第三話 身体が覚えていること
第三話 身体が覚えていること
夜のうちに降った雨は、明け方には上がっていた。
六条家の庭では、濡れた桜の枝から雫が落ちるたび、朝の光が細かく砕けていた。千鶴はいつもより早く身支度を終え、まだ迎えの時刻まで間があるというのに、二度も時計を確かめた。
「今日は、ずいぶんお早いのですね」
袴の紐を整えていた小春が、鏡越しに微笑んだ。
「昨日は人力車などいらないとおっしゃっていたのに」
「遅刻しないように支度をしただけです」
「さようでございますか」
小春の返事には、何かを見透かしているような響きがあった。千鶴はそれ以上何も言わず、机の上に置いていた英語の教本を鞄へしまった。
昨夜は、朔から聞いた話を何度も思い返し、なかなか寝つけなかった。
自分の名も、生まれた場所も、家族の顔も分からない。それでも朝になれば働き、誰かを乗せて町を走る。千鶴には、そのような毎日がどれほど心細いものなのか、想像することしかできなかった。
朝餉の席で、保が昨日の車夫について尋ねた。千鶴が、丁寧で車もほとんど揺れなかったと答えると、祖父は満足そうに新聞を畳み、これからも同じ車を迎えに寄越すと決めてしまった。昨日までなら反発したはずなのに、今日は強く拒む気になれず、千鶴は家族に表情を読まれないよう、そっと目を伏せた。
やがて門前の砂利を車輪が踏む音が聞こえてきた。
その音に気づいた瞬間、自分の胸がわずかに弾んだことを、千鶴は誰にも知られたくなかった。
玄関を出ると、朔はすでに黒塗りの人力車の傍らで待っていた。雨上がりの冷たい空気の中、長い髪を後ろで束ね、昨日と変わらぬ紺の半纏を清潔に着ている。
「おはようございます」
「おはようございます。昨夜は、よくお休みになれましたか」
千鶴が尋ねると、朔は少し驚いたようだった。
「はい。お嬢様はいかがでしたか」
「わたくしも、よく眠りました」
本当はなかなか寝つけなかったが、そこまで話す必要はない。千鶴が人力車へ乗ると、朔は足掛けと車体を確かめ、二本の梶棒を取って歩き出した。
濡れた道を進む車は、昨日よりゆっくりとしていた。朔は水たまりや滑りやすい石を避け、曲がり角では十分に速度を落とす。右腕には古傷があるはずだが、そのせいで車体が傾くことはなかった。
「朔さん」
「はい」
「昨日のお話を、ほかの方にするつもりはありません」
「昨日のお話、とは」
「お名前や、ご家族を覚えていないということです」
朔はしばらく黙ったあと、小さく頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
「ただ、女学校のお友達三人には、英語のことを話してしまいました。記憶がないとは、そのときには知らなかったので……申し訳ありません」
「謝っていただくようなことではございません。隠しているのではなく、私自身にも説明できないだけです」
朔の声は穏やかだったが、千鶴には、その言葉の奥にある寂しさが感じられた。
「では、わたくしが勝手に心配することにします」
「勝手に、ですか」
「ご迷惑ならやめます」
「いいえ」
朔の返事は、思いのほか早かった。
「迷惑ではありません」
それから女学校へ着くまで、二人はほとんど話さなかった。それでも千鶴には、その沈黙が前日より近いものに感じられた。
*
放課後、校門の外では小さな騒ぎが起きていた。
三原家の迎えの馬車が、校門脇のぬかるんだ車寄せで、車輪を深いくぼみへ落としていたのである。馬に怪我はなかったが、片側の車輪が泥へ食い込み、御者と従者が二人がかりで動かそうとしても、びくともしない。周囲には下校途中の生徒が集まり、困り果てた遥が腕を組んで立っていた。
「どうして、よりによって今日なのかしら」
「ご家族へ使いを出したほうがよいのではありませんか」
奈緒美が心配そうに言った。
「もう出してもらいました。でも、別の迎えが来るまで、ずいぶん待たされるわ」
千鶴たちが話している間にも、馬は周囲の人声に落ち着きを失い、前脚で地面を何度も掻いていた。そこへ路面電車の鐘が鳴り、馬が驚いて大きく首を振る。
「危ない!」
誰かが叫び、生徒たちが一斉に後ろへ下がった。
そのとき、人垣の外から朔が駆け寄った。
朔は馬の正面を避け、斜め前から低い声をかけながら近づいた。御者から手綱を受け取ると、左手で短く持ち、空いた右手で首筋をゆっくり撫でる。古傷のある右腕を大きく動かさず、それでも馬を怯えさせない手つきには迷いがなかった。やがて、荒かった馬の息が少しずつ静まっていった。
「この馬をご存じなのですか」
御者が驚いて尋ねた。
「いいえ」
「それでは、なぜ扱い方を?」
朔は馬の首に置いた自分の手を見た。答えを探すような沈黙のあと、戸惑った表情で首を横へ振る。
「分かりません。身体が先に動きました」
千鶴はその言葉を聞き、昨日、自分が朔へ伝えたことを思い出した。
覚えていないことと、失われたことは同じではない。
英語と同じように、馬の扱い方も朔の中から消えてはいなかった。
馬が十分に落ち着いたのを見届けると、朔は手綱を御者へ返し、周囲の生徒たちを下がらせて、馬を見ているよう頼んだ。それから従者とともに車輪の周りの泥を取り除き、丈夫な角材を車軸の近くへ差し込んだ。平たい石を支点にして車体をわずかに持ち上げ、浮いた車輪の下へ別の平石を噛ませる。
「今です。ゆっくり前へ」
御者が声をかけながら手綱をわずかに緩め、従者が後ろから車体を押すと、沈んでいた車輪が鈍い音を立てて泥の中から抜け出した。周囲の生徒たちから、思わず歓声が上がった。
「まあ、すごいではありませんか」
遥は泥で汚れた車輪より、朔のほうへ興味を移したらしい。
「あなた、本当に車夫なの?」
「遥さん」
千鶴がたしなめると、遥は悪びれずに笑った。
「だって、英語が話せて、馬も扱えて、ぬかるみから馬車まで出してしまう車夫なんて、聞いたことがないでしょう」
「壊れたものを直したのではありません。沈んだ車輪を上げただけです」
朔はそう答えたが、言葉遣いはあくまで丁寧で、遥の無遠慮な問いにも不快な顔を見せなかった。
洋子は脇へ除けられた石と角材を確かめ、感心したように朔を見た。
「力任せにはなさらないのですね」
「そのほうが、馬にも車にも無理がありません」
「どこで学んだのですか」
「それも、覚えておりません。私は、自分の過去を何一つ覚えていないのです」
遥の表情から、からかうような色が消えた。奈緒美は何も言わず、千鶴へ視線を向ける。朔の思いがけない告白に、三人とも言葉を失っていた。
「先ほどは、失礼なことを聞きました」
遥は素直に頭を下げた。
「いいえ。皆様が不思議に思われるのも当然です」
御者は車軸や車輪に損傷がないことを目で確かめ、まず空の馬車を少し先まで動かした。異音も歪みもないと分かってから遥を乗せる。その直前、遥は千鶴の耳元へ顔を寄せた。
「あの方のこと、少し調べてみたくなったわ」
「いけません」
「どうして?」
「朔さんが望んでいないかもしれないからです」
「でも、家族が探しているかもしれないでしょう」
遥の言葉に、千鶴は答えられなかった。
確かに、どこかに朔の帰りを待っている人がいるかもしれない。昨日の自分は、思い出せる日が来ると励ました。しかし、記憶が戻れば、朔は本来いるべき場所へ帰ってしまう。
その当然のことを考えたとき、千鶴の胸に生まれたのは安堵ではなく、理由の分からない寂しさだった。
三人と別れたあと、千鶴は人力車へ乗った。朔はいつものように梶棒を握ったが、車輪の周りの泥を掻き出し、石と角材を扱った両手には汚れが残っている。
「手を拭いてください」
千鶴は鞄から白い手巾を取り出し、朔へ差し出した。
「大切なものではありませんか」
「手巾は、手を拭くためのものです」
「しかし、汚れてしまいます」
「洗えば済みます」
朔はためらった末、左手で受け取ると、汚れが広がらないよう手巾の端だけを使って右手の泥を拭い、それから左手を拭った。
「洗って、お返しいたします」
「そのままで構いません」
「お借りしたものを返さないわけにはまいりません」
朔はきっぱりと言った。
「では、明日」
「はい。明日、必ず」
千鶴には、その約束が嬉しかった。明日も朔が迎えに来ることは、すでに決まっている。それでも、二人の間に新しい約束が一つできたように思えた。
人力車が走り始めると、千鶴は先ほどの遥の言葉を思い出した。
「朔さん。ご家族を、探したいと思いますか」
梶棒を握る朔の背中が、わずかに強張った。
「分かりません」
「帰る場所を知りたいとは思いませんか」
朔はすぐには答えなかった。濡れた道を踏む足音と、車輪の回る音だけが、しばらく二人の間を流れた。
「知りたいと思います。ただ――」
「ただ?」
「もし、その場所で誰も私を待っていなかったらと思うと、怖いのです」
千鶴には、どこかで朔を待つ者がいるのか分からなかった。だから、自分に分かることだけを伝えた。
「少なくとも、明日の朝は、わたくしが待っています」
朔の足が止まりかけた。
けれど今度は振り返らず、前を向いたまま、静かに答えた。
「はい」
そのひと言だけで、千鶴には明日の朝が、今朝までとは違うものになったように思えた。




