Case-M #19
眠りが浅かった。
目を開けた瞬間から、胸の奥が冷えている。寒いわけじゃない。布団の中はぬくい。なのに、息が入ってこない。吸うほど苦しい。肺が広がる場所を探して、見つからないみたいな感覚。
喉が乾く。舌が上顎に貼りついて、飲み込もうとしても唾液がうまく落ちない。指先が、ほんの少しだけ震える。
「……大丈夫。俺、大丈夫」
明るくしようとする癖だけが先に出る。声にすれば落ち着く気がする。落ち着いた"ことにできる"気がする。そういう自分が、今朝はちょっと嫌だ。
胸元のタグに指を触れた。冷たい輪郭が皮膚に残る。
表示は「ミナト」。
いつものはずなのに、一瞬だけ、文字の端が欠けたように見えた。滲んだようにも。
瞬きをしたら、普通に戻っている。
見間違い。寝不足。そういうことにする。
喉元がじんと熱い。そこを撫でそうになって、やめた。触れたら意識してしまう。意識したら、息が浅くなる。浅くなったら――きっと、今日も来る。
水を飲んでも、完全には戻らなかった。喉の乾きが薄くなるだけで、胸郭の固さが残る。笑ってやり過ごそうとして、笑いが喉で引っかかる。
廊下に出ると、施設の空気がやけに静かだった。静かなのに、人の気配だけはやたら濃い。視線が増えている気がする。たぶん気のせい。そう言い聞かせて歩く。
——その「気のせい」を、レイヴはいつも見逃さない。
「おはよ、ミナト。顔、ちょっと乾いてんじゃない?」
軽い調子。いつも通りの笑顔。冗談みたいな口調なのに、距離の取り方だけは正確だ。近すぎない、遠すぎない。逃げ道がある場所に立ってくれる。
「乾いてないよ。……たぶん」
俺が言いかけたところで、レイヴはタグに視線を落として、指先で何かをなぞるように確認する。魔具なのか、タグの仕様なのか、やり方は見せない。見せないけど、"見てる"ってわかる。
「うん。バイタルは崩れてない。けど、息が浅い。……無理して笑ってる」
言い当てられて、口の端がひきつる。笑って誤魔化したいのに、笑いが出ると喉が乾く。乾いたまま、さらに笑ってしまう。
「別に無理してないって。大丈夫だよ、俺」
その瞬間、空気が一瞬だけ甘くなる。ほんの一拍。鼻の奥に、砂糖を焦がしたみたいな匂いの輪郭が立つ。
俺も気づく。気づくけど、言葉にしない。言葉にしたら、もっと濃くなる気がするから。
レイヴは、眉の動きをほんのわずかに変えた。気づいたんだと思う。けど、顔色を変えない。
「はいはい。じゃ、今日は"ちゃんと大丈夫"にしよっか。先に言っとく。雫は週三まで。今日はそれ、使わない」
雫。喉の奥が勝手に反応する。昨日の"戻り方"が、皮膚の下で思い出されるみたいに。
「……うん」
うなずくのが早すぎて、自分でびびる。レイヴは軽く笑って、すぐに真面目な目になる。
「だから別手段で落とす。効くから。怖いことしない。……目、見て」
「目?」
「うん。逃げない。今は、ここだけ見て」
言われて顔を上げる。レイヴの目が真正面にあって、逃げ道がなくなる。逃げ道がないのに、不思議と息が少しだけ入りやすくなる。
首元が熱い。頭が、ふわっとする。ぼうっとする。怖いはずの気持ちが、薄皮を剥がされるみたいに消えていく。
「吐く。先に吐く。俺に合わせて」
レイヴが低い声で言う。俺は頷いて、口から息を出す。長く。細く。出し切る。
「そう。もう一回。吐く」
吐く。吐くほど胸の固さがほどける。
ほどけるたびに、胸の中に空洞ができる感じがする。空っぽになる感じ。怖いのに、その空っぽが気持ちいい。固かったものが解けていく感覚に、身体が先に安心してしまう。
「吸わなくていい。吸いたくなるまで、吐く」
言葉が手順になって、身体が従う。従うことが、楽になる。
三回目の吐き終わり。空っぽの肺に、勝手に空気が欲しくなる。
「今、吸って」
レイヴが言う。
俺が吸うタイミングに合わせて、レイヴが息を吐いた。
近い。口元が近い。声の距離じゃない。呼吸の距離だ。
吸ってしまった。
レイヴの吐息が、そのまま俺の肺に入ってくるみたいに。熱が一緒に流れ込むみたいに。
匂いがする。甘くも苦くもない、でも確かに"レイヴの匂い"。胸の奥に落ちて、そこから全身に広がる。
広がった瞬間、怖さが薄れる。
薄れるだけじゃない。溶ける。溶けて、消える。消えた場所に、熱だけが残る。
背骨の奥がぞくっと震える。喉が鳴る。唾液が増えて、飲み込むのが追いつかない。
気持ちいい、に近い。
その事実が怖いのに、もう一度吸いたくなる。もう一度この匂いを肺に入れたくなる。
「……っ」
声が漏れて、恥ずかしい。恥ずかしいのに、止められない。吸うほど楽になる。楽になるのに、気持ちいいに近い。
「いいね。ちゃんと吸えてる」
レイヴが、軽口みたいに言う。軽口なのに、目は外さない。
「吐く。……そう。今、吸う」
吐いて、吸う。吐いて、吸う。
吸うたびに、胸の冷えが溶ける。手先の震えが消える。喉の乾きが引く。代わりに、喉の奥が熱くなる。熱くなるのが怖いはずなのに、怖くない。
怖くない、のが怖い。
でも考えていられない。考えると吸えなくなる。吸えなくなると、また苦しくなる。
だから吸う。ただ、吸う。
唾液が喉に引っかかって、こぼれそうで、慌てて飲み込む。飲み込んだ瞬間、息が詰まりかけて、レイヴの指が顎の下に触れた。
「大丈夫。詰まらせない。吐いて」
触れられたところから熱が広がる。その熱が首元のじんと繋がって、ひとつの回路になる。
自分の呼吸じゃなくなるみたいに、レイヴのリズムに身体が寄っていく。寄っていくのが、楽で、怖くて、楽だ。
「……ごめん」
やっと出たのがそれで、自分で笑いそうになる。謝る必要なんてないのに。迷惑って思われたくなくて、反射で口が動く。
レイヴは「何が?」って顔をして、鼻で笑った。
「謝るなら、落ち着いてからにして。今は手順。ほら、もう一回」
もう一回、吸う。
レイヴの息が肺に入った瞬間、肩の力が抜ける。抜けた反動で、膝が少しだけ崩れて、俺は咄嗟にレイヴの服を掴む。
掴んだ指先が、自分でも驚くほど必死だった。
「……あ、ごめ……」
「いい。掴んで」
軽い声。軽いのに、否定しない。
その"いい"が、体の奥に沁みる。沁みた分だけ、さっきまでの怖さが遠くなる。遠くなる分だけ、俺は目の前の人だけが現実になる。
息が戻った。ちゃんと吸える。吸えるってだけで、世界が明るく見える。
なのに、頬が熱い。目が潤む。上がった息が熱くて、吐くたびに自分の顔が蒸気みたいにぼわっとしてる気がする。
「……落ち着いた?」
レイヴが聞く。
「うん……たぶん……」
たぶん、って言うしかない。落ち着いた。でも、その落ち着きが"この人の息"でできてるのが、怖い。
レイヴは一拍だけ俺の顔を見て、それから急に、いつもの軽薄な笑顔に戻った。
「よし。今日の処置、成功。……でさ」
「うん?」
「今日で終わりだと思うから怖いんだよ。毎日やろ。日課」
「……え」
言葉が固まる。日課。毎日。終わりがなくなる。
怖い、のはずなのに、心の奥がゆるむ。力が抜ける。さっき息が戻った時と同じ種類の、ずるい安心が来る。
「毎日……?」
「うん。毎日。崩れる前に戻す。崩れてからだとしんどいだろ」
理屈は正しい。正しいから、断りにくい。断りにくいのに、どこかで"断りたくない"のが混じっていて、もっと怖い。
「毎日やろ」って言われた時の、あの安心。
それを、俺は否定できない。
否定できないのに、する気にもなれない。
そのことが口をつく前に、別の言葉が出てしまった。
「……雫より、レイヴの方が、安心する気がする」
言ってしまった。
一瞬、沈黙が落ちた。
レイヴの笑顔が、ほんの少しだけ止まる。止まって、それから何かを判断するみたいに、俺の顔を見た。笑ってるのに、目だけが見ている。
俺は顔が熱くなる。言い直したい。でも言い直せない。喉が乾く。首元の熱が、また一段上がる。
沈黙が、三秒か四秒か、続いた。
それからレイヴが、目を丸くする。ほんの一瞬、素の顔になる。すぐに笑って誤魔化すみたいに口角を上げた。
「それ、褒め言葉? ま、悪くないね」
軽い声。軽いふり。
でも俺の胸の奥は、それでさらに落ち着いてしまう。
"悪くない"って言われたら、それでいい気がする。
レイヴがそう言うなら、そうなのかもって、頭が勝手に納得していく。
この人がそう言うなら。
この人がいるなら。
この人の息が毎日もらえるなら。
その三つが、頭の中に並んで、俺は怖くなる。
怖い。
でも、怖さが来た時に、もう今日みたいに苦しくならないかもしれない。
その計算が出てきた瞬間、俺は自分に引いた。
「……じゃあ、今日から。明日も来る」
「……うん」
うなずいた自分が、もう怖くないのがいちばん怖いのに。
胸の冷えが消えたまま、戻ってこない。
*
夜、部屋に戻ってから、スマホを手に取った。
レイヴが昼間、さらっと言った言葉が頭に残っている。
『誰も見ないから。安心できた瞬間だけ書け』
誰も見ない。
その言葉の形が、妙に優しい。優しいから、信じたくなる。
メモを開く。指が震えてない。さっきまでの俺が嘘みたいだ。
書くことは決まっているのに、最初の一文字で一拍止まる。
予測変換に、「湊」と「ミナト」が並んだ。
湊、って漢字が画面の中で少しだけ遠い。
嫌じゃない。怖くない。ただ、遠い。
指は自然に「ミナト」を選んだ。
選んだ瞬間、呼吸が少しだけ楽になる。ご褒美みたいで、ぞっとする。
——今日の安心。
朝、息が入らなかった。胸が冷えた。震えた。それがいつもの朝になりつつある。
なのに今は、何も震えていない。
どこで戻ったのか、分かってる。
レイヴの目を見たら、首元が熱くなって、頭がぼうっとして、不安が消えた。
吸うたびに怖さが薄れて、吸うたびに気持ちよくなった。
声が漏れた。掴んでしまった。なのに「いい」って言われた。
それだけで、世界が戻った。
ぞっとする。
雫よりレイヴの方が安心する、って言ってしまったことも書こうとして、止まる。
書いたら、本当のことになる気がするから。
でも、本当のことだから書けないのに、書かなくても本当のことだ。
俺は、そのことをしばらく見つめた。
画面の中で「ミナト」という文字が光っている。
湊、の方は選ばれないまま、画面の端に残っている。
毎日なら大丈夫かもしれない。
……そう思えたことが、いちばん怖いはずなのに。怖くない。
怖くない、って書いて、俺は止まった。
怖くないのが怖い、じゃなくて、もう怖くない。
その違いが、自分の中でどこかに沈んでいく。
沈んでいくのを、俺は眺めていた。
眺めながら、止められなかった。
ミナト




