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異界の境界施設  作者:
Case-M

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6/17

Case-M #5



 起きた瞬間、まず自分の首筋に触れていた。


 癖みたいに。確かめるみたいに。

 喉仏の少し下——鎖骨へ落ちる途中の、利き側。


 そこに、熱がある。


 指先が当たっただけで、じわ、と皮膚が返してくる。

 寝起きの体温だ。そういうことにしておく方が早い。


「……え」


 口に出してから、俺は笑って誤魔化した。

 誤魔化せるうちは、大丈夫だ。


 洗面に行って鏡を見る。

 首元はいつも通り。何もない。昨日の“変”は、薄い影みたいに消えている。


 なのに。


 触った指先だけが、まだ熱い。

 俺はもう一度そこに触れて、すぐ手を離した。


(……気にしすぎ)


 気にしすぎると、息が浅くなる。

 浅くなると、呼んでしまう。

 呼んでしまうと、楽になる。


 楽になるのが、怖い。


 俺は歯を見せて笑って、顔を洗った。



 廊下に出ると、ちょうどレイヴが曲がってくるところだった。

 今日も軽い顔。今日も仕事の足音。——なのに、こっちのこわばりを見つけるのが早い。


「おはよ、ミナト。……寝起きの顔、やばい」


「やばいって言うな」


「言う。やばいから」


 昨日より少しだけ増えた砕け方。

 あれが“指示”から始まったとしても、笑い返すと胸の奥がわずかに緩む。


 緩むのが、腹立つ。


「朝ごはん行こ。あと、今日の生活導線、整える日」


「生活導線って言い方がさ……」


「嫌?」


「嫌っていうか、急に“ここで暮らす前提”みたい」


 言ってから後悔した。

 重く聞こえたかもしれない。


 レイヴは肩をすくめる。


「前提、だよ。帰るまでの。……重く言わないで。ミナトが固くなるから」


 固くなる、と言われると、反射で笑いそうになる。

 笑うと喉が楽になるのを、もう知ってしまったから。


「俺、そんなに固い?」


「固い。めっちゃ。昨日より増えてる」


「増えてるって何だよ」


「数えたくなるくらい」


 冗談みたいに言うくせに、目は真面目だ。

 真面目な目で、俺の“固さ”を拾ってる。


 食堂みたいな場所で朝ごはんを受け取る。

 パンとスープと、あったかい飲み物。

 丁寧で、過不足がなくて——だから落ち着かない。


 レイヴは俺の向かいに座り、軽く言った。


「慣れた方が楽。こういうの」


「……楽」


 その単語が、この施設の合言葉みたいに喉へ残る。


「帰るまでの“仮”だからね。仮の生活。仮の手順」


「仮、って言葉、便利だな」


「便利。君が潰れないで済む」


 砕けてるのに、結局そこへ戻る。

 “整える”。“潰れない”。“手順”。


 俺はパンをちぎって口に入れた。

 熱い。ちゃんと美味い。ちゃんと腹が満ちる。


 それが、いちばん怖い。


(ここ、普通に暮らせちゃう)


 暮らせちゃうのに、帰れない。

 帰れないのに、息はできる。


 息ができるのが、いちばん怖い。



 日中は、小さな“普通”が増えた。


 寝具の替え方。洗濯の出し方。部屋の掃除のルール。

 「これはこうして」「これはここに」「これは触らない」——言葉の端は軽いのに、全部が手順で固定されていく。


「ここ、勝手に開けないでね」


 レイヴが指さしたのは、廊下の奥の扉だった。

 鍵穴も取っ手も、見えづらい場所にある。


「開けちゃダメって言われると開けたくなるんだけど」


「そういうの、やめて。出口、分かんなくなる」


 出口が分かんなくなる。

 それだけで背中が冷える。


「……あれ、ほんと?」


「ほんと。ミナトが迷うと、境界が喜ぶ」


「境界、性格悪いな」


「性格悪い。だから、手順で守る」


 守る、という言葉が喉を乾かす。

 乾くのに、息は楽になる。

 その矛盾が、ここでは普通になる。


 俺は誤魔化すようにスマホを取り出した。

 圏外。外部連絡不可。分かってるのに、確認してしまう。


 動画を開く。

 笑い声が小さい。途切れる。ノイズが混じって、音が“薄い”。


 圭介が俺の名前を呼んだところ。

 口は動いてるのに——また、そこだけ抜ける。


 胸が詰まった。


(……やめよ)


 止めればいいのに止められない。

 見られるのに繋がらない。

 聞けるのに、肝心なところだけ欠ける。


 未練が削れていく感じがする。

 削れて、形が変わって、痛みの質だけ残る。


「ミナト?」


 レイヴの声で我に返る。

 いつの間にか、俺は息を止めていた。


「……ごめん。見てた」


「見ていい。……でも、息止めるのはやめて」



 昼過ぎ、レイヴが俺を部屋の手前で止めた。


「ちょい時間ある?」


「あるけど」


「短く呼吸の練習しよ。今のうちに」


 その言い方が軽いほど、俺は素直に頷きそうになる。

 頷いたら、また手順が増える。


 でも——もう浅い。


「……やる」


 言った瞬間、自分の声が“良い子”のそれだと分かって、胃が冷えた。

 分かっても止められない。


 レイヴは笑う。


「そういうとこ、早い。……いいよ。じゃ、座って」


 椅子に座る。

 レイヴは正面じゃなく、少し横に立った。圧を減らす距離。


 声も、近すぎない。


「吸って。吐いて。……数、俺が言うね」


 俺は頷いて息を吸う。吐く。

 最初はできる。


「いち。に。さん……」


 数が、頭の中の騒ぎを短くしていく。

 委員会。帰還。圏外。無音。——全部、遠くなる。


 その途端。


 怖さが、別の形で来た。


 息が——急に、入らなくなった。


「っ……」


 吸ってるのに入ってこない。

 胸が膨らむ前に、喉が詰まる。

 指先が冷えて、背中が汗ばんで、手のひらが湿る。


 喉が鳴る。変な音。恥ずかしい。怖い。


「……ごめ……」


「謝らなくていい。戻すだけ」


 戻すだけ。

 それがもう“手順”なんだ。


 レイヴがしゃがむ。

 俺の視界に、彼の顔が入る。近い。近いのに触れない距離。


「ミナト。止まって。今、考えなくていい。——俺見る」


 俺は首を振った。

 見たら崩れる気がして、見れない。


 息が速くなる。吐いてるのに吐けてない。

 喉が鳴って、また恥ずかしくて、余計に浅くなる。


 レイヴの声が変わる。

 砕けたまま、でも芯が鋭い。


「……同期だけじゃ戻らない。吸う方向、俺が作る」


「……なに、それ……」


「説明しない。今はやる。いい?」


 “いい?”がずるい。

 拒否する余裕なんてない。


 俺は喉を鳴らして、頷いてしまった。


 レイヴが顔を寄せる。

 唇は触れない。触れない距離で止まる。


 でも近い。

 吐息が、頬のすぐ横を撫でる。

 薬草と紙の匂いが薄く混ざった、清潔なのに生々しい匂い。


「……吸って。俺の吐くのに合わせて」


 レイヴが吐く。

 その吐息が、空気の道を作る。


 俺は反射で吸った。


 吸う音が、自分でも分かるくらい大きい。

 喉が鳴る。ごく、って。


 胸が——一気に落ちた。


 落ちた、というより、ほどけた。

 絡まってた糸が一本だけ抜けるみたいに、身体が“戻る”。


「……っ」


 吸える。吐ける。

 さっきまでの恐怖が嘘みたいに、息が入ってくる。


 目の奥が熱い。

 泣くほどじゃないのに、涙が出そうになる。


 レイヴの声が、少しだけ笑う。


「……そう。それ」


 それ、って何。

 聞きたいのに、聞けない。


 俺はまた息を吸ってしまう。今度は反射じゃない。

 求めるみたいに。


 触れてないのに、肌が敏感になる。

 喉が鳴った。恥ずかしい音じゃなく、足りない音に近い。


「……はい、終わり」


 レイヴが距離を引く。

 引かれると冷えた。さっきまでの空気が急に遠くなる。


 俺は息を整えながら、笑って誤魔化そうとした。


「……いまの、なに。俺、なんか……吸った?」


「吸ったね」


 あっさり認めるのが怖い。


「やばくない?」


「やばくない。整ったでしょ」


「整ったけど……整い方が変」


「変でもいい。戻るなら」


 戻るなら。

 戻るためなら。


 ——成功体験。


 身体が覚えてしまった。

 “あれ”をすると戻る。戻れるなら、やってしまう。


 俺はそれが怖くて、目を逸らした。



 落ち着いた後、首元がまだ熱かった。


 俺は洗面に逃げた。

 鏡の前に立って、自分の喉元を見る。


 喉仏の少し下。鎖骨へ落ちる途中の、利き側。

 そこに、うっすら影が浮いている。


 三本。

 鴉の鉤爪みたいな、短い弧。

 黒いのに、角度を変えると青紫に偏光して——羽の艶みたいに嫌に綺麗。


「……出てる」


 声が小さくなる。


 大きく息を吸うと、影が少し濃く見える。

 息を止めると、薄くなる。


 呼吸に連動してる。

 まるで“ここに繋がってる”印。


 俺は反射でそこに触れた。

 触れた瞬間、皮膚が熱を返した。じり、と焼けるみたいに。


(疲れかな)


 そう言い聞かせた。

 そうじゃないって分かってるのに。


 背後で気配が動く。


「ミナト、大丈夫?」


 レイヴの声。

 振り返ると、ドア枠にもたれて笑っていた。


「……うん。たぶん。俺、ちょっと熱いだけ」


 嘘じゃない。

 ただ、“どこが熱いか”だけは言えなかった。


 レイヴが一歩だけ近づく。

 近づいた瞬間、体温がずれる。冷たいみたいなのに、手の気配だけが熱い。


「……じゃあ今日は寝よ。明日、また確認」


 確認、という言葉が仕事のはずなのに、今は優しさみたいに聞こえるのが嫌だ。


「うん。寝る」


「偉い」


「だから褒めるなって」


「褒めたくなるから」


 砕けた口調。

 それが“指示”から始まったとしても、今この瞬間だけは胸の奥にすっと入ってくる。


 レイヴはそれ以上踏み込まず、扉の方へ下がった。

 照明の加減で、瞳の黒が深すぎる。虹彩の端に、羽みたいな偏光が一瞬だけ走る。


 俺が瞬きする間に、普通の笑顔に戻った。


「おやすみ、ミナト」


「……おやすみ」


 扉が閉まる。

 整えられた静けさが戻る。


 俺はベッドに仰向けになって、首元のタグを指で押さえた。

 冷たい。冷たいのに、今はそれが“ここにいる証拠”みたいで嫌だ。


 表示は、ミナト。


 スマホの画面がまだ点いていた。

 昼の動画のサムネイル。圭介、翔太、健二。笑ってる俺。


 音は変で、名前は抜ける。

 見られるのに、繋がらない。


 それでも画面の中の俺は“外”にいる。

 こっちの俺は、タグの文字と、首元の熱でしか確かめられない。


 ——ミナト。


 俺はスマホを胸の上に置いた。

 画面の熱が、首元の熱と重なる。


(帰りたい)

(でも、今は……息ができる)


 その事実が一番怖いまま、俺は目を閉じた。


 昼にも呼吸。

 夜にも呼吸。


 手順が増えたことを、俺はもう“正しい”と感じ始めていた。



(レイヴ)


 扉を閉めた瞬間、廊下の空気が冷たく感じた。

 部屋の中はミナトの熱で少しだけ柔らかい。外はそれがない。


 俺は歩きながら、指先でポケットの端を叩く。

 癖。記録を付けたくなる癖。


 本部から来た指示は単純だ。

 ——緊張を下げろ。手順の成功率を上げろ。暴走を防げ。


 だから口調を砕いた。

 だから笑った。

 だから、数えた。


 昼、同期が崩れて戻らなかった。

 息だけじゃ整わない時があるのは知っている。境界に慣れきってない人間ほど、散りやすい。


 だから、吸う方向を作った。

 吐息で道を作って、合わせさせて、落とした。


 触れてない。

 規則の線は踏まない。距離も守った。


 ——そう、書類には書ける。


 でもミナトが反射で吸った時の音。

 喉が鳴って、胸が落ちて、目の奥の熱が揺れた瞬間。

 必死で、無我夢中で、飾れない顔。


 あれを見て、俺の中で一瞬だけ余計な感情が動いた。


(……危ない)


 言葉にしたら終わる。

 だから言わない。


 代わりに手順を増やす。短く。確実に。

 審査のため。帰還のため。

 そう言えばミナトは頷く。


 ミナトは良い子だ。

 良い子で、協力的で、笑って誤魔化して、夜になると脆い。


 境界は性格が悪い。

 だから守る。手順で、許可で、軽口で。


 それが仕事だ。

 ——仕事、のはずだ。


 ポケットの中で端末が小さく震えた。

 通知じゃない。記録のリマインド。


 俺は画面を見ずに息を吐く。


 明日も、ちゃんとやろ。

 ミナトが“帰るため”と言いながら、壊れない形で。


 廊下の先に検査室の棚が見える。

 緊急用の瓶が整然と並ぶ。まだ使わない。今は関係ない。


 今、必要なのは——息だ。


 吐いて。合わせて。整える。


 俺は“仕事”の顔で、それだけを胸に入れて歩き出した。



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