Case-M#15
目が覚めた瞬間、息が――深い。
胸の奥まで空気が入ってくる。喉がつかえない。肺がちゃんと広がる。たったそれだけで「今日いける」って思ってしまう自分が、やっぱり怖い。
昨夜の距離が、まだ体に残ってる気がした。唇の熱じゃなくて、もっと手前――呼吸が通る形そのもの。
怖い噂は、薄く遠のいている。
遠のいているのに、喉元の熱だけは残ってる気がして、反射で指を当てかける。
「……やめとこ」
触ったら"確認"してしまう。確認したら、また息が浅くなる。
口の端だけ上げて、ベッドから起き上がった。
廊下は静かだった。静かすぎて、自分の足音がやけに大きい。
リュカの導線は今日もきっちりしてる。
集合の時間、混む場所を避ける角、曲がる順番。言い方は相変わらず強いのに、やってることは"守る手順"だって分かる。
「ミナト。そっちは朝、人が溜まる。こっち」
「了解、隊長」
「隊長じゃない。……水、飲め」
怒ってるみたいで怒ってない。むしろ、気にしてるのが見え見えで、口の端が勝手に上がりそうになる。
言われた通り紙コップを取って水を飲む。喉を通る冷たさで、体が少し落ち着く。
不思議だ。リュカの言うとおりにしてるだけで、呼吸が整ってくる。
――リュカに従ってると、なんだか安心する。
その安心が楽で、だから怖い。楽な方を選んだ瞬間に、迷う理由が削れていく気がするから。
「今日は食堂寄る。空いてる時間だ」
「了解」
「だから、隊長じゃない」
リュカがほんの少しだけ視線を逸らして、歩幅を速める。
かわいいって言ったら殺されそうなので、飲み込んだ。
食堂の空気に入った瞬間、喉が勝手に開く。
昨日みたいに「助けられる」じゃない。今日は、最初から足が向いた。向いてしまった。
カウンターの向こう、でかい影。ゴルドがいた。赤い髪と赤い目。でかい体。圧があるのに、近づきやすい。
「顔。まだ白いわよ」
「元からだよ、たぶん」
「元からでも白い。……温いの、飲む?」
質問の形なのに、もう器が用意されている。
押し付けじゃないのに断りづらい、ちょうどいい距離。
俺は素直に頷いて、器を受け取った。
湯気が鼻先に触れる。手のひらが熱い。それが気持ちいい。
一口飲んだだけで、喉の奥の引っかかりがほどける。
「……やば。効く」
「でしょ」
「効くって言い方、薬みたいだな」
「薬みたいなもんよ。生存のためのね」
ゴルドは軽口のまま、でも目だけは真剣だった。
俺は器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。
喉が潤って、息が戻って、体が落ち着いていく。
それが正しい、みたいに思えてしまうのが、前より早い。
早くなっていることに、今日初めて気づいた。
リュカが少し離れた席で、周囲を見るように視線を走らせている。
人混みを避ける手順。俺の立ち位置。椅子の角度。
ゴルドは何も言わず、俺の器の減り具合だけを見ている。生存確認みたいに。
俺は二口目を飲む。
息が深く入る。肩が抜ける。目の奥がじんとする。
笑って誤魔化す前に、喉が先に落ち着いてしまった。
笑う隙がなかった。
昼前、廊下の角でレイヴに会った。
会った、っていうか――向こうから普通に歩いてきて、目が合って、手を上げられた。
「やほ。ミナト、息してる?」
「してるしてる。……たぶん」
「たぶん多いな。ちょうど良かった、今ついでに確認しとく」
"ついで"って軽く言うのに、動きは手順通りだった。
タグに指をかざす。視線が一瞬だけ真面目になる。
「うん。数値は悪くない。……でも、顔、固い」
「え」
「固い。あと、息。浅くなりかけ」
言われた瞬間、息が詰まりそうになる。そういうところだぞ俺。
笑って誤魔化そうとして、うまく笑えなかった。
「……ねえ、レイヴ」
「ん?」
「人間の友達の顔、浮かぶんだけど……名前が、出てこない時があってさ」
圭介。翔太。健二。
口の中に形はあるのに、音が出ない。言いかけると喉が乾く。
俺は一拍、その感覚の中にいた。
怖い。怖いのに、怖さの輪郭がつかめない。形がないのに、たしかにある。
レイヴは一瞬だけ目を細めて、それからいつもの軽い笑顔に戻した。
「あんまり気にしすぎないで、大丈夫」
その言葉が、背中にすっと入る。
安心が先に来て、疑問が後ろへ流れていく感じ。
レイヴは、ほんとに何でもない調子で続けた。
「ちなみにさ。友達って、誰が思い浮かぶの?」
「……え?」
軽い質問の顔をしてるのに、逃げ道がない。
俺は反射で頭の中を探る。
本当は――人間の友達が出てほしいのに。
先に浮かんだのは、笑って確認するレイヴ。
導線を組むリュカ。
器を差し出すゴルド。
――悪魔の三人。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
おかしい。おかしいのに。
でもそれを言葉にする前に、胸がきゅっと縮んで息が入らなくなる。
「……っ、やば」
指先が冷たくなる。視界が少し狭まる。
笑おうとして、笑えない。
レイヴがすぐに一歩詰めた。軽口のまま、手順の声に変わる。
「ミナト。俺の目、見て」
「……え」
「いいから。見て。ほら」
言われると、逆らえない。
というより――見た方が楽になるって、どこかで体が知ってる。
レイヴの目が、近い。
視線を捕まえられた瞬間、首元がじわっと熱くなった。
息紋の場所が、熱い。
頭が、少しぼうっとする。
さっきまで刺さってた"変だ"の感触が、ふっと丸くなる。
「……ほら。吸って、吐いて。俺に合わせる」
吸う。吐く。
レイヴの呼吸は大げさじゃないのに、俺の喉がそれに合わせてほどけていく。
肩が少し落ちる。指先の冷えが薄くなる。
レイヴは視線を外さないまま、淡々と続けた。
「今、近くにいる人が咄嗟に浮かぶのは当然だよ」
当然。
その言葉が、熱と一緒に体の奥に落ちる。
当然なら、そうなのかも。
そう思った瞬間、もう少し安心してしまう。
安心したぶんだけ、さっきの"おかしい"が遠くなるのが分かる。
分かってるのに、止められない。
「お前、ちゃんと頑張ってる」
胸の奥が緩む。
疑問より先に救われて、救われたぶんだけ、疑う力が削れる。
「……そっか。そう、だよな。今ここにいるんだし」
口に出してから、自分の納得の早さが少し怖かった。
レイヴは軽く笑って、距離をほんの少しだけ戻した。
「うん。焦らない。夜も一応、確認しとくから」
「……え、夜も?」
「昨日も言ったじゃん。手順。ミナト、すぐ笑ってごまかすし」
図星すぎて、笑うしかない。
夜。
ノックの音がして、俺の体が先に落ち着く。
来た。
そう思っただけで、息が深くなる。
ドアを開けると、レイヴが立っていた。相変わらず軽い笑顔。なのに、その顔を見ると喉の奥がほどける。
「お邪魔。寝る前点検〜」
「点検って言い方、ひどい」
「ひどくない。確認。安心のため」
軽口のまま、でも動きは丁寧だ。タグに指をかざして、視線が一瞬だけ真面目になる。
「うん。今夜は落ち着いてる」
「……うん」
昨日の"深さ"が、喉の奥でちらつく。
思い出しそうになって、飲み込む。
――欲しい、って思ったら終わりだ。
レイヴは俺の顔を覗き込む。近い。触れない。
その距離だけで、息が整ってしまうのが悔しい。
「今日は息合わせだけでいけそうだね」
「……いける」
合わせる。吸って、吐く。
昨日みたいな"処置"じゃないのに、ちゃんと整う。
整いながら、昨日の重さを思い出す。あれが欲しいわけじゃない、と思おうとして、思いきれない。
レイヴは息を吐いて、さらっと言った。
「これでダメなら、別の方法も考える」
心臓が一拍遅れる。
「……別の方法?」
「うん。許可がいるから、相談だけしとく。今は気にしないで」
気にしないで。
その言葉がまた蓋になる。
俺は頷いてしまう。安心が先に来るから。
「……わかった」
「よし。じゃ、寝よ」
その"よし"が、誰に向けたものなのか分からなくて、背中が少しだけぞわっとした。
レイヴが帰っていく。
足音が遠くなる。
俺はしばらく、ドアの方を向いたまま立っていた。
スマホのメモを開く。
日記。自分のため。誰も見ない――はず。
署名欄で、指が止まる。
「湊」
打ちかけて、止まる。喉が乾く。
消す。
「ミナト」
打つと、息が通る。
それが"正しい"みたいで、怖いのに、楽だ。
【ミナト】
・人間の友達の名前が、音にならない時がある。顔は分かるのに。
・レイヴに「気にしすぎないで大丈夫」って言われた。
・友達の話をしたら、近くにいる人が先に浮かんで、ちょっと怖かった。
・でも、レイヴの目を見たら首元が熱くなって、頭がぼうっとして、不安が消えた。
・当然って言うなら、そうなのかもって思った。
・夜も確認してくれるらしい。手順が増えるのは怖いけど、息は楽。
保存した瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
軽くなると、疑問が遠くなる。
俺は布団に潜り込みながら、喉元に触れそうになる指を握りしめた。
触らない。見ない。考えない。
息が深いから、大丈夫。
……大丈夫、って言えるうちは。
(監督ログ)
通知が上がる。
レイヴは反射で開いて、読み終えてから少しの間、画面を見たまま動かなかった。
「レイヴの目を見たら、不安が消えた」
業務の記録だ。安定化だ。正常だ。
そう整理すればいいのに、指が離れない。
「ミナト」の文字を、もう一秒だけ見てしまう。
笑いそうになって、止める。
画面を閉じた後も、手のひらに熱が残る気がした。




