第一話 名もなき車夫
前書き
大正の帝都を舞台に、華族の令嬢と一人の車夫が心を通わせていく、身分違いの恋物語です。
幼い日に命を救ってくれた「桜の兄さん」を忘れられない六条千鶴と、自らの名前も過去も失った車夫・朔。日々の送り迎えを重ねるうち、二人の間には、身分を越えた静かな想いが芽生えていきます。
車夫には似つかわしくない教養と気品、古傷の残る右腕、そして記憶の奥に舞う桜の花びら。
失われた記憶と十三年前の出会いが、二人をどのような運命へ導くのか。
『忘れじの桜――六条令嬢と記憶なき車夫――』
全二十話の大正浪漫恋物語を、最後まで見届けていただけましたら幸いです。
第一話 名もなき車夫
「人力車など、いりません」
朝餉の席で千鶴がそう言うと、先代当主の六条保は、新聞からゆっくり顔を上げた。
「女学校まで歩くつもりか」
「歩いても二十分ほどです。三原さんも吉本さんも、毎朝歩いて通っています」
「三原家と吉本家には、それぞれの考えがある。六条家には六条家の考えがある」
「お祖父様の考えではありませんか」
千鶴が唇を尖らせると、隣に座っていた祖母の友子が、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな顔をした。
保は七十五歳になった今も貴族院議員を務めている。屋敷を訪ねてくる役人や政治家を前にすれば、穏やかな声だけで相手を黙らせるほどの威厳があった。しかし、その威厳も孫娘にはほとんど通用しない。
そして友子もまた、夫をたしなめるどころか、孫娘を人力車へ乗せることには全面的に賛成していた。
「千鶴さん。朝は元気でも、お帰りのころにはお疲れになるかもしれませんよ」
「授業を受けただけで、歩けなくなったりいたしません」
「風が強くなるかもしれません」
「庭の木は少しも揺れていません」
「午後から雨になることもあります」
千鶴は窓の外を見た。春の空には薄い雲が浮かんでいるだけで、雨の気配などどこにもない。
助けを求めるように母へ目を向けると、六条睦は味噌汁の椀を手にしたまま、のんびりと庭を眺めていた。
睦は六条家の長女として生まれ、今は家のことを取り仕切っている。十六歳になる千鶴の母とは思えないほど若々しく、三年前に夫を亡くしてからも、家族や使用人の前では穏やかな笑顔を絶やさなかった。
細かなことを気にしない、おおらかな性格である。言い換えれば、こうした言い争いでは、あまり頼りにならない。
「お母様は、どう思われますか」
娘に問われた睦は、ようやく窓から視線を戻した。
「そうね。歩きたいのなら、歩けばよいのではなくて?」
「睦」
保が低い声で名前を呼んだ。
「でも、お父様とお母様がそこまでご心配なら、人力車に乗って差し上げてもよいと思います」
「結局、どちらなのですか」
「どちらでもよいのです。千鶴が機嫌よく女学校へ行けるのでしたら」
睦はそう言って、にこやかに笑った。
千鶴は小さく息を吐いた。母に判断を委ねた自分が間違っていたらしい。
祖父母がこれほど心配するのには、理由があった。
千鶴は睦の一人娘である。そして父は、三年前の事故ですでに亡くなっていた。
父は柳原男爵家の三男として生まれ、帝国大学を卒業したのち大蔵省へ入った。六条家へ婿入りしてからも官僚として働き続けていたが、地方視察へ向かう途中で事故に遭い、二度と屋敷へ帰ってこなかった。
それ以来、祖父母は千鶴を以前にも増して大切にするようになった。
もっとも、二人が過保護になった原因は、それだけではない。
「分かりました。今日は人力車で参ります」
千鶴が折れると、保は満足そうに新聞を畳んだ。
「それがよい。帰りも同じ車を向かわせる」
「帰りくらいは歩かせてください」
「ならん」
「まだ何も起きていません」
「何か起きてからでは遅い」
保の言葉に、千鶴は反論できなかった。
祖父の脳裏には、十三年前の出来事が今も残っているのだろう。
千鶴が三歳だった春の日、庭の桜へ登り、枝とともに落ちた事故である。
木の下を偶然通りかかった少年がいなければ、千鶴は命を落としていたかもしれない。少年は落ちてきた千鶴を受け止め、自分が下敷きになることで彼女を守った。
千鶴には、そのときの記憶がほとんど残っていない。
折れた桜の枝。土の匂い。自分を抱き締める、小さな腕。
少年の右腕から血が流れていたことと、破れた着物の肩口から、桜の花に似た痕が見えていたことだけは、今も断片的に覚えている。
少年の顔も、名前も分からない。
ただ、泣き続ける千鶴に向かって、痛みをこらえながら笑ってくれた。その優しい声の感触だけが、十三年を経た今も心の奥に残っていた。
千鶴はその少年を、ひそかに「桜の兄さん」と呼んでいる。
「お嬢様、お支度が整いました」
女中の小春が食堂の入口から声をかけた。
時計を見れば、のんびりしている暇はない。千鶴は祖父母と母に挨拶を済ませると、急いで玄関へ向かった。
門前には、黒塗りの人力車が一台止まっていた。
磨かれた車体には朝の光が映り、座席には清潔な膝掛けが置かれている。祖父が長く付き合っている車宿へ頼み、六条家の送り迎えにふさわしい車を用意させたらしい。
その前に、見慣れない若い車夫が立っていた。
年は二十歳を少し過ぎたくらいだろう。日に焼けた顔は細く引き締まり、背が高い。清潔な紺の半纏に股引という車夫らしい姿だったが、癖の強い長い髪を首の後ろでひとつに束ねているため、ひどく目立っていた。
千鶴が玄関を出ると、男は帽子を取り、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
その挨拶に、千鶴はわずかな違和感を覚えた。
言葉遣いだけではない。頭の下げ方にも、立ち上がるときの姿勢にも、車夫らしからぬ落ち着きがある。華族の屋敷へ出入りすることに慣れているというより、幼いころから礼儀を教え込まれているように見えた。
「今日から、わたくしを送ってくださる方ですか」
「はい。車宿の主人から申しつかりました」
「お名前は?」
男は一瞬、答えをためらった。
「朔と申します」
「朔さん」
千鶴がその名を繰り返すと、朔は顔を上げた。
二人の視線が重なった。
その瞬間、千鶴の胸の奥を、説明のできない感覚が通り過ぎた。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい。
けれど、どれほど記憶を探っても、目の前の男につながるものは見つからなかった。三歳のころに見た少年の顔など、千鶴はもう覚えていない。
「お嬢様、そろそろお時間です」
小春に促され、千鶴は我に返った。
朔は左手で車の足掛けを確かめると、千鶴が乗りやすいよう車体をしっかり支えた。小春の手を借りて千鶴が座席へ上がると、今度は左手で膝掛けを整え、静かに一歩退く。
そこで千鶴は、朔の右肩がわずかに下がっていることに気づいた。
朔は車体の前へ回り、前方へ伸びた二本の梶棒を両手で握った。右手も動いてはいるが、力を入れた瞬間、その横顔にかすかな苦痛が浮かんだ。
それでも朔は何も言わず、車体の均衡を確かめると、ゆっくり人力車を引き始めた。
門の前では、保と友子が並んで見送っている。
「行ってまいります」
千鶴が小さく手を振ると、祖父母もいつまでも手を振り返した。隣に立つ睦だけが、いつもの穏やかな笑顔で娘を見送っている。
小春は屋敷に残った。
道中は人通りも多く、信用ある車宿から寄越された車夫が送り迎えをする。保も、さすがに女中を別の車へ乗せて後に続かせることまではしなかった。
朝の町には、さまざまな音が満ちていた。
新聞売りの声。商家が雨戸を開ける音。路面電車が遠くで鳴らす鐘。洋装の勤め人と着物姿の女たちが行き交い、その間を自転車が軽快に走り抜けていく。
朔の引く人力車は、驚くほど揺れが少なかった。
道のくぼみや石を早めに見つけ、車輪が大きく傾かないよう進路を変えている。速すぎず、かといって遅くもない。初めて走る道ではないのかと思うほど、朔は迷いなく車を進めていた。
「右腕を、怪我なさっているのですか」
千鶴が後ろから尋ねると、朔の足が一瞬だけ鈍った。
「昔の怪我です」
「人力車を引いて、お痛みにはなりませんか」
「もう慣れております」
「そうですか」
それ以上尋ねるのは失礼だと思い、千鶴は口を閉じた。
けれど、傷ついた右腕を見たせいだろうか。
折れた桜の枝と、自分を守ってくれた少年の姿が、また胸の奥に浮かんだ。朔とその少年では、年も姿も違う。それなのに、なぜか同じような寂しさを感じた。
女学校の近くまで来ると、生徒たちの姿が増えてきた。
千鶴は校門の前まで車を着けられるのが恥ずかしくなり、少し手前で止めてもらうことにした。
朔が梶棒を静かに下ろし、人力車を安定させる。千鶴が降りようとしたとき、膝の上に置いていた英語の教本が滑り落ちた。
朔は反射的に左手を伸ばし、地面へ落ちる前に受け止めた。
「ありがとうございます」
千鶴へ返そうとした朔の目が、表紙に記された英語の題名で止まった。
そして、考えるより先に口が動いたように、題名を小さく読み上げた。
その発音は、女学校の教師が手本として聞かせるものより、はるかに滑らかだった。
「朔さんは、英語がお分かりになるのですか」
千鶴が尋ねると、朔は驚いたように教本を見つめた。
「英語……」
もう一度読もうとしたのか、唇がかすかに動く。
しかし、今度は声にならなかった。
「申し訳ございません。私にも、よく分かりません」
朔は戸惑いを隠せないまま、左手で教本を差し出した。
「分からないのに、読むことができたのですか」
千鶴の問いに、朔は答えなかった。いや、答えを持っていないように見えた。
校門のほうから、千鶴を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、三原遥が大きく手を振り、その隣には吉本奈緒美と山田洋子も立っている。
「それでは、帰りもお願いいたします」
「承知いたしました」
千鶴は三人のもとへ向かった。
数歩進んだところで、どうしても気になって振り返る。
朔は人力車のそばに立ったまま、自分の左手を見つめていた。その顔には、英語を読めた驚きだけではない、何かを恐れているような影が浮かんでいる。
やがて彼は、遠ざかる千鶴の後ろ姿へ目を向けた。
その瞬間、朔の脳裏に、白い光のようなものが走った。
折れる枝。
舞い散る桜。
泣きながら落ちてくる、小さな女の子。
右腕の奥に、古い痛みがよみがえった。
朔は思わず肩を押さえた。しかし、浮かんだ光景は、つかみ取る間もなく消えてしまった。
あとに残ったのは、理由の分からない胸の苦しさだけだった。
春の風が吹き、道に落ちていた桜の花びらを一枚、朔の足元へ運んできた。




