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異界の境界施設  作者:
Case-M

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8/17

Case-M #7

目が覚めた瞬間、俺はスマホを探していた。


 連絡はできない。繋がらない。——分かってるのに、手は勝手にそこへ伸びる。

 布団の端をまさぐって、冷たいガラスに触れて、そこでようやく息を吐いた。


 ある。……ある。


 それだけで、指先のこわばりが少しほどける。

自分でも変だと思いながら、メモを開いた。白い画面が眩しい。


 最初の行に指が行って——


『湊』


 そこで、ほんの一瞬止まる。

 止まる理由が分からない。湊は俺で、ずっと俺で、変わるはずがない。

 なのに、喉のあたりがじん、と熱を持った気がして、俺は小さく息を吐く。

 (寝起き、ちょっと敏感になってるだけ)

 そのまま書き始めた。


『湊

 週次二回目。

 二回目って言葉がもう嫌だ。慣れてきてる感じがするから。

 でも慣れないと、ここで息が詰まる。』

 文字にすると、息が少し深くなる。胸の中のざわつきが、散らばらない。

『昨日よりは寝られた。

 動画の音は相変わらず変。

 見た。やめとけばいいのに。』

 そこで止めて、スマホを伏せた。

 "自分のため"。

 その言葉が、ここでは少し甘い。甘いから、噛みしめるのが怖い。



 ノックが二回。


「おはよ、ミナト」

 レイヴの軽い声。軽いのに、それが"朝の合図"になってるのが腹立つ。


「おはよ。今日、審査だよね」


「そ。二回目。昨日の夜は?寝れた?」


「……まあ、ちょっと」


「ちょっとでも寝れたなら上等。じゃ、着替えよ。タグ確認」


 タグ。指が自然にそこへ行く。冷たい金属を撫でて、俺はまた苦笑してしまう。


「これ、ほんとに外せないんだよな」


「外せない。外すと迷う」


 さらっと言われると怖いから、俺は明るく返す。


「俺、方向音痴じゃないんだけど」


「境界相手だと、誰でも方向音痴」


「最悪」


「最悪。でも対策がある」


 対策。手順。制度。


 レイヴはわざと軽口みたいに言った。


「審査前に深呼吸一回。——ほら、今」


「今やるの?」


「今。ミナト、顔ちょい固い」


「固いって言うな」


「言う。固いから」


 俺は渋々、息を吸って吐いた。それだけで喉の渇きが少し引く。


 ……引くのが、少し怖い。


 検査室の前。

 並びの空気は前より分かる。分かる、ってことがまた怖い。

 レイヴが肩をぶつけるみたいに、軽く言う。


「終わったら、ゴルドが飯で整えると思うよ」


「整えるって言い方」


「整える。あの人、温かいもの渡すの上手いじゃん。……この前も、スープで一発だったろ」


「一発って言うな。……でも、助かった」


 "助かった"って言葉を口にした瞬間、喉が少し楽になる。それが悔しい。


「でしょ。だから効く」


 言った瞬間、レイヴは軽く笑って流した。ごまかし方が上手いのが、余計に不穏だ。


「……まあ、効くものを使うだけ。君が潰れないように」



 魔具の簡易測定は前回より手早い。


 冷たい板に手を置いて、光が走って、数値が出る。意味は分からないのに、空気だけで"悪くない"のが伝わる。


「適応値、微改善。暴走リスク、低下。継続」


 継続。希望と皮肉が同時に刺さる単語。


 隣でレイヴが笑った。


「ね。順調」


「順調って……」


「順調。だから今日もいつも通りでいい」


 いつも通り。二回目が、もう"いつも通り"になる。


 俺は頷いた。頷きながら胸の奥がきゅっと縮む。

 (いつも通りが増えるほど、帰り道が遠くなる)



 審査の後の廊下は、妙に白い。


 身体の力が抜けたぶん、空白が来る。空白に"帰れない現実"が滑り込んでくる。


 そこで、遠くから声が飛んできた。


「ミナト〜!こっちよぉ〜!」


 でかい声。でかい身体。なのに、この声はもう、"怖い"より先に"助かる"が来る。


「……うるせぇ、ゴルド」


 その隣の低い声も、もう知ってる。リュカは相変わらずツンツンしてる。


 ゴルドが俺の前に来て、手をひらひらさせる。


「審査どうだった?顔、前よりマシじゃな〜い?」


「顔で測るなって」


「測るわよ。人間の顔って分かりやすいのよぉ」


 リュカが俺を一瞥する。目つきは鋭いのに、視線が先に首筋に落ちるのが分かる。


「……熱、出てないな」


「それ、心配してる?」


「してない」


「嘘つけ」


「黙れ」


 このやりとりも、もう"いつものやつ"になりかけている。

 ゴルドが俺の肘を軽くつつく。


「ねぇ、また"成宮"って呼ばれたい?」


「呼ばれたいわけないだろ」


 俺が即答すると、リュカが露骨に眉を寄せる。


「……一回だけだ」


「一回で十分怖い。あれ、背中ぞわってした」


「……悪かった」


 謝る声が小さい。リュカの謝り方は、いつもぶっきらぼうで、だからこそ効く。


 そこへレイヴが軽く手を振った。


「じゃ、俺は仕事戻る。……ミナト、任せていい?」


「勝手に任せんな」


「勝手に任せる。提案」


「……はぁ」


 レイヴの背中が遠ざかると、空気が少し冷える。冷えるのに、俺はそれに慣れたふりをする。


 ゴルドが俺の背中を軽く押した。


「ほらほら。今日は"中"を案内してあげる。外に出たくなる理由、薄めときなさい」


「薄めるって言うな」


「言うわよぉ。人間、外に引っ張られるんだもん」



 談話室。図書室。ゲーム台のある区画。休憩用のソファ。


 どれも"ここで過ごせる"が形になってる。


 リュカが相変わらず口が悪い。


「勝手に触るな。変なの起動する」


「変なのって何」


「変なのは変なのだ」


「説明になってない」


 俺が笑うと、リュカは眉を寄せる。


「笑うな。危ない」


「危ないって言われると余計笑う。緊張で」


「緊張するなら黙れ」


「黙れない。黙ると余計変なこと考える」


 言った瞬間、喉が渇く。胸の方へ上がってくる感じがして、俺は笑った。


「ほらね。だから喋る」


 リュカは小さく舌打ちして、それでも歩く速度を少し落とした。合わせてくれてる。


 ゴルドがわざとらしく肩を揺らす。


「優し〜」


「黙れ」



 食堂。


 温かい匂いがする。それだけで腹が鳴るのが悔しい。


 ゴルドがカウンターから受け取った器を、何も言わずに俺の前へ置く。


 深い色のスープ。湯気が立つ。香りが静かに胸に落ちる。


「……またこれ?」


 俺が言うと、ゴルドは顎をしゃくった。


「またこれよぉ。飲め。冷めるわよ」


「押し付けじゃないよね」


「押し付けじゃない。友達のやつ」



 友達のやつ。それが胸の奥にすとん、と入る。


 リュカが横で腕を組んだまま言う。


「嫌なら残せ。無理に飲むな」


「じゃあ毒じゃない?」


「毒なら出すな」


「……だよな」


 俺は器を両手で持った。熱が手のひらにじん、と来る。


 一口。


 喉を通る温度が、思った以上に優しい。喉の奥の緊張が、熱でゆっくりほどける。肩が落ちる。息が勝手に深くなる。


「……うま」


 言葉が勝手に出た。


 ゴルドが満足そうに笑う。


「でしょ〜。ここで干からびるのが一番だめ」


 言い方は雑なのに、意味は真面目だ。


 二口目。温度が胸の奥まで届いて、空白が埋まっていく。


 帰れない現実が、少しだけ遠くなる。——それが、怖いのに助かる。


 リュカが俺をちらっと見て、鼻で笑った。


「単純」


「単純でいい。単純な方が息しやすい」


 リュカは言い返せない顔で目を逸らした。



 部屋に戻ると、灯りが"夕方っぽい"顔をしていた。


 俺はスマホを開く。動画は見ない。今日はやめる。代わりにメモ。

 指が最初の行へ行って、また止まる。


『湊』


 打てる。打てるのに止まる。

 俺は少し間を置いてから、打った。今日はまだ湊でいい。


『湊

 週次二回目。数値、ちょい良くなったらしい。

 よしって思った自分が嫌だ。でも、よしって思わないとやってられない。』


 今日のことを書く。


『ゴルドのスープ、また助かった。

 温かいだけで息が深くなる。

 ここで"助かる"が増えるほど、怖い。』


 そして、勝手に出た。


『息合わせがあると助かる。

 あれがあると戻れる。

 戻れるのに、また頼んでしまう気がする。』


 書き終えて、スマホを伏せた。


 落ち着く。落ち着くのに、背中が寒い。

 (俺、ここに慣れ始めてる)



 夜。


 ……動画を見てしまった。音が小さい。名前が抜ける。

 胸が詰まって息が浅くなる。浅くなると喉が渇く。渇くと——思い出す。

 吐息。吸う音。喉が鳴って、身体が戻った感覚。


 (吸うと戻る)


 そこに言葉をつけた瞬間、怖くなる。

 "吸うと戻る"が俺の身体の法則みたいになってるのが、怖い。

 タグを握る。冷たいのに、指先だけ熱い。



 ノック二回。俺が呼ぶより先にレイヴが来た。



「起きてる?」


「……起きてる」


「顔、どう?」


「どうって……まあ、普通」


「普通じゃない時は?」


「……普通じゃない」


 言ってしまった。俺は肩をすくめる。


「俺、正直」


「正直。……じゃ、短く整えよ。今日はちょい丁寧に」


 丁寧、は手順が増える合図。


 レイヴが椅子を引く。俺の前に座る。距離が近い。近いのに触れない。


 その近さが、喉の渇きを前に出す。


「吸って、吐いて。……俺の数、聞いて」


 俺は頷く。吸う。吐く。

 数える声で頭の騒ぎが短くなる。短くなった分だけ、渇きだけが残る。

 息が乱れかける。胸が浅く上下する。

 レイヴの声が、軽さを残したまま芯を持つ。


「ミナト、止まって。……今、考えなくていい。目、俺見て」


 目を上げる。瞳が角度で青紫に偏る。黒が深すぎて、底が見えない。

 怖いのに、焦点が合うと落ち着く。



「同期だけじゃ、戻らない?」


 俺の声がかすれる。喉が鳴る。

 レイヴは笑って、否定しない。



「今日は、ちょい近くする。……嫌ならやめる」


 嫌ならやめる。提案。同意に見える形。


 俺は頷いてしまう。


 覗き込む距離。吐息が頬にかかる。


 身体が反射で吸いそうになる。


 (吸うな)


 止めようとして、止められない。


 吸う。


 吸う音が自分でも分かるくらい大きい。喉が鳴る。ごく、って。


 身体が戻る。戻ってしまう。

 (……もう少し)


 それを口にしたら終わる気がしたから、俺は唇を噛んだ。

 レイヴはすぐ距離を引いた。触れないまま、ぎりぎりで止める。


「戻った。……はい、終わり」


 終わりにされると、また渇く。

 俺は軽く息を吐いた。


「終わり、早くない?」


「早い方がいい。……欲張ると境界が寄ってくる」


「寄ってくる?」


「寄ってくる。……今はまだ、寄せない」


 今はまだ。

 その"まだ"が、いつかなくなる日を示唆してるみたいで、俺は視線を逸らした。



 洗面の鏡。


 首筋——喉元から鎖骨の間、利き側に、薄い影みたいなものが浮いている。


 鴉の鉤爪。爪痕みたいに、短く、鋭い線が重なった意匠。五百円玉くらいの小ささなのに、目が離れない。


 黒い。なのに角度を変えると、青紫が一瞬だけ走る。嫌な綺麗さ。


 耳の裏、髪の生え際のあたりにも、熱が残っている気がして、俺は反射で髪を押さえた。見えない。見えない方がいい。


 息を止めると、鉤爪は薄くなる。


 息を吸うと、また少しだけ浮く。


 触ると熱が返ってきた。熱が返ると、呼吸が勝手に深くなる。


「……気のせい、気のせい」


 声に出すと、逆に確かになる気がして、俺は鏡から目を逸らした。

 明るくしていたい。そうじゃないと、崩れる。



(レイヴ)

 通知はまだ来ていない。

 来ていないのに、端末を開いてしまう。


 (業務)


 そう言い聞かせる。対象者の安定化と帰還が最優先。担当は把握して管理する。それが仕事だ。

 ——本人に全部言わないのも、仕事だ。


 警戒心は呼吸を乱す。乱れた呼吸は境界に引っかかる。だから言わない。軽口で包む。提案の形にする。


 ミナトが「自分で選んだ」と思える形に。

 (それが、正しい手順だ)

 端末の画面には、淡々とした一覧が並ぶ。


 睡眠。呼吸。未練の反応。夜間の揺れ。

 そして——メモの更新。


 レイヴは必要な範囲だけ見る。

 ……見る、つもりだった。

 画面の端に、文字列の一部が覗く。


『パンがちゃんと美味いのが腹立つ。』


 そこで、喉の奥が一拍だけゆるむ。

 (……なんだそれ)


 笑いそうになる。笑うのはだめだ。業務中だ。


 指先が止まる。視線が署名に吸い寄せられる。


『湊』

 まだ、湊だ。

 それが"良い"のか"危ない"のか、線引きが一瞬だけ曖昧になる。


 さっき、吸う音がした。喉が鳴った。戻った。


 戻ったはずなのに——鉤爪は、もう出ている。薄いのに、もう出ている。


 レイヴは端末を閉じた。


 閉じても、指先の熱が残る。


 (明日も、ちゃんと守る)


 そう思う。思いながら、"守る"がどっちの方向を向いてるのか、一瞬だけ分からなくなった。


 廊下の灯りの下で、影がほんの少し揺れた。


 レイヴはその揺れを見ないふりをして、足音を殺して歩き出した。

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