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忘れじの桜 ――六条令嬢と記憶なき車夫――  作者: あめのひくもり


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第五話 待つ人

第五話 待つ人


 六条邸の門が見えるころには、風はいくらか弱まっていた。


 千鶴は人力車の少し前を歩き、朔は空の車を引いて、その後ろをゆっくりついてきた。いつもなら車上から眺める道も、自分の足で歩けば景色が違って見える。道端の乾物屋から漂う鰹節の匂いも、軒先で遊ぶ子供たちの声も、梶棒が小さく軋む音も、今日は妙にはっきりと耳へ届いた。


 門内では、帰りの遅い孫を案じた友子が、門番所の脇で女中を伴って待っていた。


「千鶴さん、どうして歩いているのです。まさか車から落ちたのではないでしょうね」


「落ちておりません、お祖母様。朔さんの右腕が痛んだので、わたくしが歩くことにしたのです」


 友子の視線が、すぐに朔へ向いた。朔は梶棒を下ろすと、深く頭を下げた。


「お嬢様をお乗せしたまま車を揺らしてしまいました。申し訳ございません」


「まあ、それはいけません。千鶴さんではなく、あなたの腕の話です。痛むのなら、なぜ無理をしたのです」


 叱られるつもりでいたらしい朔は、思いがけない言葉に顔を上げた。


「けれど、お祖母様。朔さんに迎えを頼んだ車宿へ、きつくおっしゃってはいけません。昨日、朔さんが遥さんの馬車を助けたために、古傷が痛んだのです」


「事情は分かりました。しかし、怪我を隠して働くことと、立派な行いをしたことは別ですよ」


 友子は穏やかな声で言ったものの、引き下がる様子はない。そこへ騒ぎを聞きつけた睦が玄関から現れ、二人の話を聞くと、屋敷へ出入りしている医師を呼ぶよう女中へ命じた。


「奥様、そこまでしていただくわけにはまいりません」


「千鶴を毎日運んでくださる方が怪我をしているのです。診ていただくのは、六条家のためでもあります」


 睦はのんびりと微笑んでいるが、決めたことを変える気はないらしい。母と祖母を見比べた千鶴は、二人がよく似ていることに今さら気づき、口元をほころばせた。


「朔さん、諦めたほうがよろしいですよ。こうなったときのお母様とお祖母様には、誰もかないません」


「お嬢様も、そのお二人によく似ておられます」


 朔が小声で返したため、千鶴は言葉に詰まった。


 やがて医師が到着し、門脇の供待ちで朔の腕を診た。骨を損ねた様子はなく、古傷の周りの筋をひどく痛めているため、二、三日は腕を休ませるようにという見立てだった。


 朔はしぶしぶ休むことを承知したが、仕事を休む間の賃金まで六条家が負担すると聞くと、そこまでは受け取れないと言って譲らなかった。


「千鶴の送迎中に悪くしたのですから、これはお見舞いではなく、休んでいる間の手間賃です。受け取ってくださらないと、こちらが困ります」


 睦はそう言って、二日分の手間賃を包むよう家令へ命じると、友子とともに屋敷へ入った。家令が受取書を書くための紙と筆を用意すると、朔は差し出された筆を迷いなく左手に取った。


 朔は金額と日付を記し、その末に「朔」と署名した。どの文字にも癖が少なく、そばに残っていた千鶴が思わず見入るほど整っている。朔自身も驚いたように、書いたばかりの一字を見つめていた。


「自分でも、これほど書けるとは知りませんでした」


「字もお上手なのですね」


 千鶴が言うと、朔は左手の筆へ目を落とした。


「けれど、どこで覚えたのかは、やはり分かりません」


 その声ににじんだ寂しさに、千鶴はすぐにかける言葉を見つけられなかった。


          *


 夕食の席では、保がいつになく難しい顔をしていた。


 医師から朔の怪我について聞いたためではない。手元には、一条家から届いた封書が置かれていた。


「一条家から、渉殿の帰国がまた遅れるとの知らせが来た」


 保の言葉に、千鶴は箸を止めた。


「まだボストンにいらっしゃるのですか」


「先方にも事情があるらしく、詳しいことは書かれておらん。帰国の見通しが立ち次第、改めて知らせるとのことだ」


 保の難しい顔には、理由があった。千鶴と友子は知らなかったが、渉が乗っていた船の入港後に行方を絶ったことは、一条家から保と睦にだけ伝えられている。今夜の封書は、帰国が遅れているという表向きの知らせだった。


 一条家は警察へ届け出て港や病院を捜しながらも、渉の名と失踪を社交界へは伏せている。しかし、手掛かりが得られないままなら、公表もやむを得ないと守は考え始めていた。


「千鶴は、渉さんにお会いしたことがないのよね」


 睦に尋ねられ、千鶴はうなずいた。


「幼いころに一度くらいはお会いしているそうですが、覚えておりません」


「十二歳から九年も外国にいれば、すっかり変わっているでしょうね。どのような青年になったのか、楽しみだわ」


 友子は明るく言った。睦もいつもの穏やかな微笑みを崩さなかったが、湯呑を持つ指には、わずかに力が入っていた。


 千鶴の胸には、小さな重みが残った。


 婚約者として顔を合わせた記憶もない人を、自分は待っていることになっている。しかし、どのような声で話し、どのように笑う人なのかさえ知らない。その一方で、明日から二、三日会えない車夫の表情は、目を閉じても思い浮かべることができた。


 そんな比べ方をしてはいけない。


 千鶴は自分へ言い聞かせ、静かに箸を置いた。


「渉様は、なぜ一度もお写真を送ってくださらなかったのでしょう」


「写真が嫌いなのかもしれないわね」


 睦はあっさりと答えたが、保は封書へ目を落としたまま、何も言わなかった。


          *


 翌朝、門前に来たのは、朔ではなく年配の車夫だった。


 腕を休ませているのだから当然である。それでも千鶴は、見慣れない車夫の姿を認めた瞬間、胸の内に小さな落胆が生まれたことを否定できなかった。


 人力車はいつもと同じ道を、いつもと変わらぬ速さで進んでいるはずなのに、女学校までの時間がひどく長く感じられた。


 休み時間になると、遥が声をひそめて話しかけてきた。


「千鶴さん、今日はずいぶん静かですのね」


 千鶴は教科書から顔を上げた。


「いつもと変わりません」


「そうかしら。今朝、校門で車夫の顔を確かめてから、がっかりしていたように見えたけれど」


「がっかりなどしておりません。朔さんは怪我をしたのですから、休んで当然です」


「わたくし、朔さんの名前は一度も申しておりませんよ」


 遥が楽しそうに笑い、奈緒美は困ったように目を伏せた。洋子だけは開いていた帳面から視線を上げ、落ち着いた声で言った。


「会えると思っていた方に会えなければ、気になるのは自然なことです。問題は、その理由をご本人が分かっているかどうかでしょう」


「洋子さんまで、何をおっしゃるのです」


 否定しようとするほど、頬が熱くなる。千鶴は逃げるように教科書へ目を戻したが、その日の英語の頁には、遠い土地から故郷を思う旅人の詩が載っていた。


 やがて始まった英語の授業で、教師に指名されて一節を訳しながら、千鶴は、朔ならこの文章をどのような日本語にするだろうと考えていた。


          *


 朔が休んで二日目の夕方、千鶴は自室の窓辺に立っていた。


 庭の桜は盛りを過ぎ、風が吹くたび、花びらが池の水面へ落ちていく。明日には朔が戻るだろうか。それとも、医師にもう少し休むよう言われるだろうか。


 ほどなく女中が部屋を訪れ、朔が忘れ物を届けに来ていると告げた。千鶴は返事をするより早く立ち上がり、玄関脇の取次口へ向かいかけた。


 しかし、廊下を半ばまで進んだところで足を止める。自分が待っていたことを知られるのが、急に恥ずかしくなったのである。千鶴は乱れてもいない襟元を整え、今度はいつもの歩調で取次口へ向かった。


 取次口には、先ほどの女中に付き添われた朔が立っていた。仕事着ではなく地味な着物姿で、左手に一冊の本を持っている。


「朔さん」


「先日は、ご迷惑をおかけいたしました」


「腕はもうよろしいのですか」


「痛みはほとんど引きました。明日の朝から仕事へ戻ります」


 そう告げたあと、朔は持っていた本を差し出した。それは、先日の帰りに車内へ置き忘れた、薄い英詩集だった。


「車宿へ戻ったあと、座席に残っているのを見つけました。お名前が書かれていましたので、先にお届けしようと」


「このためだけに、いらしたのですか」


「はい。お探しになるといけませんので」


 千鶴は本を受け取った。朔の指には触れなかったが、手巾を返された朝よりも、二人の距離が近く感じられた。


「ありがとうございます。明日は、いつもの時刻ですね」


「はい。お待たせいたしません」


 千鶴は胸の内に浮かんだ言葉を、少しためらってから口にした。


「待つことは、思っていたより長いものですね」


 朔は一瞬、意味を測るように千鶴を見た。それから、どこか嬉しそうに目を細めた。


「では明日は、少し早く参ります」


「早すぎても困ります」


「承知いたしました。ほんの少しだけにいたします」


 二人は声を立てずに笑った。


 その夜、千鶴は枕元へ英詩集を置いた。机の上には、いつか一条家から届くはずの写真を飾るために、祖母が用意した銀の写真立てが置かれている。


 写真立ては、今も空のままだった。

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