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異界の境界施設  作者:
Case-M

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21/27

Case-M #19



 眠りが浅かった。


 目を開けた瞬間から、胸の奥が冷えている。寒いわけじゃない。布団の中はぬくい。なのに、息が入ってこない。吸うほど苦しい。肺が広がる場所を探して、見つからないみたいな感覚。


 喉が乾く。舌が上顎に貼りついて、飲み込もうとしても唾液がうまく落ちない。指先が、ほんの少しだけ震える。


「……大丈夫。俺、大丈夫」


 明るくしようとする癖だけが先に出る。声にすれば落ち着く気がする。落ち着いた"ことにできる"気がする。そういう自分が、今朝はちょっと嫌だ。


 胸元のタグに指を触れた。冷たい輪郭が皮膚に残る。


 表示は「ミナト」。


 いつものはずなのに、一瞬だけ、文字の端が欠けたように見えた。滲んだようにも。

 瞬きをしたら、普通に戻っている。


 見間違い。寝不足。そういうことにする。


 喉元がじんと熱い。そこを撫でそうになって、やめた。触れたら意識してしまう。意識したら、息が浅くなる。浅くなったら――きっと、今日も来る。


 水を飲んでも、完全には戻らなかった。喉の乾きが薄くなるだけで、胸郭の固さが残る。笑ってやり過ごそうとして、笑いが喉で引っかかる。


 廊下に出ると、施設の空気がやけに静かだった。静かなのに、人の気配だけはやたら濃い。視線が増えている気がする。たぶん気のせい。そう言い聞かせて歩く。


 ——その「気のせい」を、レイヴはいつも見逃さない。


「おはよ、ミナト。顔、ちょっと乾いてんじゃない?」


 軽い調子。いつも通りの笑顔。冗談みたいな口調なのに、距離の取り方だけは正確だ。近すぎない、遠すぎない。逃げ道がある場所に立ってくれる。


「乾いてないよ。……たぶん」


 俺が言いかけたところで、レイヴはタグに視線を落として、指先で何かをなぞるように確認する。魔具なのか、タグの仕様なのか、やり方は見せない。見せないけど、"見てる"ってわかる。


「うん。バイタルは崩れてない。けど、息が浅い。……無理して笑ってる」


 言い当てられて、口の端がひきつる。笑って誤魔化したいのに、笑いが出ると喉が乾く。乾いたまま、さらに笑ってしまう。


「別に無理してないって。大丈夫だよ、俺」


 その瞬間、空気が一瞬だけ甘くなる。ほんの一拍。鼻の奥に、砂糖を焦がしたみたいな匂いの輪郭が立つ。


 俺も気づく。気づくけど、言葉にしない。言葉にしたら、もっと濃くなる気がするから。


 レイヴは、眉の動きをほんのわずかに変えた。気づいたんだと思う。けど、顔色を変えない。


「はいはい。じゃ、今日は"ちゃんと大丈夫"にしよっか。先に言っとく。雫は週三まで。今日はそれ、使わない」


 雫。喉の奥が勝手に反応する。昨日の"戻り方"が、皮膚の下で思い出されるみたいに。


「……うん」


 うなずくのが早すぎて、自分でびびる。レイヴは軽く笑って、すぐに真面目な目になる。


「だから別手段で落とす。効くから。怖いことしない。……目、見て」


「目?」


「うん。逃げない。今は、ここだけ見て」


 言われて顔を上げる。レイヴの目が真正面にあって、逃げ道がなくなる。逃げ道がないのに、不思議と息が少しだけ入りやすくなる。


 首元が熱い。頭が、ふわっとする。ぼうっとする。怖いはずの気持ちが、薄皮を剥がされるみたいに消えていく。


「吐く。先に吐く。俺に合わせて」


 レイヴが低い声で言う。俺は頷いて、口から息を出す。長く。細く。出し切る。


「そう。もう一回。吐く」


 吐く。吐くほど胸の固さがほどける。


 ほどけるたびに、胸の中に空洞ができる感じがする。空っぽになる感じ。怖いのに、その空っぽが気持ちいい。固かったものが解けていく感覚に、身体が先に安心してしまう。


「吸わなくていい。吸いたくなるまで、吐く」


 言葉が手順になって、身体が従う。従うことが、楽になる。


 三回目の吐き終わり。空っぽの肺に、勝手に空気が欲しくなる。


「今、吸って」


 レイヴが言う。


 俺が吸うタイミングに合わせて、レイヴが息を吐いた。


 近い。口元が近い。声の距離じゃない。呼吸の距離だ。


 吸ってしまった。


 レイヴの吐息が、そのまま俺の肺に入ってくるみたいに。熱が一緒に流れ込むみたいに。


 匂いがする。甘くも苦くもない、でも確かに"レイヴの匂い"。胸の奥に落ちて、そこから全身に広がる。


 広がった瞬間、怖さが薄れる。


 薄れるだけじゃない。溶ける。溶けて、消える。消えた場所に、熱だけが残る。

 背骨の奥がぞくっと震える。喉が鳴る。唾液が増えて、飲み込むのが追いつかない。


 気持ちいい、に近い。


 その事実が怖いのに、もう一度吸いたくなる。もう一度この匂いを肺に入れたくなる。


「……っ」


 声が漏れて、恥ずかしい。恥ずかしいのに、止められない。吸うほど楽になる。楽になるのに、気持ちいいに近い。


「いいね。ちゃんと吸えてる」


 レイヴが、軽口みたいに言う。軽口なのに、目は外さない。


「吐く。……そう。今、吸う」


 吐いて、吸う。吐いて、吸う。


 吸うたびに、胸の冷えが溶ける。手先の震えが消える。喉の乾きが引く。代わりに、喉の奥が熱くなる。熱くなるのが怖いはずなのに、怖くない。


 怖くない、のが怖い。


 でも考えていられない。考えると吸えなくなる。吸えなくなると、また苦しくなる。


 だから吸う。ただ、吸う。


 唾液が喉に引っかかって、こぼれそうで、慌てて飲み込む。飲み込んだ瞬間、息が詰まりかけて、レイヴの指が顎の下に触れた。


「大丈夫。詰まらせない。吐いて」


 触れられたところから熱が広がる。その熱が首元のじんと繋がって、ひとつの回路になる。

 自分の呼吸じゃなくなるみたいに、レイヴのリズムに身体が寄っていく。寄っていくのが、楽で、怖くて、楽だ。


「……ごめん」


 やっと出たのがそれで、自分で笑いそうになる。謝る必要なんてないのに。迷惑って思われたくなくて、反射で口が動く。


 レイヴは「何が?」って顔をして、鼻で笑った。


「謝るなら、落ち着いてからにして。今は手順。ほら、もう一回」


 もう一回、吸う。


 レイヴの息が肺に入った瞬間、肩の力が抜ける。抜けた反動で、膝が少しだけ崩れて、俺は咄嗟にレイヴの服を掴む。


 掴んだ指先が、自分でも驚くほど必死だった。


「……あ、ごめ……」


「いい。掴んで」


 軽い声。軽いのに、否定しない。


 その"いい"が、体の奥に沁みる。沁みた分だけ、さっきまでの怖さが遠くなる。遠くなる分だけ、俺は目の前の人だけが現実になる。


 息が戻った。ちゃんと吸える。吸えるってだけで、世界が明るく見える。


 なのに、頬が熱い。目が潤む。上がった息が熱くて、吐くたびに自分の顔が蒸気みたいにぼわっとしてる気がする。


「……落ち着いた?」


 レイヴが聞く。


「うん……たぶん……」


 たぶん、って言うしかない。落ち着いた。でも、その落ち着きが"この人の息"でできてるのが、怖い。


 レイヴは一拍だけ俺の顔を見て、それから急に、いつもの軽薄な笑顔に戻った。


「よし。今日の処置、成功。……でさ」


「うん?」


「今日で終わりだと思うから怖いんだよ。毎日やろ。日課」


「……え」


 言葉が固まる。日課。毎日。終わりがなくなる。


 怖い、のはずなのに、心の奥がゆるむ。力が抜ける。さっき息が戻った時と同じ種類の、ずるい安心が来る。


「毎日……?」


「うん。毎日。崩れる前に戻す。崩れてからだとしんどいだろ」


 理屈は正しい。正しいから、断りにくい。断りにくいのに、どこかで"断りたくない"のが混じっていて、もっと怖い。


 「毎日やろ」って言われた時の、あの安心。


 それを、俺は否定できない。


 否定できないのに、する気にもなれない。


 そのことが口をつく前に、別の言葉が出てしまった。


「……雫より、レイヴの方が、安心する気がする」


 言ってしまった。


 一瞬、沈黙が落ちた。


 レイヴの笑顔が、ほんの少しだけ止まる。止まって、それから何かを判断するみたいに、俺の顔を見た。笑ってるのに、目だけが見ている。


 俺は顔が熱くなる。言い直したい。でも言い直せない。喉が乾く。首元の熱が、また一段上がる。


 沈黙が、三秒か四秒か、続いた。


 それからレイヴが、目を丸くする。ほんの一瞬、素の顔になる。すぐに笑って誤魔化すみたいに口角を上げた。


「それ、褒め言葉? ま、悪くないね」


 軽い声。軽いふり。


 でも俺の胸の奥は、それでさらに落ち着いてしまう。


 "悪くない"って言われたら、それでいい気がする。

 レイヴがそう言うなら、そうなのかもって、頭が勝手に納得していく。


 この人がそう言うなら。

 この人がいるなら。

 この人の息が毎日もらえるなら。


 その三つが、頭の中に並んで、俺は怖くなる。


 怖い。

 でも、怖さが来た時に、もう今日みたいに苦しくならないかもしれない。


 その計算が出てきた瞬間、俺は自分に引いた。


「……じゃあ、今日から。明日も来る」


「……うん」


 うなずいた自分が、もう怖くないのがいちばん怖いのに。

 胸の冷えが消えたまま、戻ってこない。





 夜、部屋に戻ってから、スマホを手に取った。


 レイヴが昼間、さらっと言った言葉が頭に残っている。


 『誰も見ないから。安心できた瞬間だけ書け』


 誰も見ない。

 その言葉の形が、妙に優しい。優しいから、信じたくなる。


 メモを開く。指が震えてない。さっきまでの俺が嘘みたいだ。


 書くことは決まっているのに、最初の一文字で一拍止まる。

 予測変換に、「湊」と「ミナト」が並んだ。


 湊、って漢字が画面の中で少しだけ遠い。

 嫌じゃない。怖くない。ただ、遠い。


 指は自然に「ミナト」を選んだ。

 選んだ瞬間、呼吸が少しだけ楽になる。ご褒美みたいで、ぞっとする。


 ——今日の安心。


 朝、息が入らなかった。胸が冷えた。震えた。それがいつもの朝になりつつある。

 なのに今は、何も震えていない。


 どこで戻ったのか、分かってる。


 レイヴの目を見たら、首元が熱くなって、頭がぼうっとして、不安が消えた。

 吸うたびに怖さが薄れて、吸うたびに気持ちよくなった。

 声が漏れた。掴んでしまった。なのに「いい」って言われた。


 それだけで、世界が戻った。


 ぞっとする。


 雫よりレイヴの方が安心する、って言ってしまったことも書こうとして、止まる。


 書いたら、本当のことになる気がするから。


 でも、本当のことだから書けないのに、書かなくても本当のことだ。


 俺は、そのことをしばらく見つめた。


 画面の中で「ミナト」という文字が光っている。

 湊、の方は選ばれないまま、画面の端に残っている。


 毎日なら大丈夫かもしれない。

 ……そう思えたことが、いちばん怖いはずなのに。怖くない。


 怖くない、って書いて、俺は止まった。


 怖くないのが怖い、じゃなくて、もう怖くない。

 その違いが、自分の中でどこかに沈んでいく。


 沈んでいくのを、俺は眺めていた。

 眺めながら、止められなかった。


 ミナト



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