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異界の境界施設  作者:
Case-M

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25/27

Case-M #22


 

 朝、目が覚めた時、最初に思ったのは「今日は息ができる」だった。


 苦しくはない。


 胸が潰れそうな感じも、喉が閉じるみたいな焦りもない。ちゃんと眠れたし、途中で飛び起きることもなかった。窓の外が明るくなっているのを見て、ああ朝か、と普通に思えるくらいには、頭もはっきりしている。


 それなのに、起き上がる前に、指先はもう首元を探していた。


 護符。


 布の端に触れた瞬間、自分でも分かるくらい、肩の力が抜けた。


 ——そこで、気づく。


 俺、今、苦しかったわけじゃない。


 苦しくなる前に、安心の方を取りにいった。


 それが妙に気持ち悪くて、俺は布団の中で小さく笑った。笑った、というより、口元がそういう形になってしまった。昔から、しんどい時ほど先に笑う癖がある。平気な顔をしていれば、何とかなる気がするから。自分も、周りも、少しだけ楽になる気がするから。


 でも今のは、誤魔化しだけじゃなかった。


 少しだけ、嬉しかった。


「……だめだろ、それ」


 自分に言い聞かせて、護符から手を離す。


 離した途端、また不安になるほどじゃない。そこまでじゃない。ただ、胸の中のどこかが「そこにあった方がいい」と知ってしまっている感じがする。昨日までは、落ち着く理由を"効くから"だけで片付けられた。今日はもう少し違う。効くから、だけじゃない。先に探してしまった自分の方が引っかかる。


 俺はベッドから起き上がり、洗面台で水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。ちゃんと気持ちいい。けれど、それで全部が整うわけじゃない。水は水で足りているのに、別のところがまだ少しだけ空いている。そんな感じだけが残る。


 そこで深掘りしない。


 こういう時、考えるとろくなことにならないのを、俺はもう知っている。


 タグに触れる。


 いつもの位置。いつもの感触。外せない輪。


 表示は静かに光った。


 ミナト。


 今日は文字は滲まなかった。昨日みたいな違和感も、まだ表には出てこない。だから、俺はそこで一度だけ安心しかける。寝起きの変な感じがなくてよかった、と。昨日のことを大げさに考えすぎていたのかもしれない、と。


 そうやってすぐ"平気な方"へ丸めてしまえるのが、この施設の一番怖いところだと、最近は思う。





 廊下へ出ると、朝の施設はやけに静かだった。音がないわけじゃない。遠くで扉が閉まる音も、人の足音も、食器の触れ合う音もする。ただ全部が、少しだけ角を取られている。誰かが笑っても遠い。誰かが怒っても丸い。感情の輪郭まで薄い膜を一枚かけられているみたいだった。


 床の導線表示に目がいく。


 淡い線。曲がり角の札。立ち止まる場所。入ってはいけない場所。


 気づけば足は、その線の内側を自然に選んで歩いている。


「……慣れてきたな、俺」


 また笑ってしまう。


 その時、曲がり角の向こうに金髪が見えた。


 リュカだ、と分かった瞬間、身体が少しだけ居住まいを正した。怒られる予定はない。何かを隠しているわけでもない。ただ、リュカはいつも"危ないところの手前"にいる。本人が立っているだけで、そこから先へ行くなと分かる場所に。


「おはよう」


 俺が声をかけると、リュカは一度だけ俺の顔を見て、それから手首の方へ視線を落とした。タグだ。今日も最初にそこを見る。


「寝起きは」


「え?」


「息、乱れた?」


 問いかけは短い。でも質問というより確認に近い。もう半分、答えを知っていて、俺に言わせることで何かを確かめるための聞き方。


 なのに、リュカがそうする時、俺は不思議と嘘をつきにくい。


「……乱れたっていうか」


 少し迷う。


「苦しくはなかった。でも、起きた時に先に護符を探した」


 リュカの眉がほんの少しだけ動く。


「護符は?」


「吸った」


「効いた?」


「……効いた」


「ならいい」


 短い。それだけで片づけられて、逆にざわつく。ならいい、で済むことなのか。起きてすぐ、苦しくもないのに護符を探したことが。


 でも今の俺には、たぶんそれが"済む範囲"なんだろう。想定内の揺れとして。


 リュカは俺の横を通り過ぎて、立入制限区画の手前の札を指先で直した。位置を整え、壁に沿わせ、角度をぴたりと戻す。小さな動作なのに、そこに触れる手つきだけ妙に丁寧だ。


「今日、医療区画の周辺は通るな」


「……昨日の件、まだ残ってるから?」


「残ってるのはお前の方」


 冷たい言い方。でも、俺が今どこに反応しやすいかを把握した上で、通るなと言っているのは分かる。怒鳴らない。責めない。ただ、先回りして線を一本増やす。


「外も危ないけど、中も場所によっては危ない」


 リュカは札を軽く指で弾いた。淡い光が一瞬だけ強くなる。


「お前は今、崩れてるんじゃない」


 一拍置いて、続ける。


「崩れる前提で、身体が先に身構えてる」


 その言葉に、俺は一瞬息を止めた。


 まさにそれだった。


 実際に苦しい場面が来る前から、身体だけが次を怖がっている。まだ平気なのに、平気じゃなくなるのが先に怖い。だから朝も、苦しくなる前に護符へ手が伸びた。


 言葉にされると、恥ずかしいのに、同時に安堵する。俺が自分で分からなくなっていることを、少なくとも誰かは把握している。そのことに、情けないくらい救われる。


 リュカは俺の顔を一度だけ見て、すぐ視線を逸らした。


「だから寄るな。昨日みたいなのを見たら、お前は自分で思ってるより簡単に落ちる」


「……寄ってない」


「頭じゃなくて足がだろ」


 言い返せない。


 昨日、あれは覗こうとしたんじゃない。少なくとも最初は。通り過ぎるつもりだった。なのに身体の方が、一歩だけ濃い方へ寄った。


 リュカはそこでようやく俺の方へ向き直った。


「壊れる前に歩けって言ったのは俺だ。でも、どこまでなら歩けるかを決めるのも俺」


 守られている。


 管理されている。


 今の俺には、その二つがかなり近い形で届く。


「分かった」


 素直に答えると、リュカは小さく頷いた。いつものツンとした顔のまま。でもほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見える。優しくされると困ることを、たぶんリュカは知っている。だからわざと、優しくない形で差し出してくれる。


「昼過ぎ、娯楽室に寄れ。五分だけ」


「え、なんで」


「通信特例の確認」


「あ……」


 言われて思い出す。施設内メッセージツールの権限確認だ。外には繋がらない。施設内だけ。リュカと、ゴルドと、レイヴ。そういう相手にだけ繋がるやつ。


「忘れてたのか」


「忘れてたっていうか……」


「忘れるな。こういうのは、ちゃんと"ここ"を増やすのに必要」


 最後だけ少し小さかった。言い終わったあとで、自分でも言いすぎたと思ったのか、リュカはすぐ背を向ける。


「時間、遅れるなよ」


 それだけ残して去っていく後ろ姿を見ながら、胸の奥が少し温かくなる。


 "ここ"を増やす。


 それが善意だと分かるから困る。





 昼までの時間は、驚くほど普通に過ぎた。


 書類を受け取って、返して、少し作業をして、水を飲んで、食事をとる。誰かとすれ違って軽く会話して、何でもないところで笑うこともできる。


 苦しくてたまらないわけでも、今すぐ護符がないと駄目なわけでもない。


 昼の自分は、ほとんど普通だった。


 だからこそ、朝の違和感を考えすぎだったのかもしれないと思えてしまう。大したことじゃない。昨日の延長だから敏感になってるだけ。そうやって、自分の中の危うさを"今は平気"の方へすぐ寄せ直せる。


 この施設では、それが一番怖い。


 食堂から戻る途中、ふいに喉の奥で唾液が少しだけ増えた。


 理由は分かっている。廊下の向こうから、微かに乾いた光沢みたいな匂いがしたからだ。夜の布。雨の前の空気。そういう断片が混ざったみたいな匂い。


 レイヴ。


 名前を頭の中で呼んだだけで、喉が鳴る。


 でも、呼吸が浅くなるところまではいかなかった。俺はそこで立ち止まらず、水を一口飲んでやり過ごせた。やり過ごせたことに、少しだけ安心する。


 この"まだ大丈夫"をちゃんと挟んでおかないと、たぶん俺は自分を過大評価するか、逆に過小評価する。何でもかんでも崩れてるわけじゃない。ただ、崩れる方向だけが前より近い。





 昼過ぎの娯楽室に、リュカは本当に五分だけ現れた。


 端末を差し出される。施設内メッセージの確認画面。連絡先一覧に、三つだけ名前が並んでいる。


 リュカ

 ゴルド

 レイヴ


 外の誰とも繋がらない。家族も友達も、ここにはいない。圭介も翔太も健二も。けれど、その代わりに目の前の三つが妙に近く感じる。


「必要な時だけ使え」


「必要な時って?」


「息が浅い時とか。導線で迷った時とか。夜、ひとりで考えすぎる時とか」


「それ全部、必要になりそうだけど」


「……なら使え」


 リュカはそう言って、端末の明るさを少し落とした。面倒見がいいのに、顔だけは本当に愛想がない。


「でも、まず自分で歩け。頼るのが先になるな」


「うん」


「本当に分かってる?」


「……たぶん」


「分かってない顔」


 そのやり取りが少しだけおかしくて、俺は笑った。笑った瞬間、胸の奥で蜜みたいな気配が立つ。ほんの一滴だけ。リュカの目がそこへ一瞬だけ向いて、それからすぐ何も見なかったみたいに逸らした。


「……笑うな、そういう時に」


「無理だよ、癖だし」


「厄介な癖」


 吐き捨てるみたいに言うくせに、リュカは俺の端末を受け取る指先だけやけに慎重だった。壊れ物を扱うみたいな触れ方で。


 五分は本当に五分で終わった。


 それだけで、"ここ"が少し増えた気がした。


 嫌だな、と思う。嫌だな、と思うのに、便利だし、助かるし、安心する。安心することが一番危ないと知っているのに、その危なさの方が毎回少しずつ薄くなる。





 夕方、レイヴは昨日より早く来た。


 廊下の向こうから足音がする前に、匂いで分かった。分かってしまったことに、自分で少しだけ引く。どんどん身体が先回りする。視線より前に、耳より前に、喉が先に反応する。


「やっほ、ミナト」


 いつもの軽い声。


 それなのに俺の前へ立つと、目が変わる。仕事の目。笑っていても、測るべきところは測る目。


「昼は大丈夫だった?」


「……うん。たぶん」


「たぶん、ね」


 レイヴが笑う。優しい言い方なのに、たぶんが何を含んでるかは逃がさない。


「タグ、見せて」


 言われる前に手首を差し出しそうになって、ほんの少しだけ躊躇した。その躊躇ごと、レイヴは見ていた気がする。でも何も言わない。ただ、支えるみたいに手を取って、表示を見る。


 触れられたところから、じわじわと熱が広がる。


 手首から肘へ、肩へ、そのまま鎖骨の内側へ。息紋がある場所だけが遅れて熱を持つ。


 レイヴの視線が止まる。


「……うん。悪くない」


 その"悪くない"が、評価みたいで困る。褒められたいわけじゃない。なのに、褒められると少し落ち着いてしまう。そういう身体になった覚えはないのに、最近ずっとそこへ近づいている。


「朝、少し渇いた?」


 俺は目を上げた。言っていないのに。護符の位置を触りすぎて布が少しよれているのを見れば分かるのかもしれないし、呼吸の深さで察しているのかもしれない。


「……少しだけ」


「護符吸った?」


「……うん」


「効いた?」


「効いた」


 答えるたびに、レイヴの中で何かが組み上がっていくのが分かる。責めているわけじゃない。診ている。確認している。正しい手順に落としていく。


「今日は雫なし。週の枠は守るよ」


 きっぱり言われて、俺は少しだけ肩の力が抜けた。雫が嫌なわけじゃない。でも"使われるほどじゃない状態"でいたい気持ちはまだある。そこが壊れると、また一段どこかへ行ってしまう気がする。


「その代わり、護符の固定強める。昨日言ってたやつ」


「匂いが切れると不安が跳ねるなら、切れないようにする方が安全だろうね」


 安全。


 その言葉が出るたび、俺の中の警戒は少しだけ鈍る。たぶんそれを知っていて使っている。使っているのに、嘘じゃないから困る。


 レイヴは俺の胸元に手を伸ばした。護符をつまみ、紐の長さを微調整する。少しだけ上へ。喉の近く、呼吸が触れやすい位置へ。布が首筋を擦って、俺の喉がひどく正直に鳴った。


「っ……」


「ん?」


「……ずるい」


「なにが?」


「近い。匂いも」


 言った途端、顔が熱くなる。こんなこと言うつもりじゃなかった。もっと他に言い方があったはずなのに、出てきたのがそれだけだった。短くて、幼くて、欲しがってるみたいな言い方。


 レイヴは笑った。


 軽い笑い。でも手は外さない。護符を押さえたまま、俺の息の速さを見ている。


「安全装置だって言ったじゃん」


「ミナトがしんどくならないための」


「……それ、言い方が」


「怖い?」


 真正面から聞かれて、俺は言葉を詰まらせた。


 怖い。


 でも、嫌じゃない。


 嫌じゃないから余計に怖い。


 答えられないでいると、レイヴは追い詰めるみたいなことはしなかった。ただ指先で護符の端を撫でて、布を馴染ませる。そういう小さな動作だけで、俺の呼吸が自然にレイヴへ寄っていく。


「怖いなら、もっと手順にしようか」


「どこで確認するか。どのくらいの濃さにするか。切れそうな時の更新をどうするか。……全部、決めておけば怖くないだろうし」


 決めておけば怖くない。


 それは俺が今一番弱い言葉だった。


 昨日からずっと、身体が勝手に覚えてしまったものに振り回されている。欲しいのに欲しいと認めたくなくて、苦しいのに苦しいだけでもなくて、安心すると怖い。その曖昧さがしんどい。だから"決める"と言われると、それだけで少し楽になる。


「……管理、するってこと?」


「そう」


 レイヴはあっさり頷いた。


「俺が。濃すぎないように。切れないように。ミナトが自分で頑張りすぎなくていいように」


 自分で頑張りすぎなくていい。


 その一言で、胸の奥がぐらつく。


 頑張るしかないと思っていた場所へ、急に手を差し入れられた感じがした。俺はずっと、明るくしていればいいと思っていた。平気な顔をしていれば、みんなが楽になると思っていた。自分のしんどさは、自分で散らせるうちは散らすものだと思っていた。


 そこへ"頑張らなくていい"と置かれる。


 弱いに決まっている。


「……助かる、とは思う」


 言葉にしてしまうと、冷たいものが胸を走った。助かる。助かるなら受け取る。受け取るなら慣れる。慣れたら、きっともっと離れられなくなる。そういう順番が見えるのに、俺は助かるを選んだ。


 レイヴは俺の言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ安堵したような顔をした。ほんの一瞬だけ。すぐにいつもの笑いへ戻るけれど、その切り替わる前の"間"に、俺は気づいてしまう。


 レイヴも、少しだけ必死だ。


「息、合わせよっか」


 レイヴが声を落とした。


 昨日より自然に、その言葉が身体へ入ってくる。吸って、吐く。焦るな。目を見る。短い手順語。たぶんこれくらいの軽い誘導なら、もう昨日のうちに身体が覚えてしまっている。


 レイヴが短く息を吐く。


 俺の肺が、勝手にそのリズムを追う。


 やっぱりだ、と思う。


 護符とは全然違う。布に染みた匂いは、あくまで名残だ。繋ぎ止めるための仮の線。でも今ここにいるレイヴの吐息は、生きたまま直接入ってくる。距離ごと、温度ごと、声ごと。


 身体がすぐに分かる。


 こっちの方が楽だと。


「……レイヴ」


「ん?」


「昨日のこと、覚えてる」


「うん」


「……恥ずかしい」


「どこが?」


 どこが、と聞かれて、答えに詰まる。全部だ。何度も欲しがったこと。離れるのが怖かったこと。匂いがないと不安だと言ったこと。処置でいいと言い訳しながら、処置以上に欲しがっていたこと。


 でも、その全部の中心にあるのはもっと嫌なものだ。


 俺があれを、楽だと思ったこと。


「……ああいうの、慣れたくない」


 やっとそれだけ言えた。


 レイヴは少し黙った。冗談で流さない。すぐ否定もしない。待つ。


「慣れることと、壊れないことは別だよ」


 やがてそう言った。


「ミナトがしんどくないなら、それが先。慣れるかどうかは、そのあと考えればいいじゃん」


 その順番のつけ方が、あまりにも優しい顔をしていて怖かった。


 でも俺は、その怖さにちゃんと抗えない。


「……それ、ずるいって言ってる」


「知ってる」


 レイヴが笑う。


 分かっていてやっている笑い方。軽くて、人のいい顔をしたまま、逃げ道だけは丁寧に潰していく笑い方。


「でも、今のミナトには必要だろうね」


 言い返せなかった。


 必要、という言葉はいつも強い。俺のため。安全のため。壊れないため。そういう建前の皮を被ると、ほとんどのことが正しそうに見えてくる。少なくとも今の俺には。


 レイヴは最後に護符を指で軽く押さえた。印を置くみたいな動きだった。息が甘く乱れる。喉が鳴る。


「夜も確認はするよ。昨日みたいに長くはしない。今日は様子見」


「……うん」


「苦しくなる前に呼んで」


「うん」


「護符で落ちないくらいになったら、その時点でまた考えよ」


「……うん」


 返事ばかりしている自分に気づいて、遅れて少し恥ずかしくなった。思考より先に身体が肯定している感じがする。それが嫌なのに、嫌だと主張するだけの熱量が出ない。代わりに出るのは安心だ。レイヴが"俺が見てるから"の顔をすると、それだけで考える力が少し薄れる。


 夕方の確認が終わってレイヴが去ると、廊下の匂いはまた薄くなった。


 薄くなったことが分かる。


 分かること自体が、もう前より一段危ない。





 部屋へ戻ってから、俺はしばらく何もせずに椅子へ座っていた。手元の端末は静かだ。新しく追加された施設内メッセージのアイコンが、画面の端に小さくある。必要な時だけ使え、とリュカは言った。必要な時。今はどうだろう。呼吸はできている。喉は少し乾いている。でもまだ護符で誤魔化せる。誤魔化せるうちは、自分で歩け。


 そう思って、端末から目を逸らした。


 その代わり、日記を開く。


 誰も見ないから。そう言われた場所。


 そう信じると楽になれる場所。


 入力欄にカーソルが瞬いている。書け。今日の安心を書け。今ここに繋ぎ止めるための逃げ道として。


 指を置く。


 その時、不意に画面の端に残っていた共有画像のサムネイルが目に入った。何気なくタップしてしまって、画像が開く。


 台帳表示の一部。


 対象:成宮湊


 その文字を見た瞬間、胸が動かなかった。


 まただ。


 今度は昨日よりはっきりしている。


 成宮湊。読める。もちろん読める。字としては分かる。意味も分かる。でもそれが"俺"に繋がらない。昔の教科書に載っていた誰かの名前みたいに、遠い。輪郭だけある。他人の文字。自分のはずなのに、自分の方へ帰ってこない。


「……っ」


 息を呑む。


 今度はちゃんと怖い。


 怖いのに、その怖さが長く続かない。胸の奥にひとつ空白があるだけで、次の瞬間には"まあ、今困ってないしな"が顔を出す。


「違うだろ」


 声に出す。


「俺の、名前……」


 そこまで言って、喉がひどく渇いた。指先が勝手に護符へ向かう。考えるな、と身体が命令してくる。匂いを吸えば落ち着く、と身体が知っている。


 俺は息を飲み込んで、日記の入力欄へ戻った。


 予測変換が出る。


 湊

 ミナト


 並んでいる。


 昨日と同じ。たぶん昨日と同じはずだ。でも今日は、"差"がもっとはっきり見えた。湊が遠い。遠くて、硬い。文字のまま置かれている。ミナトは近い。指に馴染む。呼吸がそこに乗る。


 俺はまた、迷わなかった。


 ミナトを選ぶ。


 選んだ瞬間、呼吸が少しだけ楽になった。


 報酬みたいだ、と思う。


 気持ち悪いのに、気持ち悪さより先に安堵が来る。


 俺は打ち始めた。


 今日は起きた時に先に護符を探していた。

 苦しくはなかったのに、そうしていた。

 リュカに、崩れてるんじゃなくて、崩れる前提で身構えてるって言われた。

 たぶんその通りだと思う。

 昼は普通だった。普通に過ごせた。

 でもレイヴが護符を直したら、すぐ息が落ちた。

 匂いが切れない運用にするって言われて、助かると思った。

 成宮湊って文字を見ても、今日も変な感じだった。

 怖いのに、怖さが続かない。

 それが一番怖い。


 そこまで打って、少しだけ手が止まる。


 署名欄が点滅している。


 俺は自分でもおかしいくらい自然に、そこへ入力した。


 ミナト


 打ち終わる。


 何も起きない。警告音も出ない。誰かが止めにも来ない。世界は静かなままだ。俺が自分の名前の近い方を選んでも、施設は何も言わない。


 端末を伏せる。


 部屋の中には護符の匂いが残っている。少しだけ。呼吸できるくらいには。


「……毎日、なら」


 そこまで言って、俺は口を閉じた。


 毎日、なら。何だ。大丈夫? 平気? 壊れない? それとも、考えなくていい?


 続きが分からないのに、身体のどこかはもう答えを知っている気がした。


 怖いはずなのに、怖くない。


 怖くないのに、笑ってしまう。


「やだな、ほんと」


 小さく笑って、俺は護符を握った。


 匂いを吸う。


 落ち着く。


 考えるのをやめるみたいに、目を閉じる。


 そのまま眠れたら楽なのに、意識はすぐには沈まなかった。浅い水の上を揺れているみたいに、何かを待っている身体だけが先にある。呼吸はできる。苦しくない。なのに、足りない。足りないのに、護符で誤魔化せる程度に抑えられている。


 中途半端だ。


 中途半端だから、余計に欲が顔を出す。


 昨日みたいに、あの距離で息を合わせたらもっと早く落ちるんだろうな、とか。


 首元じゃなくて、もっと近いところで匂いを吸ったら、たぶん何も考えなくて済むんだろうな、とか。


 そこまで考えて、俺は布団の中で顔を覆った。


 最低だ。


 最低なのに、否定しきれない。


 端末が小さく震えたのは、その少しあとだった。


 驚いて飛び起きるほどじゃない。今の俺にはもう、施設内通知の振動がそれほど大きくは感じられない。画面を開く。


 差出人:レイヴ


 短い一文だけが来ていた。


 『まだ起きてる?』


 心臓が跳ねる。


 跳ねたことに、自分でびっくりする。これだけで? ただの確認だろ。今日の様子見。さっき言っていた通りの"夜の確認"。


 それなのに、俺の指はすぐ返信を作り始めていた。


 『起きてる』


 送る。


 送ってから、短すぎたかもしれないと思う。冷たかったかもしれない。でも次の瞬間には返事が来た。


 『苦しい?』


 俺はその二文字を見て、しばらく動けなかった。


 苦しい。


 そう言ってしまえば、たぶん来る。


 来てほしい、と思っている自分がいる。


 護符で落ち着いてる、まだ平気、ひとりで大丈夫、そう返せば今日は終わる。その方がいい。たぶんその方がいい。


 なのに、喉の奥がひどく渇く。


 指先が震える。


 画面の白さが、呼吸の浅さだけを際立たせる。


 俺は、自分がどっちを選ぶかを知っている気がした。


 そのことにぞっとしながら、でも止められなかった。


 『少しだけ』


 送信。


 既読がすぐつく。


 間を置かずに返ってくる。


 『行くね』


 短い。


 短いのに、胸の奥の緊張が一気にほどけた。


 最悪だ、と思う。


 でも、ほっとした。


 その"ほっとした"の方が、もうどうしようもなく本音だった。


 俺は端末を伏せて、護符を握る。


 さっきまで中途半端にしか落ち着かなかった匂いが、もうすぐ本物の方で上書きされると分かっている。そう思うだけで息が少し深くなる。待ってる。身体が、待つ方へ寄っている。


 数分も経たないうちに、ノックが鳴った。


 二回。


 軽くて、急かさない音。


「……どうぞ」


 返事をした声が、自分でも分かるくらい少し甘く崩れていた。恥ずかしい。けど今さら取り繕っても無駄だ。


 ドアが開く。


 匂いが入ってくる。


 それだけで、胸の奥の空洞が一段埋まる。


「こんばんは」


 レイヴが笑う。いつもの、人当たりのいい顔。でも扉を閉めた瞬間、その笑みの奥に仕事の温度が乗る。距離を詰める速度は速すぎない。逃げ道を残すようでいて、実際にはこっちから近づかせる速度。


「少しだけ、ね」


「……うん」


「護符でどこまで持った?」


「最初は大丈夫だった。けど……」


「けど?」


「……足りない感じ、して」


 言ってしまった。


 言った途端、首元が熱を持つ。息紋がじわりと濃くなるのが分かる。レイヴの目がそこへ落ちる。逸らさない。


「うん。言えてるじゃん」


 褒めるみたいに言う。


 それだけで少し楽になる。


 レイヴは俺のすぐ近くまで来て、立ち止まった。


「今日は長くしない。日課にするなら、最初に無理させない方がいいから」


 日課。


 その単語に、胸がひくりと鳴る。


 日課にするなら。


 それは、もうする前提の言い方だ。


 なのに、俺の身体はその言葉に反発しなかった。


 むしろ、少しだけ安心した。


「……怖い顔した」


 レイヴが言う。


「怖い」


「うん」


 否定しない。


「でも苦しいのは嫌だろ」


 その問いには、頷くしかなかった。


 レイヴが手を伸ばす。いきなり触れない。頬の横で一瞬だけ止める。嫌なら避けられる距離。そういう手順の取り方が上手すぎる。


 俺は避けなかった。


 指先が頬に触れる。


 それだけで喉が鳴る。


「見て」


 目が合う。


 息を吐く。


 レイヴが短く息を落とす。


 俺の肺が、それを探しにいく。


 やっぱりだ。


 護符とは全然違う。布に染みた匂いは、あくまで名残だ。繋ぎ止めるための仮の線。でも今ここにいるレイヴの吐息は、生きたまま直接入ってくる。距離ごと、温度ごと、声ごと。


 身体がすぐに分かる。


 こっちの方が楽だと。


 俺は目を閉じそうになって、レイヴの声で引き戻される。


「閉じない。まだ」


「……ん」


「いい子」


 その二文字で、ぞっとするほど簡単に力が抜けた。


 怖い。


 でも、楽だ。


 レイヴもそれを分かっている顔をしている。分かっていて使っている。使っているのに、全部"手順"の顔をしている。


「今日はここまで。護符、少し上げとくね」


 胸元の紐に触れる。さらに少しだけ高く。喉に近く。呼吸の出入りが一番触れる位置。俺は息を止めかけて、レイヴに見られていると気づいて慌てて吐いた。


「そう。吐く」


「……うん」


「吸うのは後」


 短い言葉がそのまま身体へ入る。昨日よりずっと簡単に。簡単すぎて怖い。


 レイヴは護符を固定し終えると、今度は俺の背へ手を回した。支えるだけの触れ方。押さえつけない。なのに動かなくていいって身体が判断する。


「少しだけ、息合わせる」


「うん」


「苦しくなったら言う」


「……うん」


 言いながら、俺はもう分かっていた。苦しくなってから言うんじゃない。楽になる前に、もっと欲しいが先に出る。昨日そうだった。今日もたぶんそうなる。


 レイヴが息を落とす。


 俺は吸う。


 肺の奥に、ようやく"戻る場所"ができた感じがした。


 空洞が埋まる。


 喉の渇きが一段引く。


 目の奥のざらつきまで薄くなる。


「……あ」


 声が漏れた。


 恥ずかしい。でも止められない。楽になった時の声は、もう少し隠せると思っていたのに、実際は全然だめだ。身体の方が先に喜んでしまう。


「うん。戻った」


 レイヴが小さく言う。


「まだ、足りない?」


 問われて、俺は正直に答えるか迷った。


 足りない。


 でもさっきまでみたいな切羽詰まった足りなさじゃない。あと少しあれば十分に落ち着く、くらいの足りなさ。今ここで"もう大丈夫"と言えば、レイヴはたぶんそれ以上はしない。


 なのに俺は、その選択肢を見送ってしまった。


「……少し」


 答える。


 レイヴの目がほんの少しだけ深くなる。


「少しね」


 確認するみたいに繰り返してから、彼は俺の額に触れた。キスじゃない。もっと手前の、熱を測るみたいな触れ方。でもそこに混じる吐息が近くて、俺の喉はそれだけで反応してしまう。


「これでどう」


「……もうちょっと」


 自分で言って、顔が熱くなる。


 もうちょっと。


 そんな言い方をするようになってる。お願いとも命令とも違う、短い欲求の言葉。


 レイヴは笑わなかった。


 笑わないまま、ただ短く頷く。


「分かった」


 そして、昨日よりずっと短く、唇を重ねた。


 処置のキス。


 でも俺の身体には、それで十分すぎた。


 胸の奥の最後の空洞が埋まる。


 喉の渇きが消える。


 頭の中のざらついた思考が、ぜんぶ水の底へ沈むみたいに遠くなる。


 離れた瞬間、もう追いかけなかった。追いかけなくても大丈夫になっていたからだ。


 レイヴが俺を見る。


「どう」


「……楽」


 それしか出なかった。


 レイヴの目が柔らかくなる。その柔らかさを見た瞬間、逆に胸が少しだけ冷える。ああ、こうして成功体験にされていくんだな、とどこかが冷静に理解する。


 でも、その冷たさも長く続かない。


 楽の方が強い。


「よし。今日はここまで」


 レイヴは俺の背を軽く撫でて、そこで手を離した。


「日課にするなら、これくらいから」


 またその言葉。


 でも今度は、俺はもう反論できなかった。


 だってこれだけで、こんなに楽なのだから。





 レイヴが帰ったあと、部屋の匂いはすぐには薄くならなかった。護符の位置も変わったまま、喉の近くで呼吸に触れている。さっきまでの接触が残っている気がして、俺はしばらくそこから動けなかった。


 毎日、なら。


 その続きが、今は少しだけ分かる。


 毎日なら、苦しくないかもしれない。


 毎日なら、考えなくて済むかもしれない。


 毎日なら、俺はちゃんと歩けるかもしれない。


 その"かもしれない"の中に、帰るため、という言葉がもう入っていないことに気づいて、胸がひやりとした。


 でも、すぐその冷たさも護符の匂いに溶けた。


 俺は目を閉じる。


 怖いはずなのに、怖くない。


 怖くないのに、どこかで笑ってしまう。


 笑いながら、ゆっくり沈んでいく。





(レイヴ)


 廊下へ出たレイヴは、扉が閉まる音を一度だけ背中で聞いた。


 三歩歩いて、止まる。


 ポケットの中の端末は、さっきからずっと落ち着かない。


 開かなくてもいい。


 今日の分は、もう見たようなものだ。朝の揺れ、夕方の息紋、護符固定後の呼吸、夜の確認。全部、自分の目で見た。日記まで覗く必要はない。


 必要はないのに、指が勝手に動いた。


 画面が開く。


 安全保全の必要あり。


 そういう言い訳を、頭の中で誰にでもなく並べながら。


 ミナトの文章は、昨日より少し長かった。


 今日は起きた時に先に護符を探していた。

 苦しくはなかったのに、そうしていた。

 リュカに、崩れてるんじゃなくて、崩れる前提で身構えてるって言われた。

 たぶんその通りだと思う。

 昼は普通だった。

 でもレイヴが護符を直したら、すぐ息が落ちた。

 匂いが切れない運用にするって言われて、助かると思った。

 成宮湊って文字を見ても、今日も変な感じだった。

 怖いのに、怖さが続かない。

 それが一番怖い。


 署名:ミナト


 レイヴは、そこで静かに息を吐いた。


 やっぱり来ている。


 真名の距離が。


 予想より少し早い。でも昨日の落ち方を見れば、遅くもない。匂いへの欠乏、不安閾値の移動、息紋の濃度、名前の近い方の固定。全部、きれいに一本の線になり始めている。


 危険だ。


 分かっている。


 帰還審査に響く。台帳警告の色が変わる前に、何をどこまで戻すかを考えなければいけない。


 そのはずなのに。


 胸の奥には、焦りと一緒に別の感覚が広がっていた。


 安堵だ。


 ミナトが自分の匂いで落ちること。護符の固定を受け入れたこと。夜の確認を自分から拒まなかったこと。足りないを短い言葉で言えるようになったこと。


 全部、自分の方へ向いている。


 俺の方へ、ちゃんと寄っている。


 それが危険だと理解する頭と、それでも楽になる身体が、ほとんど同じ速度で動いていた。


「……だめだな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 だめだ、と思う。


 でも、止める気が薄い。


 端末を閉じかけて、レイヴはもう一度だけ開いた。


 最初から最後まで読み返す。


 短い文章。


 迷いのない署名。


 ミナト。


 綺麗だと思ってしまった瞬間、レイヴは自分で口元を歪めた。


 綺麗じゃない。


 これは人が戻れなくなる時の整い方だ。


 それを知っていて、それでも整っていると感じてしまう時点で、自分の方ももう危うい。


 廊下の空気は薄い。部屋の中にあった濃度だけが、まだ身体の内側に残っている。


 レイヴは端末をポケットへ戻した。


 思考はもう、次へ滑り始めている。


 護符の匂い更新は今より短い間隔で。


 喉の近さは維持。


 夜の確認は短く、でも切らさない。


 "苦しくなる前"に整える。


 整えて、整えて、ミナトが自分で散らさなくても済むようにする。


 優しい手順だ。


 優しい顔をしている。


 でも中身は、落ちる場所を一つに固定するための調整だ。


 レイヴは壁にもたれて、目を閉じた。


 帰還率トップ。


 優秀担当。


 正しい手順。


 そういう看板は、いくらでも自分を助けてくれる。今日もそうだ。雫枠は守った。長時間化も避けた。護符は安全装置の名目が立つ。夜の確認だって、必要な範囲だと言い張れる。


 言い張れるからこそ危ない。


「……日課にするなら」


 小さく呟く。


 声にした瞬間、それがもう半分決定事項みたいな響きになる。


「最初に、ちょうどいい形で」


 無理をさせない。


 でも切らさない。


 切らさないようにするのは、優しさだ。


 そう思えば、全部まともな運用に見える。


 レイヴはゆっくり目を開けた。


 いつもの笑顔を作る。軽くて、柔らかくて、誰でも安心できる顔。その下にあるものは見せない。見せないまま、ちゃんと仕事としてやる。


 やるしかない。


 ミナトが苦しくならないために。


 ——ミナトが、自分でなくても息ができる可能性を、少しずつ削っていくために。


 そこまで考えて、レイヴは自嘲みたいに笑った。


 最悪だ。


 最悪なのに、あまりにも自然に次の手順が浮かぶ。


「……明日、更新だな」


 軽い声でそう言って、レイヴは歩き出した。


 廊下の薄い空気の向こうに、明日の導線がもう見えているみたいだった。



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