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異界の境界施設  作者:
Case-M

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7/17

Case-M #6


 朝の空気は、まだ薄い。


 薄いのに、ちゃんと吸える。

 吸えるのに、どこかで息の仕方を忘れそうになる。


 俺はベッドの端に腰掛けて、タグを指で撫でた。

 冷たい金属が、指先の熱だけ拾ってくる。


 ——ミナト。


 部屋の中に窓はない。

 光の代わりに、規則正しい灯りが落ちている。

 ここに"朝"があること自体が、よく分からないのに。


 ノックが二回。


「起きてる?」


 レイヴの声。

 軽い。昨日と同じ軽さ。——でも、その軽さが"手順の合図"になってるのが、少し怖い。


「起きてる。入っていいよ」


「よし。じゃ、朝の手順、続き」


 開いた扉から入ってきたレイヴは、今日も笑っていた。

 笑っているのに、視線が先に俺の喉元に落ちるのが分かる。


 俺は反射で笑ってごまかした。


「なに、俺の首、そんなに変?」


「変じゃない。……ただ、熱い日があるから」


「言い方」


「いや、これ、普通に心配のやつ。……ミナト、最近、息が上がりやすいでしょ。胸の方で詰まって、喉が乾くやつ」


 図星だった。

 だから俺は笑った。


「俺、けっこう器用に生きてきたつもりなんだけどなあ」


「器用な人ほど崩れるの早いよ」


「やめろよ、怖いこと言うな」


「怖いこと言ってない。……だから、提案」


 提案。

 命令じゃない。

 そう言うだけで、俺の中の"拒否する気力"が先に溶ける。


 レイヴはポケットから自分の端末じゃなく、俺のスマホを指差した。


「安定化施策。スマホのメモに日記、書いてみ」


「日記?」


「うん。今の自分の状態、言葉にしておくやつ」


 その言い方が、妙に優しいのが腹立つ。


「……それ、帰還に関係ある?」


 俺がそう聞くと、レイヴは笑顔のまま少し首を傾げた。


「関係ある、って言えばミナトはやる?」


「……やるかも」


「でしょ。じゃ、関係ある」


 ずるい。

 軽口の形で、俺を動かしてくる。


「でもさ、俺、日記とか続いた試しないんだけど」


「続けなくてもいい。今日だけでもいい」


「今日だけって、絶対明日も言うやつじゃん」


「明日も言うかも。でも、命令しない。提案」


 レイヴは指を立てた。


「大事なのはこれ。"誰も見ないから""自分のため"。……ね?」


 誰も見ない。

 自分のため。


 俺は一瞬、言葉の裏を疑いかけた。

 疑いかけて、すぐやめた。


 (疑ったら、ここでは生きづらい)


 俺は頷いて、スマホを手に取った。


「分かった。書く。……書けば、落ち着くの?」


「落ち着くことが多い。言葉にすると、頭が整理できるから」


 レイヴは肩をすくめて、軽く付け足した。


「あと、俺が"ミナトの今"把握しやすい」


「え」


 さらっとしすぎている。


 俺が瞬いた瞬間、レイヴは笑って手を振った。


「冗談。ほら、"誰も見ない"」


 冗談。

 そういうことにしておかないと、ここでは笑えなくなる。


 だから、俺は笑った。


「冗談下手かよ」


「下手。だから日記書いて。下手でもいいから」


 優しいのに、手順が増えた。


 俺はそれを"ケア"として受け取ってしまう。

 受け取った瞬間、何かの鍵が内側からかかった気がした。





 メモを開く。


 白い画面が、やけに眩しい。

 外は見えないのに、画面の白だけが現実みたいに刺さる。


 タイトルを付ける。

 ——日記。


 そして俺は、自然に最初の行に打った。


『湊』


 指が迷わないのが、少し安心だった。

 ここに来ても、まだ"湊"は打てる。


 俺は息を吐いて、続きを書く。


『今日も朝が来た。

 こっちは窓がなくて、朝っぽい光は分からないけど、食堂で温かいものが出るから朝なんだと思う。

 パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』


 自分で書いて、自分で笑ってしまった。


『外に連絡できないのは、まだ慣れない。

 圏外っていうか、送れないっていうか、繋がらない。

 でも写真とか動画は見られる。

 見られるのに繋がらないのが、一番くる。』


 画面の文字が、少し滲む。

 涙じゃない。目が乾いてるだけだ。


『圭介の動画、音が変だ。

 映像は普通なのに、音だけ小さい。

 名前のところ、抜ける。

 口は動いてるのに、そこだけ聞こえない。

 俺のスマホがおかしいのか、俺の頭がおかしいのか分からない。』


 そこで一回止めた。

 息を吸った。

 喉が渇く。


 渇くのに、昨日より息はできる。

 それが怖い。


『レイヴが、呼吸の練習を提案してくる。

 やると楽になる。

 楽になるのに、楽になる。

 昨日、昼にちょっと崩れて、戻してもらった。

 "戻すだけ"って言われた。』


 戻すだけ。

 その言葉がまだ胸に残っている。


『俺は帰りたい。

 でも、帰るために協力するって言うと、なんか、いい子みたいで嫌だ。

 ……いや、俺はたぶん、元々そういうとこある。

 いい子でいる方が楽だった。』


 書いているうちに、胸が少しだけ軽くなる。

 言葉にすると、確かに整理される。

 整理されると、息が浅くならない。


 俺は最後にもう一度打った。


『湊』


 署名。

 アンカー。


 俺はスマホを伏せて、肩の力を抜いた。





 ——その頃。


 ミナトの知らない場所で、端末が小さく震える。


 通知。

 「安定化ログ:更新」。


 レイヴは廊下の角で立ち止まった。

 片手で端末を持ち、もう片方の指先で画面を滑らせる。


 監督ツールの画面は、淡々としている。

 危険兆候。睡眠。呼吸の乱れ。——そして、メモの更新。


 必要な範囲だけ見る。

 そのつもりだった。


『パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』


 そこだけ妙に、目に入った。


 (……なんだそれ)


 笑いそうになる。

 でも笑うのは"仕事中"だ。


 次の行。


『見られるのに繋がらないのが、一番くる。』


 その文字で、レイヴの親指が止まる。


 表示は淡々としている。チェックを付ける。

 業務。確認。


 ——そう言いながら、画面から視線が離れない。


 "湊"と署名された文字列を、レイヴは一回だけ、長く眺めてしまった。





 日中、俺はまたスマホを開いた。


 やめとけばいいのに、動画を見てしまう。


 圭介が笑っている。

 圭介の隣に翔太。

 健二がカメラを揺らしてる。


 俺は画面の中で、確かに外にいる。


 音が——途切れる。

 小さい。

 ノイズが混じる。


 "名前"のところだけ、また抜けた。


 胸がぎゅっと縮んで、息が浅くなる。

 浅くなると、喉元が熱くなる。


 (また、だ)


 俺は反射で喉に触れた。

 指先に熱が返ってくる。


 息紋が出てるのかもしれない。

 でも鏡を見るほどじゃない。

 見たら確定してしまう。


 俺は笑った。


「……気のせい、気のせい」


 気のせいで済ませる癖が、ここでは役に立つ。

 役に立つのが嫌だ。





 夕方、レイヴが廊下で俺に追いついた。


「ミナト、今日どう?」


「どうって?」


「息。喉。……日記」


 日記、と言われると、俺は肩をすくめる。


「書いたよ。……誰も見ないんでしょ?」


 わざと明るく言う。

 "信じてる"って顔をする。


 レイヴは笑った。

 いつもの軽薄な笑顔。


「うん。誰も見ない」


 嘘は言ってない、みたいな言い方だった。


「じゃあ安心」


「うん、安心」


 安心、って言葉が、ここでは危ない。

 危ないのに、俺はそれを口にしてしまう。


 レイヴは手をひらひらさせた。


「続けられそう?」


「無理」


「即答」


「俺の自己評価は正しい」


「正しい。……でも、続けなくてもいい。書きたくなったら書いて。苦しくなったら書いて」


 苦しくなったら。


 それがまた、手順の合図になる。


 俺は口元だけ笑った。


「俺、苦しくならないように頑張るわ」


「頑張り方、間違えると苦しくなるよ」


「やめろよ」


「やめない。……でも、命令しない。提案」


 レイヴはまた"提案"で締めた。


 提案なら、俺は受け取ってしまう。

 受け取って、正しいことにしてしまう。





 夜になると、昼の明るさが剥がれた。


 部屋の灯りは変わらない。

 でも俺の中の"笑い"だけが薄くなる。


 スマホを開く。

 圏外。

 外部連絡不可。


 動画の音は、また薄い。


 胸が詰まる。

 息が浅くなる。


 浅くなるたびに、喉の奥が何かを欲しがる。

 名前のつけ方が分からないまま、でも身体は知っている。

 温い。近い。深く吸い込んだ後の感覚。


 喉元が、熱くなる。


 (……呼ぶ?)


 タグに指が伸びる。

 握ると冷たい。


 冷たいのに、指先だけ熱い。


 俺は一回、深く息を吐いて、メモを開いた。


 日記。

 安定化施策。

 自分のため。


 ——なのに、書く前に、指が止まる。


 (呼んだ方が早い)


 その考えが、もう"癖"みたいに馴染みかけている。


 ノックは二回。

 俺が呼ぶより先に、レイヴが来た。


「起きてる?」


 声が軽い。

 その軽さが救いになる。


「起きてる」


「じゃ、短く整えよ。……今日は、ちょい早めに」


 早めに。

 夜の手順が前倒しになる。


 俺は肩をすくめた。


「俺、そんなにやばい顔してた?」


「してた」


「即答やめろ」


「即答する。やばいから」


 レイヴが椅子を引く。

 俺の前に座る。

 距離が近い。近いけど触れない。


 それが、余計に意識させる。


「吸って、吐いて。……俺の数、聞いて」


 俺は頷く。

 吸う。

 吐く。


 数を数える声が、頭の中の騒ぎを短くする。

 短くなると、次に来るのは"渇き"だ。


 喉が渇く。

 渇くほどに、喉の奥が深く吸い込んだ感覚を繰り返す。

 さっきまで名前のなかった欲しがりが、形を持ち始める。


 ——吸いたい。


 言えない。

 言うほどじゃない。

 ……でも、身体が先に前に出る。


 俺の呼吸が乱れかけた瞬間、レイヴが少しだけ顔を近づけた。


「ミナト、戻ろ。……無理にじゃない。ちょい、近くするだけ」


 提案。

 同意に見える形。


 吐息が近い。

 頬が熱い。

 上気が上がって、耳まで熱くなる。


 俺は思わず吸った。


 吸い込んだのは空気だけ——のはずなのに、

 喉が鳴って、胸が落ちる。


 ごく、って。


 微量。

 未遂に近いのに、体が"整う"方向へ落ちた。


 レイヴはすぐ距離を引いた。

 触れないまま、ギリギリで止める。


「……はい。戻った」


 戻った。

 その言葉で、俺は口元が緩んだ。


「……戻った、って何だよな」


「戻ったは戻った。ミナト、今、ちゃんと息できてる」


 俺は頷く。

 息ができてる。


 できてるのに、喉の渇きだけが残る。


 俺はそれが怖くて、それでも笑った。


「俺、これ、慣れてきてない?」


「慣れるのは悪いことじゃない」


 悪いことじゃない。

 そう言われると、俺は"正しい"と思ってしまう。





 レイヴが帰った後、俺はメモを開いた。


 書けば落ち着く。

 そう言われたからじゃない。

 自分でそう思い始めているのが怖い。


 タイトルは同じ。

 指が、最初の行に行く。


『湊』


 ——と打ち始めて。


 一瞬、止まった。


 指先が画面の上で固まる。

 なんで止まったのか分からない。


 "湊"は俺だ。

 ずっとそうだった。

 書ける。


 なのに。


 止まった後に、喉元がじん、と熱を持った。


 (……なに)


 俺は軽く息を吐いて、続けた。

 今日はまだ、"湊"で書ける。


『湊

 日記って、案外書ける。

 書くと落ち着くの、悔しい。

 でも落ち着く。』


 そのまま数行、今日のことを短く書く。

 動画の音が変なこと。

 息が浅くなったこと。

 整えたこと。


 書き終えて、スマホを伏せた。


 画面の上には、タグの文字。


 ——ミナト。


 俺は目を閉じた。

 喉元の熱が、薄く残っている。





(レイヴ)



 端末が震えた。

 「安定化ログ:更新」。


 レイヴは廊下の角で立ち止まる。

 確認する。それだけだ。


 監督ツールを開く。


『湊

 日記って、案外書ける。』


 そこだけで、息が一拍遅れる。


 自分に言い聞かせる。必要な範囲だけ見ればいい。

 睡眠と不安と呼吸の乱れ。危険兆候。


 でも、指が動かない。


 "湊"と署名された文字が、きれいに並んでいる。

 その整然さが、妙に胸に来た。


 レイヴは笑う。

 (俺、真面目すぎ)


 そう言いながら、画面を閉じない。


 画面から目を離そうとして、離せない。


 もう一度、署名の行に戻る。


 "湊"。


 指先がその文字の上で止まって、そのまま軽く触れた。

 ガラスの向こうにある、ただの文字。


 (まだ、湊だ)


 そう思って——少しだけ息が楽になった。


 それが業務じゃないことを、

 レイヴはまだ、ちゃんと知らないふりをしていた。



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