夜更けにカフェラテを
愛情とは呪いだと思う。
一人っ子として生まれたオレは、両親の愛情を一心に受けてすくすく育った。
早期教育。
情操教育。
体験学習。
地方生まれで商社に入った父さんと、専業主婦の母さんはオレに考え付く限りの教育を施した。すべては良い大学に入るために。
オレは、その敷かれたレールに不満はなかった。十七歳の今日まで。
きっかけは初めてもらったラブレター。相手はクラスで一番可愛い子。引き出しの中にそっと隠しておいたのになぜか今日その手紙を母さんは握りしめて震えていた。
「汚らわしい。こんな子とは早く縁を切りなさい。受験の妨げになる」
顔を真っ赤にし、震える母さんの顔は今まで見たこともないほど醜く歪んでいた。この顔、どこかで見たことある。祭りで見た般若の面。
「返せよ、それ」
「嫌よ、マコトちゃんいつからママに反抗するようになったの!?」
般若ははらはらと涙を流し、フローリングの床に崩れ落ちた。
オレは、何か言いたかったが言葉を飲み込み、手紙を取り返す代わりに家を出た。
「っつっても行く場所も金もないしな……」
小さなつぶやきが夜風に溶けて消える。
アルバイトをしてみたかったが受験のためにと反対された。欲しいものはその都度買って貰えたが、現金は必要以上には渡されない。オレの財布の中身、二万三千六百三十一円。
「寒いし、とりあえずどっか入るか」
見渡すが、この辺はスタバもマクドナルドもない。代わりといっては何だが、一件の古びたカフェが目に入った。
「こんな店あったっけ……」
灯りに吸い寄せられる虫のように、フラフラとその店に足が向く。古びた木製の外観、壁にはツタが絡まっていて、ガラス張りの窓からはオレンジ色の暖かな光が漏れている。
――チリン。
気が付けばドアを押し開いていた。
「いらっしゃい、カウンターでいいかい?」
白髪で白ひげを蓄えた、黒いエプロン姿のいかにもマスターという男性がカウンター越しに声をかける。
「あ……はい」
黙って頷くと、カウンターの真ん中の席の椅子に座るよう促された。
赤い布張りのスツールは塾帰りに行くようなチェーン店とは全然違って大人の臭いがして、わずかに背筋が伸びる。
――チリン。
「ヤマさん、いらっしゃい」
八十歳くらいだろうか、ストライプのスーツ姿で細身、ぴかぴか光る革靴を履いた老人はマスターの声に軽く手を上げる。驚くほど姿勢がいい。席は沢山空いているのに、迷うことなくオレの右横のスツールに腰かけた。
「いつもの」
「はいよ」
常連、ってやつだろうか。なんだかカッコいい。
「お兄さんは?」
マスターに注文を促される。
「えーっと、カフェラテで」
「はいよ、ホット?」
「はい」
マスターが豆を挽く音と店のBGMのピアノ曲だけがゆったりと流れる。ここだけ、コーヒーの匂いに切り取られた別世界みたいだ。
「お兄さん学生?」
ふいに隣の老人に話しかけられた。
「あ……はい」
「こんな時間に珍しいね。親御さん心配しないのかい?」
「母親と……、喧嘩したんです。それで勢いで家出ちゃって」
喧嘩? あれは喧嘩だったんだろうか? 自分の台詞に頭の中で自問自答が始まる。
「そう」
老人はふいっと、目を細めた。
「よかったら理由を聞かせてくれないかな?」
店の中で流れるフライミートゥーザムーンがやけに大きく感じる。
「母親に、女の子からの手紙勝手に見られて泣かれたんです」
「そうか。それで、君はどうしたんだい?」
「どうもこうも……いたたまれなくなって気が付いたら家出ちゃいました」
「そうか」
老人の目尻がくいっと下がり、目尻に一段深いしわが刻まれた。
「ブレンドコーヒーです」
老人の前に、コーヒーカップが置かれる。白地に青い繊細な模様が付いたカップに香ばしい香りを放つ液体がなみなみと注がれている。
老人は、そのカップを背筋を伸ばしたまま指で持ち手を摘まみ、一口飲む。
「カフェラテです」
オレの前にもコーヒーカップにはいった茶褐色の液体が置かれた。泡の部分はハート形のラテアート。
オレは目の前のシュガーポットから砂糖を掬い上げそのハートの上にぶちこんだ。一杯、二杯、三杯。
「例え子供でも、秘密を守る権利がある」
老人はぽつりとつぶやいた。
「君は権利を侵害されて怒ってる……違うか?」
「怒ってる……そうかもしれません。怒鳴ったりはしてませんが……」
カフェラテをぐるぐるとかき回す。ハートの線が泡と混ざり合いぐちゃぐちゃだ。
「君は怒りをお母さんにぶつけず、そこを離れることを選んだ」
「選んだっていうか、逃げただけですよ。どうしたらいいかわからなくて」
カフェラテを一口飲む。溶けきれないざらりとした砂糖の甘さとコーピーの苦み、ミルクの味が混ざり合う。
「逃げることは悪いことじゃない。自己防衛だよ」
老人はコーヒーをもう一口飲んだ。
「君も、君のお母さんも自立のときなのかもしれないね」
「オレだけでなく……母親も?」
「そう」
オレはコーピーカップに目を落とした。飲みかけのカフェラテの表面がゆらゆらと揺れる。
「ときには愛情から逃げたって良い。重すぎる愛情は人間を窒息させるから、なあマスター」
「ええ」
マスターがグラスを拭きながら微笑んだ。
「窒息……」
「そうだ、まずは自分の気持ちを大切に、な。その次がお母さんの気持ち。順番を間違えなければ大丈夫」
老人はまたコーヒーを一口。
「まだ若いんだ。考える時間はいっぱいある」
「自分の気持ち……そんなこと考えたことなかったです」
ふいに何かがこみ上げ、慌てて残りのカフェラテを流し込んだ。カップの底に、泡と溶けきれない砂糖が残る。
「ありがとうございました。お会計を」
「はい、六百二十円です」
立ち上がってマスターにレジで小銭を渡す。
「お兄さん、またおいで。男には時に逃げ場所が必要だ」
「はい、失礼します」
――チリン。
会釈と共に扉を開けると、冬の風が頬を刺した。
「自分の気持ちを大切に……か」
老人に言われた台詞が、カップに残った砂糖みたいに自分の中に沈み込んでいる。
沸き上がるこの感情の名前が分からないまま、オレは家に戻る道を歩き出した。




