Case-M #17
目が覚めた瞬間、息が――深い。
昨日まで、朝はまず喉が乾いて、胸の奥が薄い膜で塞がっているみたいで、起き上がる前に一度「大丈夫」を作ってから動いていたのに。
今日は、最初から肺がふくらむ。空気が入って、出ていく。それが当たり前みたいに続く。
当たり前、って言葉が、少し怖い。
枕元に置いたタグの冷たさに触れないようにして、俺は手を握りしめる。触れたら、思い出してしまいそうで。
唇の熱。喉の奥がほどける感じ。安心が身体に先に来て、遅れて心が追いかけてきた、あの順番。
……思い出しちゃいけない甘さ。
でも、思い出してる。
「俺、大丈夫」
声に出してみると、ちゃんと出た。少し笑ってみると、笑えた。
壊れそうなのに笑う癖が、昨日からまた増えた気がする。笑うと息が乱れない。笑うと、いろいろ誤魔化せる。
鏡の前に立って、喉元を見る。
線は、ある。薄いけど、確かにある。呼吸に合わせて、ほんの少し揺れる。
見なかったことにするみたいに、俺は視線を外して顔を洗った。
――――
日中のタスクは、いつも通りに積み上がる。
施設の空気は静かで、手順がある。時間が決まって、移動が決まって、誰に声をかければいいかが決まっている。
俺は、それに従っている。
従っているだけなのに、息が整うのが分かる。
呼吸が揃って、肩が落ちて、足先の力が抜ける。
……楽だ。
楽なことが、怖い。
通路の曲がり角で、ふと、人の気配が増えたような気がして立ち止まる。匂いの輪郭が、ほんの少しだけ立つ。
俺は反射で笑いそうになって――飲み込んだ。
笑うと、甘くなる。
甘くなると、寄る。
それを「管理」って言葉にしてしまえば、急に全部が正しいことみたいになるのが嫌で、俺はただ、足を止めて呼吸を一回数える。
そこへ。
「……ミナト」
低い声。短い呼び方。背中が勝手に伸びる。
リュカが、いつもの制服のまま、いつもの顔で立っていた。
目が合うと、俺の喉がひゅっと鳴る。
「おはよう、リュカ」
「挨拶はいい。……順路、変える」
「え」
「交流の後だ。混乱が出やすい。人が増える時間帯を避ける」
言い切って、リュカは俺の横に立つ。俺の歩幅に、合わせてくれるでもなく、合わせないでもなく、ちょうどいい速度で進み始めた。
俺がついて行く前提の速度。
その前提が、安心になる。
「……昨日の、処置」
リュカがぼそっと言う。俺は反射で喉に手をやりそうになって、止めた。
「……ログ、重いだろ」
「重い、って……」
「余計な回数が増えると、閾値を超える」
言葉だけ置いて、リュカはそれ以上説明しない。説明しないのに、俺の背筋に冷たいものが走る。
「委員会が来たら面倒だ。……だから、今日の導線は俺が握る」
握る。
その言い方が、少し乱暴で、でも、守る手順の言い方で。
俺は「うん」とだけ返して、ついて行った。
従っているうちに、呼吸が整う。
リュカに従ってると、なんだか安心する。
それを自覚してしまって、俺はまた笑いそうになった。
笑ったら、甘くなるから、笑わない。
――――
食堂に着く頃には、胃が「空っぽ」ってほどではないのに、何かを入れたくて仕方ない感じがした。
空腹じゃない。渇きに近い。喉の方の欲。
席を探していると、背中から、明るい声が刺さる。
「やだぁ、来たじゃなぁい。ミナトちゃん」
ゴルドだ。
見た目は相変わらずでかい。肩幅が壁みたいで、腕は太くて、歩くたびに床が少し震えそうなのに。
声と喋り方だけ、軽い。オネェ。
「おはよう、ゴルド」
「おはよ。……顔、ちょぉっと白いわねぇ? ほら、座りなさいよ。座って、まず、息」
言いながら、ゴルドは俺の前に、いつもの"温かいやつ"を置いた。
湯気が立って、匂いが優しくて、喉が勝手に鳴る。
昨日も飲んだ。
でも今日は、迷わなかった。
器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。
一口目で、喉の奥がふっと緩む。二口目で、胸が膨らむ。三口目で、肩が落ちる。
落ち着いた、が、正しい。
「……はぁ」
息が漏れてしまって、俺は慌てて口元を隠す。
「なによ、正直じゃなぁい」
ゴルドは笑う。でも、目だけは俺の喉元を見ている。
視線が鋭いのに、刺さる感じがしない。刺さらないのが、怖い。
「昨日より、飲むの早いわよ」
「……だって、今日は、最初から飲みたかった」
言ってから、俺は自分の言葉にびくっとする。
"飲みたかった"。
欲しい、って言葉に近い。
ゴルドは、軽口のまま頷いた。
「いいのよ。食べられないより、よっぽどいい。ミナトちゃんはね、生きるのが先」
生きるのが先。
それは正しい。正しいことを言われると、安心する。
安心するのが、怖い。
器の縁に唇を当てる。湯気が頬に当たって、目がじんわりする。
俺は笑って誤魔化そうとして、うまく笑えなかった。
「……なんかさ」
ぽろっと出た声が、弱い。
「ん?」
「昨日、ああいう……"処置"が入ったじゃん。俺、助かったって思ってる。思ってるんだけど」
言葉の途中で、喉が乾く。
乾く、っていうか。喉が"待つ"。
昨日の順番を、身体が覚えてしまったみたいに。
ゴルドは笑うのをやめて、俺の顔を見た。
「でも?」
「でも……今日、朝からずっと、変なんだよね。別に苦しくないのに、ふとした瞬間に……口の中が、勝手に」
湿る。喉が鳴る。唾が集まる。
言葉にすると、急に恥ずかしい。俺は器の縁を見つめて、続けた。
「……増えるっていうか」
「ふぅん」
ゴルドは相槌だけ打って、深追いしない。
深追いしないのに、"聞いてる"って空気だけ残す。
「リュカちゃん、ログの話してたでしょ?」
「……うん」
「だから余計、怖くなるのよねぇ。正しい手順があるって、安心になるくせに」
ゴルドが、俺の器に目を落として言う。
「正しいって言葉で、違和感を押し潰せちゃう」
俺は、返せなかった。
返せないまま、スープを飲む。
飲むたびに、身体が"ここでいい"って言い始めるのが分かる。気のせいじゃない。
分かるのに、止められない。止めたくない。
――――
食堂を出る時、通路の向こうで、誰かが小さく話しているのが聞こえた。
「……帰還審査、進んでるらしいよ」
「ほんとに? 帰れた人、いるって……」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。
帰れる。
希望が刺さる。
刺さって、同時に喉が乾く。
帰りたい。
帰りたいのに、今この瞬間、身体の方は「帰らなくていい」って言い始めている。
その二つが同時にある。
同時にあることが、胸の奥で静かに怖い。
「足りない」が、ふっと浮かんだ。
帰還じゃなくて。
噂じゃなくて。
喉の奥が、昨日の感触を探している。
俺は足を止めそうになって、止めない。止めると、いろいろ考えてしまうから。
隣を歩くリュカが、少しだけ俺の前に出た。
導線を変える。人が増える方向を避ける。
「……聞こえた?」
俺が小さく言うと、リュカは「聞こえた」とだけ返した。
「帰れた人がいるって」
「噂だ。期待しすぎるな」
口調は強い。
でも、俺の歩幅が乱れないように、速度を落としてくれている。
「……うん」
返事をしながら、俺は自分の喉を意識してしまって、また乾く。
名前が浮かぶか試したくなって、やめる。
やめる癖が、増えている。
――――
日中の状況確認は、予告なく来る。
軽い足音。軽い気配。
角を曲がった先で、レイヴが壁にもたれていた。
「よ。ミナト。生きてる?」
いつもみたいに笑って、いつもみたいに軽い。
でも目は、俺の喉と呼吸を一瞬で拾う。
「……生きてる」
俺がそう言うと、レイヴは「うん」と頷いて、指先でタグに触れる。
「じゃ、チェックね」
手順。
それだけで、俺の胸が少しだけ落ち着く。
タグの表示を見て、レイヴの目が一拍だけ真面目になる。
「……今日は、揺れが細かい」
「揺れ……」
「息。波が小さい。苦しくはない? 吐けてる?」
質問が先に来る。同意の形が置かれる。
俺はそれだけで、少し楽になる。
「苦しくは……ない。けど、変」
「変、って?」
俺は喉に触れそうになって、触れない。
「……ふとした時、喉が乾く。あと、口の中が……勝手に」
言い切る前に、俺は顔が熱くなって黙る。
レイヴは一瞬だけ目を細めて、すぐにいつもの笑顔に戻した。
「オッケ。じゃ、短いのやろ」
それが何か説明しない。説明しないのに、察せる温度で言う。
レイヴは指を上げる。あの合図。
「声、嫌じゃない?」
「……嫌じゃない」
言った瞬間、自分で自分が怖い。
でも、助かりたいのも本音だ。
「一」
俺は吸う。合わせる。
「二」
吐く。合わせる。
「三」
胸が膨らむ。怖さの音量が少し下がる。
「四」
肩が落ちる。手先の冷えが戻る。
――戻った。
戻った、はずなのに。
目の奥が、じわっと潤む。
泣きそうなわけじゃない。涙が出るわけじゃない。
ただ、整ったのに、どこかが追いつかない。
息は通る。肩は落ちた。呼吸は揃っている。
なのに、胸の一番奥だけが、まだ、ざわついている。
奥の方。喉の奥の、そのさらに奥。
昨日ほど深くはない。深くはないのに、"知ってしまった"せいで足りない。
足りない、って言葉が、喉の裏で転がる。
言ったら終わる気がして、俺は黙った。
「……どう?」
レイヴが訊く。軽い声のまま、目だけ真剣。
「……落ち着いた」
落ち着いた、と言う。落ちた、じゃない。
でも、落ち着ききってないことを、俺は言わない。
レイヴは俺の目を見てから、ゆっくり頷いた。
「うん。今日は増やさない」
増やさない。
その言い方が、建前みたいに聞こえる。
「昨日は必要だった。……今日も、必要なら言え」
優しい。
優しいのに、俺は言えない。
口を開いたら「雫」って単語が出そうで。
出した瞬間、俺の中の何かが、勝手に"正解"を選び始めそうで。
「……うん」
俺が頷くと、レイヴはふっと笑った。
「偉いじゃん」
褒められると、喉の奥が熱くなる。
熱くなると、ぼうっとする。ぼうっとすると、不安が薄くなる。
俺はその順番を、もう知ってる。
――――
夜。
部屋に戻って、灯りを落とすと、昼間の手順が全部遠くなる。
静かになると、身体の音が聞こえる。
喉が乾く。
息が浅い。
胸が、薄い膜で塞がっていく。
昼間は平気だったのに。
昼間は落ち着いてたはずなのに。
"夜だけ"苦しい。
俺はベッドの端に座って、手のひらを見つめる。
指先が、ほんの少し震えている。
寒さじゃない。
欲しいだけだ。
その自己弁護が、頭の中に出てきて、俺はぞっとする。
欲しい、って何が。
分かってる。
分かってるのに、言いたくない。
呼びたい。
頼りすぎたくない。
でも、苦しい。
迷って、迷って、結局、俺はタグに触れた。
短い呼び出し。短い音。
来るまでの間が長くて、喉がさらに乾く。
コンコン、とノック。
返事をする前に扉が少しだけ開いて、レイヴが顔を出した。
「ミナト。……起きてた」
声が落ちるだけで、俺の胸が少しだけ緩む。
それがもう、怖い。
「……ごめん。呼んだ」
「謝んな。仕事」
レイヴは入ってきて、扉を閉める。距離が近づく。
近づいた瞬間、俺の身体が勝手に寄ろうとするのを、俺は必死で抑えた。
寄ったら、もっと欲しくなる。
レイヴは俺の前にしゃがんで、指を上げる。
「合わせる。俺見て」
目を見ろ、じゃなく、見て。
命令じゃなく、手順の誘導。
俺はレイヴの目を見る。
黒い。暗いほど色が沈むみたいな目。
見た瞬間、首元が熱くなる。
喉が――熱い。
頭が、なんか、ぼうっとする。
不安が、薄くなる。
「一」
吸う。合わせる。
「二」
吐く。合わせる。
「三」
胸が膨らむ。
「四」
肩が落ちる。
落ち着く。
落ち着く、はずなのに。
整った、って分かる。
分かるのに、胸の底がまだざわついている。
昼の「足りない」と、今の「足りない」は、同じ形をしている。
昼は帰還の噂を聞いた後に浮かんだ。
今は、整ったはずの後に浮かんだ。
場所が違うのに、同じ形。
その一致が、じわっと怖い。
まだ、足りない。
足りない、が、消えない。
俺は唇を噛んで、何も言わない。
言えば出る。「もっと」。言えば出る。「雫」。
レイヴは俺の表情を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……今夜は、これで十分」
建前。
線引き。
「落ち着いた。大丈夫」
言い切られると、俺の中の"抵抗"が薄くなる。
当然だよ、と言われた時みたいに。
レイヴがそう言うなら、そうなのかも。
俺は頷いてしまう。
安心が先に来て、疑問が後ろへ流れる。
「……うん」
頷いた俺を見て、レイヴは少しだけ息を吐いた。
それが、安堵なのか、我慢なのか、俺には分からない。
「寝ろ。明日、また見る」
また見る。
それが手順になっていく。
レイヴは立ち上がって、扉の方に向かいかけて、振り返る。
「もし、ほんとにダメなら……別の方法も考える。許可がいるから、相談だけしとく」
雫の影が、一滴だけ落ちる。
投与はない。今夜はない。
それなのに、俺の喉がひゅっと鳴った。
レイヴの目が、一瞬だけ鋭くなる。
見逃さない。見逃さないのに、何も言わない。
扉が閉まる。
静かになる。
静かになった瞬間、足りない、がまた浮かぶ。
――――
スマホを開く。
日記の画面。
書かなきゃ、と思うのも、もう癖だ。
書けば落ち着く。書けば整理できる。正しいことになる。
入力欄に指を置く。
名前を入れようとして、予測変換が出る。
「湊」
「ミナト」
並んでいるのを見て、俺は一拍止まる。
「湊」が、遠い。
自分の字じゃないみたいに見える。誰かの名前みたいに見える。
指は自然に「ミナト」を選んだ。
選んだ瞬間、呼吸が少し楽になる。
小さな報酬みたいに。
――怖い。
俺はそのまま打ち始める。
『今日は落ち着いてたはずなのに、夜だけ苦しい。
レイヴが来ると息はできる。
でも、足りないって思った。
口に出したら終わる気がして言えなかった。
怖い。明日、それを言ってしまいそう』
最後に、署名。
『ミナト』
送信して、画面を伏せる。
暗闇の中で、自分の喉の音だけが聞こえる。
足りない。
その言葉が、もう俺の身体のどこかに根を張り始めている。
――――
(監督ログ)
レイヴは端末を開いた。
業務として。安全のために。
画面に上がってきた日記の最後、署名の二文字を見て、指が止まる。
『ミナト』
"湊"じゃない。
選ばれなかった方の名前が、なぜか頭の中で音にならない。
それが、胸の奥に小さく灯る――言語化できない満足に変わってしまうのが、いちばんまずい。
まずいのに。
レイヴは笑ってしまいそうになって、笑わなかった。
代わりに、息を吐く。
「……回数は増やさない」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、ログの欄に短く入力する。
"夜間:呼吸処置。安定。追加投与なし。"
追加投与なし。
その文字が、線になる。
線があるから、俺はまだ善意でいられる。
――でも、足りないって書いてる。
その一行を、レイヴはもう一度見た。
足りない。
ミナトが足りないと思っている。
足りないから、また呼ぶ。
また呼んだら、また整える。
整えるたびに、足りないの閾値が下がっていく。
それが分かっている。
分かっているのに、次の手順を考えている自分がいる。
もっと安心させる方法。
もっと早く整える手順。
もっと、ミナトが「ここでいい」と思えるような。
レイヴは画面を閉じて、指先で自分の唇に触れかけて、やめた。
「もっと安心させないと」
それは、誰のための言葉だ。
答えが出ないまま、端末を伏せる。
伏せた後、しばらく動かなかった。
暗い廊下の向こうで、ミナトの部屋の灯りが消えるのを、レイヴは確認しなかった。
確認しなくても、分かる気がした。
それが業務の勘なのか、それとも別の何かなのか。
レイヴは考えるのをやめて、次の手順を思い浮かべた。




