないはずですから」
「知らないところで、誰かが覚えていることもある……」
「ええ。ですから、思い出せないというだけで、何もなかったことにはなりません」
朔は千鶴を見つめた。
まっすぐな眼差しに耐えきれず、千鶴は鞄の持ち手を握り直して立ち上がった。
「そろそろ参りましょう。わたくしは歩きますから、朔さんは空の車をゆっくり引いてください」
「お嬢様を歩かせるわけには」
「我が家から学校までは、もともと歩ける距離です。それに、また車が傾いたほうが、皆に叱られます」
その「皆」の中に、洋子まで含まれていると気づいたのか、朔は困ったように笑った。
「承知いたしました」
朔も立ち上がり、たくし上げていた袖を元へ戻した。
人力車へ戻る前、朔は一度だけ右肩を押さえた。
千鶴はそれに気づいたが、古傷の痛みが残っているのだろうと思った。
境内の桜は、残った花を散らしながら、強い風に細い枝を揺らしていた。




