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異界の境界施設  作者:
Case-M

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17/17

Case-M#15

目が覚めた瞬間、息が――深い。


 胸の奥まで空気が入ってくる。喉がつかえない。肺がちゃんと広がる。たったそれだけで「今日いける」って思ってしまう自分が、やっぱり怖い。


 昨夜の距離が、まだ体に残ってる気がした。唇の熱じゃなくて、もっと手前――呼吸が通る形そのもの。


 怖い噂は、薄く遠のいている。

 遠のいているのに、喉元の熱だけは残ってる気がして、反射で指を当てかける。


「……やめとこ」


 触ったら"確認"してしまう。確認したら、また息が浅くなる。

 口の端だけ上げて、ベッドから起き上がった。



 廊下は静かだった。静かすぎて、自分の足音がやけに大きい。

 リュカの導線は今日もきっちりしてる。


集合の時間、混む場所を避ける角、曲がる順番。言い方は相変わらず強いのに、やってることは"守る手順"だって分かる。


「ミナト。そっちは朝、人が溜まる。こっち」


「了解、隊長」


「隊長じゃない。……水、飲め」


 怒ってるみたいで怒ってない。むしろ、気にしてるのが見え見えで、口の端が勝手に上がりそうになる。


 言われた通り紙コップを取って水を飲む。喉を通る冷たさで、体が少し落ち着く。


 不思議だ。リュカの言うとおりにしてるだけで、呼吸が整ってくる。


 ――リュカに従ってると、なんだか安心する。

 その安心が楽で、だから怖い。楽な方を選んだ瞬間に、迷う理由が削れていく気がするから。


「今日は食堂寄る。空いてる時間だ」


「了解」


「だから、隊長じゃない」


 リュカがほんの少しだけ視線を逸らして、歩幅を速める。

かわいいって言ったら殺されそうなので、飲み込んだ。




 食堂の空気に入った瞬間、喉が勝手に開く。


 昨日みたいに「助けられる」じゃない。今日は、最初から足が向いた。向いてしまった。


 カウンターの向こう、でかい影。ゴルドがいた。赤い髪と赤い目。でかい体。圧があるのに、近づきやすい。


「顔。まだ白いわよ」


「元からだよ、たぶん」


「元からでも白い。……温いの、飲む?」


 質問の形なのに、もう器が用意されている。

押し付けじゃないのに断りづらい、ちょうどいい距離。


 俺は素直に頷いて、器を受け取った。


 湯気が鼻先に触れる。手のひらが熱い。それが気持ちいい。


 一口飲んだだけで、喉の奥の引っかかりがほどける。


「……やば。効く」


「でしょ」


「効くって言い方、薬みたいだな」


「薬みたいなもんよ。生存のためのね」


 ゴルドは軽口のまま、でも目だけは真剣だった。


 俺は器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。

喉が潤って、息が戻って、体が落ち着いていく。

 それが正しい、みたいに思えてしまうのが、前より早い。

 早くなっていることに、今日初めて気づいた。


 リュカが少し離れた席で、周囲を見るように視線を走らせている。

人混みを避ける手順。俺の立ち位置。椅子の角度。


 ゴルドは何も言わず、俺の器の減り具合だけを見ている。生存確認みたいに。


 俺は二口目を飲む。


 息が深く入る。肩が抜ける。目の奥がじんとする。


 笑って誤魔化す前に、喉が先に落ち着いてしまった。


 笑う隙がなかった。



 昼前、廊下の角でレイヴに会った。


 会った、っていうか――向こうから普通に歩いてきて、目が合って、手を上げられた。


「やほ。ミナト、息してる?」


「してるしてる。……たぶん」


「たぶん多いな。ちょうど良かった、今ついでに確認しとく」


 "ついで"って軽く言うのに、動きは手順通りだった。


 タグに指をかざす。視線が一瞬だけ真面目になる。


「うん。数値は悪くない。……でも、顔、固い」


「え」


「固い。あと、息。浅くなりかけ」


 言われた瞬間、息が詰まりそうになる。そういうところだぞ俺。


 笑って誤魔化そうとして、うまく笑えなかった。


「……ねえ、レイヴ」


「ん?」


「人間の友達の顔、浮かぶんだけど……名前が、出てこない時があってさ」


 圭介。翔太。健二。


 口の中に形はあるのに、音が出ない。言いかけると喉が乾く。


 俺は一拍、その感覚の中にいた。


 怖い。怖いのに、怖さの輪郭がつかめない。形がないのに、たしかにある。


 レイヴは一瞬だけ目を細めて、それからいつもの軽い笑顔に戻した。


「あんまり気にしすぎないで、大丈夫」


 その言葉が、背中にすっと入る。


 安心が先に来て、疑問が後ろへ流れていく感じ。


 レイヴは、ほんとに何でもない調子で続けた。


「ちなみにさ。友達って、誰が思い浮かぶの?」


「……え?」


 軽い質問の顔をしてるのに、逃げ道がない。


 俺は反射で頭の中を探る。

 本当は――人間の友達が出てほしいのに。


 先に浮かんだのは、笑って確認するレイヴ。

 導線を組むリュカ。

 器を差し出すゴルド。

 ――悪魔の三人。


 喉の奥が、ひゅっと鳴った。


 おかしい。おかしいのに。


 でもそれを言葉にする前に、胸がきゅっと縮んで息が入らなくなる。


「……っ、やば」


 指先が冷たくなる。視界が少し狭まる。


 笑おうとして、笑えない。


 レイヴがすぐに一歩詰めた。軽口のまま、手順の声に変わる。


「ミナト。俺の目、見て」


「……え」


「いいから。見て。ほら」


 言われると、逆らえない。

 というより――見た方が楽になるって、どこかで体が知ってる。

 レイヴの目が、近い。

 視線を捕まえられた瞬間、首元がじわっと熱くなった。


 息紋の場所が、熱い。

 頭が、少しぼうっとする。


 さっきまで刺さってた"変だ"の感触が、ふっと丸くなる。


「……ほら。吸って、吐いて。俺に合わせる」


 吸う。吐く。


 レイヴの呼吸は大げさじゃないのに、俺の喉がそれに合わせてほどけていく。

 肩が少し落ちる。指先の冷えが薄くなる。

 レイヴは視線を外さないまま、淡々と続けた。


「今、近くにいる人が咄嗟に浮かぶのは当然だよ」


 当然。


 その言葉が、熱と一緒に体の奥に落ちる。


 当然なら、そうなのかも。


 そう思った瞬間、もう少し安心してしまう。


 安心したぶんだけ、さっきの"おかしい"が遠くなるのが分かる。


 分かってるのに、止められない。


「お前、ちゃんと頑張ってる」


 胸の奥が緩む。

 疑問より先に救われて、救われたぶんだけ、疑う力が削れる。


「……そっか。そう、だよな。今ここにいるんだし」


 口に出してから、自分の納得の早さが少し怖かった。

 レイヴは軽く笑って、距離をほんの少しだけ戻した。


「うん。焦らない。夜も一応、確認しとくから」


「……え、夜も?」


「昨日も言ったじゃん。手順。ミナト、すぐ笑ってごまかすし」


 図星すぎて、笑うしかない。



 夜。


 ノックの音がして、俺の体が先に落ち着く。


 来た。

 そう思っただけで、息が深くなる。

 ドアを開けると、レイヴが立っていた。相変わらず軽い笑顔。なのに、その顔を見ると喉の奥がほどける。


「お邪魔。寝る前点検〜」


「点検って言い方、ひどい」


「ひどくない。確認。安心のため」


 軽口のまま、でも動きは丁寧だ。タグに指をかざして、視線が一瞬だけ真面目になる。


「うん。今夜は落ち着いてる」


「……うん」


 昨日の"深さ"が、喉の奥でちらつく。


 思い出しそうになって、飲み込む。


 ――欲しい、って思ったら終わりだ。


 レイヴは俺の顔を覗き込む。近い。触れない。

 その距離だけで、息が整ってしまうのが悔しい。


「今日は息合わせだけでいけそうだね」


「……いける」


 合わせる。吸って、吐く。


 昨日みたいな"処置"じゃないのに、ちゃんと整う。

 整いながら、昨日の重さを思い出す。あれが欲しいわけじゃない、と思おうとして、思いきれない。

 レイヴは息を吐いて、さらっと言った。


「これでダメなら、別の方法も考える」


 心臓が一拍遅れる。


「……別の方法?」


「うん。許可がいるから、相談だけしとく。今は気にしないで」


 気にしないで。


 その言葉がまた蓋になる。


 俺は頷いてしまう。安心が先に来るから。


「……わかった」


「よし。じゃ、寝よ」


 その"よし"が、誰に向けたものなのか分からなくて、背中が少しだけぞわっとした。


 レイヴが帰っていく。

 足音が遠くなる。

 俺はしばらく、ドアの方を向いたまま立っていた。




 スマホのメモを開く。

 日記。自分のため。誰も見ない――はず。

 署名欄で、指が止まる。


「湊」


 打ちかけて、止まる。喉が乾く。

 消す。


「ミナト」


 打つと、息が通る。

 それが"正しい"みたいで、怖いのに、楽だ。



【ミナト】

・人間の友達の名前が、音にならない時がある。顔は分かるのに。

・レイヴに「気にしすぎないで大丈夫」って言われた。

・友達の話をしたら、近くにいる人が先に浮かんで、ちょっと怖かった。

・でも、レイヴの目を見たら首元が熱くなって、頭がぼうっとして、不安が消えた。

・当然って言うなら、そうなのかもって思った。

・夜も確認してくれるらしい。手順が増えるのは怖いけど、息は楽。



 保存した瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

 軽くなると、疑問が遠くなる。

 俺は布団に潜り込みながら、喉元に触れそうになる指を握りしめた。

 触らない。見ない。考えない。

 息が深いから、大丈夫。


 ……大丈夫、って言えるうちは。




(監督ログ)

 通知が上がる。

 レイヴは反射で開いて、読み終えてから少しの間、画面を見たまま動かなかった。

 「レイヴの目を見たら、不安が消えた」

 業務の記録だ。安定化だ。正常だ。

 そう整理すればいいのに、指が離れない。

 「ミナト」の文字を、もう一秒だけ見てしまう。

 笑いそうになって、止める。

 画面を閉じた後も、手のひらに熱が残る気がした。

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