Case-M #16
朝、目が覚めた瞬間に――息が深かった。
胸の奥まで空気が入って、喉がすっと通る。昨日まで「吸えてるのに、足りない」みたいな薄さがずっとあったのに、今日は最初の一呼吸から、形が整っている。
……それが、ちょっとだけ怖い。
良いことのはずなのに。良すぎると、逆に「ここに合わせてしまった」みたいで。
喉元が熱い気がして、指がそこへ行きかける。鏡を見れば、きっとあの模様がある。見たくないのに、見たい。
俺は指を引っ込めて、代わりに髪をぐしゃっと撫でた。
「寝起きがいいって、怪しいな……」
自分に軽口を投げて、口の端を上げる。
笑えば、だいたいの不安は薄まる。薄まったふりをしてくれる。
――それが、最近の俺のやり方になっている。
廊下に出ると、ちょうど曲がり角のところにリュカがいた。
相変わらず表情が固い。制服の襟元まできっちりしていて、目だけがやたらに冷静。
「起きたか」
「起きた。おはよう」
「食堂。空いてる時間。今」
短い。容赦がない。
でも、言われた通りに足を向けると、呼吸が勝手に整うのが分かる。
最短の動線。人の少ない時間。曲がり角の角度まで計算してるみたいな歩き方。
俺はその後ろをついていくだけで、肩の力が抜けていった。
……嫌だな。楽だ。
楽って、こういうことだっけ。
自分で決めなくていいのは、こんなに安心するんだ。
「今日、検査とか?」
「必要な分だけ。余計な回数は増やすな」
リュカの言い方はいつも通り淡々としているのに、途中から声の端に「面倒を増やすな」じゃなくて「危ない橋を増やすな」っていう温度が混じっている気がした。
「監査……来るとか?」
「来る。ログは残る」
それだけ言って、リュカは俺の歩幅に合わせた。
合わせたことを悟られないように、あくまで自然に。
ツンデレって、こういうやつだよな……って思う。俺の世界の言葉を当てはめると、妙に納得してしまう。
食堂は、今日もあったかい匂いがした。
朝でも昼でもない、ここだけの時間。湯気が空気を柔らかくして、光が丸い。
俺が席に着く前に、でかい影がドンと視界に入った。
「ミナトぉ〜。おはよぉ〜」
ゴルドだ。
上半身が、相変わらず「壁」みたいに分厚い。筋肉の輪郭が制服の布越しでも主張してるのに、口調はやたらと柔らかい。指先の動きが妙にしなやかで、仕草がいちいち大きい。
そして、その目だけが――笑ってない。
「おはよ。今日も早いな」
「早いじゃないの、あんたが遅いのよぉ。顔、見れば分かるんだから」
ゴルドは俺の前に器を置いた。
昨日も一昨日も見たやつ。もう説明がいらないやつ。
俺は、自然に両手で器を包んだ。
熱い。手のひらに、じわっと移ってくる。
喉が「来る」って先に知ってる感じがして、唾液がほんの少し増える。
……違和感が、減ってる。
昨日は「飲んでいいのか」って一瞬だけ頭をよぎったのに、今日は「飲めば楽になる」が先に来る。
迷いが遅い。遅いのが、怖い。
俺は一口含んだ。
温度が喉の奥を撫でる。つかえていたものが、ほどける。
二口目で、息が胸の下まで落ちた。肩が抜ける。力が抜けて、椅子の背もたれに体重が移る。
それがあまりに自然で、自分でも気づかなかった。
ゴルドが「ほら」って顔をするまで。
「……やば。効く」
「でしょ」
「効くって言い方、薬みたいだな」
「薬みたいなもんよ。生存のためのね」
ゴルドは軽口のまま、でも目だけは真剣だった。
俺は器を持ったまま、少しだけ黙る。
怖さの居場所がなくなって、代わりに「安心」が詰め込まれていく感じがする。
そこへ、食堂のざわめきの隙間から、声が落ちてきた。
「……最近さ、思い出せないこと増えたんだよね」
別の席。保護対象――人間の男が、隣の人に小さく話している。
俺は反射で耳を澄ませてしまった。
「名前とか?」
「うん。あと、家の匂い。思い出そうとすると、喉が乾く」
喉が乾く。
その言い方が、俺の背中をぴりっと撫でた。
リュカが一瞬だけ視線をそっちにやって、すぐ戻す。
ゴルドは器の縁を指で軽く叩いて、俺の意識をこちらに戻した。
「ミナト。飲みなさい。冷めるわよ」
「……うん」
俺は口の端を上げて、もう一口飲んだ。
温度が戻してくれる。考える余地を奪うみたいに。
今日は交流会、二回目。
初回の時みたいに「何が起きるか分からない」怯えはもう薄い。
薄い――薄いのに。
集合場所に向かう途中、俺は廊下の角で別の保護対象と並んだ。
年齢は俺より少し上に見える。目の下にクマが濃い。笑うのが下手そうな顔。
「……お前さ」
いきなり、低い声。
「なんであんなに担当官たちと仲良いの? 怖くないの」
直球すぎて、俺は噴きそうになった。
「怖いっていうか……え、怖い? みんな、優しいじゃん」
「優しいのが怖いんだろ」
「……ええ〜」
俺が笑うと、相手は眉をひそめた。
「優しいのに、なんで帰れないの」
「それは……」
言いかけて、俺の喉が渇いた。
返せる言葉がない。
その瞬間、前からレイヴが現れた。
「はいはい、雑談はほどほどね。今日は手順、ちゃんと回すから」
軽い口調。けど、目は仕事の目だ。
タグに指をかざして、俺の喉元あたりを一瞬だけ見てから、何も言わずに頷く。
「問題なし。……一応、今のうちに水飲んどけ」
「了解」
俺が返事をすると、レイヴはニコッと笑った。
あの軽薄な笑顔。なのに、今だけは妙に安心が先に来る。
リュカが前に出て、ルートを示す。
俺はそれについていく。
従ってると、なんだか安心する。
その自覚が、今日もちゃんと胸の奥で育っている。
会場は、前回より少しだけ空気が重かった。
重いというか――言葉が少ない。
みんな、笑い方が「作り」になっている。
アイスブレイクの順番が回ってくる。
「じゃあ次、そこの君。名前と、簡単に自己紹介お願い」
俺は椅子から半分立ち上がって、口を開く。
名前。
本名。
成宮湊。
言おうとした。
喉の奥で、引っかかった。
おかしい。名前だ。自分の名前だ。何回も言ってきた。言えないはずがない。
なのに、舌の置き場が分からない。
「な」って出そうとすると、唾液だけが増えて、音が形にならない。
時間が、変に伸びる。
司会役が、もう一度こっちを見た。
隣の席の人が、こっそり肘で俺をつついた。
「……おい、大丈夫? 名前だぞ」
その小声が、逆に耳に刺さって、焦りが跳ねる。
「な、成……」
出ない。
喉元が熱い。息紋がある場所が、熱い。
笑って誤魔化そうとして、でも笑いが喉で引きつった。
笑いにもならない。何にもならない。
ただ時間だけが、じわじわと伸びていく。
――成宮。湊。成宮。湊。
頭の中では言えてる。
なのに、喉と口が繋がらない。
それが怖くて、焦りがさらに息を浅くして、余計に出なくなる。
そこで、口が勝手に動いた。
「ミナト。……ミナト、です」
言えた瞬間、息が通った。
胸の奥まで空気が落ちた。
会場は拍手ともつかない拍手をして、司会役が「よろしく」と流す。
でも、俺の隣の人間は、目だけで俺を見た。
交流会の後半、休憩のタイミングでその人が言った。
「……名前はさ、大事にしろよ」
悪気のない声だった。
照れ隠しみたいに笑いながら言うのに、内容だけが鋭い。
俺は笑って返した。
「うん。……そうだよな。俺は……成宮……湊だよ」
やっと、音が出た。
でも、遅かった。自分でも分かる。
その一拍の重さが、うまく笑顔に収まらなかった。
後半、帰還した人の話が出た。
「……条件を満たして帰った人、実際にいるらしい」
「マジで?」
「うん。委員会に通って、帰還門を通ったって」
その言葉だけで、会場の空気が少し変わった。
希望の匂いがする。みんな、顔が少しだけ上がる。
俺も、胸がきゅっとなった。
帰れる。帰った人がいる。
なのに、別の声も混じる。
「帰りたくないって言った人も、いたらしいよ」
「は? なんで」
「知らない。……でも、そういう噂」
噂。断定じゃない。けど、耳に残る。
さらに、ひそひそ声が続いた。
「喉に模様が出たら……戻れないって」
「やめろよ、そういうの」
「噂だって。でもさ……」
喉が乾いた。
俺は無意識に喉元へ手をやりそうになって、寸前で止めた。
リュカが俺の横に立つ。
さりげなく、人の流れから俺を外す立ち位置。
ゴルドは一歩後ろに入った。
距離で守る。
レイヴは進行を切り上げるタイミングを計って、声を上げた。
「はい、今日はここまで。みんな、手順通り戻るよ」
その瞬間、俺はふっと息ができた。
3人が近くにいれば、俺、息ができる。
それが今日いちばん怖い正解だと、分かっていた。
夜、自室。
昼の言葉が、まだ喉に残っている。
噂。名前。模様。帰れる人。帰りたくない人。
息が浅くなる。
胸が詰まる。吸ってるのに入らない。
「……やば」
声に出したら余計に現実になって、喉が渇いた。
俺は一瞬、迷った。
レイヴを呼んだら――また、安心してしまう。
安心して、全部がどうでもよくなるみたいで怖い。
でも。
苦しい。
苦しさのほうが、勝つ。
俺はタグに触れて、呼び出しの手順を踏んだ。
返事は早かった。
ノック。
「ミナト? 入るよ」
レイヴが入ってくる。
いつもの軽い歩き方なのに、目は一瞬で俺の状態を拾った。
「顔色、だいぶ悪い。座って」
「……ごめん。大丈夫、って言いたいんだけど」
「言わなくていい。息、合わせよう」
レイヴが目の前にしゃがみ込む。
距離が近い。近いのに、怖さより、喉が「楽」を求める。
「俺の目、見て」
言われて、俺は反射で目を合わせた。
黒い。深い。
覗き込まれてるのに、引きずり込まれるみたいに目が逸らせない。
「吸って。……吐いて。そう。俺に合わせる」
俺は言われた通りに吸う。
でも、戻り切らない。胸の奥のざわつきが残る。喉の渇きが引かない。
「……だめだ。戻んない」
「うん。今日は、いつもより残ってる」
レイヴは、笑わない。
軽薄な仮面を外して、仕事の顔で、淡々と続けた。
「昨日、言ったの覚えてる?」
「……治らなかったら、別の方法……」
「そう。怖がらせるためじゃない。安全のため」
レイヴはポケットから小さなケースを出した。
見せるというより、手順として置く。
「許可、取ってある。ログに残す。タグでバイタル見ながら、少量」
「……」
「嫌ならやらない。やめようって言ったら、すぐ止める」
"止められる"って言葉が、俺の理性を少しだけ保つ。
でも、その理性のすぐ下で、喉が先に反応してしまっている。
乾いてる。
欲しい。
口の中に唾液が溜まって、飲み込む音がうるさい。
「……それ、なに」
「雫。安定化の補助」
「……」
「俺のやつ。担当の手順で使う。今日は、処置として」
処置。
その言葉が、妙に安心を連れてくる。
俺は首を振りかけて、止めた。
苦しい。さっきから息が浅い。目が熱い。
何が怖いのか分からないまま、ただ怖い。
迷いの手前に、喉だけが「欲しい」と言い続けている。
レイヴはもう一度、言った。
「ミナト。俺の目見て」
目を合わせる。
喉元が熱くなる。
頭が、なんか、ぼうっとする。
不安が、輪郭を失っていく。
消えるというより、遠ざかる。
レイヴの声が近い。
「大丈夫。俺が見てる」
「……っ」
レイヴがそう言うなら、そうなのかも。
その"そうなのかも"が、俺の中で勝ってしまう。
俺は小さく頷いた。
「……お願い。楽になりたい」
声が掠れた。
言ってしまった、と思ったのに、喉が少し楽になった。
言うだけで楽になる。
それが、もう怖い。
レイヴの目がほんの少しだけ柔らかくなった。
でも、すぐに仕事の手つきに戻る。
「分かった。少量。口、開けて」
ケースが開く音。
空気の匂いが一瞬変わる。甘いわけじゃないのに、喉の奥が「来る」って分かる。
レイヴの指が、俺の唇の前で止まった。
一拍。
「止めたくなったら、目で言え。すぐ分かる」
「……うん」
俺は口を開けた。
雫が、舌先に触れる。
冷たい、じゃない。
熱い、でもない。
温度として認識する前に、喉がほどけた。
息が入る。
胸の奥まで、空気が落ちる。
安心が、身体に先に来た。
遅れて、心が「え、なにこれ」って追いかけてくる。
追いつく前に、唾液が溢れて、口の端に落ちそうになる。
俺は慌てて飲み込んだ。
飲み込む音が大きい。
喉が鳴る。
指先が震える。
肩が勝手に落ちる。
目の奥が熱くて、涙じゃないのに潤む。
「……っ、は……」
息が、深い。
深すぎて、さっきまでの苦しさがどこへ行ったのか分からない。
怖かったはずなのに。
迷ったはずなのに。
その全部が、今はひどく遠い。
レイヴがすぐにタグを見て、俺の顔を見て、またタグを見る。
「バイタル、落ち着いてる。……効いてる」
「……効くって……また言っちゃった」
「今は言っていい」
レイヴが笑いかけて、途中で止まった。
笑ったことに気づいたみたいに、口元を引き締める。
その一瞬が、妙に刺さった。
俺は無意識に、レイヴの袖を掴んでいた。
縋るみたいに。
掴んでることに気づいて、離そうとして――離せなかった。
上がった息が頬を蒸気みたいに熱くする。
視界が滲む。
俺は潤んだ目でレイヴを見上げてしまう。
レイヴの喉が、小さく動いた。
「……ミナト」
レイヴは俺の手を外さなかった。
外す代わりに、手の甲を親指で一度だけ撫でる。
「大丈夫。ここまで」
「……うん」
「回数、増やさない。今日は一回で終わり。ログも残す」
淡々と言いながら、レイヴは俺の目をまた見た。
「安心、できる?」
「……できる」
できる、って答えた瞬間、胸がふわっと軽くなる。
怖いことを考える前に、安心が勝つ。
それが、今日のいちばん怖いところだ。
「よし。……寝ろ。呼吸、戻ってる」
「戻ってる……うん」
レイヴは立ち上がりかけて、すぐ止まった。
「……あと。これでダメな日が続くなら、別の手も考える。けど、勝手には増やさない。許可が要る」
「許可……」
「俺が取る。ミナトは、苦しくなる前に言って?」
言い方は優しいのに、手順が増える。
囲いが、ちゃんと締まっていく。
その場に、リュカが顔だけ出した。
入るでもなく、境界線から確認する。
「ログ、残したか」
「残した」
「回数は」
「一回」
短い確認。線引きの音。
ゴルドは廊下側から「大丈夫ぅ?」とだけ声を飛ばして、すぐ引っ込んだ。
心配を見せすぎない距離。なのに、見てる圧。
俺はその全部に守られて、守られてることにほっとしてしまう。
……帰りたい、って気持ちが、どこへ行ったのか分からないまま。
夜更け。
スマホのメモを開いて、指を動かす。
【ミナト】
今日、交流会2回目。
帰れた人がいるって話を聞いた。希望ってこういう感じなんだと思った。
でも、名前が詰まった。
成宮湊って言おうとしたのに、喉で引っかかって、ミナトって言った。
隣の人に突っ込まれて、やっと「成宮湊」って音が出た。遅かった。
あと、最近思い出せないことが増えたって話も聞いた。
胸が、ざわっとした。
夜、息が戻らなくなって、レイヴを呼んだ。
雫(って言ってた)を少しだけ使って、落ち着いた。
怖かったのに、安心が勝った。
勝ったのが、もっと怖い。
でも、楽だった。
楽だったのが、いちばん怖い。
――書き終えて、俺は画面を見つめた。
指先がまだ少し震えている。
でも、呼吸は深い。
深い呼吸は、気持ちいい。
俺はスマホを伏せて、目を閉じた。
喉元を押さえそうになる手を、布団の中に入れた。
――別端末に、通知が一つ上がる。
レイヴはそれを見て、指を止めた。
業務。監督ツール。ログ確認。
いつもの手順。
画面に並ぶ文字列の中で、「楽だったのが、いちばん怖い」という一行が、妙に目に残った。
怖い。
まだ、怖がってる。
それを確認して、レイヴは少しの間、画面を見たまま動かなかった。
――あれは、効きすぎる。
ミナトが潤んだ目で縋ってきた瞬間の重さが、まだ掌に残っている気がする。
守りたい。離したくない。
その衝動が、仕事の言葉の皮を押し上げてくる。
レイヴは、自分がさっき笑いかけたことを思い出した。
処置の途中で。手順の中で。
笑ってる場合じゃないのに、笑いそうになった。
なぜ笑ったのか、考えた。
あの声が、あの目が――必死で怖くて、それでも「楽になりたい」と掠れた声が。
そう思った瞬間、レイヴは画面をロックした。
ロックしてから、また開いた。
「楽だったのが、いちばん怖い」
もう一度、その行を見る。
怖がってる。
怖がってるのに、楽だった。
楽だったから、また呼ぶ。
その流れを、レイヴは頭の中で追った。
次も、苦しくなったら呼ぶ。
呼んだら、また楽になる。
怖さが遠のいて、もっと呼ぶようになる。
――それでいい。
そう思いながら、「それでいい」がどっちの方向を向いているのか、一瞬だけ分からなくなった。
ミナトのためか。
それとも。
レイヴは画面を閉じた。
閉じてから、廊下の暗い方へ視線を向けた。
「……もっと、ちゃんと整えないと」
独り言は、優しい顔をしている。
その優しさがどこへ向かっているのか、レイヴ自身がいちばん、確かめたくなかった。




