Case-M #21
護符を握っていると、肺の奥がほどける。
——はずだった。
朝、リュカに指定された"安全散歩"の導線に乗って、俺は一人で廊下を歩いた。床に引かれた線は、最初は子どもだましみたいに見えたのに、今は逆だ。線があるだけで足が迷わない。迷わないだけで、息が乱れない。
タグに触れる。ひんやりした感触の下で、表示が一瞬だけ光って、すぐ落ち着いた数字に戻る。問題なし。……それを見ると、俺の中の"慌てるな"が勝手に起動するのが、もう悔しいくらい当たり前になっていた。
護符は首元の内側にぶら下げている。布の端に、あの匂いが染みている。レイヴの、魔力香。近くにいると、呼吸がしやすくなる匂い。俺の身体はそれを知ってしまった。
「……甘いよな」
誰に言うでもなく笑って、軽く息を吐く。壊れそうでも、先に笑ってしまう癖。そうしていれば平気な顔ができるから。
……その瞬間、空気の輪郭がほんの少しだけ甘くなる。
蜜みたいな気配。
俺は気づかないふりをして歩いた。
導線の終点まで行って、折り返す。今日もこれで終わり。そう思った時だった。
廊下の奥が、妙に静かすぎた。
音がないんじゃない。音が吸われているみたいに薄い。護符の匂いも、そこでだけ少し頼りなくなる気がした。布の端に染みていたはずの魔力香が、この場所の空気に溶けて薄まるみたいに、遠くなる。
足が止まる。
「……ダメだろ」
自分に言い聞かせる声が、やけに小さい。喉が乾く。舌が上顎に貼りつく。
立入制限区画の手前。床の線が太く、札が下がっている。タグが微かに熱を持つ。
それなのに——
ほんの少しだけ、扉が開いていた。
隙間から漏れてくるのは、声じゃなくて息だった。
乱れた呼吸。布擦れ。低い声が、途切れ途切れに落ちる。
見ちゃいけない。
分かってるのに、目が勝手に吸い寄せられる。
部屋の中に、保護対象の人間がいた。
肩が震えている。喉を押さえて、空気を掻くみたいに息を探している。
その様子が、自分に重なる。
あの感覚を俺は知っている。胸の奥が詰まって、吸っても吸っても足りなくて、怖くなるほど吸えなくなる感覚。吸えないから笑おうとして、笑いが喉で引っかかる感覚。
そばにいる悪魔の声は、静かだった。
「吐いて。そう、吐けるだけ」
「焦らない。……今、渡す」
「吸って。俺の方、見て」
距離が近い。
吐息が、二人の間に線を引くみたいに重なる。
それを見た瞬間、俺の喉が鳴った。
自分でも驚くくらい、はっきり鳴った。
唾液が増える。護符の匂いが薄くなった分、別の何かを探すみたいに、喉の奥が渇いていく。
その瞬間、保護対象の身体がふわりと沈んだ。
怖がっていない。
楽になった顔。
肩の力が抜けて、呼吸が深くなって、目の焦点が合う。
あの顔を、俺は知っている。
……いいな。
浮かんだ言葉に、自分でぞっとする。
でも、ぞっとしながら、喉がもう一回鳴った。
俺も、レイヴに——。
思考がそこで途切れた。
「……やば」
しゃがみ込んだ瞬間、タグが熱を持つ。
足音。
「ミナト」
名前で、息が入る。
顔を上げると、レイヴがいた。
軽い笑顔。でも目だけが真面目で、迷わず距離を詰めてくる。
「呼吸、こっち。見て」
目が合う。
首元がじわりと熱くなる。
……見てるだけで、効く。
それが怖いのに、縋る。
「吐いて。……そう」
言われた通りに吐く。少しだけ空気が入る。でもすぐ足りなくなる。
レイヴが短く息を吐いて、俺の肩に手を置いた。
「今日は部屋に戻る。夜、ちゃんと処置する。……ログ残す形でやるから、安心していい。枠の中だ」
逃げ場がなくなる。
でも——安心する。
*
部屋に戻されてから、時間の感覚が曖昧になった。
護符の匂いを吸っても、胸の奥の空白が埋まらない。
目を閉じると、昼の光景が焼き付いている。
吐息。声。落ちた顔。
……いいな、って思った自分。
笑おうとして、笑えない。
タグに触れる。数値はいつも通りだ。
いつも通りにしてよ、って思いながら、震える指で呼び出しを押した。
ノック。
「はーい。夜の確認でーす」
軽い声。
でもドアが開いた瞬間、空気が変わる。
レイヴの匂いが入ってくる。
それだけで、喉が鳴った。
「……顔、隠さなくていいよ」
レイヴが俺の前にしゃがんで、タグを確認する。正確な手順。いつもの動き。
「発作に寄ってるな。今日は落ちきってない」
言い方が穏やかなのに、内容だけが怖い。
「見て。俺の目」
目が合う。
息紋が熱い。
頭が少しぼうっとする。
「今日は、息合わせだけじゃ足りないね」
近づく。
唇が触れる。
一回目。
一瞬の接触。でも、その一瞬で喉の奥がほどけた。
熱が、喉から胸の奥まで落ちていく。肩の力が抜ける。震えが少し引く。
でも足りない。
足りない、が先に来る。楽になった、より先に。
「……もう一回」
声が出た。恥ずかしいとか、怖いとか、そういうのが追いつく前に、口が動いた。
「処置だよ?」
確認の声。優しい確認。
「……処置でいい」
言い訳だ。でも欲しい。
「欲しいなら、言っていいよ」
その一言で、止まっていた何かが崩れた。
二回目。
今度は一回目より長い。
レイヴの吐息が俺の肺に入ってくる感覚。熱が広がって、胸の奥の空洞が少しずつ埋まっていく。
埋まるのに、また足りなくなる。
楽になるたびに、楽になる前の渇きを思い出す。
「……まだ」
「うん。もう少しね」
三回目。
今度は、触れた瞬間から身体が先に知っていた。
喉が開く。呼吸の道が広がる。熱が、首元から肩甲骨の裏まで流れ込む。
目の奥が潤む。
泣いてるわけじゃない。でも、全身がほどけていく感触が、涙に似ている。
「……っ」
声が漏れる。
恥ずかしい。
でももう恥ずかしさが、何かを止める力を持っていない。
「足りない」
言葉がそれだけになる。
レイヴが静かに言う。
「落ち方が変わってる。……今日はこれで整うよ」
整う。
そう言われると、そう思ってしまう。
でも——
「……行かないで」
自分でも驚く言葉が、口から出た。
レイヴは軽く笑って、でも逃がさない。
「行かないよ」
それだけで、また胸の奥が温くなる。
ようやく、身体が満たされたと認める瞬間が来た。
急に静かになる。
息が整う。
震えが止まる。
タグは、平気な顔をしている。
でも——その"平気"がどこ基準なのか、分からない。
*
レイヴが部屋を出る。
匂いが薄くなる。
それが、寂しい。
寂しい、って思ってしまったことを、俺はしばらく見つめた。
寂しい。そういう言葉を、ここで使うようになったのがいつからか、もう分からない。
スマホを開く。
日記。書けば落ち着く。そう思って開くことが、もう癖だ。
入力欄に指を置いて、予測変換が出る。
湊
ミナト
並んだ二つを、少し見た。
湊、って漢字が遠い。怖くない。ただ遠い。
指は自然に「ミナト」を選んだ。
選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。
怖いのに、楽になる。
『匂いがないと不安になる。
今日、廊下で見てしまった。他の人が落ちる瞬間。
いいな、って思った。
怖かった。自分がそう思ったことが。
喉が鳴った。二回。
でも、また欲しくなった。
足りない。
行かないでって言った。
言えた。言ってしまった。
今は、匂いがある。だから、落ち着いてる。
落ち着いてるのに、まだ少し足りない。』
最後に、ミナト、と打つ。
画面を閉じた部屋は静かで、護符の匂いだけが残っている。
匂いがあるのに、ほんの少しだけ物足りない気がして、俺は目を閉じる前に、胸元のタグに指先を当てた。
ミナト。
文字が、いつもより少しだけ馴染んで見えた。
馴染んで見えることが、今日いちばん怖かった。
*
(レイヴ)
廊下に出ると、空気が薄い。
さっきまでの濃度が、身体の内側に残っている。
俺は端末を開いた。
ログ確認。業務。いつも通りの手順。
そう言い聞かせながら、ミナトの日記の更新を開く。
『匂いがないと不安になる』
一行目で、喉の奥がひゅっと鳴った。
……ぞく、とする。
危険だ。分かってる。
依存の段階が進んでいる。施設の言葉で言えば、安定化の副作用として処理できる。ログに残る。委員会も把握できる形式だ。
なのに、指が止まる。
『今日、廊下で見てしまった。他の人が落ちる瞬間。いいな、って思った』
その行を、二度読んだ。
いいな、って思った。
ミナトが、"落ちる瞬間"をいいな、と思っている。
それが危険だ、という判断が先に来る。
先に来るのに、その直後に、別のものが来た。
——俺で落ちたい、って思ったんだ。
その事実が、胸の奥をくすぐって、皮膚の内側がぞわっとした。
気持ち悪い。なのに、嫌じゃない。
『喉が鳴った。二回』
その行で、さっきの部屋の空気が戻ってくる。
一回目に唇が触れた瞬間のこと。
ミナトの喉が鳴って、肩の力が抜けて、それでも「足りない」が先に来たこと。
足りない、が楽になるより先に来た。
それが、危ない段階の指標だ。
施設の運用で言えば、依存の閾値が下がっている。渇きが固定されかけている。
分かってる。
全部、分かってる。
なのに、指が画面から離れない。
『足りない。行かないでって言った。言えた。言ってしまった』
掴んできた指先を思い出す。
かすれた声。「行かないで」。
……可愛い、と思った。
思って、飲み込もうとした。
でも今夜は、飲み込むのに時間がかかった。
前より、明らかに時間がかかった。
「可愛い」が、胸の中に一拍余分に留まった。
それが、いちばんまずい。
俺は端末を伏せて、廊下に立ったまま、しばらく動かなかった。
動かないでいると、さっきの部屋の匂いが鼻の奥に残っているのに気づく。
ミナトの、上気した呼吸の残り香。
それを意識してしまっている。
俺は首を振って、歩き出す。
手順は正しかった。ログも残した。枠の中だった。
全部、正しい。
——なのに。
「行かないで」と言われた瞬間の、ミナトの声。
それが、胸の中でまだ鳴っている。
俺は少しの間、廊下に立ったまま息を吐いた。
「行かないよ」と答えた。
正しい返しだった。安心させるための、手順の言葉だった。
……のに。
言った後、自分の胸の奥が温くなったのは、何だったんだろう。
「……もっと安心させないと」
呟いて、その言葉の向きを確かめようとして、やめた。
確かめたら、答えが出る。
答えが出たら、それは業務じゃなくなる。
だから、確かめない。
日課にする。
毎日、枠の中で、正しくやる。
それだけだ。
——それだけ、のはずなのに。
足を止めて、息を一回吐いた。
吐いた息に、まだ少しだけ甘さが混じっていた気がした。




