第二話 失われた名
第二話 失われた名
私立瑞花高等女学校の校門をくぐってからも、千鶴は一度だけ後ろを振り返った。
朔はまだ同じ場所に立っていた。けれど、今度はこちらを見ておらず、英語の教本を受け止めた左手を確かめるように、指を何度も握り直している。その姿には、忘れていたことを思い出した人の驚きよりも、自分の中に見知らぬ誰かを見つけてしまったような不安があった。
「千鶴さん。朝からずいぶん熱心に、どなたをご覧になっているの?」
耳元で弾んだ声に、千鶴は慌てて前を向いた。
三原遥が、面白いものを見つけたときの顔で立っていた。三原財閥の長女である遥は、家柄に似合わず気取ったところがなく、教室の誰よりもよく笑い、思ったことをためらわず口にする。隣では、吉本男爵家の次女・奈緒美が申し訳なさそうに微笑み、そのさらに横で、九州の炭鉱業で財を成した山田家の三女・洋子が、校門の外を冷静に観察していた。
「今日から人力車なのですね」
奈緒美が控えめに言った。
「お祖父様とお祖母様が、どうしても歩かせてくださらないのです」
「問題は車ではなくて、車夫のほうでしょう」
遥は千鶴の肩越しに門外をのぞき込み、声を潜めるどころか、いっそう楽しそうに続けた。
「ずいぶん若い方ではありませんか。それに、あの髪。歌劇の役者みたい」
「遥さん、聞こえてしまいます」
奈緒美が袖を引いたが、遥は気にする様子もない。
四人が話している間に、朔は人力車を引いて通りの角を曲がっていった。
「もう車を引いて帰っていきました。聞こえるはずがないでしょう」
「髪よりも、立ち居振る舞いのほうが気になりました」
洋子が淡々と口を挟んだ。
「車夫として雇われた者なら、令嬢を前にして必要以上に萎縮するか、反対に愛想よく振る舞うものです。けれど、あの方にはどちらもなかった。礼は深いのに、卑屈ではありませんでした」
「洋子さんまで、そんなにご覧になっていたのですか」
「見ることと、浮かれることは別です」
遥が不満そうに眉を上げたが、始業を知らせる鐘が鳴り、四人は話を打ち切って校舎へ急いだ。
午前の授業は、国語、修身、英語と続いた。いつもなら教師の話を聞き漏らすことのない千鶴だったが、その日は英語の教本を開くたび、朔の声を思い出してしまった。
彼が読み上げたのは、表紙に記された短い一文にすぎない。それでも、発音には迷いがなく、文字を一つずつ確かめる様子もなかった。外国で長く暮らした者か、幼いころから外国人の教師について学んだ者なのではないかと、千鶴には思えた。
ところが朔は、自分が英語を読めることさえ知らなかった。
「六条さん」
名前を呼ばれ、千鶴は顔を上げた。教壇に立つ英語教師が、開いた教本を手にこちらを見ている。
「では、この一節を読んでください」
「はい」
千鶴は立ち上がり、指定された文章を読み始めた。間違いはしなかったものの、途中で一度だけ言葉に詰まった。授業が終わると、遥がすぐに机へ寄ってくる。
「珍しいこともあるものね。千鶴さんが授業中に上の空だなんて」
「少し考え事をしていただけです」
「若い車夫のことを?」
「違います」
千鶴はすぐに否定したが、自分でも驚くほど声が大きくなった。近くにいた生徒たちが何事かと振り向き、奈緒美が慌てて遥を窓辺へ連れていく。
昼休みになると、四人は中庭に面した廊下の端へ集まった。窓の外では、朝より強くなった風が桜の枝を揺らし、花びらを芝生の上へ散らしている。
「それで、その車夫がどうしたのですか」
遥に尋ねられ、千鶴は朝の出来事を話した。落ちかけた教本を左手で受け止めたこと、表紙の英文を流暢に読んだこと、そして本人には英語を学んだ記憶がないらしいこと。
話を聞き終えると、奈緒美は不安そうに両手を重ねた。
「記憶がないということですか」
「そうとは聞いていません。ただ、自分でも分からないとおっしゃっただけです」
「身分を隠しているのではなくて?」
遥は声を弾ませた。
「じつは外国帰りの華族の若様で、何か事情があって車夫に身をやつしているとか」
「読み物の見すぎです」
洋子は即座に退けたものの、少し考えてから付け加えた。
「けれど、英語を読める車夫が絶対にいないとは言いません。苦学する書生が学費を得るために車を引くこともあります。ただ、本人が学んだことを覚えていないという点は不自然です」
「帰りに聞いてみたらよいではありませんか」
「何をですか」
「あなたは何者ですか、と」
遥は簡単に言うが、千鶴にはそんなことを尋ねる勇気はなかった。第一、朔自身が答えを知らないのなら、問い詰めたところで困らせるだけである。
「いずれボストンからお帰りになる許婚より、先に車夫の素性が気になるなんて、妙な話ね」
その言葉に、千鶴の表情が曇ったことを、奈緒美は見逃さなかった。
「遥さん、そのお話は……」
「ごめんなさい。からかうつもりはなかったの」
遥はすぐに謝った。言葉は率直だが、人の痛みに鈍いわけではない。
千鶴が聞かされている限り、許婚の一条渉は、十二歳で米国へ渡ってから一度も帰国していなかった。手紙は両家の当主宛てに年に何度か届いていたものの、千鶴個人と言葉を交わしたことはなく、写真さえ送られてこなかった。
いつ帰国するのかも、帰国したあと本当に結婚するのかも、千鶴は大人たちから詳しく聞かされていない。渉は自分の夫になる人だと教えられてきたが、名前と家柄しか知らない相手を、どのように思えばよいのか分からなかった。
「気にしていません」
千鶴が笑うと、遥もようやく安心したように息をついた。
午後の授業を終えて校門を出ると、朝と同じ黒塗りの人力車が、少し離れた場所で待っていた。
朔は車の傍らに立ち、千鶴に気づくと姿勢を正した。朝に見た戸惑いは消えており、何事もなかったような落ち着いた表情に戻っている。
「お待たせいたしました」
「お帰りなさいませ」
車夫から女学生へかけるには、どこか不思議な言葉だった。遥が千鶴の後ろで目を丸くし、洋子は予想どおりだと言いたげに小さくうなずいた。
三人と別れた千鶴が人力車へ乗ると、朔は二本の梶棒を両手で取り、静かに車を引き始めた。
朝より雲が増え、風には雨の匂いが混じっている。しばらく進んだところで、道の向こうから外国人の男性が歩いてきた。片手に地図を持ち、通りすがりの人へ声をかけているが、言葉が通じず困っているらしい。
男は人力車に気づくと、朔へ早口の英語で何かを尋ねた。
朔は足を止めた。
ほんのわずかな沈黙のあと、朔は道の先を指し、短い英語で答えた。まっすぐ進み、二つ目の角を左へ曲がる――その程度の案内だったが、言葉は驚くほど自然に口から出ていた。外国人は表情を明るくし、礼を言って歩き去った。
再び人力車が動き始めても、千鶴はすぐに声をかけられなかった。
「今の方と、何をお話しになったのですか」
「停車場へ行く道を尋ねられました」
「やはり英語がお分かりになるのですね」
朔は返事をしなかった。梶棒を握る手に力が入り、右肩がかすかに強張った。
「申し訳ありません。責めているのではありません」
「分かっております」
「外国で暮らしていたことがあるのではありませんか」
「覚えていないのです」
風の音に消えそうな声だった。
「自分の名前も、生まれた場所も、家族の顔も。何一つ覚えておりません」
千鶴は言葉を失った。
朔という名は、車宿の主人が便宜のためにつけてくれたものだという。数か月前、横浜の波止場近くで意識を失っていたところを助けられ、目覚めたときには頭に治りかけた傷があった。しかし、なぜそこにいたのかは分からず、身元を示す物も見つからなかった。車宿の主人は警察へも届け出たが、分かったのは年齢のおおよそだけだった。朔は世話になった恩を返そうと懸命に働き、その働きぶりと礼儀正しさを認めた主人が、六条家の送り迎えを任せたのだという。
「怖くはありませんか」
千鶴が尋ねると、朔はしばらく黙ったまま車を引いた。
「怖いと思うことにも、慣れました」
穏やかな答えだった。それだけに、千鶴の胸には深く残った。
「でも、英語を忘れていなかったのなら、ほかのこともきっと思い出せます」
「そうでしょうか」
「ええ。覚えていないことと、失われてしまったことは、同じではないと思います」
朔が振り返りかけた。しかし走行中であることを思い出したのか、すぐに前を向いた。
「……思い出せる日が来ると、そう言ってくださった方は初めてです」
「わたくしには、そう思えるのです」
朔はそれ以上何も言わなかったが、先ほどまで強く握り締めていた梶棒から、わずかに力が抜けた。
六条家の門が見えてくるころ、とうとう細かな雨が落ち始めた。保と友子の心配は、結果として当たったことになる。
朔は門前へ車を止め、梶棒を下ろして車体が動かないよう支えながら、千鶴が降りるのを見守った。小春が傘を差して玄関から駆けてくる。
「今日はありがとうございました」
千鶴が礼を言うと、朔は深く頭を下げた。
「明朝も、お迎えに上がります」
「お待ちしています、朔さん」
千鶴が何気なくそう答えた瞬間、朔は驚いたように顔を上げた。
千鶴には、朔が遠い記憶の底から届く呼び声に、耳を澄ませているように見えた。しかし、雨に煙る門前で見つめ合ったのは、ほんの一瞬にすぎない。
千鶴は小春とともに屋敷へ入り、朔は再び梶棒を握った。
遠ざかる車輪の音を聞きながら、千鶴は胸の中で、朝にはなかった問いを繰り返していた。
朔という名を与えられる前、あの人は、いったい誰だったのだろう。
*
同じころ、一条家の書斎では、当主の一条守が、机を挟んで家令の報告を受けていた。
「横浜の波止場から周辺の船宿、病院、警察署まで、もう一度調べました。身元不明者が保護された記録はいくつかございましたが、すでに立ち去った者も多く、十二歳当時のお写真では渉様と確認できませんでした」
「船には確かに乗っていたのだな」
「乗船名簿で確認しております。お荷物も船室に残されていました。ただ、入港後の混雑の中で、いつ船を離れられたのか分かっておりません」
守は厳しい顔を崩さなかったが、机の上に置かれた指は固く握られていた。逓信大臣として多くの官吏を率いる立場にありながら、行方を失った息子一人を見つけられない。その事実が、何よりも彼を苛立たせていた。
「捜索を続けろ。費用はいくらかかっても構わん」
「承知いたしました」
「六条家には、どう伝えてある」
「保様と睦様にのみ事情をお知らせしております。千鶴様には、渉様が無事に見つかるまで伏せていただくようお願いしてございます」
守は重くうなずいた。顔も知らない許婚が行方不明だと聞かせても、十六歳の娘をいたずらに不安にさせるだけだと判断したのである。
家令が退室すると、それまで窓辺に立っていた妻の美子が、古い写真を胸に抱いたまま振り返った。普段は家の空気を明るくする天真爛漫な美子も、今は笑顔を失っている。
写真に写っているのは、渡米直前、十二歳の渉だった。
「九年も写真を送ってこなかったことを、もっと強く叱っておけばよかったわ。今のあの子の顔を、母親の私でさえ知らないのですもの」
「後悔しても始まらん」
守はそう言い切ったが、その声にはいつもの力がなかった。
「必ず見つける。一条家の者を、このまま行方知れずにしておくわけにはいかん」
美子は写真の中の少年を、指先でそっと撫でた。
一条家が総力を挙げて探している青年は、その日、六条家の令嬢を人力車に乗せ、雨の帝都を走っていた。
けれど、彼自身も、一条家の誰一人としても、まだその事実を知らなかった。




