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異界の境界施設  作者:
Case-M

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20/27

Case-M #18



 朝、目が覚めた瞬間に分かる。


 息が、深い。


 胸の奥にずっと貼りついていた膜みたいなものが、少しだけ薄い。喉も、昨日までみたいに乾いていない。唾液がちゃんとある。呼吸をするたび、肺のいちばん下まで空気が届く。


 ……快い。


 快い、って言葉を自分に使うのが怖くて、俺は枕に顔を押しつけた。笑ってしまう。意味もなく。壊れそうなのに笑うときの、あの癖の笑い。


 そうすると、空気の輪郭が変わる。

 甘い、みたいな。匂いと呼べないくらい薄いのに、確かに"寄る"気配が混じる。


 俺は布団をかぶって、深呼吸をした。

 大丈夫。今日も、ちゃんとやる。


 ちゃんと、ってなんだ。





 導線は、最初から決まっていた。


 スマホに届く短い通知。

 集合場所、時間、移動ルート。余計な言葉がないのに、不思議と安心する。俺はその通りに身体を動かすだけで、呼吸が整っていく。


 廊下の角に立っていたリュカは、俺を見るなり眉を寄せた。


「……顔、笑ってるくせに、薄い」

「え、なにそれ。褒めてる?」

「褒めてねぇ。……行くぞ。今日は三回目だろ」


 三回目。

 安定化施策――交流会。最初は希望みたいに聞こえた。二回目で現実を知って、三回目の今日は、もう"慣れたふり"ができる気がしていた。


 リュカは歩きながら、俺の胸元のネームタグ型の安全装置を指先で軽く弾く。


「発動させんなよ。妙に上がったら面倒」

「発動って……」

「監査に拾われる。ログが重くなる」


 それだけ。脅しじゃなく、ただの事実みたいに言う。


 でも最後に、視線を逸らしたまま、付け足す。


「……お前が、しんどくなるから」


 胸の奥がきゅっとなる。

 俺は「うん」と言ってしまう。返事が先に出る。理屈はあとから追いかけてくる。


 リュカに従ってると、なんだか安心する。


 その安心が、怖いのに。





 会場は、前よりも静かだった。


 人間の数は少し増えていたけど、声は小さい。笑い声の代わりに、息を飲む音が混ざっている。誰かの喉が鳴る。椅子が擦れる。


 俺の隣に座った男――たぶん同い年くらいの、神経質そうな目の人が、俺のタグをちらっと見て、すぐ視線を戻した。


「……三回目?」

「うん。そっちは?」

「俺も。……慣れた?」

「慣れた、っていうか……慣れたふりなら」


 小さく笑うと、相手も苦く笑った。


 進行役の悪魔が、簡単なアイスブレイクを促す。


「まずは名前。呼ばれたい呼称でいい。無理はしない」


 ――名前。


 喉が、ひゅっと縮む。

 舌が乾く。さっきまで潤ってたはずなのに。胸の奥で何かがざわついて、息が浅くなる。


 順番が回ってくる。


「えっと……俺は……」


 出ない。


 自分の名前なのに、音が見つからない。

 口の中にあるはずの言葉が、どこか遠い。手のひらが冷たくなる。目の前が少し白い。


 咄嗟に、出たのは。


「……ミナト、です」


 声が思ったより通ってしまって、余計に恥ずかしい。隣の男が、俺の横顔を見た。


「ミナトって……本名?」

「え、いや……」

「愛称? ここ、そういうの多いよな。……でもさ」


 悪気のない声が、刺す。


「名前って、大事にしたほうがいいと思う。帰るなら、なおさら」


 帰るなら。

 その言葉で、胸の奥が痛い。


 俺は笑って誤魔化そうとして――喉が熱くなった。息紋の場所が、じんと熱い気がする。指がそこへ行きそうになって、慌てて膝の上に戻す。


「……本名、言えるなら言ったほうがいいってこと?」

「うん。俺、二回目で言われた。『戻りたいなら、名前を自分の口で』って。……まあ、俺も詰まるけど」


 隣の男は、乾いた笑いをこぼした。


 俺は、怖かった。

 でも、口を動かす。


「……なる、みや……」


 舌がもつれる。

 自分の名字なのに、噛みそうになる。息が浅い。咳が出そうで、飲み込む。


「……成宮。……湊」


 やっと出た。


 音にした瞬間、喉の奥がひりっと痛む。なのに、どこかで"言えた"ことに安心してしまう自分もいる。矛盾みたいなものが、胸の中でぐちゃぐちゃになる。


 周りの人間たちが、微妙に視線を寄せた。

 同情と、焦りと、羨ましさ。


 進行役が淡々と次に回す。


 会話の時間になって、隣の男が小声で訊いた。


「……で、担当とはどう接してる?」

「どう、って……」

「俺、距離の取り方が分かんない。怖いって言ったら失礼だし、でも、近いと息が詰まるやつもいるだろ」


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


 レイヴの顔が浮かぶ。

 ゴルドの大きい影。

 リュカの短い指示。


 俺は、息ができるほうを知っている。


「……俺は、たぶん、近いほうが楽。来てくれると息が深くなる」

「へぇ……羨ましい。俺の担当、めちゃくちゃ丁寧だけど"丁寧な壁"がある。触れないでって言われてるみたいで」


 別の人間が会話に入ってくる。


「分かる。優しいのに、優しいからこそ距離がある。……逆に、近いと危ないって言われた」

「危ない?」

「匂い、とか。……俺、最近、思い出せないこと増えた。家の電話番号とか。あと、友達の名字とか」


 空気が重くなる。

 誰かが唾を飲んだ音が、やけに大きい。


 俺は笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 笑ったら、また甘くなる。寄る。視線が増える。


「……帰れた人って、実際いるの?」

 俺がそう聞くと、会話の輪が少しだけ息をする。


 若い女の人が頷いた。


「いる。……って聞いた。『次の面談が通れば、帰還審査に進めそう』って言われてる人が、今日も来てるよ」


 希望が、胸の奥に刺さった。


 刺さるのに、嬉しい。

 嬉しいから、怖い。


「その人、どんな感じ?」

「……普通。普通に笑ってた。……でもね」


 女の人が言葉を選ぶ。


「"夜が寝られる"って言ってた。寝られるようになったって。……それ、すごいことじゃない?」


 夜。


 俺の喉が乾く。

 唾液が、変に溜まっていく。舌の裏が熱い。息が浅くなるのを、俺は必死に笑いで隠した。


「……すごいね。いいな」


 壊れそうなのに笑う。

 その瞬間だけ、空気が甘くなる。


 視線が一瞬、寄った。


 すぐに、リュカが立ち位置を変えた。俺と"寄る気配"の間に、体を滑り込ませる。何も言わない。ただ、導線の手順として、当たり前みたいに遮る。


 俺は、息を吸い直す。


 ――三人が近くにいれば、俺、息ができる。


 その事実が、今日いちばん怖い。





 交流会が終わって、廊下に出たとたん、足が重くなった。


 ゴルドが待っていた。

 大きい。赤い髪。赤い目。なのに、口元はいつも軽い。


「ミナトちゃーん。おつかれ。顔、がんばってる顔してる」

「がんばってない顔ってなに」

「かわいい顔」


 マッチョなオネェが言うと、冗談みたいなのに、妙に受け取ってしまうから困る。


 ゴルドは紙コップを差し出した。温かいスープ。もう説明はいらない。俺の手が勝手に受け取る。受け取れることが、怖いのに。


 口をつける。

 温い。喉を通って、胃に落ちる。少し落ち着く。肩が落ちる。


 ……でも。


 奥が、ざわつく。


 落ち着くのに、落ち着ききらない。

 胸の底に、空洞が残る。喉が乾く。さっきまでの希望が、針みたいに刺さったまま抜けない。


「……あれ? 効き、甘くない?」

 ゴルドが笑う。

 笑ってるのに、目だけ真剣だ。


「ごめん。俺が変なのかも」

「変じゃないわよ。今日は"希望"聞いたでしょ。希望って、身体に悪いのよ」


 冗談みたいに言って、ゴルドは俺の背中を軽く叩いた。


「食で埋まらないなら、別の手順が要るってこと。……ねぇ、ミナトちゃん」


 声が少しだけ低くなる。


「無理して笑うの、やめなさい。甘くなる」


 俺は喉の奥で笑いを飲み込んだ。

 それでも口角が上がってしまう。癖。逃げ方。


 ゴルドは俺の視線を外した隙に、親指で何かを打った。

 俺には見えないふりをした。


 見えないふりをするほうが、楽になってしまったから。





 日中の状況確認は、いつも突然だ。


 廊下の空気がふっと軽くなって、レイヴが現れる。軽薄な笑顔。軽い声。


「やっほー、ミナト。三回目、どーだった?」

「……普通。……普通って、逆に難しいな」

「普通は上出来。ほら、こっち向いて。タグ見せて」


 胸元のネームタグに、レイヴが指先で魔力を落とす。

 表示が一瞬揺れて、バイタルみたいなものが"分かった気"になる。


 レイヴの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「……うん。上がってる。ギリ。頑張ったね」

「頑張ってないって」

「頑張ってるって。息、浅い」


 言われた瞬間、息が浅くなる自分がいる。

 指摘されると意識して、余計に。


 レイヴが手を差し出した。


「合わせる。俺見て」

「……うん」


 目を見る。


 レイヴの目は、明るい。軽い。なのに、底がある。

 見ていると、首元がじんと熱くなる。息紋のところ。頭が、少しぼうっとする。


「吸って。……吐いて。そう。いい子」


 息合わせ。呼吸のリズムを揃えるだけ。

 それだけで、少し楽になる。


 楽になった途端、俺は自分が怖くなる。

 "楽"が、正しいみたいに感じてしまうから。


「……ねぇ、ミナト」


 レイヴが笑う。


「今日、帰れそうな人の話、聞いた?」

「……聞いた。次の面談が通れば、って」

「へぇ。希望だね」

「希望、って……」


 言いかけて、喉が乾く。

 希望があるってことは、帰りたいってことは、俺がまだ――


 レイヴは俺の反応を見て、笑顔の温度を落とした。


「戻りたいなら、応援するよ。俺、担当だし」

「……うん」

「でも、今の君が壊れたら意味ない。手順守って、息を保つ。いい?」


 "手順"。


 その言葉が、優しい。

 優しいから、断れない。


「……うん」

「よし」


 レイヴはそれ以上踏み込まない。

 軽いノリで手を振って、去っていく。


 去った瞬間。


 レイヴの気配が薄れていく。

 魔力の匂いみたいなものが引いていく。


 すると、胸の奥が、空く。


 息が浅くなる。

 喉が乾く。唾液が減って、舌が紙みたいに感じる。


 さっき合わせたのに、もう足りない。


 俺は壁に額をつけた。


「……変だな」


 散らす。散らす。散らす。

 でも散らせない。


 足りない。





 夜。


 部屋の灯りが落ち着いているのに、俺の中だけ騒がしい。


 交流会で聞いた声が、頭の中で反響する。


――最近、思い出せないこと増えた。

――夜が寝られるようになった。

――次の面談が通れば。


 希望が、針になって刺さる。

 刺さるほど、息が浅くなる。


 喉が乾く。唾液が溜まる。溜まるのに飲み込めない。胸が詰まる。指先が冷えて、背中だけ熱い。震えが出る。


 呼べない、って思った。


 呼んだら、頼りすぎになる。

 呼んだら、もう戻れなくなる気がする。


 でも、苦しい。


 俺はスマホを握って、短い連絡を飛ばした。


『……来て』


 送信した瞬間、泣きそうになる。

 頼るって、こんなに恥ずかしいのに、こんなに救いなんだ。


 数分もしないうちに、レイヴが来た。


「よしよし。入るよー」


 軽い声。軽い笑顔。

 なのに、入ってきた瞬間、空気が変わる。胸が少し楽になる。


「……息、浅いね」

「……うん」

「合わせよっか。俺見て」


 目を見る。


 首元が熱い。

 頭がぼうっとする。不安が少しだけ遠のく。


「吸って……吐いて。そう。大丈夫」


 息合わせ。

 でも、今日は戻らない。


 胸の奥の空洞が、埋まらない。

 喉の渇きが、消えない。


 俺は唇を噛んだ。


 言いたくない。言ったら終わる気がする。

 でも、喉が先に知っている。

 何が足りないのかを、身体はもうとっくに知っている。


 喉が鳴る。

 唾液が増える。

 舌の奥が、ひくっと熱くなる。


 レイヴがここにいる。気配がある。匂いがある。

 それでも、足りない。


 足りない。

 足りない。

 足りない。


 震えが手先から広がって、膝の上に置いた指が白くなる。

 俺は息を一回だけ吐いた。長く。細く。震えながら。


「……レイヴ」

「うん」

「……雫、ある?」


 言った。

 言ってしまった。


 喉が熱い。顔が熱い。耳の奥まで熱い。

 自分から言ったのに、言った瞬間だけ、息が少し楽になった。


 言うだけで楽になる。

 その事実が、ひどく静かに怖い。


 レイヴの目が、一度だけ大きくなる。

 でもすぐに、笑う。いつもの軽い笑顔に戻る。


「……あるよ。うん。ある。……でも、確認する」


 淡々と、手順に入る。


 レイヴはタグに指を置き、魔力を流す。バイタル。適応値。閾値。

 俺には数字は分からないのに、"見られている"ことが、妙に安心になる。


「今日の分、ログに残す。回数は増やさない。少量だけ」

「……うん」

「嫌なら、やらない。ミナトが決める」


 決める。


 俺は頷いた。

 頷くしかない。楽になりたい。息をしたい。


「……お願い。楽になりたい」

「オッケー」


 レイヴの指先が、何かを掬うみたいに空をなぞる。

 "雫"の存在を、俺はもう知ってしまっている。


「口、開けて」


 言葉は処置の言葉なのに、喉が鳴った。

 恥ずかしくて顔が熱い。なのに、開けてしまう。


 レイヴが、俺の下唇に親指を添えて、軽く引く。

 距離が近い。呼吸が混ざる。熱い。匂いがする。魔力の香り。


「……落とすよ。たった一滴」


 たった一滴。


 でも俺の身体は、その一滴を"待っていた"みたいに震えた。


 舌に触れた瞬間――甘い。


 びっくりするくらい甘い。

 前回は"楽になる"が先だったのに、今回は味が先に来た。

 蜜みたいな甘さが、舌の上でほどけて、溶けて、喉へゆっくり流れ落ちていく。


 飲み込もうとして、飲み込めなかった。

 舌が、もっとここに留めたがっている。

 喉が、もっと近くへ引き込もうとしている。


 やっと飲み込んだ瞬間、喉の奥が一気に熱くなる。

 熱いのに、痛くない。痛くないのに、熱い。

 ほどける熱。解けていく壁。息が通る道が、倍に広がる。


「……っ、ぁ」


 声が漏れた。

 唾液が一気に増える。涎が落ちそうで、慌てて唇を閉じる。でも閉じると苦しい。甘さが口の中に残って、それがまだあることに、喉が鳴る。


 たった一滴なのに、全身に行き渡る気がする。


 胸の奥の空洞が、温い水でゆっくり満たされていく。

 肩が抜ける。指先の冷えが消える。震えが止まる。

 膝に置いていた手が、力なく広がって、それがどうしようもなく気持ちいい。


 息が、深い。

 深すぎる。

 胸の奥まで、空気が一気に落ちた。


 安心が、身体に先に来る。

 遅れて、心が「え、これ」って追いかけてくる。


 甘い。

 美味しい。


 舌の上にまだ残っている薄い甘さが惜しくて、舌先でそれを追ってしまう。

 もう何もないのに、追ってしまう。


 その動作に気づいて、俺は顔が熱くなった。


 声にしない。

 声にしたら、もっとって言ってしまう。

 たった一滴で、こんなに。

 だったら、もう一滴は。

 もう少しだけなら。

 増やさないって言われたのに、身体が先に計算を始めていて、その計算が自分のものだということが怖くて仕方なかった。


 俺は、無意識にレイヴへ寄っていた。


 距離を詰めてしまう。

 触れてしまう。

 袖を掴んでしまう。


 掴んだ布越しに熱が返ってきて、それだけで喉がひゅっと鳴った。


 離したい。

 離したくない。


 離したくないのが、また怖い。


 レイヴが低く笑う。

 低い笑いが、耳から首筋に伝わる気がして、そこが熱くなる。


「……うん。効いてる」

「……うん……」

「大丈夫。俺が見てる」


 目を見ると、首元がまた熱い。

 頭がぼうっとして、不安が溶けていく。溶けていくのが怖いのに、溶けてほしい。


 溶けてほしい。


 その言葉が自分の中から出てきたことに、俺はひどく遅れて気づいた。


 レイヴの指が、俺の顎を軽く持ち上げた。

 ただそれだけで、喉が一段ほどける。


「……落ち着いた?」

「……落ち着いた」


 "落ちた"じゃない。

 落ち着いた。そう言うほうが自然に感じるのが、いちばん怖い。


 レイヴは最後に、タグをもう一度確認して、何かを"記録した"動作をした。たぶんログ。

 それを見せることで、処置が"正しい"顔をする。


「今日はここまで。回数は増やさない。必要な時だけ」

「……うん」

「ね。約束」


 俺は頷いた。


 頷いた瞬間、胸の奥が温くなる。

 約束をするだけで安心する自分が、怖い。


 扉の外で、気配が動いた。

 リュカだ。無言で立ってる。確認だけして、去っていく気配。

 ゴルドの影も、遠くで揺れた気がした。見えない場所で、呼吸が守られている。


 ……守られてる。

 守られてるから、息ができる。


 息ができるから、離れられなくなる。





 レイヴが帰ったあとも、部屋の空気はまだ甘かった。


 俺はベッドに座って、指先を見た。

 震えていない。喉も乾いていない。息が深い。


 その状態が、正しいみたいに思えてしまう。


 スマホを開く。

 日記。書くのが習慣になった。書けば整う。整うことが正しい。


 入力欄にカーソルを置く。


 ……名前のところで、一瞬迷う。


 打とうとしてないのに、予測変換が先に出してくる。

 「湊」「ミナト」


 並んでいるのに、片方が遠い。

 漢字が、遠く感じる。俺の名前のはずなのに。


 指は自然に「ミナト」を選ぶ。

 選んだ瞬間、呼吸が少しだけ楽になる。小さな報酬みたいに。


 俺は、今日の文を打った。


『なんだか今日は、湊って漢字が遠く感じる。俺の名前のはずなのに。

でも怖くはない。なんだか遠くのものを見てる感じがする。

今度レイヴに聞いてみよう』


 署名:ミナト





(監督ログ/レイヴ)


 ミナトの記録は、相変わらず素直だ。


 "湊"が遠い。

 怖くない。

 今度レイヴに聞いてみよう。


 画面を閉じても、その言葉だけが目の裏に残る。


 俺は笑った。

 いつもの軽い笑い方で。業務の顔で。


 でも胸の奥が、少しだけ熱い。


 自分から言った。

 雫、ある? って。


 自分で選んで、頷いた。

 俺が"同意"の枠を作ったから、彼は安心して落ち着けた。


 ……よかった。


 よかった、はずだ。


 なのに、今日は前回より、甘かった。

 ミナトの反応が、甘さを知ってしまった反応だった。


 欲しがる目。

 寄ってくる距離。

 袖を掴む指。


 袖を掴んだまま、離さなかった。

 離させなかった、が正確かもしれない。


 あれは"渇き"の段階が進んだときの顔だ。

 渇きIIから、渇きIIIへ。代替が効かなくなる手前。


 だから、もっと安心させないといけない。


 安心が先に来れば、彼は壊れない。

 壊れなければ、帰還審査だって通るかもしれない。

 通るかもしれない――その"かもしれない"が、喉に棘みたいに刺さる。


 俺は自分の舌で、その棘を撫でて潰す。


 大丈夫。

 俺が見てる。


 湊が遠くなるのは、きっと"保護"の副作用だ。

 名紋の自己認識が、愛称を強くする。

 それは施設の正しい動き。囲いじゃない。守りだ。


 守りだよね。


 だから、俺はミナトに、ちゃんと答える。


 「遠く感じるなら、無理に掴まなくていい」

 「ミナトって呼べるなら、それで息ができる」

 「俺がいるから、大丈夫」


 そう言えば、彼は目を見て頷く。

 首元が熱くなって、ぼうっとして、不安が消える。


 それが一番安全だ。


 それが一番、正しい。


 ……そして。


 それが一番、かわいい。


 その言葉が、頭の中で出た瞬間、レイヴは止まった。


 業務の思考が、一拍だけ止まる。


 かわいい。


 安全でも、正しいでもなく、かわいい、が出てきた。

 名前をつけたくなくて、でもつけなければ次の手順に移れるから、レイヴはそのまま流れようとした。


 流れられなかった。


 もう一秒だけ、その言葉が胸の中に留まった。


 かわいい。


 舌先で、さっきの甘さの残りを追っていた、あの動作。

 声にしないように唇を噛んだ、あの我慢。

 それでも袖を離さなかった、あの指。


 かわいい。


 レイヴはスマホをポケットにしまって、部屋の灯りを落とした。


 明日、ミナトがまた苦しくなったら。

 また自分から求めてきたら。


 そのときも、俺は"手順"で救う。


 回数は増やさない。

 増やさない、って言いながら――増やすための理由を、もう準備している自分に気づいて、


 俺は笑った。


 軽薄に。

 誰にも見えないところで。



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