Case-M #6
朝の空気は、まだ薄い。
薄いのに、ちゃんと吸える。
吸えるのに、どこかで息の仕方を忘れそうになる。
俺はベッドの端に腰掛けて、タグを指で撫でた。
冷たい金属が、指先の熱だけ拾ってくる。
——ミナト。
部屋の中に窓はない。
光の代わりに、規則正しい灯りが落ちている。
ここに"朝"があること自体が、よく分からないのに。
ノックが二回。
「起きてる?」
レイヴの声。
軽い。昨日と同じ軽さ。——でも、その軽さが"手順の合図"になってるのが、少し怖い。
「起きてる。入っていいよ」
「よし。じゃ、朝の手順、続き」
開いた扉から入ってきたレイヴは、今日も笑っていた。
笑っているのに、視線が先に俺の喉元に落ちるのが分かる。
俺は反射で笑ってごまかした。
「なに、俺の首、そんなに変?」
「変じゃない。……ただ、熱い日があるから」
「言い方」
「いや、これ、普通に心配のやつ。……ミナト、最近、息が上がりやすいでしょ。胸の方で詰まって、喉が乾くやつ」
図星だった。
だから俺は笑った。
「俺、けっこう器用に生きてきたつもりなんだけどなあ」
「器用な人ほど崩れるの早いよ」
「やめろよ、怖いこと言うな」
「怖いこと言ってない。……だから、提案」
提案。
命令じゃない。
そう言うだけで、俺の中の"拒否する気力"が先に溶ける。
レイヴはポケットから自分の端末じゃなく、俺のスマホを指差した。
「安定化施策。スマホのメモに日記、書いてみ」
「日記?」
「うん。今の自分の状態、言葉にしておくやつ」
その言い方が、妙に優しいのが腹立つ。
「……それ、帰還に関係ある?」
俺がそう聞くと、レイヴは笑顔のまま少し首を傾げた。
「関係ある、って言えばミナトはやる?」
「……やるかも」
「でしょ。じゃ、関係ある」
ずるい。
軽口の形で、俺を動かしてくる。
「でもさ、俺、日記とか続いた試しないんだけど」
「続けなくてもいい。今日だけでもいい」
「今日だけって、絶対明日も言うやつじゃん」
「明日も言うかも。でも、命令しない。提案」
レイヴは指を立てた。
「大事なのはこれ。"誰も見ないから""自分のため"。……ね?」
誰も見ない。
自分のため。
俺は一瞬、言葉の裏を疑いかけた。
疑いかけて、すぐやめた。
(疑ったら、ここでは生きづらい)
俺は頷いて、スマホを手に取った。
「分かった。書く。……書けば、落ち着くの?」
「落ち着くことが多い。言葉にすると、頭が整理できるから」
レイヴは肩をすくめて、軽く付け足した。
「あと、俺が"ミナトの今"把握しやすい」
「え」
さらっとしすぎている。
俺が瞬いた瞬間、レイヴは笑って手を振った。
「冗談。ほら、"誰も見ない"」
冗談。
そういうことにしておかないと、ここでは笑えなくなる。
だから、俺は笑った。
「冗談下手かよ」
「下手。だから日記書いて。下手でもいいから」
優しいのに、手順が増えた。
俺はそれを"ケア"として受け取ってしまう。
受け取った瞬間、何かの鍵が内側からかかった気がした。
*
メモを開く。
白い画面が、やけに眩しい。
外は見えないのに、画面の白だけが現実みたいに刺さる。
タイトルを付ける。
——日記。
そして俺は、自然に最初の行に打った。
『湊』
指が迷わないのが、少し安心だった。
ここに来ても、まだ"湊"は打てる。
俺は息を吐いて、続きを書く。
『今日も朝が来た。
こっちは窓がなくて、朝っぽい光は分からないけど、食堂で温かいものが出るから朝なんだと思う。
パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』
自分で書いて、自分で笑ってしまった。
『外に連絡できないのは、まだ慣れない。
圏外っていうか、送れないっていうか、繋がらない。
でも写真とか動画は見られる。
見られるのに繋がらないのが、一番くる。』
画面の文字が、少し滲む。
涙じゃない。目が乾いてるだけだ。
『圭介の動画、音が変だ。
映像は普通なのに、音だけ小さい。
名前のところ、抜ける。
口は動いてるのに、そこだけ聞こえない。
俺のスマホがおかしいのか、俺の頭がおかしいのか分からない。』
そこで一回止めた。
息を吸った。
喉が渇く。
渇くのに、昨日より息はできる。
それが怖い。
『レイヴが、呼吸の練習を提案してくる。
やると楽になる。
楽になるのに、楽になる。
昨日、昼にちょっと崩れて、戻してもらった。
"戻すだけ"って言われた。』
戻すだけ。
その言葉がまだ胸に残っている。
『俺は帰りたい。
でも、帰るために協力するって言うと、なんか、いい子みたいで嫌だ。
……いや、俺はたぶん、元々そういうとこある。
いい子でいる方が楽だった。』
書いているうちに、胸が少しだけ軽くなる。
言葉にすると、確かに整理される。
整理されると、息が浅くならない。
俺は最後にもう一度打った。
『湊』
署名。
アンカー。
俺はスマホを伏せて、肩の力を抜いた。
*
——その頃。
ミナトの知らない場所で、端末が小さく震える。
通知。
「安定化ログ:更新」。
レイヴは廊下の角で立ち止まった。
片手で端末を持ち、もう片方の指先で画面を滑らせる。
監督ツールの画面は、淡々としている。
危険兆候。睡眠。呼吸の乱れ。——そして、メモの更新。
必要な範囲だけ見る。
そのつもりだった。
『パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』
そこだけ妙に、目に入った。
(……なんだそれ)
笑いそうになる。
でも笑うのは"仕事中"だ。
次の行。
『見られるのに繋がらないのが、一番くる。』
その文字で、レイヴの親指が止まる。
表示は淡々としている。チェックを付ける。
業務。確認。
——そう言いながら、画面から視線が離れない。
"湊"と署名された文字列を、レイヴは一回だけ、長く眺めてしまった。
*
日中、俺はまたスマホを開いた。
やめとけばいいのに、動画を見てしまう。
圭介が笑っている。
圭介の隣に翔太。
健二がカメラを揺らしてる。
俺は画面の中で、確かに外にいる。
音が——途切れる。
小さい。
ノイズが混じる。
"名前"のところだけ、また抜けた。
胸がぎゅっと縮んで、息が浅くなる。
浅くなると、喉元が熱くなる。
(また、だ)
俺は反射で喉に触れた。
指先に熱が返ってくる。
息紋が出てるのかもしれない。
でも鏡を見るほどじゃない。
見たら確定してしまう。
俺は笑った。
「……気のせい、気のせい」
気のせいで済ませる癖が、ここでは役に立つ。
役に立つのが嫌だ。
*
夕方、レイヴが廊下で俺に追いついた。
「ミナト、今日どう?」
「どうって?」
「息。喉。……日記」
日記、と言われると、俺は肩をすくめる。
「書いたよ。……誰も見ないんでしょ?」
わざと明るく言う。
"信じてる"って顔をする。
レイヴは笑った。
いつもの軽薄な笑顔。
「うん。誰も見ない」
嘘は言ってない、みたいな言い方だった。
「じゃあ安心」
「うん、安心」
安心、って言葉が、ここでは危ない。
危ないのに、俺はそれを口にしてしまう。
レイヴは手をひらひらさせた。
「続けられそう?」
「無理」
「即答」
「俺の自己評価は正しい」
「正しい。……でも、続けなくてもいい。書きたくなったら書いて。苦しくなったら書いて」
苦しくなったら。
それがまた、手順の合図になる。
俺は口元だけ笑った。
「俺、苦しくならないように頑張るわ」
「頑張り方、間違えると苦しくなるよ」
「やめろよ」
「やめない。……でも、命令しない。提案」
レイヴはまた"提案"で締めた。
提案なら、俺は受け取ってしまう。
受け取って、正しいことにしてしまう。
*
夜になると、昼の明るさが剥がれた。
部屋の灯りは変わらない。
でも俺の中の"笑い"だけが薄くなる。
スマホを開く。
圏外。
外部連絡不可。
動画の音は、また薄い。
胸が詰まる。
息が浅くなる。
浅くなるたびに、喉の奥が何かを欲しがる。
名前のつけ方が分からないまま、でも身体は知っている。
温い。近い。深く吸い込んだ後の感覚。
喉元が、熱くなる。
(……呼ぶ?)
タグに指が伸びる。
握ると冷たい。
冷たいのに、指先だけ熱い。
俺は一回、深く息を吐いて、メモを開いた。
日記。
安定化施策。
自分のため。
——なのに、書く前に、指が止まる。
(呼んだ方が早い)
その考えが、もう"癖"みたいに馴染みかけている。
ノックは二回。
俺が呼ぶより先に、レイヴが来た。
「起きてる?」
声が軽い。
その軽さが救いになる。
「起きてる」
「じゃ、短く整えよ。……今日は、ちょい早めに」
早めに。
夜の手順が前倒しになる。
俺は肩をすくめた。
「俺、そんなにやばい顔してた?」
「してた」
「即答やめろ」
「即答する。やばいから」
レイヴが椅子を引く。
俺の前に座る。
距離が近い。近いけど触れない。
それが、余計に意識させる。
「吸って、吐いて。……俺の数、聞いて」
俺は頷く。
吸う。
吐く。
数を数える声が、頭の中の騒ぎを短くする。
短くなると、次に来るのは"渇き"だ。
喉が渇く。
渇くほどに、喉の奥が深く吸い込んだ感覚を繰り返す。
さっきまで名前のなかった欲しがりが、形を持ち始める。
——吸いたい。
言えない。
言うほどじゃない。
……でも、身体が先に前に出る。
俺の呼吸が乱れかけた瞬間、レイヴが少しだけ顔を近づけた。
「ミナト、戻ろ。……無理にじゃない。ちょい、近くするだけ」
提案。
同意に見える形。
吐息が近い。
頬が熱い。
上気が上がって、耳まで熱くなる。
俺は思わず吸った。
吸い込んだのは空気だけ——のはずなのに、
喉が鳴って、胸が落ちる。
ごく、って。
微量。
未遂に近いのに、体が"整う"方向へ落ちた。
レイヴはすぐ距離を引いた。
触れないまま、ギリギリで止める。
「……はい。戻った」
戻った。
その言葉で、俺は口元が緩んだ。
「……戻った、って何だよな」
「戻ったは戻った。ミナト、今、ちゃんと息できてる」
俺は頷く。
息ができてる。
できてるのに、喉の渇きだけが残る。
俺はそれが怖くて、それでも笑った。
「俺、これ、慣れてきてない?」
「慣れるのは悪いことじゃない」
悪いことじゃない。
そう言われると、俺は"正しい"と思ってしまう。
*
レイヴが帰った後、俺はメモを開いた。
書けば落ち着く。
そう言われたからじゃない。
自分でそう思い始めているのが怖い。
タイトルは同じ。
指が、最初の行に行く。
『湊』
——と打ち始めて。
一瞬、止まった。
指先が画面の上で固まる。
なんで止まったのか分からない。
"湊"は俺だ。
ずっとそうだった。
書ける。
なのに。
止まった後に、喉元がじん、と熱を持った。
(……なに)
俺は軽く息を吐いて、続けた。
今日はまだ、"湊"で書ける。
『湊
日記って、案外書ける。
書くと落ち着くの、悔しい。
でも落ち着く。』
そのまま数行、今日のことを短く書く。
動画の音が変なこと。
息が浅くなったこと。
整えたこと。
書き終えて、スマホを伏せた。
画面の上には、タグの文字。
——ミナト。
俺は目を閉じた。
喉元の熱が、薄く残っている。
*
(レイヴ)
端末が震えた。
「安定化ログ:更新」。
レイヴは廊下の角で立ち止まる。
確認する。それだけだ。
監督ツールを開く。
『湊
日記って、案外書ける。』
そこだけで、息が一拍遅れる。
自分に言い聞かせる。必要な範囲だけ見ればいい。
睡眠と不安と呼吸の乱れ。危険兆候。
でも、指が動かない。
"湊"と署名された文字が、きれいに並んでいる。
その整然さが、妙に胸に来た。
レイヴは笑う。
(俺、真面目すぎ)
そう言いながら、画面を閉じない。
画面から目を離そうとして、離せない。
もう一度、署名の行に戻る。
"湊"。
指先がその文字の上で止まって、そのまま軽く触れた。
ガラスの向こうにある、ただの文字。
(まだ、湊だ)
そう思って——少しだけ息が楽になった。
それが業務じゃないことを、
レイヴはまだ、ちゃんと知らないふりをしていた。




