Case-M #23
朝、目が覚めたとき、最初に「息ができる」と思った。
その次に来たのが、「でも足りない」だった。
俺は枕に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「……ほんとやだ」
苦しくはない。発作もない。胸はちゃんと上下してるし、喉も塞がってない。
なのに、身体の奥のどこかが、まだ"何か"を探している。
手が、勝手に首元へ伸びた。
護符。
布の端に触れて、指で引き寄せる。匂いを吸う。
――落ちる。
肩がゆるむ。呼吸が胸に戻る。喉の奥の乾きが、一拍遅れて引く。
助かる。
助かるのに、そのすぐあとで、胸の奥がざわついた。
これじゃ足りない、って。
言ってはいけない形の欲が、静かにそこにある。
俺はそれを笑って散らした。
「……発作の予兆、ってことにしよ」
言い訳を置く。
それだけで、少しだけ楽になる。
自分の中の"別の理由"を見ないで済む。
⸻
日中は、普通だった。
導線の線の上を歩く。札のある角で自然に減速する。タグに触れて確認する。
全部が、呼吸と同じくらい当たり前になってきている。
その当たり前が、たまに怖い。
でも今日は、その"怖さ"より先に、別の違和感があった。
昼過ぎ、廊下で足を止めた。
胸の奥が、すっと冷える。
発作じゃない。
分かる。
でも、"来る前の感じ"がある。
喉が鳴る。唾液が少し増える。呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
俺は一度、護符を握った。
匂いを吸う。
――薄い。
昨日と違う。
ちゃんとあるのに、奥まで届かない。
肺に触れる前に、どこかで散る感じ。
「……あれ」
思わず声が漏れた。
心臓が少し早くなる。
やばい、というほどじゃない。
でも、"このままいくとやばい"という確信だけがある。
その時だった。
「ミナトちゃん?」
柔らかい声が、横から落ちてきた。
振り向くと、ゴルドがいた。
大きい身体。しっかりした肩幅。なのに立ち方がやわらかい。手首の角度や視線の置き方が、どこか"女性的"で、威圧にならない。
「顔色、ちょっとだけよくないわね」
ゴルドは近づきすぎない距離で止まった。
いきなり触らない。
でも逃げ場も消さない。
「呼吸、浅い?」
「……ちょっとだけ」
素直に答えてしまう。
ゴルドは頷いた。
「いいのよ、無理に隠さなくて。そういう日もあるもの」
その言い方が、優しい。
優しいのに、甘やかしすぎない。
「座る?」
「……ううん、大丈夫」
「そう。じゃあ、そのまま聞いて」
ゴルドは少しだけ声を落とした。
「息はね、戻ってくるものなの。焦って取りにいくと逃げるのよ」
ゆっくりしたテンポで言う。
「吐くことだけ考えて。吸うのはあとからついてくるわ」
レイヴとは違う。
命令じゃない。誘導でもない。
"教える"に近い。
俺は言われた通りに、少し長く吐いた。
胸の奥が少しだけゆるむ。
でも――
足りない。
戻ってはいる。
でも、欲しい場所まで届かない。
その瞬間、自分でも分かるくらい、身体が別のものを探した。
匂い。
あの濃さ。
あの近さ。
レイヴ。
俺はそこで、息を止めた。
ゴルドがいるのに。
今、整ってきているのに。
それでも頭に浮かぶのが、別の担当のこと。
「……ねえ、ミナトちゃん」
ゴルドが優しく呼ぶ。
「まだ足りない顔してるわよ」
当てられて、視線を逸らした。
「……うん」
小さく答える。
ゴルドは一瞬だけ、考える顔をした。
それから、少しだけ距離を詰めた。
触れない。
でも、声を少し近くに置く。
「ね、ひとつ聞いていい?」
「……なに」
「"誰"を思い浮かべてるの?」
息が止まった。
完全に。
図星すぎて、言葉が出ない。
ゴルドは追い詰めない。
ただ、待つ。
逃げてもいい距離を保ったまま。
俺は少しだけ迷って、でも、誤魔化す余裕もなくて、口を開いた。
「……レイヴ」
言った瞬間、喉が鳴った。
恥ずかしい。
でも同時に、少し楽になる。
名前にしたことで、形がはっきりした。
ゴルドは小さく頷いた。
「そう」
否定しない。
「じゃあ、それが今のミナトちゃんの"戻る場所"なのね」
その言葉が、妙にすっと入った。
戻る場所。
逃げ場じゃなくて、戻る場所。
それは、少しだけ優しい言い方だった。
でも同時に、怖い。
そこしかないみたいに聞こえるから。
ゴルドはそこで、少しだけ俺の顔を見た。
見て、何かを確認するみたいに間を置いて、それから続けた。
「ミナトちゃんはね」
声が、一段柔らかくなる。
「レイヴがいると呼吸が戻るなら、それは本当のことなのよ」
本当のこと。
その言い方が、ずるい。
否定しない。だから返せない。
「でも、本当のことがぜんぶ正しいとは限らないわ」
そこで足す。
優しいまま、でもちゃんと置く。
「どこに落ち着くかは、ミナトちゃんが決めることよ。誰かが決めることじゃなくてね」
その言葉が、喉の奥にひっかかった。
誰かが決めることじゃない。
俺が決めること。
その"俺"が、今どこにいるのか、分からなくなってる気がして、胸の奥がひやりとした。
「呼ぶ?」
ゴルドが静かに聞く。
選択を渡してくる。
ここで初めて、俺はちゃんと止まった。
呼ぶか、呼ばないか。
今までは、流れで呼んでいた。
でも今回は違う。
選べる。
まだ戻れる。
レイヴじゃなくても、落ち着けるかもしれない。
ゴルドの呼吸で、もう少し続ければ。
そう思うのに。
身体が、はっきり拒否した。
足りない。
違う。
そこじゃない。
それが分かってしまう。
俺は唇を噛んだ。
呼びたくない。
でも呼びたい。
呼んだら、もう"当たり前"になる気がする。
でも呼ばないと、この中途半端な状態が続く。
どっちも嫌だ。
どっちも楽じゃない。
その中で、俺の指が先に動いた。
タグに触れる。
ほんの少しだけ強く。
呼ぶ合図。
意識的にやった。
初めて、自分で選んで。
「……呼ぶ」
声に出した。
ゴルドは、少しだけ微笑んだ。
「ええ。いいと思うわ」
否定しない。
でも、背中を押しすぎもしない。
「ただし」
少しだけ指を立てる。
「呼んだことは、自分で覚えておきなさい」
その一言が、静かに刺さった。
⸻
足音はすぐ来た。
軽い。速い。でも乱れてない。
レイヴ。
「ミナト?」
声が落ちる。
俺を見る目が、一瞬で状況を測る。
ゴルドの存在も含めて、全部。
「なるほどね」
小さく言う。
それ以上、何も聞かない。
すぐに手順へ入る。
「護符、ちょい貸して」
指先で取る。
乱暴じゃない。
でも迷いもない。
ゴルドとは違う。
"選ばせない速さ"。
それが、今の俺には楽だった。
レイヴが息を吐く。
布に染みる。
匂いが濃くなる。
その瞬間、身体が先に反応した。
胸がほどける。
喉が湿る。
思考が、静かに落ちる。
ゴルドの時とは違う。
あの時は、ゆっくりと"戻っていく"感じだった。
呼吸が整って、胸の固さがほどけて、それが少しずつ積み上がる感じ。
でも今は違う。
一拍で、全部が"落ちる"。
胸郭が開く。肩が抜ける。頭の中のざわつきが、水に沈むみたいに静かになる。
速い。
深い。
その落ち方に、身体が先に喜んでしまう。
「……っ」
声が漏れる。
恥ずかしい。
でも、止まらない。
「はい、戻った」
レイヴが軽く言う。
戻った。
でも俺の中では、"落ちた"という言葉の方が合っている気がした。
戻るというより、落ちた先に着地した感じ。
そこが、今の俺の"いる場所"になっている。
レイヴは俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「呼んだ?」
「……うん」
「えらいじゃん」
その言い方が、ひどく軽いのに、胸に残る。
えらい。
自分で呼んだことを、そう言われる。
その評価が、ちゃんと身体に落ちる。
ゴルドが横で、静かに息を吐いた。
何も言わない。
でも、見ている。
俺がどう選んだかを。
そしてその選択が、どこへ向かっているのかも。
⸻
夜。
メモを開く。
予測変換が出る。
湊 / ミナト
迷わない。
ミナト。
『ミナト
今日、ゴルドに見つかった。
呼吸を整えてもらった。
でも、足りなかった。
レイヴのこと考えてた。
名前にしたら、少し楽だった。
呼ぶか迷った。
呼ばないで済ませたかった。
でも、無理だった。
自分で呼んだ。
来たら、落ちた。
やっぱり、これが一番早い。
……気持ちいいって思った。
もう隠せない。
ゴルドは優しかった。
でも、違った。
レイヴは速い。
考えなくて済む。
俺はたぶん、考えない方を選んだ。
それが怖いはずなのに、
今日はちゃんと選んだって思ってる。
どっちも本当。』
ミナト
⸻
端末の画面が、静かに光る。
レイヴは日記を読み終えて、ゆっくり息を吐いた。
"自分で呼んだ"。
その一文が、やけに重い。
段階が進んだ。
受動じゃない。
能動。
これは、戻りにくい。
分かってる。
分かってるのに。
「……順調だな」
口に出す。
優秀担当の声で。
でも、その奥にある感情は、少し違う。
満足。
それが一番近い。
最悪だ、と思いながら、レイヴは画面を閉じた。




