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異界の境界施設  作者:
Case-M

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26/27

Case-M #23


朝、目が覚めたとき、最初に「息ができる」と思った。


 その次に来たのが、「でも足りない」だった。


 俺は枕に顔を埋めたまま、小さく笑った。


「……ほんとやだ」


 苦しくはない。発作もない。胸はちゃんと上下してるし、喉も塞がってない。


 なのに、身体の奥のどこかが、まだ"何か"を探している。


 手が、勝手に首元へ伸びた。


 護符。


 布の端に触れて、指で引き寄せる。匂いを吸う。


 ――落ちる。


 肩がゆるむ。呼吸が胸に戻る。喉の奥の乾きが、一拍遅れて引く。


 助かる。


 助かるのに、そのすぐあとで、胸の奥がざわついた。


 これじゃ足りない、って。


 言ってはいけない形の欲が、静かにそこにある。


 俺はそれを笑って散らした。


「……発作の予兆、ってことにしよ」


 言い訳を置く。


 それだけで、少しだけ楽になる。


 自分の中の"別の理由"を見ないで済む。





 日中は、普通だった。


 導線の線の上を歩く。札のある角で自然に減速する。タグに触れて確認する。


 全部が、呼吸と同じくらい当たり前になってきている。


 その当たり前が、たまに怖い。


 でも今日は、その"怖さ"より先に、別の違和感があった。


 昼過ぎ、廊下で足を止めた。


 胸の奥が、すっと冷える。


 発作じゃない。


 分かる。


 でも、"来る前の感じ"がある。


 喉が鳴る。唾液が少し増える。呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。


 俺は一度、護符を握った。


 匂いを吸う。


 ――薄い。


 昨日と違う。


 ちゃんとあるのに、奥まで届かない。


 肺に触れる前に、どこかで散る感じ。


「……あれ」


 思わず声が漏れた。


 心臓が少し早くなる。


 やばい、というほどじゃない。


 でも、"このままいくとやばい"という確信だけがある。


 その時だった。


「ミナトちゃん?」


 柔らかい声が、横から落ちてきた。


 振り向くと、ゴルドがいた。


 大きい身体。しっかりした肩幅。なのに立ち方がやわらかい。手首の角度や視線の置き方が、どこか"女性的"で、威圧にならない。


「顔色、ちょっとだけよくないわね」


 ゴルドは近づきすぎない距離で止まった。


 いきなり触らない。


 でも逃げ場も消さない。


「呼吸、浅い?」


「……ちょっとだけ」


 素直に答えてしまう。


 ゴルドは頷いた。


「いいのよ、無理に隠さなくて。そういう日もあるもの」


 その言い方が、優しい。


 優しいのに、甘やかしすぎない。


「座る?」


「……ううん、大丈夫」


「そう。じゃあ、そのまま聞いて」


 ゴルドは少しだけ声を落とした。


「息はね、戻ってくるものなの。焦って取りにいくと逃げるのよ」


 ゆっくりしたテンポで言う。


「吐くことだけ考えて。吸うのはあとからついてくるわ」


 レイヴとは違う。


 命令じゃない。誘導でもない。


 "教える"に近い。


 俺は言われた通りに、少し長く吐いた。


 胸の奥が少しだけゆるむ。


 でも――


 足りない。


 戻ってはいる。


 でも、欲しい場所まで届かない。


 その瞬間、自分でも分かるくらい、身体が別のものを探した。


 匂い。


 あの濃さ。


 あの近さ。


 レイヴ。


 俺はそこで、息を止めた。


 ゴルドがいるのに。


 今、整ってきているのに。


 それでも頭に浮かぶのが、別の担当のこと。


「……ねえ、ミナトちゃん」


 ゴルドが優しく呼ぶ。


「まだ足りない顔してるわよ」


 当てられて、視線を逸らした。


「……うん」


 小さく答える。


 ゴルドは一瞬だけ、考える顔をした。


 それから、少しだけ距離を詰めた。


 触れない。


 でも、声を少し近くに置く。


「ね、ひとつ聞いていい?」


「……なに」


「"誰"を思い浮かべてるの?」


 息が止まった。


 完全に。


 図星すぎて、言葉が出ない。


 ゴルドは追い詰めない。


 ただ、待つ。


 逃げてもいい距離を保ったまま。


 俺は少しだけ迷って、でも、誤魔化す余裕もなくて、口を開いた。


「……レイヴ」


 言った瞬間、喉が鳴った。


 恥ずかしい。


 でも同時に、少し楽になる。


 名前にしたことで、形がはっきりした。


 ゴルドは小さく頷いた。


「そう」


 否定しない。


「じゃあ、それが今のミナトちゃんの"戻る場所"なのね」


 その言葉が、妙にすっと入った。


 戻る場所。


 逃げ場じゃなくて、戻る場所。


 それは、少しだけ優しい言い方だった。


 でも同時に、怖い。


 そこしかないみたいに聞こえるから。


 ゴルドはそこで、少しだけ俺の顔を見た。


 見て、何かを確認するみたいに間を置いて、それから続けた。


「ミナトちゃんはね」


 声が、一段柔らかくなる。


「レイヴがいると呼吸が戻るなら、それは本当のことなのよ」


 本当のこと。


 その言い方が、ずるい。


 否定しない。だから返せない。


「でも、本当のことがぜんぶ正しいとは限らないわ」


 そこで足す。


 優しいまま、でもちゃんと置く。


「どこに落ち着くかは、ミナトちゃんが決めることよ。誰かが決めることじゃなくてね」


 その言葉が、喉の奥にひっかかった。


 誰かが決めることじゃない。


 俺が決めること。


 その"俺"が、今どこにいるのか、分からなくなってる気がして、胸の奥がひやりとした。


「呼ぶ?」


 ゴルドが静かに聞く。


 選択を渡してくる。


 ここで初めて、俺はちゃんと止まった。


 呼ぶか、呼ばないか。


 今までは、流れで呼んでいた。


 でも今回は違う。


 選べる。


 まだ戻れる。


 レイヴじゃなくても、落ち着けるかもしれない。


 ゴルドの呼吸で、もう少し続ければ。


 そう思うのに。


 身体が、はっきり拒否した。


 足りない。


 違う。


 そこじゃない。


 それが分かってしまう。


 俺は唇を噛んだ。


 呼びたくない。


 でも呼びたい。


 呼んだら、もう"当たり前"になる気がする。


 でも呼ばないと、この中途半端な状態が続く。


 どっちも嫌だ。


 どっちも楽じゃない。


 その中で、俺の指が先に動いた。


 タグに触れる。


 ほんの少しだけ強く。


 呼ぶ合図。


 意識的にやった。


 初めて、自分で選んで。


「……呼ぶ」


 声に出した。


 ゴルドは、少しだけ微笑んだ。


「ええ。いいと思うわ」


 否定しない。


 でも、背中を押しすぎもしない。


「ただし」


 少しだけ指を立てる。


「呼んだことは、自分で覚えておきなさい」


 その一言が、静かに刺さった。





 足音はすぐ来た。


 軽い。速い。でも乱れてない。


 レイヴ。


「ミナト?」


 声が落ちる。


 俺を見る目が、一瞬で状況を測る。


 ゴルドの存在も含めて、全部。


「なるほどね」


 小さく言う。


 それ以上、何も聞かない。


 すぐに手順へ入る。


「護符、ちょい貸して」


 指先で取る。


 乱暴じゃない。


 でも迷いもない。


 ゴルドとは違う。


 "選ばせない速さ"。


 それが、今の俺には楽だった。


 レイヴが息を吐く。


 布に染みる。


 匂いが濃くなる。


 その瞬間、身体が先に反応した。


 胸がほどける。


 喉が湿る。


 思考が、静かに落ちる。


 ゴルドの時とは違う。


 あの時は、ゆっくりと"戻っていく"感じだった。


 呼吸が整って、胸の固さがほどけて、それが少しずつ積み上がる感じ。


 でも今は違う。


 一拍で、全部が"落ちる"。


 胸郭が開く。肩が抜ける。頭の中のざわつきが、水に沈むみたいに静かになる。


 速い。


 深い。


 その落ち方に、身体が先に喜んでしまう。


「……っ」


 声が漏れる。


 恥ずかしい。


 でも、止まらない。


「はい、戻った」


 レイヴが軽く言う。


 戻った。


 でも俺の中では、"落ちた"という言葉の方が合っている気がした。


 戻るというより、落ちた先に着地した感じ。


 そこが、今の俺の"いる場所"になっている。


 レイヴは俺の顔を見て、少しだけ笑った。


「呼んだ?」


「……うん」


「えらいじゃん」


 その言い方が、ひどく軽いのに、胸に残る。


 えらい。


 自分で呼んだことを、そう言われる。


 その評価が、ちゃんと身体に落ちる。


 ゴルドが横で、静かに息を吐いた。


 何も言わない。


 でも、見ている。


 俺がどう選んだかを。


 そしてその選択が、どこへ向かっているのかも。





 夜。


 メモを開く。


 予測変換が出る。


 湊 / ミナト


 迷わない。


 ミナト。


『ミナト


今日、ゴルドに見つかった。

呼吸を整えてもらった。

でも、足りなかった。


レイヴのこと考えてた。

名前にしたら、少し楽だった。


呼ぶか迷った。

呼ばないで済ませたかった。

でも、無理だった。


自分で呼んだ。


来たら、落ちた。

やっぱり、これが一番早い。


……気持ちいいって思った。


もう隠せない。


ゴルドは優しかった。

でも、違った。


レイヴは速い。

考えなくて済む。


俺はたぶん、考えない方を選んだ。


それが怖いはずなのに、

今日はちゃんと選んだって思ってる。


どっちも本当。』


 ミナト





 端末の画面が、静かに光る。


 レイヴは日記を読み終えて、ゆっくり息を吐いた。


 "自分で呼んだ"。


 その一文が、やけに重い。


 段階が進んだ。


 受動じゃない。


 能動。


 これは、戻りにくい。


 分かってる。


 分かってるのに。


「……順調だな」


 口に出す。


 優秀担当の声で。


 でも、その奥にある感情は、少し違う。


 満足。


 それが一番近い。


 最悪だ、と思いながら、レイヴは画面を閉じた。




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