Case-M #7
目が覚めた瞬間、俺はスマホを探していた。
連絡はできない。繋がらない。——分かってるのに、手は勝手にそこへ伸びる。
布団の端をまさぐって、冷たいガラスに触れて、そこでようやく息を吐いた。
ある。……ある。
それだけで、指先のこわばりが少しほどける。
自分でも変だと思いながら、メモを開いた。白い画面が眩しい。
最初の行に指が行って——
『湊』
そこで、ほんの一瞬止まる。
止まる理由が分からない。湊は俺で、ずっと俺で、変わるはずがない。
なのに、喉のあたりがじん、と熱を持った気がして、俺は小さく息を吐く。
(寝起き、ちょっと敏感になってるだけ)
そのまま書き始めた。
『湊
週次二回目。
二回目って言葉がもう嫌だ。慣れてきてる感じがするから。
でも慣れないと、ここで息が詰まる。』
文字にすると、息が少し深くなる。胸の中のざわつきが、散らばらない。
『昨日よりは寝られた。
動画の音は相変わらず変。
見た。やめとけばいいのに。』
そこで止めて、スマホを伏せた。
"自分のため"。
その言葉が、ここでは少し甘い。甘いから、噛みしめるのが怖い。
*
ノックが二回。
「おはよ、ミナト」
レイヴの軽い声。軽いのに、それが"朝の合図"になってるのが腹立つ。
「おはよ。今日、審査だよね」
「そ。二回目。昨日の夜は?寝れた?」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっとでも寝れたなら上等。じゃ、着替えよ。タグ確認」
タグ。指が自然にそこへ行く。冷たい金属を撫でて、俺はまた苦笑してしまう。
「これ、ほんとに外せないんだよな」
「外せない。外すと迷う」
さらっと言われると怖いから、俺は明るく返す。
「俺、方向音痴じゃないんだけど」
「境界相手だと、誰でも方向音痴」
「最悪」
「最悪。でも対策がある」
対策。手順。制度。
レイヴはわざと軽口みたいに言った。
「審査前に深呼吸一回。——ほら、今」
「今やるの?」
「今。ミナト、顔ちょい固い」
「固いって言うな」
「言う。固いから」
俺は渋々、息を吸って吐いた。それだけで喉の渇きが少し引く。
……引くのが、少し怖い。
*
検査室の前。
並びの空気は前より分かる。分かる、ってことがまた怖い。
レイヴが肩をぶつけるみたいに、軽く言う。
「終わったら、ゴルドが飯で整えると思うよ」
「整えるって言い方」
「整える。あの人、温かいもの渡すの上手いじゃん。……この前も、スープで一発だったろ」
「一発って言うな。……でも、助かった」
"助かった"って言葉を口にした瞬間、喉が少し楽になる。それが悔しい。
「でしょ。だから効く」
言った瞬間、レイヴは軽く笑って流した。ごまかし方が上手いのが、余計に不穏だ。
「……まあ、効くものを使うだけ。君が潰れないように」
*
魔具の簡易測定は前回より手早い。
冷たい板に手を置いて、光が走って、数値が出る。意味は分からないのに、空気だけで"悪くない"のが伝わる。
「適応値、微改善。暴走リスク、低下。継続」
継続。希望と皮肉が同時に刺さる単語。
隣でレイヴが笑った。
「ね。順調」
「順調って……」
「順調。だから今日もいつも通りでいい」
いつも通り。二回目が、もう"いつも通り"になる。
俺は頷いた。頷きながら胸の奥がきゅっと縮む。
(いつも通りが増えるほど、帰り道が遠くなる)
*
審査の後の廊下は、妙に白い。
身体の力が抜けたぶん、空白が来る。空白に"帰れない現実"が滑り込んでくる。
そこで、遠くから声が飛んできた。
「ミナト〜!こっちよぉ〜!」
でかい声。でかい身体。なのに、この声はもう、"怖い"より先に"助かる"が来る。
「……うるせぇ、ゴルド」
その隣の低い声も、もう知ってる。リュカは相変わらずツンツンしてる。
ゴルドが俺の前に来て、手をひらひらさせる。
「審査どうだった?顔、前よりマシじゃな〜い?」
「顔で測るなって」
「測るわよ。人間の顔って分かりやすいのよぉ」
リュカが俺を一瞥する。目つきは鋭いのに、視線が先に首筋に落ちるのが分かる。
「……熱、出てないな」
「それ、心配してる?」
「してない」
「嘘つけ」
「黙れ」
このやりとりも、もう"いつものやつ"になりかけている。
ゴルドが俺の肘を軽くつつく。
「ねぇ、また"成宮"って呼ばれたい?」
「呼ばれたいわけないだろ」
俺が即答すると、リュカが露骨に眉を寄せる。
「……一回だけだ」
「一回で十分怖い。あれ、背中ぞわってした」
「……悪かった」
謝る声が小さい。リュカの謝り方は、いつもぶっきらぼうで、だからこそ効く。
そこへレイヴが軽く手を振った。
「じゃ、俺は仕事戻る。……ミナト、任せていい?」
「勝手に任せんな」
「勝手に任せる。提案」
「……はぁ」
レイヴの背中が遠ざかると、空気が少し冷える。冷えるのに、俺はそれに慣れたふりをする。
ゴルドが俺の背中を軽く押した。
「ほらほら。今日は"中"を案内してあげる。外に出たくなる理由、薄めときなさい」
「薄めるって言うな」
「言うわよぉ。人間、外に引っ張られるんだもん」
*
談話室。図書室。ゲーム台のある区画。休憩用のソファ。
どれも"ここで過ごせる"が形になってる。
リュカが相変わらず口が悪い。
「勝手に触るな。変なの起動する」
「変なのって何」
「変なのは変なのだ」
「説明になってない」
俺が笑うと、リュカは眉を寄せる。
「笑うな。危ない」
「危ないって言われると余計笑う。緊張で」
「緊張するなら黙れ」
「黙れない。黙ると余計変なこと考える」
言った瞬間、喉が渇く。胸の方へ上がってくる感じがして、俺は笑った。
「ほらね。だから喋る」
リュカは小さく舌打ちして、それでも歩く速度を少し落とした。合わせてくれてる。
ゴルドがわざとらしく肩を揺らす。
「優し〜」
「黙れ」
*
食堂。
温かい匂いがする。それだけで腹が鳴るのが悔しい。
ゴルドがカウンターから受け取った器を、何も言わずに俺の前へ置く。
深い色のスープ。湯気が立つ。香りが静かに胸に落ちる。
「……またこれ?」
俺が言うと、ゴルドは顎をしゃくった。
「またこれよぉ。飲め。冷めるわよ」
「押し付けじゃないよね」
「押し付けじゃない。友達のやつ」
友達のやつ。それが胸の奥にすとん、と入る。
リュカが横で腕を組んだまま言う。
「嫌なら残せ。無理に飲むな」
「じゃあ毒じゃない?」
「毒なら出すな」
「……だよな」
俺は器を両手で持った。熱が手のひらにじん、と来る。
一口。
喉を通る温度が、思った以上に優しい。喉の奥の緊張が、熱でゆっくりほどける。肩が落ちる。息が勝手に深くなる。
「……うま」
言葉が勝手に出た。
ゴルドが満足そうに笑う。
「でしょ〜。ここで干からびるのが一番だめ」
言い方は雑なのに、意味は真面目だ。
二口目。温度が胸の奥まで届いて、空白が埋まっていく。
帰れない現実が、少しだけ遠くなる。——それが、怖いのに助かる。
リュカが俺をちらっと見て、鼻で笑った。
「単純」
「単純でいい。単純な方が息しやすい」
リュカは言い返せない顔で目を逸らした。
*
部屋に戻ると、灯りが"夕方っぽい"顔をしていた。
俺はスマホを開く。動画は見ない。今日はやめる。代わりにメモ。
指が最初の行へ行って、また止まる。
『湊』
打てる。打てるのに止まる。
俺は少し間を置いてから、打った。今日はまだ湊でいい。
『湊
週次二回目。数値、ちょい良くなったらしい。
よしって思った自分が嫌だ。でも、よしって思わないとやってられない。』
今日のことを書く。
『ゴルドのスープ、また助かった。
温かいだけで息が深くなる。
ここで"助かる"が増えるほど、怖い。』
そして、勝手に出た。
『息合わせがあると助かる。
あれがあると戻れる。
戻れるのに、また頼んでしまう気がする。』
書き終えて、スマホを伏せた。
落ち着く。落ち着くのに、背中が寒い。
(俺、ここに慣れ始めてる)
*
夜。
……動画を見てしまった。音が小さい。名前が抜ける。
胸が詰まって息が浅くなる。浅くなると喉が渇く。渇くと——思い出す。
吐息。吸う音。喉が鳴って、身体が戻った感覚。
(吸うと戻る)
そこに言葉をつけた瞬間、怖くなる。
"吸うと戻る"が俺の身体の法則みたいになってるのが、怖い。
タグを握る。冷たいのに、指先だけ熱い。
ノック二回。俺が呼ぶより先にレイヴが来た。
「起きてる?」
「……起きてる」
「顔、どう?」
「どうって……まあ、普通」
「普通じゃない時は?」
「……普通じゃない」
言ってしまった。俺は肩をすくめる。
「俺、正直」
「正直。……じゃ、短く整えよ。今日はちょい丁寧に」
丁寧、は手順が増える合図。
レイヴが椅子を引く。俺の前に座る。距離が近い。近いのに触れない。
その近さが、喉の渇きを前に出す。
「吸って、吐いて。……俺の数、聞いて」
俺は頷く。吸う。吐く。
数える声で頭の騒ぎが短くなる。短くなった分だけ、渇きだけが残る。
息が乱れかける。胸が浅く上下する。
レイヴの声が、軽さを残したまま芯を持つ。
「ミナト、止まって。……今、考えなくていい。目、俺見て」
目を上げる。瞳が角度で青紫に偏る。黒が深すぎて、底が見えない。
怖いのに、焦点が合うと落ち着く。
「同期だけじゃ、戻らない?」
俺の声がかすれる。喉が鳴る。
レイヴは笑って、否定しない。
「今日は、ちょい近くする。……嫌ならやめる」
嫌ならやめる。提案。同意に見える形。
俺は頷いてしまう。
覗き込む距離。吐息が頬にかかる。
身体が反射で吸いそうになる。
(吸うな)
止めようとして、止められない。
吸う。
吸う音が自分でも分かるくらい大きい。喉が鳴る。ごく、って。
身体が戻る。戻ってしまう。
(……もう少し)
それを口にしたら終わる気がしたから、俺は唇を噛んだ。
レイヴはすぐ距離を引いた。触れないまま、ぎりぎりで止める。
「戻った。……はい、終わり」
終わりにされると、また渇く。
俺は軽く息を吐いた。
「終わり、早くない?」
「早い方がいい。……欲張ると境界が寄ってくる」
「寄ってくる?」
「寄ってくる。……今はまだ、寄せない」
今はまだ。
その"まだ"が、いつかなくなる日を示唆してるみたいで、俺は視線を逸らした。
*
洗面の鏡。
首筋——喉元から鎖骨の間、利き側に、薄い影みたいなものが浮いている。
鴉の鉤爪。爪痕みたいに、短く、鋭い線が重なった意匠。五百円玉くらいの小ささなのに、目が離れない。
黒い。なのに角度を変えると、青紫が一瞬だけ走る。嫌な綺麗さ。
耳の裏、髪の生え際のあたりにも、熱が残っている気がして、俺は反射で髪を押さえた。見えない。見えない方がいい。
息を止めると、鉤爪は薄くなる。
息を吸うと、また少しだけ浮く。
触ると熱が返ってきた。熱が返ると、呼吸が勝手に深くなる。
「……気のせい、気のせい」
声に出すと、逆に確かになる気がして、俺は鏡から目を逸らした。
明るくしていたい。そうじゃないと、崩れる。
*
(レイヴ)
通知はまだ来ていない。
来ていないのに、端末を開いてしまう。
(業務)
そう言い聞かせる。対象者の安定化と帰還が最優先。担当は把握して管理する。それが仕事だ。
——本人に全部言わないのも、仕事だ。
警戒心は呼吸を乱す。乱れた呼吸は境界に引っかかる。だから言わない。軽口で包む。提案の形にする。
ミナトが「自分で選んだ」と思える形に。
(それが、正しい手順だ)
端末の画面には、淡々とした一覧が並ぶ。
睡眠。呼吸。未練の反応。夜間の揺れ。
そして——メモの更新。
レイヴは必要な範囲だけ見る。
……見る、つもりだった。
画面の端に、文字列の一部が覗く。
『パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』
そこで、喉の奥が一拍だけゆるむ。
(……なんだそれ)
笑いそうになる。笑うのはだめだ。業務中だ。
指先が止まる。視線が署名に吸い寄せられる。
『湊』
まだ、湊だ。
それが"良い"のか"危ない"のか、線引きが一瞬だけ曖昧になる。
さっき、吸う音がした。喉が鳴った。戻った。
戻ったはずなのに——鉤爪は、もう出ている。薄いのに、もう出ている。
レイヴは端末を閉じた。
閉じても、指先の熱が残る。
(明日も、ちゃんと守る)
そう思う。思いながら、"守る"がどっちの方向を向いてるのか、一瞬だけ分からなくなった。
廊下の灯りの下で、影がほんの少し揺れた。
レイヴはその揺れを見ないふりをして、足音を殺して歩き出した。




