Case-M #5
起きた瞬間、まず自分の首筋に触れていた。
癖みたいに。確かめるみたいに。
喉仏の少し下——鎖骨へ落ちる途中の、利き側。
そこに、熱がある。
指先が当たっただけで、じわ、と皮膚が返してくる。
寝起きの体温だ。そういうことにしておく方が早い。
「……え」
口に出してから、俺は笑って誤魔化した。
誤魔化せるうちは、大丈夫だ。
洗面に行って鏡を見る。
首元はいつも通り。何もない。昨日の“変”は、薄い影みたいに消えている。
なのに。
触った指先だけが、まだ熱い。
俺はもう一度そこに触れて、すぐ手を離した。
(……気にしすぎ)
気にしすぎると、息が浅くなる。
浅くなると、呼んでしまう。
呼んでしまうと、楽になる。
楽になるのが、怖い。
俺は歯を見せて笑って、顔を洗った。
*
廊下に出ると、ちょうどレイヴが曲がってくるところだった。
今日も軽い顔。今日も仕事の足音。——なのに、こっちのこわばりを見つけるのが早い。
「おはよ、ミナト。……寝起きの顔、やばい」
「やばいって言うな」
「言う。やばいから」
昨日より少しだけ増えた砕け方。
あれが“指示”から始まったとしても、笑い返すと胸の奥がわずかに緩む。
緩むのが、腹立つ。
「朝ごはん行こ。あと、今日の生活導線、整える日」
「生活導線って言い方がさ……」
「嫌?」
「嫌っていうか、急に“ここで暮らす前提”みたい」
言ってから後悔した。
重く聞こえたかもしれない。
レイヴは肩をすくめる。
「前提、だよ。帰るまでの。……重く言わないで。ミナトが固くなるから」
固くなる、と言われると、反射で笑いそうになる。
笑うと喉が楽になるのを、もう知ってしまったから。
「俺、そんなに固い?」
「固い。めっちゃ。昨日より増えてる」
「増えてるって何だよ」
「数えたくなるくらい」
冗談みたいに言うくせに、目は真面目だ。
真面目な目で、俺の“固さ”を拾ってる。
食堂みたいな場所で朝ごはんを受け取る。
パンとスープと、あったかい飲み物。
丁寧で、過不足がなくて——だから落ち着かない。
レイヴは俺の向かいに座り、軽く言った。
「慣れた方が楽。こういうの」
「……楽」
その単語が、この施設の合言葉みたいに喉へ残る。
「帰るまでの“仮”だからね。仮の生活。仮の手順」
「仮、って言葉、便利だな」
「便利。君が潰れないで済む」
砕けてるのに、結局そこへ戻る。
“整える”。“潰れない”。“手順”。
俺はパンをちぎって口に入れた。
熱い。ちゃんと美味い。ちゃんと腹が満ちる。
それが、いちばん怖い。
(ここ、普通に暮らせちゃう)
暮らせちゃうのに、帰れない。
帰れないのに、息はできる。
息ができるのが、いちばん怖い。
*
日中は、小さな“普通”が増えた。
寝具の替え方。洗濯の出し方。部屋の掃除のルール。
「これはこうして」「これはここに」「これは触らない」——言葉の端は軽いのに、全部が手順で固定されていく。
「ここ、勝手に開けないでね」
レイヴが指さしたのは、廊下の奥の扉だった。
鍵穴も取っ手も、見えづらい場所にある。
「開けちゃダメって言われると開けたくなるんだけど」
「そういうの、やめて。出口、分かんなくなる」
出口が分かんなくなる。
それだけで背中が冷える。
「……あれ、ほんと?」
「ほんと。ミナトが迷うと、境界が喜ぶ」
「境界、性格悪いな」
「性格悪い。だから、手順で守る」
守る、という言葉が喉を乾かす。
乾くのに、息は楽になる。
その矛盾が、ここでは普通になる。
俺は誤魔化すようにスマホを取り出した。
圏外。外部連絡不可。分かってるのに、確認してしまう。
動画を開く。
笑い声が小さい。途切れる。ノイズが混じって、音が“薄い”。
圭介が俺の名前を呼んだところ。
口は動いてるのに——また、そこだけ抜ける。
胸が詰まった。
(……やめよ)
止めればいいのに止められない。
見られるのに繋がらない。
聞けるのに、肝心なところだけ欠ける。
未練が削れていく感じがする。
削れて、形が変わって、痛みの質だけ残る。
「ミナト?」
レイヴの声で我に返る。
いつの間にか、俺は息を止めていた。
「……ごめん。見てた」
「見ていい。……でも、息止めるのはやめて」
*
昼過ぎ、レイヴが俺を部屋の手前で止めた。
「ちょい時間ある?」
「あるけど」
「短く呼吸の練習しよ。今のうちに」
その言い方が軽いほど、俺は素直に頷きそうになる。
頷いたら、また手順が増える。
でも——もう浅い。
「……やる」
言った瞬間、自分の声が“良い子”のそれだと分かって、胃が冷えた。
分かっても止められない。
レイヴは笑う。
「そういうとこ、早い。……いいよ。じゃ、座って」
椅子に座る。
レイヴは正面じゃなく、少し横に立った。圧を減らす距離。
声も、近すぎない。
「吸って。吐いて。……数、俺が言うね」
俺は頷いて息を吸う。吐く。
最初はできる。
「いち。に。さん……」
数が、頭の中の騒ぎを短くしていく。
委員会。帰還。圏外。無音。——全部、遠くなる。
その途端。
怖さが、別の形で来た。
息が——急に、入らなくなった。
「っ……」
吸ってるのに入ってこない。
胸が膨らむ前に、喉が詰まる。
指先が冷えて、背中が汗ばんで、手のひらが湿る。
喉が鳴る。変な音。恥ずかしい。怖い。
「……ごめ……」
「謝らなくていい。戻すだけ」
戻すだけ。
それがもう“手順”なんだ。
レイヴがしゃがむ。
俺の視界に、彼の顔が入る。近い。近いのに触れない距離。
「ミナト。止まって。今、考えなくていい。——俺見る」
俺は首を振った。
見たら崩れる気がして、見れない。
息が速くなる。吐いてるのに吐けてない。
喉が鳴って、また恥ずかしくて、余計に浅くなる。
レイヴの声が変わる。
砕けたまま、でも芯が鋭い。
「……同期だけじゃ戻らない。吸う方向、俺が作る」
「……なに、それ……」
「説明しない。今はやる。いい?」
“いい?”がずるい。
拒否する余裕なんてない。
俺は喉を鳴らして、頷いてしまった。
レイヴが顔を寄せる。
唇は触れない。触れない距離で止まる。
でも近い。
吐息が、頬のすぐ横を撫でる。
薬草と紙の匂いが薄く混ざった、清潔なのに生々しい匂い。
「……吸って。俺の吐くのに合わせて」
レイヴが吐く。
その吐息が、空気の道を作る。
俺は反射で吸った。
吸う音が、自分でも分かるくらい大きい。
喉が鳴る。ごく、って。
胸が——一気に落ちた。
落ちた、というより、ほどけた。
絡まってた糸が一本だけ抜けるみたいに、身体が“戻る”。
「……っ」
吸える。吐ける。
さっきまでの恐怖が嘘みたいに、息が入ってくる。
目の奥が熱い。
泣くほどじゃないのに、涙が出そうになる。
レイヴの声が、少しだけ笑う。
「……そう。それ」
それ、って何。
聞きたいのに、聞けない。
俺はまた息を吸ってしまう。今度は反射じゃない。
求めるみたいに。
触れてないのに、肌が敏感になる。
喉が鳴った。恥ずかしい音じゃなく、足りない音に近い。
「……はい、終わり」
レイヴが距離を引く。
引かれると冷えた。さっきまでの空気が急に遠くなる。
俺は息を整えながら、笑って誤魔化そうとした。
「……いまの、なに。俺、なんか……吸った?」
「吸ったね」
あっさり認めるのが怖い。
「やばくない?」
「やばくない。整ったでしょ」
「整ったけど……整い方が変」
「変でもいい。戻るなら」
戻るなら。
戻るためなら。
——成功体験。
身体が覚えてしまった。
“あれ”をすると戻る。戻れるなら、やってしまう。
俺はそれが怖くて、目を逸らした。
*
落ち着いた後、首元がまだ熱かった。
俺は洗面に逃げた。
鏡の前に立って、自分の喉元を見る。
喉仏の少し下。鎖骨へ落ちる途中の、利き側。
そこに、うっすら影が浮いている。
三本。
鴉の鉤爪みたいな、短い弧。
黒いのに、角度を変えると青紫に偏光して——羽の艶みたいに嫌に綺麗。
「……出てる」
声が小さくなる。
大きく息を吸うと、影が少し濃く見える。
息を止めると、薄くなる。
呼吸に連動してる。
まるで“ここに繋がってる”印。
俺は反射でそこに触れた。
触れた瞬間、皮膚が熱を返した。じり、と焼けるみたいに。
(疲れかな)
そう言い聞かせた。
そうじゃないって分かってるのに。
背後で気配が動く。
「ミナト、大丈夫?」
レイヴの声。
振り返ると、ドア枠にもたれて笑っていた。
「……うん。たぶん。俺、ちょっと熱いだけ」
嘘じゃない。
ただ、“どこが熱いか”だけは言えなかった。
レイヴが一歩だけ近づく。
近づいた瞬間、体温がずれる。冷たいみたいなのに、手の気配だけが熱い。
「……じゃあ今日は寝よ。明日、また確認」
確認、という言葉が仕事のはずなのに、今は優しさみたいに聞こえるのが嫌だ。
「うん。寝る」
「偉い」
「だから褒めるなって」
「褒めたくなるから」
砕けた口調。
それが“指示”から始まったとしても、今この瞬間だけは胸の奥にすっと入ってくる。
レイヴはそれ以上踏み込まず、扉の方へ下がった。
照明の加減で、瞳の黒が深すぎる。虹彩の端に、羽みたいな偏光が一瞬だけ走る。
俺が瞬きする間に、普通の笑顔に戻った。
「おやすみ、ミナト」
「……おやすみ」
扉が閉まる。
整えられた静けさが戻る。
俺はベッドに仰向けになって、首元のタグを指で押さえた。
冷たい。冷たいのに、今はそれが“ここにいる証拠”みたいで嫌だ。
表示は、ミナト。
スマホの画面がまだ点いていた。
昼の動画のサムネイル。圭介、翔太、健二。笑ってる俺。
音は変で、名前は抜ける。
見られるのに、繋がらない。
それでも画面の中の俺は“外”にいる。
こっちの俺は、タグの文字と、首元の熱でしか確かめられない。
——ミナト。
俺はスマホを胸の上に置いた。
画面の熱が、首元の熱と重なる。
(帰りたい)
(でも、今は……息ができる)
その事実が一番怖いまま、俺は目を閉じた。
昼にも呼吸。
夜にも呼吸。
手順が増えたことを、俺はもう“正しい”と感じ始めていた。
*
(レイヴ)
扉を閉めた瞬間、廊下の空気が冷たく感じた。
部屋の中はミナトの熱で少しだけ柔らかい。外はそれがない。
俺は歩きながら、指先でポケットの端を叩く。
癖。記録を付けたくなる癖。
本部から来た指示は単純だ。
——緊張を下げろ。手順の成功率を上げろ。暴走を防げ。
だから口調を砕いた。
だから笑った。
だから、数えた。
昼、同期が崩れて戻らなかった。
息だけじゃ整わない時があるのは知っている。境界に慣れきってない人間ほど、散りやすい。
だから、吸う方向を作った。
吐息で道を作って、合わせさせて、落とした。
触れてない。
規則の線は踏まない。距離も守った。
——そう、書類には書ける。
でもミナトが反射で吸った時の音。
喉が鳴って、胸が落ちて、目の奥の熱が揺れた瞬間。
必死で、無我夢中で、飾れない顔。
あれを見て、俺の中で一瞬だけ余計な感情が動いた。
(……危ない)
言葉にしたら終わる。
だから言わない。
代わりに手順を増やす。短く。確実に。
審査のため。帰還のため。
そう言えばミナトは頷く。
ミナトは良い子だ。
良い子で、協力的で、笑って誤魔化して、夜になると脆い。
境界は性格が悪い。
だから守る。手順で、許可で、軽口で。
それが仕事だ。
——仕事、のはずだ。
ポケットの中で端末が小さく震えた。
通知じゃない。記録のリマインド。
俺は画面を見ずに息を吐く。
明日も、ちゃんとやろ。
ミナトが“帰るため”と言いながら、壊れない形で。
廊下の先に検査室の棚が見える。
緊急用の瓶が整然と並ぶ。まだ使わない。今は関係ない。
今、必要なのは——息だ。
吐いて。合わせて。整える。
俺は“仕事”の顔で、それだけを胸に入れて歩き出した。




