Case-M #18
朝、目が覚めた瞬間に分かる。
息が、深い。
胸の奥にずっと貼りついていた膜みたいなものが、少しだけ薄い。喉も、昨日までみたいに乾いていない。唾液がちゃんとある。呼吸をするたび、肺のいちばん下まで空気が届く。
……快い。
快い、って言葉を自分に使うのが怖くて、俺は枕に顔を押しつけた。笑ってしまう。意味もなく。壊れそうなのに笑うときの、あの癖の笑い。
そうすると、空気の輪郭が変わる。
甘い、みたいな。匂いと呼べないくらい薄いのに、確かに"寄る"気配が混じる。
俺は布団をかぶって、深呼吸をした。
大丈夫。今日も、ちゃんとやる。
ちゃんと、ってなんだ。
*
導線は、最初から決まっていた。
スマホに届く短い通知。
集合場所、時間、移動ルート。余計な言葉がないのに、不思議と安心する。俺はその通りに身体を動かすだけで、呼吸が整っていく。
廊下の角に立っていたリュカは、俺を見るなり眉を寄せた。
「……顔、笑ってるくせに、薄い」
「え、なにそれ。褒めてる?」
「褒めてねぇ。……行くぞ。今日は三回目だろ」
三回目。
安定化施策――交流会。最初は希望みたいに聞こえた。二回目で現実を知って、三回目の今日は、もう"慣れたふり"ができる気がしていた。
リュカは歩きながら、俺の胸元のネームタグ型の安全装置を指先で軽く弾く。
「発動させんなよ。妙に上がったら面倒」
「発動って……」
「監査に拾われる。ログが重くなる」
それだけ。脅しじゃなく、ただの事実みたいに言う。
でも最後に、視線を逸らしたまま、付け足す。
「……お前が、しんどくなるから」
胸の奥がきゅっとなる。
俺は「うん」と言ってしまう。返事が先に出る。理屈はあとから追いかけてくる。
リュカに従ってると、なんだか安心する。
その安心が、怖いのに。
*
会場は、前よりも静かだった。
人間の数は少し増えていたけど、声は小さい。笑い声の代わりに、息を飲む音が混ざっている。誰かの喉が鳴る。椅子が擦れる。
俺の隣に座った男――たぶん同い年くらいの、神経質そうな目の人が、俺のタグをちらっと見て、すぐ視線を戻した。
「……三回目?」
「うん。そっちは?」
「俺も。……慣れた?」
「慣れた、っていうか……慣れたふりなら」
小さく笑うと、相手も苦く笑った。
進行役の悪魔が、簡単なアイスブレイクを促す。
「まずは名前。呼ばれたい呼称でいい。無理はしない」
――名前。
喉が、ひゅっと縮む。
舌が乾く。さっきまで潤ってたはずなのに。胸の奥で何かがざわついて、息が浅くなる。
順番が回ってくる。
「えっと……俺は……」
出ない。
自分の名前なのに、音が見つからない。
口の中にあるはずの言葉が、どこか遠い。手のひらが冷たくなる。目の前が少し白い。
咄嗟に、出たのは。
「……ミナト、です」
声が思ったより通ってしまって、余計に恥ずかしい。隣の男が、俺の横顔を見た。
「ミナトって……本名?」
「え、いや……」
「愛称? ここ、そういうの多いよな。……でもさ」
悪気のない声が、刺す。
「名前って、大事にしたほうがいいと思う。帰るなら、なおさら」
帰るなら。
その言葉で、胸の奥が痛い。
俺は笑って誤魔化そうとして――喉が熱くなった。息紋の場所が、じんと熱い気がする。指がそこへ行きそうになって、慌てて膝の上に戻す。
「……本名、言えるなら言ったほうがいいってこと?」
「うん。俺、二回目で言われた。『戻りたいなら、名前を自分の口で』って。……まあ、俺も詰まるけど」
隣の男は、乾いた笑いをこぼした。
俺は、怖かった。
でも、口を動かす。
「……なる、みや……」
舌がもつれる。
自分の名字なのに、噛みそうになる。息が浅い。咳が出そうで、飲み込む。
「……成宮。……湊」
やっと出た。
音にした瞬間、喉の奥がひりっと痛む。なのに、どこかで"言えた"ことに安心してしまう自分もいる。矛盾みたいなものが、胸の中でぐちゃぐちゃになる。
周りの人間たちが、微妙に視線を寄せた。
同情と、焦りと、羨ましさ。
進行役が淡々と次に回す。
会話の時間になって、隣の男が小声で訊いた。
「……で、担当とはどう接してる?」
「どう、って……」
「俺、距離の取り方が分かんない。怖いって言ったら失礼だし、でも、近いと息が詰まるやつもいるだろ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
レイヴの顔が浮かぶ。
ゴルドの大きい影。
リュカの短い指示。
俺は、息ができるほうを知っている。
「……俺は、たぶん、近いほうが楽。来てくれると息が深くなる」
「へぇ……羨ましい。俺の担当、めちゃくちゃ丁寧だけど"丁寧な壁"がある。触れないでって言われてるみたいで」
別の人間が会話に入ってくる。
「分かる。優しいのに、優しいからこそ距離がある。……逆に、近いと危ないって言われた」
「危ない?」
「匂い、とか。……俺、最近、思い出せないこと増えた。家の電話番号とか。あと、友達の名字とか」
空気が重くなる。
誰かが唾を飲んだ音が、やけに大きい。
俺は笑ってしまいそうになるのを堪えた。
笑ったら、また甘くなる。寄る。視線が増える。
「……帰れた人って、実際いるの?」
俺がそう聞くと、会話の輪が少しだけ息をする。
若い女の人が頷いた。
「いる。……って聞いた。『次の面談が通れば、帰還審査に進めそう』って言われてる人が、今日も来てるよ」
希望が、胸の奥に刺さった。
刺さるのに、嬉しい。
嬉しいから、怖い。
「その人、どんな感じ?」
「……普通。普通に笑ってた。……でもね」
女の人が言葉を選ぶ。
「"夜が寝られる"って言ってた。寝られるようになったって。……それ、すごいことじゃない?」
夜。
俺の喉が乾く。
唾液が、変に溜まっていく。舌の裏が熱い。息が浅くなるのを、俺は必死に笑いで隠した。
「……すごいね。いいな」
壊れそうなのに笑う。
その瞬間だけ、空気が甘くなる。
視線が一瞬、寄った。
すぐに、リュカが立ち位置を変えた。俺と"寄る気配"の間に、体を滑り込ませる。何も言わない。ただ、導線の手順として、当たり前みたいに遮る。
俺は、息を吸い直す。
――三人が近くにいれば、俺、息ができる。
その事実が、今日いちばん怖い。
*
交流会が終わって、廊下に出たとたん、足が重くなった。
ゴルドが待っていた。
大きい。赤い髪。赤い目。なのに、口元はいつも軽い。
「ミナトちゃーん。おつかれ。顔、がんばってる顔してる」
「がんばってない顔ってなに」
「かわいい顔」
マッチョなオネェが言うと、冗談みたいなのに、妙に受け取ってしまうから困る。
ゴルドは紙コップを差し出した。温かいスープ。もう説明はいらない。俺の手が勝手に受け取る。受け取れることが、怖いのに。
口をつける。
温い。喉を通って、胃に落ちる。少し落ち着く。肩が落ちる。
……でも。
奥が、ざわつく。
落ち着くのに、落ち着ききらない。
胸の底に、空洞が残る。喉が乾く。さっきまでの希望が、針みたいに刺さったまま抜けない。
「……あれ? 効き、甘くない?」
ゴルドが笑う。
笑ってるのに、目だけ真剣だ。
「ごめん。俺が変なのかも」
「変じゃないわよ。今日は"希望"聞いたでしょ。希望って、身体に悪いのよ」
冗談みたいに言って、ゴルドは俺の背中を軽く叩いた。
「食で埋まらないなら、別の手順が要るってこと。……ねぇ、ミナトちゃん」
声が少しだけ低くなる。
「無理して笑うの、やめなさい。甘くなる」
俺は喉の奥で笑いを飲み込んだ。
それでも口角が上がってしまう。癖。逃げ方。
ゴルドは俺の視線を外した隙に、親指で何かを打った。
俺には見えないふりをした。
見えないふりをするほうが、楽になってしまったから。
*
日中の状況確認は、いつも突然だ。
廊下の空気がふっと軽くなって、レイヴが現れる。軽薄な笑顔。軽い声。
「やっほー、ミナト。三回目、どーだった?」
「……普通。……普通って、逆に難しいな」
「普通は上出来。ほら、こっち向いて。タグ見せて」
胸元のネームタグに、レイヴが指先で魔力を落とす。
表示が一瞬揺れて、バイタルみたいなものが"分かった気"になる。
レイヴの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「……うん。上がってる。ギリ。頑張ったね」
「頑張ってないって」
「頑張ってるって。息、浅い」
言われた瞬間、息が浅くなる自分がいる。
指摘されると意識して、余計に。
レイヴが手を差し出した。
「合わせる。俺見て」
「……うん」
目を見る。
レイヴの目は、明るい。軽い。なのに、底がある。
見ていると、首元がじんと熱くなる。息紋のところ。頭が、少しぼうっとする。
「吸って。……吐いて。そう。いい子」
息合わせ。呼吸のリズムを揃えるだけ。
それだけで、少し楽になる。
楽になった途端、俺は自分が怖くなる。
"楽"が、正しいみたいに感じてしまうから。
「……ねぇ、ミナト」
レイヴが笑う。
「今日、帰れそうな人の話、聞いた?」
「……聞いた。次の面談が通れば、って」
「へぇ。希望だね」
「希望、って……」
言いかけて、喉が乾く。
希望があるってことは、帰りたいってことは、俺がまだ――
レイヴは俺の反応を見て、笑顔の温度を落とした。
「戻りたいなら、応援するよ。俺、担当だし」
「……うん」
「でも、今の君が壊れたら意味ない。手順守って、息を保つ。いい?」
"手順"。
その言葉が、優しい。
優しいから、断れない。
「……うん」
「よし」
レイヴはそれ以上踏み込まない。
軽いノリで手を振って、去っていく。
去った瞬間。
レイヴの気配が薄れていく。
魔力の匂いみたいなものが引いていく。
すると、胸の奥が、空く。
息が浅くなる。
喉が乾く。唾液が減って、舌が紙みたいに感じる。
さっき合わせたのに、もう足りない。
俺は壁に額をつけた。
「……変だな」
散らす。散らす。散らす。
でも散らせない。
足りない。
*
夜。
部屋の灯りが落ち着いているのに、俺の中だけ騒がしい。
交流会で聞いた声が、頭の中で反響する。
――最近、思い出せないこと増えた。
――夜が寝られるようになった。
――次の面談が通れば。
希望が、針になって刺さる。
刺さるほど、息が浅くなる。
喉が乾く。唾液が溜まる。溜まるのに飲み込めない。胸が詰まる。指先が冷えて、背中だけ熱い。震えが出る。
呼べない、って思った。
呼んだら、頼りすぎになる。
呼んだら、もう戻れなくなる気がする。
でも、苦しい。
俺はスマホを握って、短い連絡を飛ばした。
『……来て』
送信した瞬間、泣きそうになる。
頼るって、こんなに恥ずかしいのに、こんなに救いなんだ。
数分もしないうちに、レイヴが来た。
「よしよし。入るよー」
軽い声。軽い笑顔。
なのに、入ってきた瞬間、空気が変わる。胸が少し楽になる。
「……息、浅いね」
「……うん」
「合わせよっか。俺見て」
目を見る。
首元が熱い。
頭がぼうっとする。不安が少しだけ遠のく。
「吸って……吐いて。そう。大丈夫」
息合わせ。
でも、今日は戻らない。
胸の奥の空洞が、埋まらない。
喉の渇きが、消えない。
俺は唇を噛んだ。
言いたくない。言ったら終わる気がする。
でも、喉が先に知っている。
何が足りないのかを、身体はもうとっくに知っている。
喉が鳴る。
唾液が増える。
舌の奥が、ひくっと熱くなる。
レイヴがここにいる。気配がある。匂いがある。
それでも、足りない。
足りない。
足りない。
足りない。
震えが手先から広がって、膝の上に置いた指が白くなる。
俺は息を一回だけ吐いた。長く。細く。震えながら。
「……レイヴ」
「うん」
「……雫、ある?」
言った。
言ってしまった。
喉が熱い。顔が熱い。耳の奥まで熱い。
自分から言ったのに、言った瞬間だけ、息が少し楽になった。
言うだけで楽になる。
その事実が、ひどく静かに怖い。
レイヴの目が、一度だけ大きくなる。
でもすぐに、笑う。いつもの軽い笑顔に戻る。
「……あるよ。うん。ある。……でも、確認する」
淡々と、手順に入る。
レイヴはタグに指を置き、魔力を流す。バイタル。適応値。閾値。
俺には数字は分からないのに、"見られている"ことが、妙に安心になる。
「今日の分、ログに残す。回数は増やさない。少量だけ」
「……うん」
「嫌なら、やらない。ミナトが決める」
決める。
俺は頷いた。
頷くしかない。楽になりたい。息をしたい。
「……お願い。楽になりたい」
「オッケー」
レイヴの指先が、何かを掬うみたいに空をなぞる。
"雫"の存在を、俺はもう知ってしまっている。
「口、開けて」
言葉は処置の言葉なのに、喉が鳴った。
恥ずかしくて顔が熱い。なのに、開けてしまう。
レイヴが、俺の下唇に親指を添えて、軽く引く。
距離が近い。呼吸が混ざる。熱い。匂いがする。魔力の香り。
「……落とすよ。たった一滴」
たった一滴。
でも俺の身体は、その一滴を"待っていた"みたいに震えた。
舌に触れた瞬間――甘い。
びっくりするくらい甘い。
前回は"楽になる"が先だったのに、今回は味が先に来た。
蜜みたいな甘さが、舌の上でほどけて、溶けて、喉へゆっくり流れ落ちていく。
飲み込もうとして、飲み込めなかった。
舌が、もっとここに留めたがっている。
喉が、もっと近くへ引き込もうとしている。
やっと飲み込んだ瞬間、喉の奥が一気に熱くなる。
熱いのに、痛くない。痛くないのに、熱い。
ほどける熱。解けていく壁。息が通る道が、倍に広がる。
「……っ、ぁ」
声が漏れた。
唾液が一気に増える。涎が落ちそうで、慌てて唇を閉じる。でも閉じると苦しい。甘さが口の中に残って、それがまだあることに、喉が鳴る。
たった一滴なのに、全身に行き渡る気がする。
胸の奥の空洞が、温い水でゆっくり満たされていく。
肩が抜ける。指先の冷えが消える。震えが止まる。
膝に置いていた手が、力なく広がって、それがどうしようもなく気持ちいい。
息が、深い。
深すぎる。
胸の奥まで、空気が一気に落ちた。
安心が、身体に先に来る。
遅れて、心が「え、これ」って追いかけてくる。
甘い。
美味しい。
舌の上にまだ残っている薄い甘さが惜しくて、舌先でそれを追ってしまう。
もう何もないのに、追ってしまう。
その動作に気づいて、俺は顔が熱くなった。
声にしない。
声にしたら、もっとって言ってしまう。
たった一滴で、こんなに。
だったら、もう一滴は。
もう少しだけなら。
増やさないって言われたのに、身体が先に計算を始めていて、その計算が自分のものだということが怖くて仕方なかった。
俺は、無意識にレイヴへ寄っていた。
距離を詰めてしまう。
触れてしまう。
袖を掴んでしまう。
掴んだ布越しに熱が返ってきて、それだけで喉がひゅっと鳴った。
離したい。
離したくない。
離したくないのが、また怖い。
レイヴが低く笑う。
低い笑いが、耳から首筋に伝わる気がして、そこが熱くなる。
「……うん。効いてる」
「……うん……」
「大丈夫。俺が見てる」
目を見ると、首元がまた熱い。
頭がぼうっとして、不安が溶けていく。溶けていくのが怖いのに、溶けてほしい。
溶けてほしい。
その言葉が自分の中から出てきたことに、俺はひどく遅れて気づいた。
レイヴの指が、俺の顎を軽く持ち上げた。
ただそれだけで、喉が一段ほどける。
「……落ち着いた?」
「……落ち着いた」
"落ちた"じゃない。
落ち着いた。そう言うほうが自然に感じるのが、いちばん怖い。
レイヴは最後に、タグをもう一度確認して、何かを"記録した"動作をした。たぶんログ。
それを見せることで、処置が"正しい"顔をする。
「今日はここまで。回数は増やさない。必要な時だけ」
「……うん」
「ね。約束」
俺は頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥が温くなる。
約束をするだけで安心する自分が、怖い。
扉の外で、気配が動いた。
リュカだ。無言で立ってる。確認だけして、去っていく気配。
ゴルドの影も、遠くで揺れた気がした。見えない場所で、呼吸が守られている。
……守られてる。
守られてるから、息ができる。
息ができるから、離れられなくなる。
*
レイヴが帰ったあとも、部屋の空気はまだ甘かった。
俺はベッドに座って、指先を見た。
震えていない。喉も乾いていない。息が深い。
その状態が、正しいみたいに思えてしまう。
スマホを開く。
日記。書くのが習慣になった。書けば整う。整うことが正しい。
入力欄にカーソルを置く。
……名前のところで、一瞬迷う。
打とうとしてないのに、予測変換が先に出してくる。
「湊」「ミナト」
並んでいるのに、片方が遠い。
漢字が、遠く感じる。俺の名前のはずなのに。
指は自然に「ミナト」を選ぶ。
選んだ瞬間、呼吸が少しだけ楽になる。小さな報酬みたいに。
俺は、今日の文を打った。
『なんだか今日は、湊って漢字が遠く感じる。俺の名前のはずなのに。
でも怖くはない。なんだか遠くのものを見てる感じがする。
今度レイヴに聞いてみよう』
署名:ミナト
*
(監督ログ/レイヴ)
ミナトの記録は、相変わらず素直だ。
"湊"が遠い。
怖くない。
今度レイヴに聞いてみよう。
画面を閉じても、その言葉だけが目の裏に残る。
俺は笑った。
いつもの軽い笑い方で。業務の顔で。
でも胸の奥が、少しだけ熱い。
自分から言った。
雫、ある? って。
自分で選んで、頷いた。
俺が"同意"の枠を作ったから、彼は安心して落ち着けた。
……よかった。
よかった、はずだ。
なのに、今日は前回より、甘かった。
ミナトの反応が、甘さを知ってしまった反応だった。
欲しがる目。
寄ってくる距離。
袖を掴む指。
袖を掴んだまま、離さなかった。
離させなかった、が正確かもしれない。
あれは"渇き"の段階が進んだときの顔だ。
渇きIIから、渇きIIIへ。代替が効かなくなる手前。
だから、もっと安心させないといけない。
安心が先に来れば、彼は壊れない。
壊れなければ、帰還審査だって通るかもしれない。
通るかもしれない――その"かもしれない"が、喉に棘みたいに刺さる。
俺は自分の舌で、その棘を撫でて潰す。
大丈夫。
俺が見てる。
湊が遠くなるのは、きっと"保護"の副作用だ。
名紋の自己認識が、愛称を強くする。
それは施設の正しい動き。囲いじゃない。守りだ。
守りだよね。
だから、俺はミナトに、ちゃんと答える。
「遠く感じるなら、無理に掴まなくていい」
「ミナトって呼べるなら、それで息ができる」
「俺がいるから、大丈夫」
そう言えば、彼は目を見て頷く。
首元が熱くなって、ぼうっとして、不安が消える。
それが一番安全だ。
それが一番、正しい。
……そして。
それが一番、かわいい。
その言葉が、頭の中で出た瞬間、レイヴは止まった。
業務の思考が、一拍だけ止まる。
かわいい。
安全でも、正しいでもなく、かわいい、が出てきた。
名前をつけたくなくて、でもつけなければ次の手順に移れるから、レイヴはそのまま流れようとした。
流れられなかった。
もう一秒だけ、その言葉が胸の中に留まった。
かわいい。
舌先で、さっきの甘さの残りを追っていた、あの動作。
声にしないように唇を噛んだ、あの我慢。
それでも袖を離さなかった、あの指。
かわいい。
レイヴはスマホをポケットにしまって、部屋の灯りを落とした。
明日、ミナトがまた苦しくなったら。
また自分から求めてきたら。
そのときも、俺は"手順"で救う。
回数は増やさない。
増やさない、って言いながら――増やすための理由を、もう準備している自分に気づいて、
俺は笑った。
軽薄に。
誰にも見えないところで。




