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異界の境界施設  作者:
Case-M

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16/17

Case-M #14



 朝から、喉が乾いていた。


 水を飲めば潤う。息も入る。

 なのに喉の奥だけ、ずっと薄い膜が張っているみたいに、すうっと空気が通りきらない。


 鏡の前で首元に手を伸ばしかけて、やめた。

 触れたら、そこに"ある"って認めるみたいで。


「……はいはい。気のせい、気のせい」


 自分で言って、声が少しだけ掠れた。


 この施設の空気は、ずっとそうだ。

 居場所を作ってくれるくせに、どこか抜けている。

 見えてるのに触れない。触れた瞬間だけ、形が変わる。


 ——今日も、交流会。


 昨日レイヴが言った「新しい安定化施策」の、正式なやつ。

 "交流会"って言葉だけは軽いのに、胸の奥が少しだけ重い。


 他の"保護対象"——人間と会える。

 帰れた人の話を聞けるかもしれない。


 そう思っただけで、息が少し深くなる。

 期待って、こういう形で喉に落ちるんだと思った。


 でも、その次の瞬間。

 期待の重みが、そのまま怖さになる。


 ——もし、俺だけ帰れなかったら。


 考えがそこに触れた瞬間、喉が熱くなる気がして、俺はまた笑った。

 壊れそうな時ほど笑う。

 自分で止められないのが、嫌だ。





 集合場所は、いつもの導線の途中だった。

 "外に行けそうで行けない"あの角を曲がって、二つ目の扉の前。


 リュカが腕組みで待っている。


「遅い」


「おはよう、リュカ。いや、俺は早い方だって」


「口動かす前に、呼吸を整えろ」


 言い方は強いのに、立ち位置がいつも俺の半歩前だ。

 俺が迷わない距離。

 人混みに刺さらない角度。


 ……こういうところが、ずるい。


 俺が従えば、勝手に安心できる形になってる。

 胸の奥のざわざわが、手順でほどけていく。


 その安心が、檻の形をしてることに、まだ目を逸らせるくらいには甘い。


「ミナト」


 呼ばれて、反射で背筋が伸びる。


 ミナト。

 最近、ここではそれが当たり前に通って、当たり前に返事ができる。


 返事ができるのが、少しだけ怖い。


「バイタル、確認」


 リュカが言う前に、レイヴがふっと現れた。


「おっは。寝れた?」


 軽い。

 いつも通り、軽薄な笑顔。


 でも手元は真面目で、タグに指先を添える動きが迷いなく正確だ。

 小さく魔力が走って、皮膚の上を薄い冷えが撫でた。


「……問題なし。よし」


 レイヴが言って、俺の顔を覗き込む。


「顔色は、まあまあ。緊張してる?」


「……まあまあって何」


「まあまあは、まあまあ」


 笑いながら、レイヴは俺の肩を軽く叩く。

 叩かれた場所から、息が通る。

 気配で落ち着く、ってこういうやつだ。


「交流会の進行、俺。導線はリュカ。距離はゴルド。……いつも通りのチームで行こ」


「距離はゴルドって何だよ」


「距離がでかいんだよ、あの人」


 言い方が軽いくせに、そこに"守り"が仕込まれてるのが分かる。

 俺は変な笑いが出た。


 その瞬間、空気がほんの一瞬だけ甘い。


 ……気のせい。

 そう思って、息を吸った。


 ゴルドが遅れて合流する。

 相変わらず、でかい。マッチョ。赤髪。

 なのに歩き方は静かで、音がしないのが怖い。


「おはよ、ミナト。今日、顔が薄いわね」


「薄いって何。俺、紙じゃないよ」


「紙みたいに破れそうって意味よ」


 冗談みたいに言って、ゴルドは俺の背後に立つ。

 圧があるのに、怖くない。

 怖くないのが怖い。


 俺は、四人の距離を確認した。


 リュカが前。

 レイヴが横。

 ゴルドが後ろ。


 ……挟まれてる。


 でも、その形の中だと、息ができる。


 胸の奥で、言葉になる前の独白がふっと浮かぶ。


 三人が近くにいれば俺、息ができる。


 ……いや、三人じゃない。レイヴとゴルドとリュカ。三人。

 俺はその"近さ"を数えた自分に、少しだけ引いた。





 会場は、談話室に似てるけど、もっと明るい。

 椅子が円になるように並べられていて、真ん中に小さなテーブル。

 飲み物。紙コップ。

 "安全"の雰囲気が、意図的に作られている。


 俺は、入った瞬間に空気の重さで分かった。


 ——ここ、明るいのに重い。


 同じ"保護対象"。

 同じタグ。

 同じ服の色。


 でも、目が笑ってない人が多い。

 肩が上がってる。呼吸が浅い。

 手がずっと膝の上で握られてる。


 誰かが小声で言う。


「担当がさ……」


「……合わない」


「寝れない」


「……帰れるって言ってたのに」


 断片。

 言葉の端だけで、胸がきゅっと縮む。


 え? なんで。

 みんな優しいのに。


 口に出す前に、喉が乾いた。

 俺は紙コップの水を飲む。

 飲んでも飲んでも、喉の奥が乾く。


 レイヴが前に出て、進行の顔になる。


「おっけー。集まってくれてありがと。今日は"安定化施策"の一環ね。目的はシンプル。息を整えて、情報交換して、帰還の見通しを作る。……怖くないやつ」


 怖くないやつ、って言い方が逆に怖いのに、

 レイヴの声は不思議と耳に入ってくる。


「自己紹介からいこ。名前、呼ばれたい呼び方、あと現世で好きだったもの。食べ物でも季節でも、なんでも」


 円の中で、順番に声が出る。


「……佐伯、です。呼び方は……サエキで」


「……柊。ヒイラギで」


「……山本。ヤマモト」


 みんな、言うたびに少しだけ辛そうだ。

 名前を言うって、こんなに重いことだったっけ。


 順番が近づく。

 俺は、いつもみたいに笑おうとした。


 それが、喉の奥で引っかかる。


 成宮湊。


 言おうとした瞬間、

 "湊"の音が、口の中で滑るみたいに掴めなくなった。


 え。

 なんで。


 焦りが胸に走って、喉が熱くなる。


「……次、ミナト」


 レイヴがさらっと助け舟みたいに言う。

 俺はその音に、反射で頷いてしまった。


「……ミナト、です」


 ——言っちゃった。


 息が通る。

 言った瞬間だけ、喉が楽になる。


 その楽さが、怖い。


「現世で好きだったのは……えーと、冬のコンビニおでん。あと、肉まん。あ、季節は秋。なんか空が高いのが好きで」


 笑って言った。

 笑いながら、内側で胃が冷えていく。


 俺、本名言えなかった。

 今、ミナトって言ったら楽だった。


 円の向こうで、誰かが小さく笑った。

 現世の匂いのする笑い。


 その次の人が、俺を見て言う。

 年齢は俺と同じか少し上。

 声が少し疲れてる。


「……名前って大事だよ」


 悪気がない言い方。

 雑談みたいなトーン。


「え?」


「俺さ、最初……担当に"呼び方"変えられて、軽く流してたんだよ。別にいいかって。でも、気づいたら自分の名前、思い出すのに時間かかってさ」


 その人は笑った。

 でも目が笑ってない。


「……だからさ。名前は大切にしろよ」


 心臓の奥に、冷たいものが落ちた。


 俺は、笑ってしまった。

 なんで笑えるんだ。

 でも笑わないと、今ここで崩れる。


 空気が一瞬だけ、甘い。


 視線が増える。


 それに気づいたのか、リュカが俺の椅子の位置を、ほんの少しだけ内側に寄せた。

 無言で。手順で。

 俺が刺さらない角度に。


 ゴルドが背後で、肩を少しだけ前に出す。

 守る距離。壁になる感じ。


 レイヴは進行の声を途切れさせない。


「はいはい、深呼吸。……吸って、吐いて。今の話は大事だけど、怖くなったら戻す。戻すのが今日の目的」


 戻す。

 言葉が、妙に優しい。





 次の話題は「帰還の見通し」。


 誰かが言う。


「……帰れた人、いるって聞いた」


 その瞬間、円の空気が少しだけ変わる。

 希望って、こうやって立つのかって思うくらい、一斉に息が深くなる。


「ほんと?」


「部門審査、通ったって……」


「委員会に上がったって……」


 断片が繋がって、俺の胸の奥に小さな火が灯る。

 帰れるかもしれない。制度はある。手順はある。俺は頑張ってる。


 そう思った瞬間、また別の断片が刺さる。


「……帰りたくない人も、いるらしい」


 誰かがぽつりと言った。

 その言葉が、場の端に落ちて、誰も拾わない。


 誰も拾わないのを、俺はしばらく見ていた。

 拾えなかった、というのが正しい。


「帰りたくないって、どういう……」


 俺が言いかけたら、レイヴが軽く遮った。


「まあ、いろいろ。現世に戻りたくない事情とか、ね。……今日のところは噂話の域だから、深掘りしない」


 深掘りしない。

 その言葉が、優しいはずなのに、蓋みたいに感じた。


 さらに、息紋の噂。


「喉の……模様、出たら戻れないって」


「……え」


「担当が言ってた。出たら、っていうか……濃くなると、って」


 噂。断定じゃない。

 でも"濃くなる"って言葉が、喉元を熱くする。


 俺は笑ってしまう。


「……えー、怖。なにそれ」


 冗談みたいに言った。

 言いながら、喉の奥が乾いていく。


 リュカが短く言う。


「余計なこと言うな」


「ごめん」


 ゴルドが小さく息を吐いた。


「噂は噂。……でも、怖がるのは正しいわよ」


 正しい。

 その言葉が、じわっと胸に刺さる。


 レイヴが進行をまとめる。


「よし、今日はここまで。帰還の情報は"希望"になるけど、希望は息を浅くすることもある。だから手順で戻す。各自、戻す。戻せない時は……担当呼ぶ。以上」


 淡々としてるのに、そこに"逃げ道"が用意されている。


 俺は立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。


 その瞬間、甘い気配がまた一瞬だけ立った。

 視線が増える。


 怖いのに、笑ってしまう。


 リュカがすぐに俺の前へ出た。


「移動。帰る」


「うん」


 ゴルドが背後に入る。

 レイヴが横に寄る。


 ……三人が近い。


 息が、少しだけ入る。


 三人が近くにいれば俺、息ができる。


 また、その独白が浮かんだ。

 浮かんでしまう自分が、また怖い。





 夜。


 部屋に戻った瞬間、足が急に重くなった。

 昼間は動けたのに、ひとりになった途端、呼吸が浅くなる。


 交流会の言葉が、頭の中で反復される。


 名前は大切にしろよ。

 息紋が濃くなると戻れない。

 帰りたくない人もいる。


 俺はベッドに座って、スマホを握った。

 日記を書くべきだ。書けば少し落ち着く。

 そう分かってるのに、画面が眩しくて、文字が入ってこない。


 ——成宮湊。


 頭の中で呼んだ瞬間、喉が詰まる。


 息が吸えなくなる。


「……っ」


 胸が、ぎゅっと縮む。

 吸おうとすると、空気が入る前に喉が閉まるみたいに痙攣して、息が空回りする。


 やばい。

 これ、やばいやつだ。


 指先が冷える。

 視界が少し狭くなる。

 笑おうとする。笑えない。


 ——落ち着け。落ち着け。


 息合わせ。

 いつものやつ。吸って、吐いて、合わせる。


 ひとりでやってみる。


 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。


 ……戻らない。


 喉が乾いて、舌が上顎に貼り付く。

 息が浅い。胸が痛い。

 涙が出そうなのに、涙じゃなくて、ただ熱い。


 俺は立ち上がって、ドアへ行って、止まった。


 呼ぶ?

 呼ぶの?


 昼間、噂を聞いたばかりなのに。

 俺の息紋が濃くなるとか、戻れないとか、そんな話の直後に——レイヴを呼ぶ?


 一瞬、拒否した。

 いや、ダメだ。俺は帰りたい。帰りたいんだ。


 でも。


 息が吸えない。


 怖い。

 怖くて、考えられない。


 俺はタグに手を伸ばしてしまった。


 握る手が震える。


「……レイヴ……」


 声が掠れて、自分の声なのに遠い。


 返事はすぐだった。

 廊下の気配が近づく。扉が開く。


「ミナト?」


 レイヴの声。


 それだけで、ほんの少し息が入る。

 気配で落ち着く。

 ……やめろ。そんなの、やめろ。


 レイヴはすぐに状況を見た。

 軽薄な顔が一瞬消える。仕事の顔。


「呼吸、乱れてる。座ろ」


「……大丈夫、俺、」


「大丈夫じゃないから呼んだんでしょ」


 優しいのに、決める。

 俺は反論できなくて、ベッドに座らされる。


 レイヴがしゃがんで、目線を合わせる。


「息合わせ、やる。合わせよ。今日はそれだけでいいから」


 命令じゃない。提案の形。

 俺は頷く。頷ける。


 レイヴが呼吸のリズムを示す。


「吸って。……はい、吐いて。ゆっくり」


 俺は合わせる。合わせようとする。


 吸って。吐いて。


 ……吸えない。


 途中で喉が引っかかって、空気が途切れる。

 息が抜けるだけで、入ってこない。


「……っ、むり……」


 声が震える。


 レイヴの眉が寄った。

 すぐに判断する。


「……オッケ。次の手」


 処置の声。


 俺は一瞬、拒否した。


「……や、」


 でも、やめてって言う前に、胸が苦しくて言葉が溶けた。


「……っ、……レイヴ……」


 自分で呼んでしまって、恥ずかしくて、怖くて、でも止まらない。


 レイヴが目を細める。

 優しく、でも逃がさない温度。


「うん。ここ。見て」


 指先が俺の顎に触れる。

 軽い接触なのに、そこから熱が走る。


「口で渡してもいい? 嫌なら止めるから。……どうする?」


 選べる形。

 なのに、選べるほど余裕がない。


 俺は、頷いた。

 小さく、でも自分で。


「……やる……」


 レイヴの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「よし」


 その一言が、やけに安心に聞こえてしまった。





 距離が詰まる。


 レイヴの顔が近い。

 息が、頬にかかる。

 それだけで喉が反射で開こうとするのが分かって、俺は自分が怖い。


 唇が触れた。


 ——一回目。


 柔らかい接触。

 そこから空気が"入る"。


 口から、息が入ってくる。

 喉の奥がほどける。肩が少し落ちる。


 俺は思わず、息を吸ってしまった。

 吸う音が、自分の耳に生々しく響く。


「……そう。上手」


 レイヴの声が、近い。


 唇が離れる。

 俺は一瞬、空気を探して、見つけたみたいに息を吐く。


 落ち着けと思う。

 でも、落ち着かない。

 なのに、楽だ。


 レイヴがもう一度、距離を詰める。


 ——二回目。


 今度は、俺のほうが先に寄ってしまった。

 楽になるのを、知ってしまったから。


 唇が重なる。

 息が渡される。

 俺はそれを受け取る。


 吸って、止まって、吐く。


 その"止まる"一拍が、心地いい。

 心地いい、って思った瞬間、胸の奥がひやっとする。


 唇が離れて、俺は小さく喘ぐみたいに息を吐いた。


「……っ、は……」


 頬が熱い。

 視界が滲む。

 涙じゃないのに潤む。


 レイヴの瞳が、俺を見ている。


「まだいける?」


 俺は頷く。


 ——三回目。


 今度は深い。

 ただ触れるんじゃなくて、息の通り道が"繋がる"。


 レイヴの吐息が、俺の口の中に落ちてくる。

 俺は反射でそれを吸う。


 吸う音。喉が鳴る。胸が、ほどける。


 頬が熱い。耳が熱い。

 身体が、安心の形に慣れていくのが分かる。


 唇が離れた瞬間、口から息が漏れる。

 それが白く見えそうなくらい、熱い。


 ——四回目。


 レイヴが一瞬、止めるみたいに指で俺の顎を支える。

 逃げない角度。崩れない角度。


「ここから、ちゃんと戻す。……いける?」


「……うん……」


 声が掠れて、情けない。


 でも、言った瞬間。

 レイヴがもう一度、深く重ねた。


 息が入る。

 喉の奥がほどける。

 胸の苦しさが、きれいに薄くなる。


 その代わり、別の場所が熱くなる。

 胸の奥。腹の底。

 落ち着いた、って言えるのに、まだ終わってほしくないと思う場所。


 唇が離れる。


 その時——

 ぴ、と細い糸が引いた。


 俺の唇と、レイヴの唇の間。

 透明な糸が、夜の灯りに一瞬だけ光って、切れる。


 見てしまって、恥ずかしくて、逃げたくて、でも逃げられない。


「……っ、ごめ……」


「謝んなくていいよ」


 レイヴがすぐに言う。

 軽く言うのに、声が少し低い。


 そして。


 ——五回目。


 今度は俺が、先に寄った。


 処置のはずなのに。

 落ち着くためのはずなのに。

 俺のほうが、息を求めてしまう。


 唇が重なる。

 深く、繋がる。


 レイヴの吐息を受け取って、俺は吸う。

 吸って、止めて、吐く。

 その反復が、体に染みていく。


 落ち着く。

 ちゃんと落ち着く。


 でも、落ち着いた先に、甘い余韻が残る。

 喉が震える。胸が熱い。

 安心の形が、快い。


 唇が離れた。


 空気が戻ってくる。

 なのに息は、まだ上がったまま戻らない。





 俺は、目を瞬いた。


 頬が熱い。

 吐いた息が自分の頬を撫でて、肌がふわっと蒸れる。

 潤んだ目のまま、レイヴを見上げてしまう。


 言葉が出ない。

 なのに手が動いた。


 俺はレイヴの袖を掴んだ。

 縋るみたいに。指が震える。


 掴んだ布越しの熱だけで、胸の奥が少し静かになる。

 その静かさが、怖い。


 レイヴの表情が、一瞬止まった。


 軽薄な笑みが消える。

 次の瞬間、戻そうとして戻しきれない顔で、喉が動く。


 瞳が俺をなぞる。

 それが、ひどくゆっくりだった。


 そうして。


 レイヴが、くすっと笑った。


 笑って、笑ったことに自分で気づいたみたいに、口元が一拍だけ止まった。


「……落ち着いた?」


 さっきより低い声。


 俺は頷く。頷きながら、喉元がじり、と熱を持った。

 一点じゃない。喉仏の少し下から、鎖骨に向かって、細い線が走る。


 俺は反射で、そこを押さえた。


「……あつ……」


 指先に輪郭が触れる気がする。

 昨日までより、はっきりしてる。


 レイヴの手が俺の手首を包んで止めた。

 強くはない。けど、確か。


「……これ、見たの?」


 訊くというより、確認の声。


 俺は頷いた。

 頷いた途端、また息が変になる。


 落ち着いたのに、離れたくない。

 その欲が、喉に集まって、熱になる。


 レイヴは少しの間、俺の手首を持ったまま黙っていた。


 それから、ゆっくり手を放した。


「……しばらく、ちゃんと見とくから」


 大きな言葉じゃない。

 でも、その言い方が俺の胸にすとんと落ちた。


 俺は袖を掴む手に、少しだけ力を込めた。


「……レイヴ」


「ん?」


「……ありがとう」


 言った瞬間、喉がほどけた。

 息が通った。

 通ってしまった。





 レイヴが帰った後、部屋は静かだった。

 静かすぎて、昼間の言葉がまた戻ってきそうで、俺はスマホを開いた。


 メモ。日記。

 指が勝手に動く。


 署名欄に「湊」と打ちかけて、止まる。

 消して、「ミナト」と打つ。


 打つと、息が通る。

 それが"正しい"気がしてしまうのが怖い。


『今日、交流会に行った。


 同じ保護対象の人たちがいた。みんな、目が疲れてた。担当とうまくいってない人も多くて、なんでだろうって思った。みんな優しいのに、って。


 自己紹介で「成宮湊」って言おうとしたら、口の中で音がつかめなくなった。代わりに「ミナト」って言ったら、喉が楽になった。怖かった。


 「名前は大切にしろよ」って言われた。笑って流したのに、ずっと残ってる。


 帰れた人がいるって聞いた。帰れるかもしれない、って思ったら息が深くなった。でも「帰りたくない人もいる」って話もあって、それが何なのかまだ分からない。


 息紋が濃くなると戻れないって噂も聞いた。噂だって分かってる。でも喉元が熱くなった。


 夜、発作みたいになって、レイヴを呼んだ。呼ばない方がいいと思ったのに、呼んでしまった。息合わせだけじゃ戻らなくて、処置してもらった。


 落ち着いた。ちゃんと落ち着いた。でも終わってほしくなかった。


 喉元が熱い。触ったら、輪郭がある気がした。昨日より、はっきりしてる気がした。


 怖い。怖いのに、レイヴがいると息ができる。それが一番怖い。


 ミナト』


 書き終えたら、少しだけ胸が静かになった。

 静かになるのが怖い。


 喉元が、まだ熱い。

 鏡を見る勇気はなくて、首元を押さえた指先だけが、輪郭を感じている気がした。


 俺は深く息を吸って、吐いた。


 落ち着いた。

 ……落ち着いた。


 その言葉を繰り返しながら、目を閉じた。



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