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異界の境界施設  作者:
Case-M

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19/27

Case-M #17



 目が覚めた瞬間、息が――深い。


 昨日まで、朝はまず喉が乾いて、胸の奥が薄い膜で塞がっているみたいで、起き上がる前に一度「大丈夫」を作ってから動いていたのに。

 今日は、最初から肺がふくらむ。空気が入って、出ていく。それが当たり前みたいに続く。


 当たり前、って言葉が、少し怖い。


 枕元に置いたタグの冷たさに触れないようにして、俺は手を握りしめる。触れたら、思い出してしまいそうで。

 唇の熱。喉の奥がほどける感じ。安心が身体に先に来て、遅れて心が追いかけてきた、あの順番。


 ……思い出しちゃいけない甘さ。


 でも、思い出してる。


「俺、大丈夫」


 声に出してみると、ちゃんと出た。少し笑ってみると、笑えた。

 壊れそうなのに笑う癖が、昨日からまた増えた気がする。笑うと息が乱れない。笑うと、いろいろ誤魔化せる。


 鏡の前に立って、喉元を見る。

 線は、ある。薄いけど、確かにある。呼吸に合わせて、ほんの少し揺れる。


 見なかったことにするみたいに、俺は視線を外して顔を洗った。



――――



 日中のタスクは、いつも通りに積み上がる。

 施設の空気は静かで、手順がある。時間が決まって、移動が決まって、誰に声をかければいいかが決まっている。


 俺は、それに従っている。


 従っているだけなのに、息が整うのが分かる。

 呼吸が揃って、肩が落ちて、足先の力が抜ける。


 ……楽だ。


 楽なことが、怖い。


 通路の曲がり角で、ふと、人の気配が増えたような気がして立ち止まる。匂いの輪郭が、ほんの少しだけ立つ。

 俺は反射で笑いそうになって――飲み込んだ。


 笑うと、甘くなる。

 甘くなると、寄る。


 それを「管理」って言葉にしてしまえば、急に全部が正しいことみたいになるのが嫌で、俺はただ、足を止めて呼吸を一回数える。


 そこへ。


「……ミナト」


 低い声。短い呼び方。背中が勝手に伸びる。


 リュカが、いつもの制服のまま、いつもの顔で立っていた。

 目が合うと、俺の喉がひゅっと鳴る。


「おはよう、リュカ」


「挨拶はいい。……順路、変える」


「え」


「交流の後だ。混乱が出やすい。人が増える時間帯を避ける」


 言い切って、リュカは俺の横に立つ。俺の歩幅に、合わせてくれるでもなく、合わせないでもなく、ちょうどいい速度で進み始めた。


 俺がついて行く前提の速度。


 その前提が、安心になる。


「……昨日の、処置」


 リュカがぼそっと言う。俺は反射で喉に手をやりそうになって、止めた。


「……ログ、重いだろ」


「重い、って……」


「余計な回数が増えると、閾値を超える」


 言葉だけ置いて、リュカはそれ以上説明しない。説明しないのに、俺の背筋に冷たいものが走る。


「委員会が来たら面倒だ。……だから、今日の導線は俺が握る」


 握る。

 その言い方が、少し乱暴で、でも、守る手順の言い方で。


 俺は「うん」とだけ返して、ついて行った。


 従っているうちに、呼吸が整う。

 リュカに従ってると、なんだか安心する。


 それを自覚してしまって、俺はまた笑いそうになった。

 笑ったら、甘くなるから、笑わない。



――――



 食堂に着く頃には、胃が「空っぽ」ってほどではないのに、何かを入れたくて仕方ない感じがした。

 空腹じゃない。渇きに近い。喉の方の欲。


 席を探していると、背中から、明るい声が刺さる。


「やだぁ、来たじゃなぁい。ミナトちゃん」


 ゴルドだ。


 見た目は相変わらずでかい。肩幅が壁みたいで、腕は太くて、歩くたびに床が少し震えそうなのに。

 声と喋り方だけ、軽い。オネェ。


「おはよう、ゴルド」


「おはよ。……顔、ちょぉっと白いわねぇ? ほら、座りなさいよ。座って、まず、息」


 言いながら、ゴルドは俺の前に、いつもの"温かいやつ"を置いた。

 湯気が立って、匂いが優しくて、喉が勝手に鳴る。


 昨日も飲んだ。

 でも今日は、迷わなかった。


 器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。

 一口目で、喉の奥がふっと緩む。二口目で、胸が膨らむ。三口目で、肩が落ちる。


 落ち着いた、が、正しい。


「……はぁ」


 息が漏れてしまって、俺は慌てて口元を隠す。


「なによ、正直じゃなぁい」


 ゴルドは笑う。でも、目だけは俺の喉元を見ている。

 視線が鋭いのに、刺さる感じがしない。刺さらないのが、怖い。


「昨日より、飲むの早いわよ」


「……だって、今日は、最初から飲みたかった」


 言ってから、俺は自分の言葉にびくっとする。

 "飲みたかった"。


 欲しい、って言葉に近い。


 ゴルドは、軽口のまま頷いた。


「いいのよ。食べられないより、よっぽどいい。ミナトちゃんはね、生きるのが先」


 生きるのが先。

 それは正しい。正しいことを言われると、安心する。


 安心するのが、怖い。


 器の縁に唇を当てる。湯気が頬に当たって、目がじんわりする。

 俺は笑って誤魔化そうとして、うまく笑えなかった。


「……なんかさ」


 ぽろっと出た声が、弱い。


「ん?」


「昨日、ああいう……"処置"が入ったじゃん。俺、助かったって思ってる。思ってるんだけど」


 言葉の途中で、喉が乾く。

 乾く、っていうか。喉が"待つ"。


 昨日の順番を、身体が覚えてしまったみたいに。


 ゴルドは笑うのをやめて、俺の顔を見た。


「でも?」


「でも……今日、朝からずっと、変なんだよね。別に苦しくないのに、ふとした瞬間に……口の中が、勝手に」


 湿る。喉が鳴る。唾が集まる。

 言葉にすると、急に恥ずかしい。俺は器の縁を見つめて、続けた。


「……増えるっていうか」


「ふぅん」


 ゴルドは相槌だけ打って、深追いしない。

 深追いしないのに、"聞いてる"って空気だけ残す。


「リュカちゃん、ログの話してたでしょ?」


「……うん」


「だから余計、怖くなるのよねぇ。正しい手順があるって、安心になるくせに」


 ゴルドが、俺の器に目を落として言う。


「正しいって言葉で、違和感を押し潰せちゃう」


 俺は、返せなかった。


 返せないまま、スープを飲む。

 飲むたびに、身体が"ここでいい"って言い始めるのが分かる。気のせいじゃない。

 分かるのに、止められない。止めたくない。



――――



 食堂を出る時、通路の向こうで、誰かが小さく話しているのが聞こえた。


「……帰還審査、進んでるらしいよ」


「ほんとに? 帰れた人、いるって……」


 その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。


 帰れる。


 希望が刺さる。

 刺さって、同時に喉が乾く。


 帰りたい。

 帰りたいのに、今この瞬間、身体の方は「帰らなくていい」って言い始めている。


 その二つが同時にある。

 同時にあることが、胸の奥で静かに怖い。


 「足りない」が、ふっと浮かんだ。


 帰還じゃなくて。

 噂じゃなくて。


 喉の奥が、昨日の感触を探している。


 俺は足を止めそうになって、止めない。止めると、いろいろ考えてしまうから。


 隣を歩くリュカが、少しだけ俺の前に出た。

 導線を変える。人が増える方向を避ける。


「……聞こえた?」


 俺が小さく言うと、リュカは「聞こえた」とだけ返した。


「帰れた人がいるって」


「噂だ。期待しすぎるな」


 口調は強い。

 でも、俺の歩幅が乱れないように、速度を落としてくれている。


「……うん」


 返事をしながら、俺は自分の喉を意識してしまって、また乾く。

 名前が浮かぶか試したくなって、やめる。


 やめる癖が、増えている。



――――



 日中の状況確認は、予告なく来る。


 軽い足音。軽い気配。

 角を曲がった先で、レイヴが壁にもたれていた。


「よ。ミナト。生きてる?」


 いつもみたいに笑って、いつもみたいに軽い。

 でも目は、俺の喉と呼吸を一瞬で拾う。


「……生きてる」


 俺がそう言うと、レイヴは「うん」と頷いて、指先でタグに触れる。


「じゃ、チェックね」


 手順。

 それだけで、俺の胸が少しだけ落ち着く。


 タグの表示を見て、レイヴの目が一拍だけ真面目になる。


「……今日は、揺れが細かい」


「揺れ……」


「息。波が小さい。苦しくはない? 吐けてる?」


 質問が先に来る。同意の形が置かれる。

 俺はそれだけで、少し楽になる。


「苦しくは……ない。けど、変」


「変、って?」


 俺は喉に触れそうになって、触れない。


「……ふとした時、喉が乾く。あと、口の中が……勝手に」


 言い切る前に、俺は顔が熱くなって黙る。

 レイヴは一瞬だけ目を細めて、すぐにいつもの笑顔に戻した。


「オッケ。じゃ、短いのやろ」


 それが何か説明しない。説明しないのに、察せる温度で言う。


 レイヴは指を上げる。あの合図。


「声、嫌じゃない?」


「……嫌じゃない」


 言った瞬間、自分で自分が怖い。

 でも、助かりたいのも本音だ。


「一」


 俺は吸う。合わせる。


「二」


 吐く。合わせる。


「三」


 胸が膨らむ。怖さの音量が少し下がる。


「四」


 肩が落ちる。手先の冷えが戻る。


 ――戻った。


 戻った、はずなのに。


 目の奥が、じわっと潤む。

 泣きそうなわけじゃない。涙が出るわけじゃない。

 ただ、整ったのに、どこかが追いつかない。


 息は通る。肩は落ちた。呼吸は揃っている。

 なのに、胸の一番奥だけが、まだ、ざわついている。


 奥の方。喉の奥の、そのさらに奥。

 昨日ほど深くはない。深くはないのに、"知ってしまった"せいで足りない。


 足りない、って言葉が、喉の裏で転がる。


 言ったら終わる気がして、俺は黙った。


「……どう?」


 レイヴが訊く。軽い声のまま、目だけ真剣。


「……落ち着いた」


 落ち着いた、と言う。落ちた、じゃない。


 でも、落ち着ききってないことを、俺は言わない。


 レイヴは俺の目を見てから、ゆっくり頷いた。


「うん。今日は増やさない」


 増やさない。

 その言い方が、建前みたいに聞こえる。


「昨日は必要だった。……今日も、必要なら言え」


 優しい。

 優しいのに、俺は言えない。


 口を開いたら「雫」って単語が出そうで。

 出した瞬間、俺の中の何かが、勝手に"正解"を選び始めそうで。


「……うん」


 俺が頷くと、レイヴはふっと笑った。


「偉いじゃん」


 褒められると、喉の奥が熱くなる。

 熱くなると、ぼうっとする。ぼうっとすると、不安が薄くなる。


 俺はその順番を、もう知ってる。



――――



 夜。


 部屋に戻って、灯りを落とすと、昼間の手順が全部遠くなる。

 静かになると、身体の音が聞こえる。


 喉が乾く。

 息が浅い。

 胸が、薄い膜で塞がっていく。


 昼間は平気だったのに。

 昼間は落ち着いてたはずなのに。


 "夜だけ"苦しい。


 俺はベッドの端に座って、手のひらを見つめる。

 指先が、ほんの少し震えている。


 寒さじゃない。

 欲しいだけだ。


 その自己弁護が、頭の中に出てきて、俺はぞっとする。


 欲しい、って何が。


 分かってる。

 分かってるのに、言いたくない。


 呼びたい。

 頼りすぎたくない。

 でも、苦しい。


 迷って、迷って、結局、俺はタグに触れた。


 短い呼び出し。短い音。

 来るまでの間が長くて、喉がさらに乾く。


 コンコン、とノック。

 返事をする前に扉が少しだけ開いて、レイヴが顔を出した。


「ミナト。……起きてた」


 声が落ちるだけで、俺の胸が少しだけ緩む。

 それがもう、怖い。


「……ごめん。呼んだ」


「謝んな。仕事」


 レイヴは入ってきて、扉を閉める。距離が近づく。

 近づいた瞬間、俺の身体が勝手に寄ろうとするのを、俺は必死で抑えた。


 寄ったら、もっと欲しくなる。


 レイヴは俺の前にしゃがんで、指を上げる。


「合わせる。俺見て」


 目を見ろ、じゃなく、見て。

 命令じゃなく、手順の誘導。


 俺はレイヴの目を見る。

 黒い。暗いほど色が沈むみたいな目。


 見た瞬間、首元が熱くなる。

 喉が――熱い。

 頭が、なんか、ぼうっとする。


 不安が、薄くなる。


「一」


 吸う。合わせる。


「二」


 吐く。合わせる。


「三」


 胸が膨らむ。


「四」


 肩が落ちる。


 落ち着く。

 落ち着く、はずなのに。


 整った、って分かる。

 分かるのに、胸の底がまだざわついている。


 昼の「足りない」と、今の「足りない」は、同じ形をしている。

 昼は帰還の噂を聞いた後に浮かんだ。

 今は、整ったはずの後に浮かんだ。


 場所が違うのに、同じ形。

 その一致が、じわっと怖い。


 まだ、足りない。


 足りない、が、消えない。


 俺は唇を噛んで、何も言わない。

 言えば出る。「もっと」。言えば出る。「雫」。


 レイヴは俺の表情を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「……今夜は、これで十分」


 建前。

 線引き。


「落ち着いた。大丈夫」


 言い切られると、俺の中の"抵抗"が薄くなる。

 当然だよ、と言われた時みたいに。


 レイヴがそう言うなら、そうなのかも。

 俺は頷いてしまう。


 安心が先に来て、疑問が後ろへ流れる。


「……うん」


 頷いた俺を見て、レイヴは少しだけ息を吐いた。

 それが、安堵なのか、我慢なのか、俺には分からない。


「寝ろ。明日、また見る」


 また見る。

 それが手順になっていく。


 レイヴは立ち上がって、扉の方に向かいかけて、振り返る。


「もし、ほんとにダメなら……別の方法も考える。許可がいるから、相談だけしとく」


 雫の影が、一滴だけ落ちる。

 投与はない。今夜はない。


 それなのに、俺の喉がひゅっと鳴った。


 レイヴの目が、一瞬だけ鋭くなる。

 見逃さない。見逃さないのに、何も言わない。


 扉が閉まる。

 静かになる。


 静かになった瞬間、足りない、がまた浮かぶ。



――――



 スマホを開く。

 日記の画面。


 書かなきゃ、と思うのも、もう癖だ。

 書けば落ち着く。書けば整理できる。正しいことになる。


 入力欄に指を置く。

 名前を入れようとして、予測変換が出る。


 「湊」

 「ミナト」


 並んでいるのを見て、俺は一拍止まる。


 「湊」が、遠い。

 自分の字じゃないみたいに見える。誰かの名前みたいに見える。


 指は自然に「ミナト」を選んだ。


 選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。

 小さな報酬みたいに。


 ――怖い。


 俺はそのまま打ち始める。


『今日は落ち着いてたはずなのに、夜だけ苦しい。

 レイヴが来ると息はできる。

 でも、足りないって思った。

 口に出したら終わる気がして言えなかった。

 怖い。明日、それを言ってしまいそう』


 最後に、署名。


『ミナト』


 送信して、画面を伏せる。

 暗闇の中で、自分の喉の音だけが聞こえる。


 足りない。


 その言葉が、もう俺の身体のどこかに根を張り始めている。



――――



(監督ログ)


 レイヴは端末を開いた。

 業務として。安全のために。


 画面に上がってきた日記の最後、署名の二文字を見て、指が止まる。


『ミナト』


 "湊"じゃない。


 選ばれなかった方の名前が、なぜか頭の中で音にならない。

 それが、胸の奥に小さく灯る――言語化できない満足に変わってしまうのが、いちばんまずい。


 まずいのに。


 レイヴは笑ってしまいそうになって、笑わなかった。

 代わりに、息を吐く。


「……回数は増やさない」


 自分に言い聞かせるみたいに呟いて、ログの欄に短く入力する。


 "夜間:呼吸処置。安定。追加投与なし。"


 追加投与なし。

 その文字が、線になる。

 線があるから、俺はまだ善意でいられる。


 ――でも、足りないって書いてる。


 その一行を、レイヴはもう一度見た。


 足りない。


 ミナトが足りないと思っている。

 足りないから、また呼ぶ。

 また呼んだら、また整える。

 整えるたびに、足りないの閾値が下がっていく。


 それが分かっている。

 分かっているのに、次の手順を考えている自分がいる。


 もっと安心させる方法。

 もっと早く整える手順。

 もっと、ミナトが「ここでいい」と思えるような。


 レイヴは画面を閉じて、指先で自分の唇に触れかけて、やめた。


「もっと安心させないと」


 それは、誰のための言葉だ。


 答えが出ないまま、端末を伏せる。

 伏せた後、しばらく動かなかった。


 暗い廊下の向こうで、ミナトの部屋の灯りが消えるのを、レイヴは確認しなかった。

 確認しなくても、分かる気がした。


 それが業務の勘なのか、それとも別の何かなのか。


 レイヴは考えるのをやめて、次の手順を思い浮かべた。



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