表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界の境界施設  作者:
Case-M

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/27

Case-M #21



 護符を握っていると、肺の奥がほどける。


 ——はずだった。


 朝、リュカに指定された"安全散歩"の導線に乗って、俺は一人で廊下を歩いた。床に引かれた線は、最初は子どもだましみたいに見えたのに、今は逆だ。線があるだけで足が迷わない。迷わないだけで、息が乱れない。


 タグに触れる。ひんやりした感触の下で、表示が一瞬だけ光って、すぐ落ち着いた数字に戻る。問題なし。……それを見ると、俺の中の"慌てるな"が勝手に起動するのが、もう悔しいくらい当たり前になっていた。


 護符は首元の内側にぶら下げている。布の端に、あの匂いが染みている。レイヴの、魔力香。近くにいると、呼吸がしやすくなる匂い。俺の身体はそれを知ってしまった。


「……甘いよな」


 誰に言うでもなく笑って、軽く息を吐く。壊れそうでも、先に笑ってしまう癖。そうしていれば平気な顔ができるから。


 ……その瞬間、空気の輪郭がほんの少しだけ甘くなる。


 蜜みたいな気配。


 俺は気づかないふりをして歩いた。


 導線の終点まで行って、折り返す。今日もこれで終わり。そう思った時だった。


 廊下の奥が、妙に静かすぎた。


 音がないんじゃない。音が吸われているみたいに薄い。護符の匂いも、そこでだけ少し頼りなくなる気がした。布の端に染みていたはずの魔力香が、この場所の空気に溶けて薄まるみたいに、遠くなる。


 足が止まる。


「……ダメだろ」


 自分に言い聞かせる声が、やけに小さい。喉が乾く。舌が上顎に貼りつく。


 立入制限区画の手前。床の線が太く、札が下がっている。タグが微かに熱を持つ。


 それなのに——


 ほんの少しだけ、扉が開いていた。


 隙間から漏れてくるのは、声じゃなくて息だった。


 乱れた呼吸。布擦れ。低い声が、途切れ途切れに落ちる。


 見ちゃいけない。


 分かってるのに、目が勝手に吸い寄せられる。


 部屋の中に、保護対象の人間がいた。

 肩が震えている。喉を押さえて、空気を掻くみたいに息を探している。


 その様子が、自分に重なる。


 あの感覚を俺は知っている。胸の奥が詰まって、吸っても吸っても足りなくて、怖くなるほど吸えなくなる感覚。吸えないから笑おうとして、笑いが喉で引っかかる感覚。


 そばにいる悪魔の声は、静かだった。


「吐いて。そう、吐けるだけ」

「焦らない。……今、渡す」

「吸って。俺の方、見て」


 距離が近い。

 吐息が、二人の間に線を引くみたいに重なる。


 それを見た瞬間、俺の喉が鳴った。


 自分でも驚くくらい、はっきり鳴った。


 唾液が増える。護符の匂いが薄くなった分、別の何かを探すみたいに、喉の奥が渇いていく。


 その瞬間、保護対象の身体がふわりと沈んだ。


 怖がっていない。

 楽になった顔。


 肩の力が抜けて、呼吸が深くなって、目の焦点が合う。


 あの顔を、俺は知っている。


 ……いいな。


 浮かんだ言葉に、自分でぞっとする。


 でも、ぞっとしながら、喉がもう一回鳴った。


 俺も、レイヴに——。


 思考がそこで途切れた。


「……やば」


 しゃがみ込んだ瞬間、タグが熱を持つ。


 足音。


「ミナト」


 名前で、息が入る。


 顔を上げると、レイヴがいた。

 軽い笑顔。でも目だけが真面目で、迷わず距離を詰めてくる。


「呼吸、こっち。見て」


 目が合う。

 首元がじわりと熱くなる。


 ……見てるだけで、効く。


 それが怖いのに、縋る。


「吐いて。……そう」


 言われた通りに吐く。少しだけ空気が入る。でもすぐ足りなくなる。


 レイヴが短く息を吐いて、俺の肩に手を置いた。


「今日は部屋に戻る。夜、ちゃんと処置する。……ログ残す形でやるから、安心していい。枠の中だ」


 逃げ場がなくなる。

 でも——安心する。





 部屋に戻されてから、時間の感覚が曖昧になった。


 護符の匂いを吸っても、胸の奥の空白が埋まらない。


 目を閉じると、昼の光景が焼き付いている。

 吐息。声。落ちた顔。


 ……いいな、って思った自分。


 笑おうとして、笑えない。


 タグに触れる。数値はいつも通りだ。


 いつも通りにしてよ、って思いながら、震える指で呼び出しを押した。


 ノック。


「はーい。夜の確認でーす」


 軽い声。

 でもドアが開いた瞬間、空気が変わる。


 レイヴの匂いが入ってくる。


 それだけで、喉が鳴った。


「……顔、隠さなくていいよ」


 レイヴが俺の前にしゃがんで、タグを確認する。正確な手順。いつもの動き。


「発作に寄ってるな。今日は落ちきってない」


 言い方が穏やかなのに、内容だけが怖い。


「見て。俺の目」


 目が合う。

 息紋が熱い。

 頭が少しぼうっとする。


「今日は、息合わせだけじゃ足りないね」


 近づく。

 唇が触れる。


 一回目。


 一瞬の接触。でも、その一瞬で喉の奥がほどけた。

 熱が、喉から胸の奥まで落ちていく。肩の力が抜ける。震えが少し引く。


 でも足りない。


 足りない、が先に来る。楽になった、より先に。


「……もう一回」


 声が出た。恥ずかしいとか、怖いとか、そういうのが追いつく前に、口が動いた。


「処置だよ?」


 確認の声。優しい確認。


「……処置でいい」


 言い訳だ。でも欲しい。


「欲しいなら、言っていいよ」


 その一言で、止まっていた何かが崩れた。


 二回目。


 今度は一回目より長い。

 レイヴの吐息が俺の肺に入ってくる感覚。熱が広がって、胸の奥の空洞が少しずつ埋まっていく。


 埋まるのに、また足りなくなる。

 楽になるたびに、楽になる前の渇きを思い出す。


「……まだ」


「うん。もう少しね」


 三回目。


 今度は、触れた瞬間から身体が先に知っていた。

 喉が開く。呼吸の道が広がる。熱が、首元から肩甲骨の裏まで流れ込む。


 目の奥が潤む。

 泣いてるわけじゃない。でも、全身がほどけていく感触が、涙に似ている。


「……っ」


 声が漏れる。


 恥ずかしい。

 でももう恥ずかしさが、何かを止める力を持っていない。


「足りない」


 言葉がそれだけになる。


 レイヴが静かに言う。


「落ち方が変わってる。……今日はこれで整うよ」


 整う。

 そう言われると、そう思ってしまう。


 でも——


「……行かないで」


 自分でも驚く言葉が、口から出た。


 レイヴは軽く笑って、でも逃がさない。


「行かないよ」


 それだけで、また胸の奥が温くなる。


 ようやく、身体が満たされたと認める瞬間が来た。


 急に静かになる。

 息が整う。

 震えが止まる。


 タグは、平気な顔をしている。


 でも——その"平気"がどこ基準なのか、分からない。





 レイヴが部屋を出る。


 匂いが薄くなる。


 それが、寂しい。


 寂しい、って思ってしまったことを、俺はしばらく見つめた。

 寂しい。そういう言葉を、ここで使うようになったのがいつからか、もう分からない。


 スマホを開く。

 日記。書けば落ち着く。そう思って開くことが、もう癖だ。


 入力欄に指を置いて、予測変換が出る。


 湊

 ミナト


 並んだ二つを、少し見た。


 湊、って漢字が遠い。怖くない。ただ遠い。


 指は自然に「ミナト」を選んだ。

 選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。


 怖いのに、楽になる。


『匂いがないと不安になる。

 今日、廊下で見てしまった。他の人が落ちる瞬間。

 いいな、って思った。

 怖かった。自分がそう思ったことが。

 喉が鳴った。二回。

 でも、また欲しくなった。

 足りない。

 行かないでって言った。

 言えた。言ってしまった。

 今は、匂いがある。だから、落ち着いてる。

 落ち着いてるのに、まだ少し足りない。』


 最後に、ミナト、と打つ。


 画面を閉じた部屋は静かで、護符の匂いだけが残っている。

 匂いがあるのに、ほんの少しだけ物足りない気がして、俺は目を閉じる前に、胸元のタグに指先を当てた。


 ミナト。


 文字が、いつもより少しだけ馴染んで見えた。

 馴染んで見えることが、今日いちばん怖かった。





(レイヴ)


 廊下に出ると、空気が薄い。


 さっきまでの濃度が、身体の内側に残っている。


 俺は端末を開いた。

 ログ確認。業務。いつも通りの手順。


 そう言い聞かせながら、ミナトの日記の更新を開く。


『匂いがないと不安になる』


 一行目で、喉の奥がひゅっと鳴った。


 ……ぞく、とする。


 危険だ。分かってる。

 依存の段階が進んでいる。施設の言葉で言えば、安定化の副作用として処理できる。ログに残る。委員会も把握できる形式だ。


 なのに、指が止まる。


『今日、廊下で見てしまった。他の人が落ちる瞬間。いいな、って思った』


 その行を、二度読んだ。


 いいな、って思った。


 ミナトが、"落ちる瞬間"をいいな、と思っている。


 それが危険だ、という判断が先に来る。

 先に来るのに、その直後に、別のものが来た。


 ——俺で落ちたい、って思ったんだ。


 その事実が、胸の奥をくすぐって、皮膚の内側がぞわっとした。


 気持ち悪い。なのに、嫌じゃない。


『喉が鳴った。二回』


 その行で、さっきの部屋の空気が戻ってくる。


 一回目に唇が触れた瞬間のこと。

 ミナトの喉が鳴って、肩の力が抜けて、それでも「足りない」が先に来たこと。


 足りない、が楽になるより先に来た。


 それが、危ない段階の指標だ。

 施設の運用で言えば、依存の閾値が下がっている。渇きが固定されかけている。


 分かってる。

 全部、分かってる。


 なのに、指が画面から離れない。


『足りない。行かないでって言った。言えた。言ってしまった』


 掴んできた指先を思い出す。

 かすれた声。「行かないで」。


 ……可愛い、と思った。


 思って、飲み込もうとした。


 でも今夜は、飲み込むのに時間がかかった。

 前より、明らかに時間がかかった。


 「可愛い」が、胸の中に一拍余分に留まった。


 それが、いちばんまずい。


 俺は端末を伏せて、廊下に立ったまま、しばらく動かなかった。


 動かないでいると、さっきの部屋の匂いが鼻の奥に残っているのに気づく。

 ミナトの、上気した呼吸の残り香。


 それを意識してしまっている。


 俺は首を振って、歩き出す。


 手順は正しかった。ログも残した。枠の中だった。


 全部、正しい。


 ——なのに。


 「行かないで」と言われた瞬間の、ミナトの声。


 それが、胸の中でまだ鳴っている。


 俺は少しの間、廊下に立ったまま息を吐いた。


 「行かないよ」と答えた。

 正しい返しだった。安心させるための、手順の言葉だった。


 ……のに。


 言った後、自分の胸の奥が温くなったのは、何だったんだろう。


「……もっと安心させないと」


 呟いて、その言葉の向きを確かめようとして、やめた。


 確かめたら、答えが出る。

 答えが出たら、それは業務じゃなくなる。


 だから、確かめない。


 日課にする。

 毎日、枠の中で、正しくやる。


 それだけだ。


 ——それだけ、のはずなのに。


 足を止めて、息を一回吐いた。


 吐いた息に、まだ少しだけ甘さが混じっていた気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ