幕間 三匹の悪魔たち
番外編 レイヴ リュカ ゴルドのお話です
レイヴ
委員会の部屋ってのは、いつ来ても空気が薄い。
照明は明るいのに、温度がない。机の角は几帳面で、壁に掛かった規定文はやたら整ってる。ここに座ると、人間の"余計なもの"が全部、数字に圧縮される感じがする。
「レイヴ。今期も帰還率トップだね」
向かいの席の委員が、資料を指で叩いた。紙の音が乾いて響く。
「処置の精度も高い。暴走抑制のログもきれい。……優秀担当者として、次期も同じ裁量を維持する」
俺は笑う。口元だけ。軽く、いつもの癖で。
「はは。ありがと。俺、褒められると伸びるタイプなんで」
委員の目が動く。表情は変えない。変えないけど、たぶん"軽薄"ってラベルを貼られた。便利なラベルだ。こっちも楽になる。
「ただし、監査ログの観点から。雫の扱い、例外手順の入れ方、回数の制御。引き続き厳守して」
「もちろん。俺、ルール大好きだし」
また笑う。自分で言っておいて、少しだけ胸の奥が冷えた。
ルールが好きなんじゃない。
ルールがあると、切れるからだ。匂いも、声も、感情も。余計なものを"手順"で切り落とせる。
それで、今までずっとやってきた。
⸻
人間の負の匂いが苦手だ。
泣く匂い。疑う匂い。憎む匂い。身体の奥に沈んだ泥みたいなものを、息に混ぜて吐いてくる。
肺が汚れる感じがする。
正確に言うと、肺じゃない。もっと奥。胸の中心。気管の分岐する手前あたり。そこに、人間の負の匂いが溜まる感じがする。溜まって、乾かなくなる感じ。
どれだけ換気しても、ある種の匂いは残る。
怒りの匂いは比較的薄れやすい。悲しみは少し長い。一番きついのは、絶望だ。
あれだけは、施設に残る。壁に染みる。俺の鼻の奥にも。
だから俺は、距離を取ることを覚えた。
感情が出る前に手順を回す。手順の中では感情が要らない。感情が要らない仕事は、清潔だ。
効かせて、落として、帰す。
それが仕事で、それが正解で、それが実績になった。帰還率トップ。優秀担当者。委員会の言葉は、俺の"言い訳"にちょうどいい。
——感情なんていらない。技術だ。
そう思ってた。
⸻
廊下を出ると、施設の匂いが戻ってくる。消毒と魔具の金属臭、それから、薄い甘さ。
甘さは嫌いじゃない。だけど、人間の"甘さ"は別だ。媚びとか、縋りとか、壊れかけの笑顔とか。あれは混ざると汚い。
あの部屋で泣き崩れてた保護対象。
「帰りたい」って叫びながら、次の瞬間には「嘘つき」って罵ってくるやつ。
目を合わせれば睨み、手順を出せば拒み、拒んで苦しくなって、最後は俺のせいにして倒れる。
その断片が、勝手に頭の中で並ぶ。
一番きつかったのは、三年前の対象だった。
名前は出さない。施設では全員、愛称で呼ぶ。
その対象は、俺が何をしても「嬉しそうにしてる」って解釈した。処置が終わると「好きだ」って言う。手順を説明すると「口実だ」って笑う。
嬉しそうにしてるのは、お前だろ、って思った。
でも口には出さない。手順の外だ。
その対象は、結局、帰還できなかった。
理由はいくつかあった。制度の話、適応値の話、本人の精神状態の話。どれも正しかった。
俺のせいじゃない。
なのに、帰還審査が通らなかった夜、俺の施設の部屋の外で、その対象が泣いた。
声は出してない。でも匂いが来た。絶望の匂い。
そのまま朝まで、俺は部屋の中にいた。
開けなかった。正しかった。手順通りだった。
——でも、今でもたまに、その夜の匂いが鼻の奥に戻ってくる。
もう一件、覚えてる。
半年前。今度は若かった。施設に来たばかりで、何もかもが怖そうな目をしてた。
俺が声をかけると震えて、手順を出すと泣いて、処置が終わると「ありがとうございます」って言った。
丁寧な言葉だった。
丁寧すぎて、距離があった。
俺はそれを、正しい関係だと思った。
その対象は、半年かけて、ちゃんと帰還した。
最後の日、廊下ですれ違って、俺を見て会釈した。
「お世話になりました」
それだけ言って、歩いていった。
俺は笑って「どうも」って返した。
——廊下が、静かだった。
静かなのに、胸の奥に何かが残った。
何かが残ったことが、気持ち悪かった。
だから俺は、距離を取る。
手順で切る。感情を持たない。
そう決めてから、ずっと、帰還率トップだ。
⸻
ミナトは、違った。
最初から、矛盾してた。
怖いのに笑う。
必死なのに気丈。
壊れそうなのに、明るいふりが上手すぎる。
それが、厄介だった。
不安の匂いはちゃんとする。喉が乾いた匂い。浅い呼吸。胸郭が固まっていく気配。普通なら、俺はそこに嫌悪が出る。
人間の不安は、重い。まとわりつく。
でもミナトの不安は、ある瞬間だけ、甘さが混じる。
蜜。
"壊れそうなのに笑う時"にだけ立つ、あの甘い輪郭。
それが混ざるせいで、嫌悪が出ない。むしろ、肺が"吸いやすい"って思ってしまう。
そんなの、今までなかった。
例外。
その言葉が、じわっと腹の底に沈む。
俺は例外が嫌いだ。ルールが崩れるから。手順が乱れるから。
でも、ミナトは例外のまま、俺の中に残った。
最初に気づいたのは、交流会の後だった。
会場から出てきたミナトの顔を見た瞬間、俺の肺が一拍だけ広がった気がした。
広がった。
その言葉が正しい。
縮んでたものが、広がった。
なんで、って考えて、答えが出なかった。
答えが出ないことが、一番まずかった。
⸻
息合わせの記憶は、まだ身体に残ってる。
ミナトの息が乱れて、視界が泳いで、唇が乾いていく瞬間。
焦るほど吸えなくなって、吸えないから余計に怖くなって、怖いから笑ってしまう——あの悪循環。
俺はいつも通り、手順で切った。
「目、見て」
逃がさないためじゃない。焦点を合わせるため。そう言い訳できるやり方。
「吐いて。先に吐く」
「うん。そう。今、吸う」
距離を詰める。声を落とす。息が重なる位置に、口元を寄せる。
肌が近いと、人間は落ちやすい。体温と匂いで、"今ここ"に戻る。
分かってる。技術だ。
……技術なのに。
ミナトが吸うタイミングで、俺の吐息が重なった瞬間。
ミナトの喉が、こくんと鳴った。
唾液が引っかかって、飲み込めないみたいに。
背骨が一瞬、震えたのが伝わった。
それを俺は、感じた。
伝わる、じゃない。感じた、だ。
皮膚越しに、温度越しに、距離を詰めた先にある感触として、確かに感じた。
掴んできた指先が、縋るというより、落ちる場所を探してるみたいに強くなる。
吸うたびに、ミナトの目が変わる。
怖さが薄れていって、肩がほどけて、胸の奥の固さが緩んでいく。
呼吸が戻る瞬間、体温が上がって、頬が赤くなって、目が潤む。
その変化を、俺はひとつひとつ、全部見ていた。
見ながら、見てることに気づかないふりをした。
……落ちた。
その言葉が浮かんで、自分で嫌になった。
「落ち着いた」
言い換える。いつも通り。俺は優秀だ。言葉で整える。感情を切る。
でも、刺さったのはそこじゃない。
ミナトが、俺の息で戻った。
俺で落ちた。
その事実が、妙に胸の奥をくすぐって、皮膚の内側がぞわぞわした。
気持ち悪い。なのに、嫌じゃない。
俺はミナトを「かわいい」って思いかけた。
思いかけて、止まった。
その言葉を、舌の奥に押し込んで、溶かした。
溶かしながら、なぜか喉が乾いた。
かわいい、じゃない。
"安定した"。"管理できた"。
そういう言葉にしておけば、まだ安全だ。
安全のうちは、手順の内側だ。
手順の内側なら、俺はまだ優秀担当者だ。
——でも。
半年前に帰還した対象が「お世話になりました」と言って去った時、胸に残ったあの感触。
今日のミナトが袖を掴んで「いい子」って褒めると喉が鳴った時の感触。
その二つは、同じ種類じゃない。
同じ種類じゃないのに、俺は同じ箱に入れようとしている。
それが、怖い。
⸻
夜。
業務端末の画面に、監督ツールのアイコンが光っている。
押すだけでログが開く。タグのバイタル、処置の記録、今日の適応値。
それは仕事。いつも通り。
その下に、ミナトの日記の更新が出ていた。
ミナト。
名前を見た瞬間、指が止まる。
止まったことが、もうおかしい。
でも俺は、言い訳を一個だけ用意する。
「……安全のため」
小さく言って、言い訳を貼る。
いつもはこれで十分だった。
貼ったら開く。読む。確認する。閉じる。それだけだ。
なのに今夜は、貼った途端に背徳感が走った。
薄い電気みたいな震えが背中を通り抜けて、消える。
おかしい。
「安全のため」は正しい。業務として正しい。ミナトの状態を把握することは、担当の義務だ。
俺は何もおかしいことをしていない。
そう言い聞かせながら、覗く。
短い文。
息が戻った瞬間。
声。
近さ。
匂い。
それだけで、昼間の距離が蘇る。
俺の目。俺の吐息。ミナトの喉の鳴り。震え。上気。
『レイヴが来ると、息ができる』
その一行に、胸の奥がきゅっと締まった。
安心させた。
正しく処置した。
救った。
……そういう形にしたい。
でも、同時に、別の感情が生まれる。
"俺が"そうさせた、っていう感覚。
それが甘くて、怖い。
画面を閉じようとして、閉じられない。
指先が熱い。喉が乾く。自分の呼吸が、少しだけ乱れる。
担当者の綻び。
俺は笑ってしまいそうになるのを堪えて、一拍だけ待った。
待ちながら、考える。
ミナトは、俺の息で落ち着く。
俺の目で、不安が消える。
俺の声が、喉をほどく。
それは依存だ。施設の用語で言えば、安定化の副作用として処理できる。ログに残る。委員会も把握してる。問題ない。
問題ない、のに。
毎日来よう、と思った理由が、「崩れる前に戻す」だけじゃなかったことに、今さら気づく。
崩れる前に、会いに行きたい。
その言葉を、心の中で声にした瞬間、俺は端末の明かりを落とした。
落としてから、暗い画面を見つめた。
「ミナト」という残像が、まだ少しだけ光っている気がした。
そして、心の中で短く決める。
……日課にするか。
声に出さない。
声にしたら、それは業務じゃなくなる気がするから。
——半年前に帰還した対象が廊下で会釈した、あの静かさ。
ミナトにも、いつかそれが来る。
来るのに、俺は今日も「日課にするか」と決めた。
その矛盾に気づきながら、端末を伏せた。
---
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## リュカ
導線の仕事は、だいたい嫌われる。
面会の時間。外周の申請。食堂の混み具合。浴場の順番。娯楽室の開放枠。
全部、「決められてる」ってだけで、腹が立つやつは立つ。
でも決めなきゃ、死ぬ。
ここはそういう場所だ。危険が常に外側にあって、内側は"安全なふり"をしている。
俺は、その"ふり"を崩さないために、毎日歩く。
今日も通路を曲がったところで、声が割れた。
「なんで外に出られないんだよ! 人権ないのか!」
食堂前の通路で、保護対象の男が職員に食ってかかっていた。
職員――同じ部署の若い悪魔が困った顔をして、手にした端末を胸に抱える。
「外周は申請制です。今は面会時間外で――」
「申請? 誰にだよ! 許可って誰の許可だよ!」
男が吐き捨てる。
「どうせ"委員会"だろ。あいつらだろ、悪魔の――」
そこで、俺が視界に入った。
男の視線が俺に刺さり、声の矛先がすぐに切り替わる。
「おい、そこ! 導線のやつだろ! 担当じゃねぇのに、なんで偉そうなんだよ」
「導線担当。偉くはない。手順を持ってるだけだ」
「手順って言葉で誤魔化すな。てめぇら、俺らを閉じ込めて――」
言い終える前に、背後の警備が一歩、足音もなく距離を詰めた。
空気が一段硬くなる。
俺は手を上げて止め、職員に目配せする。下がれ、って合図。
男の怒りを受け止める役を、俺が引き取った。
「戻れ。今は面会時間外だ」
「だからそれが――!」
「呼吸が乱れてる。落ち着いてから申請書を書け。今書いても通らない」
"通らない"の言い方が、男の癇に障るのが分かる。
顔が歪む。怒りと恐怖と、嫌悪が混ざる。
それでも男は、少しだけ息を吐いた。
俺の声が、手順として耳に入った証拠だ。
怒鳴るのをやめたわけじゃない。
ただ、「手順」という言葉の形が、嵐の中に杭を一本打ち込んだ。
——「悪魔」って言われるのは慣れてる。
慣れてる、はずだ。
でも、胸の奥のどこかは、毎回ちょっとだけ刺さる。
刺さった場所を見ないようにして、俺は仕事に戻った。
回収ルートを二本、混雑時間を一本、潰す。
安全な時間帯を伸ばして、危ない時間帯を短くする。
誰かの「自由」は削れる。
誰かの「生存」は残る。
そうやって回してきた。
⸻
以前、似たような保護対象がいた。
名前は呼ばない。施設では愛称しか使わない。
その対象は、来た当初から怒鳴り続けた。
廊下を歩くたびに俺を見つけて、「また来た」って目をした。
嫌悪の目。でも、目が合うたびに探してる目でもあった。
俺は手順通りに動いた。
感情を挟まない。距離を一定に保つ。怒鳴られたら待つ。落ち着いたら対応する。
それだけで、三ヶ月が経った。
四ヶ月目に、その対象が俺の横に来て、黙って並んで歩いた。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
廊下の角まで並んで、そこで分かれた。
翌週、その対象は帰還した。
最後に「お前は面倒くさかった」って言った。
俺は「そうだな」と返した。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
——充分、だったはずだ。
でも、その対象が去った後の廊下に、俺は少しだけ立ち止まった。
立ち止まったことの意味を、考えないことにした。
⸻
……大抵の保護対象は、導線に噛みつく。
怒る。疑う。泣く。黙る。笑って突き放す。担当を憎む。導線を嫌う。
それが普通だ。
だから。
ミナトが、あんなふうに言ったのが、いまだに頭のどこかに残ってる。
口調は強いけど、俺のこと考えて助けてくれてる。
怖いとは思わない。ありがとう。
あのとき、俺は、返しを間違えた。
正しい返しが何か分からなくて、反射で突っぱねた。
「勝手に決めるな」
「調子に乗るな」
そう言いながら、歩幅を合わせてしまった。
手を貸しかけて、引っ込めた。
俺のほうが、落ち着かなくなってた。
なんで落ち着かなくなったのか、今も分からない。
いや、分かってる。
言葉にしたくないだけだ。
⸻
スマホを書き換えた夜のことを、まだ覚えてる。
ミナトの部屋は、施設の端にある。
廊下が静かで、窓がなくて、灯りだけが落ち着いてる。
俺が来た時、ミナトはベッドの端に座って、スマホを眺めてた。
画面が暗くなりかけてるのに、充電のやり方が分からなくて、放置してた。
「電池、もう減ってきてんじゃないの」
「あー……そうなんだよ。こっち来てから、充電ってどうすればいいか分かんなくてさ」
言いながら笑う。
壊れそうなのに笑う。
俺は手を伸ばした。
「貸せ」
「え、なに。没収?」
「違う。……そのまま使えるようにするだけだ」
ミナトが目を丸くする。
疑いより先に、期待が来る顔。
それが少し、腹立たしかった。
疑えよ、って思う。
俺は悪魔だ。施設の職員だ。
スマホを渡す理由を、もう少し考えてもいいはずだ。
なのに、疑わない。
渡す。
俺はスマホを受け取った。
術式を走らせる。派手な光は出さない。
見た目は変えない。施設の魔力回路に繋ぐだけ。
電源管理だけ、異界仕様にする。
ここにいる限り、落ちない。
——ここにいる限り、落ちない。
術式を走らせながら、その言葉の意味を二回考えた。
"電源が"落ちない。
それだけだ。
「はい」
「え、もう? なにしたの」
「電源が落ちないようにした」
「……え、まじ? やったー!」
笑った。
ほんとに嬉しそうに。
その声が、胸の奥を一拍だけ撫でて通っていった。
「……騒ぐな」
「いや、だってさ。電源切れたら、日記も写真も……なんか怖いじゃん」
怖い。
その言葉が出た瞬間、甘さがまた薄く立つ。
俺は視線を逸らした。
「怖いなら、書け」
「え?」
「日記。……息が戻った瞬間とか、安心した瞬間だけ。そういうのを書いとけ」
「なんで?」
「……お前がしんどくなるからだ」
言い訳を、仕事の言葉にする。
善意の形にする。
ミナトは「そっか」と頷いて、すぐにスマホを抱えた。
大事なものを守るみたいな仕草。
——それだけだ。
そう思って、部屋を出た。
出た後、廊下で少しだけ止まった。
止まったことの理由を、考えなかった。
⸻
翌日から、ミナトの動きが少しだけ変わった。
確認のタイミングで、スマホが手元にある。
日記が習慣になりかけてる。
俺がしたことは、正しい。
そう思う。
でも、正しさの形が、少しずつ歪んでいくのも分かる。
帰還の話題が出ると、反応が遅れる。
他の保護対象が「帰れそう」って言うのを聞くたびに、ミナトが顔を上げる。
希望の目をする。
その目が、俺には眩しい。
眩しいから、目を逸らしたくなる。
目を逸らしたくなるのに、逸らしたら、ミナトが一人になる。
それが嫌だ。
嫌だ、と思ってしまうこと自体が、もう、仕事の範囲じゃないのに。
⸻
ミナトは、俺を「友達」って言った。
簡単に言うな、って思った。
「友達」って言葉は、ここでは軽くない。
軽そうに聞こえるのに、軽くない。
俺たちは悪魔で、あいつは保護対象だ。
その関係に「友達」を入れると、線が歪む。
歪んだ線の上に立つのは、どっちが先に怪我をするか分からない。
だから、突っぱねた。
「勝手に決めるな」
突っぱねたのに、歩幅を合わせた。
矛盾してる。
分かってて、やめなかった。
……ミナトが、俺に従ってると息ができるって言った。
それが、厄介だった。
厄介なのに、腹の底に、温いものが沈んだ。
言葉にしたくない。
言葉にしたら、仕事じゃなくなる。
だから、俺は今日も手順を回す。
導線を引く。時間を割り当てる。ミナトが刺さらない角度に立つ。
それだけだ。
——それだけ、のはずなのに。
いなくなることを想像した。
廊下の角で、ふと、何もない空間が見えた気がして。
息が、止まりかけた。
止まりかけたことに、気づいた。
気づいた後、俺はそのまま歩き続けた。
止まりかけた理由を、考えなかった。
考えたら、俺は今日の仕事を終わらせられなくなる気がしたから。
——「友達」って。
簡単に言うな。
簡単に言われたせいで、俺のほうが、失うのが怖くなる。
---
## ゴルド
アタシが「食」を優先するのには、理由がある。
理由って言い方は、きれいすぎるかもしれない。
もっと泥くさい。もっと、取り返しがつかない。
——弟の事故。
思い出したくないのに、指先に残ってる。
床の冷たさ。空気の重さ。耳の奥で鳴っていた音。
叫んだ声が、自分のものだったのかも曖昧なまま。
間に合わなかった。
間に合わなかったって事実だけが、今も胸の底で硬い。
⸻
あの日のことを、順番に覚えてる。
弟は、食べなかった。
悪魔の世界では、食べないことは死に近い。
人間みたいに「食欲がない」で済む話じゃない。
魔力の回路が細くなる。感覚が鈍る。判断が遅れる。
それは全部、外からは見えない。
弟は笑ってた。
アタシの前では、いつも笑ってた。
大丈夫、って言ってた。
アタシが「食べた?」って聞くと、「食べたよ」って言ってた。
嘘だった。
気づいたのは、倒れてからだった。
廊下で、音がした。
駆けつけた時、弟は床に倒れてて、息が浅かった。
アタシは叫んだ。
何を叫んだか、覚えてない。
周りが動いた。処置が始まった。
アタシは廊下に立ったまま、何もできなかった。
——でかい身体してて、なにやってんだ。
ずっと、そう思ってる。
弟は助かった。
助かったけど、回路の一部が戻らなかった。
今も施設の別の区画で生活してる。
アタシが会いに行くと、笑う。
大丈夫、って言う。
その笑い方が、あの頃のまま変わってない。
変わってないことが、一番つらい。
⸻
だから、アタシは食を見る。
人間が来ると、まず口を見る。
乾いてるか。開いてるか。飲み込もうとしてるか。
次に手を見る。
震えてるか。冷えてるか。器を持てるか。
最後に目を見る。
焦点が合ってるか。どこかに向いてるか。虚ろか。
それだけで、だいたい分かる。
もう二度と繰り返さない。
その誓いだけで、アタシはここに立ってる。
⸻
施設に来る人間は、だいたい"食べない"。
食堂に連れてっても箸が進まない。
匂いで胃が縮む。
喉を通らない。
無理に入れたら吐く。
あの子らは、心が折れた瞬間、身体が一緒に止まる。
だからまずは、身体を生かす。
生きてる身体があれば、心は戻ってくることがある。
アタシはそうやって、何人も見送ってきた。
一人、覚えてる。
若い女の子だった。来た当初は何も食べなかった。
水しか飲まない。固形は全部、「あとで」って言う。
アタシは毎日、同じ時間に、同じ場所に、同じものを置いた。
「食べなくていい」とだけ言った。
「置いとくだけ」とだけ言った。
三週間、そうした。
三週間目の終わり、その子がスープを一口だけ飲んだ。
飲んで、泣いた。
アタシは何も言わなかった。
隣に座って、湯気が冷えるまで、ただそこにいた。
その子は、四ヶ月後に帰還した。
最後に「ゴルドさんのスープが一番おいしかった」って言った。
アタシは「知ってる」って返した。
——嘘だ。
一番おいしいのは、家の味だ。
アタシのスープじゃない。
でも、「知ってる」って言った。
言わなきゃ、あの子の笑顔が崩れる気がしたから。
帰す。
帰すために、生かす。
それがアタシの仕事だ。
⸻
……だけど。
ミナトは、ちょっと違った。
明るい顔をする。
軽口も叩く。
愛想もいい。
でも、笑い方が薄い。
薄い、っていうのは、軽いって意味じゃない。
壊れそうなのに、壊れてないふりをしてる薄さだ。
どこかの境目にずっと立ってて、足元が崩れないように笑ってる。
そういうの、放っておけない。
放っておけないって思った瞬間に、胸の奥の方がきゅっと縮む。
弟の影が、勝手に重なる。
——違う。
ミナトはミナト。
弟じゃない。
分かってるのに、身体が先に動く。
⸻
食堂の隅、空いてる時間帯。
リュカが導線を締めてくれてるから、余計な目は少ない。
アタシは鍋の前で、呼吸を整える。
いつも通り、手順通り。
湯気の立ち方。
塩の加減。
火を落とすタイミング。
喉に引っかからない温度。
"落ち着くスープ"。
そう呼ばれてる。
呼び名が、優しすぎるとも思う。
でも、この呼び名が必要だ。怖がらせないために。
器に注いで、ミナトの前に置く。
「はい。あったかいうちに」
「……また? ほんと助かる」
「助かって。生きて」
つい、言葉が直球になる。
慌てて軽口に戻す。
「保護対象が飲むと落ち着くスープなのよ。アンタ、顔色がね、ちょっと」
「俺、そんなひどい?」
「ひどいってほどじゃない。……でも、放っとくとひどくなる顔」
ミナトは苦笑いして、器を両手で包む。
指先が、少しだけ震えてる。
ひと口。
喉が動く。
それだけで、空気が変わる。
肩の力が、目に見えて抜けた。
呼吸が深く入って、胸がちゃんと膨らむ。
胃の底に温かさが落ちて、目の焦点が合う。
——よかった。
それなのに、よかった、の奥に別の感情が混ざる。
"ここでいい"って言い始める身体。
戻れなくなるかもしれない、っていう怖さ。
それを考えたくなくて、ミナトが笑う。
笑って散らす。
壊れそうなのに、笑って散らす。
ミナトがぽつりと言った。
「……なんかさ。変な話、思い出しそうになった」
「変な話?」
「昔読んだやつ。異界のもの食べると戻れなくなる、みたいな」
言葉尻だけで、分かる。
たぶん、あれだ。
黄泉の食。戻れない影。
ミナトは、すぐに首を振った。
「いや、今さらだよね。俺もうここで普通に食ってるし」
「……」
「落ち着くって言われたから落ち着いただけで。考えすぎると、また息が浅くなるし」
自分に言い聞かせる声。
アタシは笑ってみせる。
あんたの笑いを、これ以上濃くさせないために。
「そうそう。余計な想像は胃に悪い」
「……ゴルドってさ、急に現実的だよな」
「アタシ、現実で生きてんの。帰すためにね」
——帰すために、生かす。
言い訳。
でも本音。
生かすほど、帰る距離が遠くなるのを、アタシは知ってる。
知ってるのに、手を止められない。
⸻
ミナトの呼吸が落ち着いた。
落ち着いた、はずなのに。
完全には戻ってない。
目の奥に、まだ薄い焦りが残ってる。
喉の奥が、まだ乾いてるみたいな仕草。
器を持つ手が、離れたがらない。
スープで落ちない。
……いや、落ちた。
でも"足りない"が残った。
その"足りない"の行き先が、どこかも分かる。
レイヴ。
あの担当の、軽い笑い方。
呼吸を合わせる手順。
ミナトが、あいつの近さでだけ息を戻すのを、アタシは何度も見た。
それが正しいのかは分からない。
正しくないかもしれない。
帰すための距離が、縮まりすぎてるかもしれない。
でも、アタシにできるのは食だ。
食で繋ぐことしか、アタシには分からない。
ミナトが壊れないなら。
今日の呼吸が戻るなら。
アタシは器を回収しながら、さりげなく立ち位置をずらす。
見えないところに、短い通路がある。
そこで、端末を取り出す。
指先で短く打って、送る。
『今日、効きが浅い』
それだけ。
送信を終えた瞬間、背中がひやりとした。
自分が今、何を繋いだのか分かってしまうから。
戻ると、ミナトはまだ器を眺めていた。
空になった器を、名残惜しそうに。
アタシは笑って、豪快に肩を叩くふりをする。
マッチョの腕は、優しさのためにあるって顔で。
「はいはい、今日はここまで。次はちゃんと噛めるやつも食べさせる」
「……うん。ありがとう」
ありがとう、が小さい。
小さいけど、重い。
アタシはその重さを受け取って、胸の奥に押し込む。
——弟のあの日、アタシは間に合わなかった。
だから今日も、続ける。
ミナトの器を洗いながら、そう思う。
生かす。
生かして、帰す。
……はずだった。
なのに今、アタシは"帰す"より先に"繋ぐ"を選んだ。
繋ぐ、ってことは、手放すのが怖い、ってことだ。
アタシはそれを知ってる。
知ってて、端末を打った。
弟の事故が頭をよぎる。
間に合わなかった記憶が、背中を押す。
だから、今日も言い訳する。
これは善意だ。
これは生存だ。
これは、帰すための手順だ。
——そうじゃないかもしれない不安を、スープの湯気で隠しながら。
---




