Case-M #20
昨夜のことを思い出す前に、身体が先に知っていた。
目が覚めた瞬間から、胸の奥がきゅっと固い。
息を吸うたびに、どこか足りない。喉が乾いているわけじゃないのに、呼吸の通り道だけが細くなっているみたいで、つい口を開けてしまう。
「……大丈夫、大丈夫」
誰に聞かせるでもなく笑ってみせる癖だけが、先に口元に出る。
笑えば、なんとなく、いつもの自分に戻れる気がするから。
けれど内側は、昨日の夜の"落ち方"を覚えていて、思い出してはいけない甘さみたいなものが、舌の奥に薄く張り付いていた。
ベッドの脇に置いたタグに指先を当てる。硬い縁。冷たい面。
そこに表示されている文字を見て、俺は一拍だけ瞬きをした。
ミナト。
いつも通り。なのに、文字の輪郭が一瞬だけ滲んだように見えた。欠けた?
いや、見間違いだ。寝ぼけてるだけ。俺はタグから指を離して、顔を洗うために立ち上がった。
それでも、鏡に映る自分の頬がほんのり熱いのは、たぶん寝起きのせいじゃない。
*
朝の導線確認は、もう"日常"の顔をしている。
廊下に出ると、遠くから足音がきっちり近づいてきた。リュカだ。
規則正しく、迷いのない歩幅。俺を見つけると一瞬だけ眉を寄せるが、すぐにいつものツンとした目に戻る。
「起きたなら、先にここ。導線、変えた」
「え、また?」
「……お前が最近、夜に乱れる。だから」
言い方がぶっきらぼうなだけで、やってることは全部、俺がしんどくならないための手当てだと分かる。
分かるから、笑ってしまう。
「ありがと。ほんと、助かる」
「礼はいらない。守れ」
リュカは俺のスマホをちらりと見て、それからすぐ視線を逸らした。
「スマホ、昨日も落ちなかっただろ」
「うん。すごいよな、あれ。起きたらちゃんとついてて」
「……施設仕様だ。気にするな」
言い方が素っ気ない。でも、俺が「電池切れたら日記も写真も怖い」って言ったのを、ちゃんと覚えてた人の素っ気なさだ。
「雫は?」
俺がふと聞くと、リュカは鼻で笑った。
「週三まで。例外は……必要な時だけ。お前、分かってるだろ」
「うん……」
「だから、今日は余計な刺激を増やすな。散歩するなら——」
リュカは床の線と、壁に貼られた小さな札を顎で示す。細い区画線。立入制限。近づくとタグが微かに熱を持つ場所。
「あっちは入るな。反応する」
「反応って……」
「行けなくなる。迷い域に引かれる。無許可外出と同じ扱いだ」
怒鳴らない。脅さない。淡々と、"そういう運用"として言うから余計に、背筋がひやりとする。
「……分かった。守る」
「守れ。……壊れる前に、歩け」
最後の一言だけ、リュカの声がほんの少し低くなった。俺は「うん」と返しながら、胸の奥が少しだけほどけるのを感じてしまう。守られてる、と感じる瞬間に、安心が勝ってしまう。
*
昼、気晴らしに歩けと言われた導線を、ほんの少しだけ試してみた。
床の線に沿って歩く。曲がる場所も決まっていて、見上げれば、どの角にも"目"みたいな監視具がついている。見られている、というより、"見守られている"と感じさせる配置。そう思えるのが怖い。
途中、立入制限区画の札の前で立ち止まってしまう。扉は閉まっているのに、向こう側の気配だけがある。匂いが薄い。というより、情報が抜け落ちている感じ。呼吸の仕方が分からなくなるような静けさ。
俺は笑って誤魔化した。誰もいないのに、口角だけ上げて、足を進める。
「大丈夫。大丈夫……」
その"明るさ"が自分を支えてくれるはずだったのに、戻る部屋の前で、喉が一回鳴った。唾液が増えて、飲み込む音がやけに大きく聞こえる。昨夜のことを思い出してしまいそうになって、慌ててスマホの写真を開いた。人間界の写真。顔。景色。——何かが、遠い。
画面を閉じると、部屋の空気がぴたりと落ち着く。おかしい。外のことを考えた瞬間だけ、息が乱れる。
そして、昨夜言ってしまった言葉が、また胸の中で蘇る。
——匂いが薄いと、不安になる。
*
夕方、レイヴはいつもの軽い顔で現れた。
「おー、ミナト。……今日、顔色まあまあだね」
「……まあまあって何」
「まあまあは、まあまあ。昨日よりはマシってこと。ほら、こっち向いて」
笑ってる。そうだ、俺は笑ってる。笑ってるのに、目を合わせるのが少しだけ怖くて、視線を逸らしてしまう。
レイヴは俺のタグに目を落として、指先で軽く触れた。確認の手つき。業務の手つき。なのに、その指が触れた瞬間、喉の奥がすっと通る。
「昨日のログ、ちゃんと上げといたよ。委員会に回る形式だけど、まあ、そこは気にしなくていい。必要な手順だったから」
「……うん」
「それでさ」
レイヴは軽く笑いながら、声だけ少し真面目になる。
「昨日、お前言っただろ。俺の匂いが切れると不安になるって」
「……っ、忘れて」
「ん、忘れない。……でも責めてるわけじゃないよ。むしろ、それ、拾っておきたくて」
拾う、という言い方がレイヴらしい。処置の話をするのに、処置の顔をしない。
「匂いが切れると不安になるなら、持たせてあげればいいな、って思って」
「持たせる、って……」
「護符。香り固定のやつ。雫じゃないし、週三の枠にも引っかからない。申請も通る。……どう?」
雫、という単語が出た瞬間、身体が勝手に反応した。喉がきゅっと鳴る。唾液が増える。気づかれたくなくて、俺は笑って、冗談っぽく言う。
「……それ、ずるくない?」
「ずるい、の意味によるけどね。……助かるなら、ずるくていいんじゃない?」
レイヴはいつもの軽薄な目をしているのに、言葉だけがやけに優しい。俺はまた視線を逸らしてしまう。見られると、落ちてしまいそうだから。
「手順は踏む。ログも残す。嫌ならやらない。……嫌?」
「……嫌じゃない。たぶん」
"たぶん"が混じるのは、俺の理性がまだ抵抗してるからだ。助かるのに、怖い。怖いのに、欲しい。
レイヴは小さく頷いて、部屋の机の上に薄い札みたいなものを置いた。紙に見えるのに、紙じゃない。布片みたいでもある。触れたら冷たいのに、視線が吸い寄せられる。
「持ち歩ける。匂いが途切れないようにするだけ。……落ちるのが怖いなら、落ちなくていい。安心だけ残してあげる」
安心だけ残す。
そんなの、できるのか。できたら、俺は——。
レイヴの指先が護符の端に触れる。目に見えない何かが染み込んでいく気配。空気が少しだけ重くなって、匂いが濃くなる。夜の薬草みたいな、乾いた紙みたいな——レイヴの魔力香が、薄い膜のように部屋に広がった。
俺は反射的に息を吸ってしまう。
肺に入った瞬間、胸の奥がほどける。喉の渇きが引く。さっきまでの細い呼吸が、嘘みたいに深くなる。呼吸が戻るだけで、こんなに——楽になるのか。
「ほら。吸って」
命令じゃない。誘導だ。手順だ。なのに、その声が近いだけで、身体が勝手に従ってしまう。
俺がもう一度息を吸うと、護符から立つ匂いが、さらに鮮明に胸の奥まで落ちた。熱が腹の底に沈むみたいに、じわっと広がる。甘い、とは違う。甘くなる手前の、安心の味。
「……これ、ずるい」
俺は小さく言ってしまった。
「持ってるだけで、落ち着く……」
レイヴは笑って、護符を俺の手のひらに乗せる。指が触れた場所が熱い。護符自体は冷たいのに、レイヴの指が離れた瞬間、喉の奥が名残惜しそうにきゅっと鳴った。
「安全装置みたいなものだよ。匂いが切れて息が乱れるのは、今のミナトにはよくないから」
「……よくない、って……」
「禁断症状、って言うと怖く聞こえるかもしれないけど」
さらっと言われて、俺は眉を寄せる。
「禁断症状……?」
「足りない時に出る感じのやつ。喉の渇きとか、息切れとか。……心当たりある?」
「……ある」
「だよね。だから護符。リュカの導線も、俺のこれも、正しく使えば安全だから」
正しく。安全。手順。
全部、優しさの形をしている。俺は頷きながら、胸の奥でちいさく冷えるものを感じた。正しいと言われるほど、拒む理由が消えていく。
「……これ、ずっと持ってていいの?」
「施設にいる間はね。……外は危険だし、タグもある。無許可で出ようとしちゃダメだよ」
「しないよ。……たぶん」
言いながら、俺は護符を指先で撫でた。匂いが、そこに残っている。匂いが残っているだけで、呼吸が深い。安心が、身体に先に来る。遅れて心が追いついてきて、「助かった」と思う。
レイヴは俺の顔を見て、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。目を丸くする、というより、息を呑むみたいな間。
そしてすぐ、いつもの軽薄な笑顔に戻る。
「よし。今日はそれで様子見ね。……落ち方を覚えてるってことだから、悪いことじゃないよ」
「……悪いことじゃない、って言われると」
「安心する?」
「……うん」
答えた瞬間、自分でも分かるほど、胸が緩んだ。
その緩さが、怖いはずなのに。
*
夜。自室の灯りを落として、護符を枕元に置いた。
匂いが薄くなると不安になる。そんな自分を、昼の自分は笑って誤魔化せたのに、夜は誤魔化せない。護符から立つ匂いを吸うと、胸が落ち着く。落ち着きが、甘い。甘い、と言ってしまうと何かが壊れそうで、俺は小さく笑った。
「……これで眠れるなら、いいか」
いい、のか。
護符を掌に握ると、指先から熱が伝わってくる気がした。レイヴの指の名残みたいに。呼吸が深くなる。喉が渇かない。胸が冷えない。
その代わり、安心が固定されていく感覚がある。
俺はスマホを開いた。メモ。日記。誰も見ない、って言われたやつ。誰も見ない、と信じたいもの。
入力欄に指を置く。名前を入れようとして、予測変換が出る。
湊
ミナト
並んだ二つを見て、俺は一拍だけ止まった。
湊、って漢字が遠い。俺の名前のはずなのに、字面だけが別の人のものみたいで、手が躊躇う。怖くはない。それが、いちばん怖い。
指は自然に、ミナトを選んだ。選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。たったそれだけのことが、小さな報酬みたいに胸に落ちて、俺は笑ってしまいそうになった。
――――
匂いを持った。
持ってるだけで落ち着く。ずるい。
安心しすぎて怖い。
でも、今日は息が足りなくならなかった。
明日、散歩してみようかな。
――――
書き終えて、署名の代わりに最後にもう一度、ミナト、と打つ。
画面を閉じた部屋は静かで、護符の匂いだけが残っている。匂いがあるのに、ほんの少しだけ物足りない気がして、俺は目を閉じる前に、胸元のタグに指先を当てた。
ミナト。
文字が、いつもより少しだけ馴染んで見えた。




