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異界の境界施設  作者:
Case-M

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27/27

Case-M #24


 朝、目が開いた瞬間から、胸の奥が"探して"いた。


 護符は枕元にある。昨夜のうちに、ちゃんと手の届く場所へ置いた。指先で掴んで、布の端を軽く握りこむ。いつもなら、それだけで息が落ちる。


 ……落ちる。落ちるのに。


 匂いが"薄い"気がした。


 薄い、というより——足りない。肺の奥まで届くはずの輪郭が、途中でほどけて消えてしまうみたいな。吸っても吸っても、胸郭の内側が固いまま。喉だけが乾いて、つばが変に溜まって、飲み込むたびに音がして、余計に自分がうるさい。


「寝不足かな……」


 そう言ってみる。明るく言えば落ち着く気がして、いつもの癖で笑う。


 でも、口角を上げた瞬間、甘い匂いがふっと立った気がした。蜜。……"壊れそうなのに笑う時"に濃くなるやつ。


 自分では見えないはずなのに、分かってしまうのが嫌で、俺は護符を握る力を強めた。


 タグに触れる。


 ミナト。


 表示はいつも通りだ。……けど、一瞬だけ文字の端が滲んだように見えた。欠け、みたいな。


 見間違いだ、と決める。


 そういうことにして、息を吸い直す。


 大丈夫。今日もちゃんと、過ごせる。


 そう思いたいのに、胸の奥は"戻る場所"を探して、ずっと落ち着かなかった。





 日中、導線の札が増えていた。


 壁沿いの線。床の境界。いつものルートなのに、今日は何度も目で追ってしまう。追うたび、息が浅くなる。


 どこまで行っていいのか、確認しないと落ち着かない。


「……慣れてきたな」


 冗談みたいに言う。


 その声に、隣の気配が一瞬だけ止まった。


 リュカだ。


 端末に視線を落としたまま、短く言う。


「雫、回数増やすなよ」

「……え、使わないよ。今日は」

「週三。例外は必要な時だけだ。……当たり前だろ」


 "当たり前"。


 妙に刺さる。


 俺は「うん」と頷いて、護符を握り直した。


 リュカが目を細める。蜜の匂いを嗅いだ時みたいな、あの一瞬。


「切らすな。……お前がしんどくなる」

「切らしてないよ。ほら、持ってる」

「持ってるだけで安心するなら、それでいい。……変な顔すんな」


 変な顔。


 安心するなら、それでいい。


 優しいのに、怖い。


 俺はまた笑って誤魔化す。


「大丈夫。俺、結構、適応してきたかも」


 言った瞬間、胸の奥がひやっとする。


 "適応"。


 俺の言葉のはずなのに、どこか借り物みたいに滑る。


 リュカは鼻で笑って、導線の線を軽く叩いた。


「だったら余計に、線は守れ。迷い域に引かれたら面倒なのはお前だ」

「……うん」


 素直に頷く。


 頷くと、少しだけ楽になる。


 そういうふうに、出来てきている。





 夕方、喉が鳴った。


 ほんの少し。発作ってほどじゃない。


 護符もある。導線も守ってる。やることもやってる。


 なのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 手のひらが熱い。


 匂いを吸う。吸う。


 ……薄い。


 "発作未満"なのに、頭の中で言い訳が走る。


 また息が変かも。

 念のため。

 バイタル確認だけ。


 理由を作ってる自分に気づいて、喉が締まる。


 恥ずかしい。


 ……でも、苦しい。


 口が勝手に開いた。


「……レイヴ」


 小さい。吐息みたいな声。


 でも、呼んだ瞬間、胸の奥が少しほどけた。


 呼んだ。


 俺、今——呼んだ。


 遅れて恥ずかしさが来る。頬が熱くなる。


 その時、軽い足音。


「んー? 呼んだ?」


 レイヴはいつも通り軽く笑ってる。


 でも目だけが、真面目だった。


 タグを見る。護符を見る。俺の喉を見る。


「顔、赤いね。……熱?」

「ち、違う。たぶん……息がちょっと」

「はいはい、確認ね。来て」


 軽いのに、逆らえない。


 俺の足は勝手に動く。導線の上を踏んで。


 小さな処置スペース。


 入った瞬間、肩の力が抜けた。


 それが、怖い。


 レイヴは護符を指先でつまむ。


 近い。匂いが近い。


「……薄い?」

「……え」

「薄いって顔してる」


 見透かされる。


「気のせいだよ」

「気のせいで呼んだの? かわいいな」


 軽口。


 でも、残る。


 レイヴは親指で護符をなぞる。


 魔力が染みる。


 匂いが、じわっと濃くなる。


 それだけで、喉がほどけた。


 息が長くなる。肩が落ちる。瞼が重くなる。


 口が開く。だらしなく、緩む。


 ——気持ちいい、に寄る。


 慌てて口を閉じる。


「ほら。吸って」

「……っ」


 吸う。


 肺の奥まで満ちる。


 胸が溶ける。


 体の中心が熱くなって、下に落ちる。


 安心なのに、甘い。


「……これ、ずるい」

「安全装置だよ?」

「……匂い、薄いと不安になる」


 言ってしまった。


 レイヴの指が止まる。


 目がわずかに丸くなる。


 でもすぐ笑う。


「じゃあ切れたら困るよね。管理、俺がやるから」

「……うん」

「整った? じゃ、次。息合わせよっか」


 視線を捕まえられる。


「見て。……吐くの合わせる」

「……うん」


 吐く。吸う。


 レイヴが"正解"になる。


 顔が近い。声が近い。息が重なる。


 吸うたび、体が落ちる。


 落ち着く、じゃ足りない。


 楽。……気持ちいい。


 一回目が終わる。


 胸の奥が埋まる。でも、足りないが先に来る。


 楽になった、よりずっと前に。


 また吸いたい、が出る。


「……もう一回」


 声が漏れた。


 恥ずかしい。でも止められない。


「処置だよ?」


「……うん。それでいい」


 言い訳だと分かってる。


 でも欲しい。


「そう。吐いて。……上手」


 "上手"。


 背骨が震える。


 喉が鳴る。


 止められない。


 二回目が終わる。


 胸郭がほどける。喉の渇きが引く。頭の中のざわつきが、水に沈むみたいに静かになる。


 ここが、戻る場所になる。


 バイタルも安定した。


 終わったはず。


 なのに——最初に来たのは、安心じゃなかった。


 "名残惜しさ"。


 もう終わり、って言葉が喉まで上がった。


 熱くなった。


 でも飲み込んだ。


 飲み込む時間が、今日は少しだけ長かった。


 前は、恥ずかしくてすぐ消えた。


 今日は恥ずかしいのに、消えるまでに間があった。


 その間の長さが、何かを示している気がして、俺は喉を鳴らした。


 唾液が溜まる。飲み込む。また溜まる。


 身体が、まだここにいたがっている。


 それが分かる。分かるのに、止められない。


 喉が乾く。


 レイヴが笑う。


「んー? もっとやる? ……冗談」

「……違う」

「はいはい。今日の分、これでOK」


 "今日の分"。


 その言い方が、また少し怖い。


 今日の分、があるなら、明日の分もある。


 明日も来る。


 毎日来る。


 そういう前提で言ってる。


 それに救われるみたいに頷く自分が、今日は少しだけはっきり見えた。





 帰り際、レイヴがさらっと言う。


「護符さ、携帯だと切れるの早いんだよね」

「……うん」

「首元に固定する更新型にしようか。薄く長く持たせるやつ」

「……固定?」

「外れにくい位置に置いて、定期的に俺が更新するよ。安定化補助。ログも綺麗になるし」


 安定化補助。

 ログが綺麗になる。

 発作リスクが下がる。


 全部、正しそうな言葉だ。


 俺は頷きかけて——止まる。


 護符が安定したら。


 匂いが切れなくなったら。


 発作の口実が減る。


 息が変かも、って言い訳が使えなくなる。


 レイヴに"処置してもらう理由"が、減る。


 そんなことを考えた自分に、ぞっとした。


 助かるはずなのに。


 楽になるはずなのに。


 安心するはずなのに。


 胸が、少し空く。


 なんでだよ。


 助けてもらってるのに。


 なんで足りないんだよ。


 言葉にできないまま、胸の中で声だけが走る。


 言えない。


 言ったら終わる気がする。


 自分が、どこか戻れない線を越える気がする。


 だから、笑う。


「……ありがたい。俺、切れると不安になるし」

「でしょ。じゃ、準備しとくね」


 護符を軽く弾かれる。


 それだけで、また落ちる。


 落ちるのが、怖くなくなってきてる。


 それが、一番怖いはずなのに。





 夜。


 提出用の短い記録は、もう済ませた。


 これは、誰にも見せない方。


 スマホを開く。


 予測変換。


 湊

 ミナト


 湊を見る。


 遠い。


 遠いのに、怖くない。


 それが、怖い。


 前は、「湊」を見るたびに胸が詰まった。


 遠いのに、そこへ引き戻されそうな感じがした。


 でも今日は違う。


 ただ遠い。


 引力がない。


 昔の教科書に載ってた名前を見るみたいに、意味だけが分かって、自分に繋がらない。


 指が「ミナト」へ向かう前に、少しだけ止まった。


 止まって、「湊」をもう一回見た。


 返してくれない。


 文字が、俺を返してくれない。


 そのことに、涙が出そうになるほどじゃない。


 胸の奥に、ひやりとしたものが落ちるだけだ。


 音もなく。


 それだけだ。


 指は「ミナト」を選んだ。


 選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。


 報酬みたいに。


 毎回そうだ。


 毎回、こっちを選ぶと楽になる。


 楽になるから、また選ぶ。


 その繰り返しが、もう当たり前になってきている。


 怖いのに、怖さより先に楽が来る。


 俺は打つ。


『ミナト


今日、護符が薄いって思った瞬間に、胸が冷たくなった。


発作じゃないのに、レイヴを呼んだ。

呼びたくて呼んだ。


恥ずかしい。


でも、呼んだ瞬間に楽になった。

あれ、ずるい。


匂いが戻ったら、息が勝手に長くなった。

安心っていうより、気持ちよかった。


息合わせも、変だった。

吸うのが楽で、追ってしまった。


処置なのに。


もっと欲しいって思って、もう一回って言った。


護符を固定するって言われた。


助かるはずなのに、変なこと考えた。


護符が安定したら、レイヴに会う理由が減る。


それが嫌だと思った。


最低だと思う。


でも正直に書く。


俺、今日は——


終わるのが、名残惜しかった。


名残惜しさが消えるまで、今日は時間がかかった。


護符があっても、レイヴがいないと不安になる。


書いたら終わりそうで怖いけど、


もう書いた。』


 スマホを伏せる。


 喉が鳴る。


 怖いはずなのに、怖くない。


 だって、今は匂いがある。


 匂いがある間は、落ち着いていられる。


 落ち着いていられる間は、怖さが遠い。


 怖さが遠いうちは、考えなくていい。


 その順番が、もうすっかり身体に馴染んでいた。





(レイヴ)


 同じ夜。


 レイヴは監督ツールを開いた。


 業務。暴走防止。ログ確認。


 理由はいくらでもある。


【対象】ミナト(タグ表示:ミナト/台帳:成宮湊)

【発作リスク】中→低

【匂い欠乏閾値】低下

【名紋照合】反応鈍化


 数字は"順調"の顔をしている。


 レイヴは笑う。いつもの癖で。誰にも見られていないのに、軽薄な笑顔を作ってしまう。


「……いい子だな」


 日記を開く。


 呼んだ。欲しかった。気持ちよかった。名残惜しかった。


 "会う理由が減るのが嫌だった"。


 その一文で、指先が止まる。


 "誰も見ないから"って言っておいて、俺は読んでいる。背徳感が、皮膚の内側をぞくりと撫でた。罪悪感じゃない。もっと嫌な、もっと甘い種類の震えだ。


 安全のため。暴走防止のため。委員会に説明できるように。——正しい。正しいのに。


 会う理由が減るのが嫌だった。


 その言葉を、もう一度だけ読んだ。


 ……理由。


 そんなもの、なくせばいい。


 理由がなくても来る形にすればいい。


 "処置だから来る"を、"来るのが普通"にする。


 日課にする。


 更新間隔を詰める。


 接触を制度に落とす。


 制度に落とせば、誰も文句は言わない。


 委員会にも通る。


 ログも綺麗になる。


 ミナトも安心する。


 全部、正しい形になる。


 ……正しい形にしておけば、これは業務だ。


 業務なら、続けられる。


 毎日、来られる。


 レイヴは一度だけ瞬きをして、画面を閉じた。


「固定型、前倒しで入れようかな」


 声は軽かった。いつもの、優しい顔の声。


 でも胸の奥に残ったのは——"もっと安心させないと"という言い訳に似た、言い訳にならない衝動だった。



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