Case-M #14
朝から、喉が乾いていた。
水を飲めば潤う。息も入る。
なのに喉の奥だけ、ずっと薄い膜が張っているみたいに、すうっと空気が通りきらない。
鏡の前で首元に手を伸ばしかけて、やめた。
触れたら、そこに"ある"って認めるみたいで。
「……はいはい。気のせい、気のせい」
自分で言って、声が少しだけ掠れた。
この施設の空気は、ずっとそうだ。
居場所を作ってくれるくせに、どこか抜けている。
見えてるのに触れない。触れた瞬間だけ、形が変わる。
——今日も、交流会。
昨日レイヴが言った「新しい安定化施策」の、正式なやつ。
"交流会"って言葉だけは軽いのに、胸の奥が少しだけ重い。
他の"保護対象"——人間と会える。
帰れた人の話を聞けるかもしれない。
そう思っただけで、息が少し深くなる。
期待って、こういう形で喉に落ちるんだと思った。
でも、その次の瞬間。
期待の重みが、そのまま怖さになる。
——もし、俺だけ帰れなかったら。
考えがそこに触れた瞬間、喉が熱くなる気がして、俺はまた笑った。
壊れそうな時ほど笑う。
自分で止められないのが、嫌だ。
*
集合場所は、いつもの導線の途中だった。
"外に行けそうで行けない"あの角を曲がって、二つ目の扉の前。
リュカが腕組みで待っている。
「遅い」
「おはよう、リュカ。いや、俺は早い方だって」
「口動かす前に、呼吸を整えろ」
言い方は強いのに、立ち位置がいつも俺の半歩前だ。
俺が迷わない距離。
人混みに刺さらない角度。
……こういうところが、ずるい。
俺が従えば、勝手に安心できる形になってる。
胸の奥のざわざわが、手順でほどけていく。
その安心が、檻の形をしてることに、まだ目を逸らせるくらいには甘い。
「ミナト」
呼ばれて、反射で背筋が伸びる。
ミナト。
最近、ここではそれが当たり前に通って、当たり前に返事ができる。
返事ができるのが、少しだけ怖い。
「バイタル、確認」
リュカが言う前に、レイヴがふっと現れた。
「おっは。寝れた?」
軽い。
いつも通り、軽薄な笑顔。
でも手元は真面目で、タグに指先を添える動きが迷いなく正確だ。
小さく魔力が走って、皮膚の上を薄い冷えが撫でた。
「……問題なし。よし」
レイヴが言って、俺の顔を覗き込む。
「顔色は、まあまあ。緊張してる?」
「……まあまあって何」
「まあまあは、まあまあ」
笑いながら、レイヴは俺の肩を軽く叩く。
叩かれた場所から、息が通る。
気配で落ち着く、ってこういうやつだ。
「交流会の進行、俺。導線はリュカ。距離はゴルド。……いつも通りのチームで行こ」
「距離はゴルドって何だよ」
「距離がでかいんだよ、あの人」
言い方が軽いくせに、そこに"守り"が仕込まれてるのが分かる。
俺は変な笑いが出た。
その瞬間、空気がほんの一瞬だけ甘い。
……気のせい。
そう思って、息を吸った。
ゴルドが遅れて合流する。
相変わらず、でかい。マッチョ。赤髪。
なのに歩き方は静かで、音がしないのが怖い。
「おはよ、ミナト。今日、顔が薄いわね」
「薄いって何。俺、紙じゃないよ」
「紙みたいに破れそうって意味よ」
冗談みたいに言って、ゴルドは俺の背後に立つ。
圧があるのに、怖くない。
怖くないのが怖い。
俺は、四人の距離を確認した。
リュカが前。
レイヴが横。
ゴルドが後ろ。
……挟まれてる。
でも、その形の中だと、息ができる。
胸の奥で、言葉になる前の独白がふっと浮かぶ。
三人が近くにいれば俺、息ができる。
……いや、三人じゃない。レイヴとゴルドとリュカ。三人。
俺はその"近さ"を数えた自分に、少しだけ引いた。
*
会場は、談話室に似てるけど、もっと明るい。
椅子が円になるように並べられていて、真ん中に小さなテーブル。
飲み物。紙コップ。
"安全"の雰囲気が、意図的に作られている。
俺は、入った瞬間に空気の重さで分かった。
——ここ、明るいのに重い。
同じ"保護対象"。
同じタグ。
同じ服の色。
でも、目が笑ってない人が多い。
肩が上がってる。呼吸が浅い。
手がずっと膝の上で握られてる。
誰かが小声で言う。
「担当がさ……」
「……合わない」
「寝れない」
「……帰れるって言ってたのに」
断片。
言葉の端だけで、胸がきゅっと縮む。
え? なんで。
みんな優しいのに。
口に出す前に、喉が乾いた。
俺は紙コップの水を飲む。
飲んでも飲んでも、喉の奥が乾く。
レイヴが前に出て、進行の顔になる。
「おっけー。集まってくれてありがと。今日は"安定化施策"の一環ね。目的はシンプル。息を整えて、情報交換して、帰還の見通しを作る。……怖くないやつ」
怖くないやつ、って言い方が逆に怖いのに、
レイヴの声は不思議と耳に入ってくる。
「自己紹介からいこ。名前、呼ばれたい呼び方、あと現世で好きだったもの。食べ物でも季節でも、なんでも」
円の中で、順番に声が出る。
「……佐伯、です。呼び方は……サエキで」
「……柊。ヒイラギで」
「……山本。ヤマモト」
みんな、言うたびに少しだけ辛そうだ。
名前を言うって、こんなに重いことだったっけ。
順番が近づく。
俺は、いつもみたいに笑おうとした。
それが、喉の奥で引っかかる。
成宮湊。
言おうとした瞬間、
"湊"の音が、口の中で滑るみたいに掴めなくなった。
え。
なんで。
焦りが胸に走って、喉が熱くなる。
「……次、ミナト」
レイヴがさらっと助け舟みたいに言う。
俺はその音に、反射で頷いてしまった。
「……ミナト、です」
——言っちゃった。
息が通る。
言った瞬間だけ、喉が楽になる。
その楽さが、怖い。
「現世で好きだったのは……えーと、冬のコンビニおでん。あと、肉まん。あ、季節は秋。なんか空が高いのが好きで」
笑って言った。
笑いながら、内側で胃が冷えていく。
俺、本名言えなかった。
今、ミナトって言ったら楽だった。
円の向こうで、誰かが小さく笑った。
現世の匂いのする笑い。
その次の人が、俺を見て言う。
年齢は俺と同じか少し上。
声が少し疲れてる。
「……名前って大事だよ」
悪気がない言い方。
雑談みたいなトーン。
「え?」
「俺さ、最初……担当に"呼び方"変えられて、軽く流してたんだよ。別にいいかって。でも、気づいたら自分の名前、思い出すのに時間かかってさ」
その人は笑った。
でも目が笑ってない。
「……だからさ。名前は大切にしろよ」
心臓の奥に、冷たいものが落ちた。
俺は、笑ってしまった。
なんで笑えるんだ。
でも笑わないと、今ここで崩れる。
空気が一瞬だけ、甘い。
視線が増える。
それに気づいたのか、リュカが俺の椅子の位置を、ほんの少しだけ内側に寄せた。
無言で。手順で。
俺が刺さらない角度に。
ゴルドが背後で、肩を少しだけ前に出す。
守る距離。壁になる感じ。
レイヴは進行の声を途切れさせない。
「はいはい、深呼吸。……吸って、吐いて。今の話は大事だけど、怖くなったら戻す。戻すのが今日の目的」
戻す。
言葉が、妙に優しい。
*
次の話題は「帰還の見通し」。
誰かが言う。
「……帰れた人、いるって聞いた」
その瞬間、円の空気が少しだけ変わる。
希望って、こうやって立つのかって思うくらい、一斉に息が深くなる。
「ほんと?」
「部門審査、通ったって……」
「委員会に上がったって……」
断片が繋がって、俺の胸の奥に小さな火が灯る。
帰れるかもしれない。制度はある。手順はある。俺は頑張ってる。
そう思った瞬間、また別の断片が刺さる。
「……帰りたくない人も、いるらしい」
誰かがぽつりと言った。
その言葉が、場の端に落ちて、誰も拾わない。
誰も拾わないのを、俺はしばらく見ていた。
拾えなかった、というのが正しい。
「帰りたくないって、どういう……」
俺が言いかけたら、レイヴが軽く遮った。
「まあ、いろいろ。現世に戻りたくない事情とか、ね。……今日のところは噂話の域だから、深掘りしない」
深掘りしない。
その言葉が、優しいはずなのに、蓋みたいに感じた。
さらに、息紋の噂。
「喉の……模様、出たら戻れないって」
「……え」
「担当が言ってた。出たら、っていうか……濃くなると、って」
噂。断定じゃない。
でも"濃くなる"って言葉が、喉元を熱くする。
俺は笑ってしまう。
「……えー、怖。なにそれ」
冗談みたいに言った。
言いながら、喉の奥が乾いていく。
リュカが短く言う。
「余計なこと言うな」
「ごめん」
ゴルドが小さく息を吐いた。
「噂は噂。……でも、怖がるのは正しいわよ」
正しい。
その言葉が、じわっと胸に刺さる。
レイヴが進行をまとめる。
「よし、今日はここまで。帰還の情報は"希望"になるけど、希望は息を浅くすることもある。だから手順で戻す。各自、戻す。戻せない時は……担当呼ぶ。以上」
淡々としてるのに、そこに"逃げ道"が用意されている。
俺は立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
その瞬間、甘い気配がまた一瞬だけ立った。
視線が増える。
怖いのに、笑ってしまう。
リュカがすぐに俺の前へ出た。
「移動。帰る」
「うん」
ゴルドが背後に入る。
レイヴが横に寄る。
……三人が近い。
息が、少しだけ入る。
三人が近くにいれば俺、息ができる。
また、その独白が浮かんだ。
浮かんでしまう自分が、また怖い。
*
夜。
部屋に戻った瞬間、足が急に重くなった。
昼間は動けたのに、ひとりになった途端、呼吸が浅くなる。
交流会の言葉が、頭の中で反復される。
名前は大切にしろよ。
息紋が濃くなると戻れない。
帰りたくない人もいる。
俺はベッドに座って、スマホを握った。
日記を書くべきだ。書けば少し落ち着く。
そう分かってるのに、画面が眩しくて、文字が入ってこない。
——成宮湊。
頭の中で呼んだ瞬間、喉が詰まる。
息が吸えなくなる。
「……っ」
胸が、ぎゅっと縮む。
吸おうとすると、空気が入る前に喉が閉まるみたいに痙攣して、息が空回りする。
やばい。
これ、やばいやつだ。
指先が冷える。
視界が少し狭くなる。
笑おうとする。笑えない。
——落ち着け。落ち着け。
息合わせ。
いつものやつ。吸って、吐いて、合わせる。
ひとりでやってみる。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
……戻らない。
喉が乾いて、舌が上顎に貼り付く。
息が浅い。胸が痛い。
涙が出そうなのに、涙じゃなくて、ただ熱い。
俺は立ち上がって、ドアへ行って、止まった。
呼ぶ?
呼ぶの?
昼間、噂を聞いたばかりなのに。
俺の息紋が濃くなるとか、戻れないとか、そんな話の直後に——レイヴを呼ぶ?
一瞬、拒否した。
いや、ダメだ。俺は帰りたい。帰りたいんだ。
でも。
息が吸えない。
怖い。
怖くて、考えられない。
俺はタグに手を伸ばしてしまった。
握る手が震える。
「……レイヴ……」
声が掠れて、自分の声なのに遠い。
返事はすぐだった。
廊下の気配が近づく。扉が開く。
「ミナト?」
レイヴの声。
それだけで、ほんの少し息が入る。
気配で落ち着く。
……やめろ。そんなの、やめろ。
レイヴはすぐに状況を見た。
軽薄な顔が一瞬消える。仕事の顔。
「呼吸、乱れてる。座ろ」
「……大丈夫、俺、」
「大丈夫じゃないから呼んだんでしょ」
優しいのに、決める。
俺は反論できなくて、ベッドに座らされる。
レイヴがしゃがんで、目線を合わせる。
「息合わせ、やる。合わせよ。今日はそれだけでいいから」
命令じゃない。提案の形。
俺は頷く。頷ける。
レイヴが呼吸のリズムを示す。
「吸って。……はい、吐いて。ゆっくり」
俺は合わせる。合わせようとする。
吸って。吐いて。
……吸えない。
途中で喉が引っかかって、空気が途切れる。
息が抜けるだけで、入ってこない。
「……っ、むり……」
声が震える。
レイヴの眉が寄った。
すぐに判断する。
「……オッケ。次の手」
処置の声。
俺は一瞬、拒否した。
「……や、」
でも、やめてって言う前に、胸が苦しくて言葉が溶けた。
「……っ、……レイヴ……」
自分で呼んでしまって、恥ずかしくて、怖くて、でも止まらない。
レイヴが目を細める。
優しく、でも逃がさない温度。
「うん。ここ。見て」
指先が俺の顎に触れる。
軽い接触なのに、そこから熱が走る。
「口で渡してもいい? 嫌なら止めるから。……どうする?」
選べる形。
なのに、選べるほど余裕がない。
俺は、頷いた。
小さく、でも自分で。
「……やる……」
レイヴの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「よし」
その一言が、やけに安心に聞こえてしまった。
*
距離が詰まる。
レイヴの顔が近い。
息が、頬にかかる。
それだけで喉が反射で開こうとするのが分かって、俺は自分が怖い。
唇が触れた。
——一回目。
柔らかい接触。
そこから空気が"入る"。
口から、息が入ってくる。
喉の奥がほどける。肩が少し落ちる。
俺は思わず、息を吸ってしまった。
吸う音が、自分の耳に生々しく響く。
「……そう。上手」
レイヴの声が、近い。
唇が離れる。
俺は一瞬、空気を探して、見つけたみたいに息を吐く。
落ち着けと思う。
でも、落ち着かない。
なのに、楽だ。
レイヴがもう一度、距離を詰める。
——二回目。
今度は、俺のほうが先に寄ってしまった。
楽になるのを、知ってしまったから。
唇が重なる。
息が渡される。
俺はそれを受け取る。
吸って、止まって、吐く。
その"止まる"一拍が、心地いい。
心地いい、って思った瞬間、胸の奥がひやっとする。
唇が離れて、俺は小さく喘ぐみたいに息を吐いた。
「……っ、は……」
頬が熱い。
視界が滲む。
涙じゃないのに潤む。
レイヴの瞳が、俺を見ている。
「まだいける?」
俺は頷く。
——三回目。
今度は深い。
ただ触れるんじゃなくて、息の通り道が"繋がる"。
レイヴの吐息が、俺の口の中に落ちてくる。
俺は反射でそれを吸う。
吸う音。喉が鳴る。胸が、ほどける。
頬が熱い。耳が熱い。
身体が、安心の形に慣れていくのが分かる。
唇が離れた瞬間、口から息が漏れる。
それが白く見えそうなくらい、熱い。
——四回目。
レイヴが一瞬、止めるみたいに指で俺の顎を支える。
逃げない角度。崩れない角度。
「ここから、ちゃんと戻す。……いける?」
「……うん……」
声が掠れて、情けない。
でも、言った瞬間。
レイヴがもう一度、深く重ねた。
息が入る。
喉の奥がほどける。
胸の苦しさが、きれいに薄くなる。
その代わり、別の場所が熱くなる。
胸の奥。腹の底。
落ち着いた、って言えるのに、まだ終わってほしくないと思う場所。
唇が離れる。
その時——
ぴ、と細い糸が引いた。
俺の唇と、レイヴの唇の間。
透明な糸が、夜の灯りに一瞬だけ光って、切れる。
見てしまって、恥ずかしくて、逃げたくて、でも逃げられない。
「……っ、ごめ……」
「謝んなくていいよ」
レイヴがすぐに言う。
軽く言うのに、声が少し低い。
そして。
——五回目。
今度は俺が、先に寄った。
処置のはずなのに。
落ち着くためのはずなのに。
俺のほうが、息を求めてしまう。
唇が重なる。
深く、繋がる。
レイヴの吐息を受け取って、俺は吸う。
吸って、止めて、吐く。
その反復が、体に染みていく。
落ち着く。
ちゃんと落ち着く。
でも、落ち着いた先に、甘い余韻が残る。
喉が震える。胸が熱い。
安心の形が、快い。
唇が離れた。
空気が戻ってくる。
なのに息は、まだ上がったまま戻らない。
*
俺は、目を瞬いた。
頬が熱い。
吐いた息が自分の頬を撫でて、肌がふわっと蒸れる。
潤んだ目のまま、レイヴを見上げてしまう。
言葉が出ない。
なのに手が動いた。
俺はレイヴの袖を掴んだ。
縋るみたいに。指が震える。
掴んだ布越しの熱だけで、胸の奥が少し静かになる。
その静かさが、怖い。
レイヴの表情が、一瞬止まった。
軽薄な笑みが消える。
次の瞬間、戻そうとして戻しきれない顔で、喉が動く。
瞳が俺をなぞる。
それが、ひどくゆっくりだった。
そうして。
レイヴが、くすっと笑った。
笑って、笑ったことに自分で気づいたみたいに、口元が一拍だけ止まった。
「……落ち着いた?」
さっきより低い声。
俺は頷く。頷きながら、喉元がじり、と熱を持った。
一点じゃない。喉仏の少し下から、鎖骨に向かって、細い線が走る。
俺は反射で、そこを押さえた。
「……あつ……」
指先に輪郭が触れる気がする。
昨日までより、はっきりしてる。
レイヴの手が俺の手首を包んで止めた。
強くはない。けど、確か。
「……これ、見たの?」
訊くというより、確認の声。
俺は頷いた。
頷いた途端、また息が変になる。
落ち着いたのに、離れたくない。
その欲が、喉に集まって、熱になる。
レイヴは少しの間、俺の手首を持ったまま黙っていた。
それから、ゆっくり手を放した。
「……しばらく、ちゃんと見とくから」
大きな言葉じゃない。
でも、その言い方が俺の胸にすとんと落ちた。
俺は袖を掴む手に、少しだけ力を込めた。
「……レイヴ」
「ん?」
「……ありがとう」
言った瞬間、喉がほどけた。
息が通った。
通ってしまった。
*
レイヴが帰った後、部屋は静かだった。
静かすぎて、昼間の言葉がまた戻ってきそうで、俺はスマホを開いた。
メモ。日記。
指が勝手に動く。
署名欄に「湊」と打ちかけて、止まる。
消して、「ミナト」と打つ。
打つと、息が通る。
それが"正しい"気がしてしまうのが怖い。
『今日、交流会に行った。
同じ保護対象の人たちがいた。みんな、目が疲れてた。担当とうまくいってない人も多くて、なんでだろうって思った。みんな優しいのに、って。
自己紹介で「成宮湊」って言おうとしたら、口の中で音がつかめなくなった。代わりに「ミナト」って言ったら、喉が楽になった。怖かった。
「名前は大切にしろよ」って言われた。笑って流したのに、ずっと残ってる。
帰れた人がいるって聞いた。帰れるかもしれない、って思ったら息が深くなった。でも「帰りたくない人もいる」って話もあって、それが何なのかまだ分からない。
息紋が濃くなると戻れないって噂も聞いた。噂だって分かってる。でも喉元が熱くなった。
夜、発作みたいになって、レイヴを呼んだ。呼ばない方がいいと思ったのに、呼んでしまった。息合わせだけじゃ戻らなくて、処置してもらった。
落ち着いた。ちゃんと落ち着いた。でも終わってほしくなかった。
喉元が熱い。触ったら、輪郭がある気がした。昨日より、はっきりしてる気がした。
怖い。怖いのに、レイヴがいると息ができる。それが一番怖い。
ミナト』
書き終えたら、少しだけ胸が静かになった。
静かになるのが怖い。
喉元が、まだ熱い。
鏡を見る勇気はなくて、首元を押さえた指先だけが、輪郭を感じている気がした。
俺は深く息を吸って、吐いた。
落ち着いた。
……落ち着いた。
その言葉を繰り返しながら、目を閉じた。




