Case-M #11
朝の灯りは、いつもよりやわらかいはずなのに、喉の奥がざらついている。
起き上がった瞬間から「今日は無理かも」と分かる日がある。胃が、というより、喉が拒んでいる感じだ。水は通る。ぬるいお茶も通る。けど、固形を想像しただけで喉がきゅっと狭くなる。
……大丈夫、大丈夫。
口に出さなくても、勝手にその言葉が湧く。
笑っておけば、たぶん、今日も回る。
鏡の前に立つ。寝癖を直そうとして、指が一瞬だけ首筋へ行きかけて止まった。
喉元から鎖骨の間――利き側。そこに、黒い"爪の形"が薄く浮く日がある。角度を変えると、青紫みたいな偏りが一瞬走る。
今朝は、薄い。
薄いのに、触れたら熱だけ残っている。
その熱のせいで、また変なことを思い出しそうになる。
思い出すな。考えるな。息が浅くなる前に、やめろ。
透明でもないのに、どこか抜けている感じ。
この施設の空気は、ずっとそうだ。居場所は作ってくれる。逃げ道だけは、いつも曖昧なまま。
服を整えて、タグを指で確かめる。表示は、いつも通り。
――ミナト。
それだけで、少し落ち着くのが、また腹立たしい。
俺は自分に向かって小さく笑って、部屋を出た。
*
廊下は静かだ。静かだけど、音が消えてるわけじゃない。
遠くの扉が閉まる気配、誰かの足音、どこかで湯が沸く匂い。全部あるのに、手を伸ばすとすり抜けるみたいな距離感がある。
角を曲がったところで、リュカに見つかった。
「……おい」
呼ばれた瞬間、肩がびくっと跳ねる。反射だ。怒鳴られたわけでもないのに。
「おはよ。リュカ」
「朝から元気だな」
「元気そうに見える? やった、今日も勝ちだ」
冗談めかして言ってみたら、リュカの目が細くなった。笑ってるのか、呆れてるのか、判断がつかない。
「食ってないだろ」
「え」
「顔が……いや、息が浅い。お前、分かりやすいんだよ」
息。そう言われて初めて、自分がうっすら胸を張って呼吸してることに気づく。深く吸うと、喉の奥がひっかかる感じがする。深く吸いたいのに、ちゃんと入ってこない。
「……まあ、ちょっとだけね。朝ってたまに、ね」
「"ちょっと"で済ませるな」
言い方は相変わらずきつい。でも、責めてる感じがしない。
昨日のこと――外周へ向かいかけた件のあと、リュカは「次からは手順で動け」と言った。叱りながら、ちゃんと「呼べ」も付けてくれた。あの"呼べ"が、まだ喉のあたりに引っかかっている。
「食堂。空いてる時間に行く」
「今?」
「今。人が増える前に。ついて来い」
「はいはい。導線担当」
「……その言い方やめろ」
言いながら、歩幅を合わせてくる。合わせてるつもりはない顔をしてるのに、きっちり合わせてくる。
それだけで、胸のあたりが少し緩む。助かる。助かるけど――助かることが、怖い。
*
食堂は、朝の端っこの時間帯だった。
広い。天井が高い。湯気の匂いが、ちゃんと生活の匂いで、それが逆に落ち着かない。
リュカが視線だけで「ここ」と示す。壁際の、出入口から少し離れた席。人の流れが少ない場所。
俺は素直に座って、手元の水を飲んだ。水は通る。でも喉が「ここで止まる」って言うみたいに、冷たさだけが残っていく。
「……無理なら無理って言え」
リュカが隣に立ったまま言う。座らないあたりが彼らしい。落ち着かない。
「無理って言ったら、迷惑じゃん」
「迷惑じゃない。……仕事だ」
少しだけ声が小さくなる。
仕事、という逃げ道で優しさを包むところも、リュカらしい。
「じゃあ、仕事に甘える」
「調子に乗るな」
言いながら、リュカは視線を動かしている。食堂の空気、周囲の気配、俺の喉――全部まとめて監視してるみたいに。保護対象とか、友人枠とか、そういう言葉が頭をかすめる。
友人枠。口にすると軽いのに、ここでは制度みたいに重い。
その時。
「ミナトぉ?」
甘ったるい声が背後から落ちてきて、俺は反射で振り返った。
でかい。
でかいし、近い。
筋肉の塊みたいな腕に、赤い髪。笑うと目尻がきゅっと上がるのに、目の奥の赤が冗談じゃなく深い。
ゴルドだ。
「おはよ。……やっと捕まえたわぁ。最近、顔見せないじゃない」
「おはよ、ゴルド。え、そんな会ってないっけ」
「会ってる。会ってるけどぉ、あんた今日、息が足りてない顔してる」
言いながら、俺の前に当然みたいに何かを置いた。
湯気が立つ。香りが、胃じゃなくて喉に先に来る。薬草みたいな、でも苦くない。温かい匂い。
スープだ。
両手で持つと、器が掌に優しい熱を渡してくる。じわっとした温かさが喉の奥の縮まりに触れて、痛いくらい安心する。
リュカが「……」って顔をした。止めようとして止められない時の顔。
「これ、保護対象が飲むと落ち着くスープなのよ」
ゴルドが、まるで「ほら、ティッシュ」みたいな軽さで言う。
「温い間に、飲みな」
押し付けてるわけじゃない。
でも、断りにくい距離と空気は、ちゃんと作ってある。
「……ありがとう」
俺は言ってしまう。言った瞬間、タグの文字が胸のあたりでちいさく重くなる気がした。
ミナト。ここではミナト。受け取れる人の顔を、受け取れるタイミングで、受け取れるものを受け取る。
それが"良い子"の癖だって、気づいてるのに。
*
一口目。
唇に触れる湯気が、先に息をほどく。
熱い。熱すぎない。ちょうどいい温度って、こんなに暴力的なんだなと思う。
喉がひっかかる。入らない。……と思った瞬間、すとん、と通った。
通っただけで、胸の奥がきゅっとなって、目の奥が一瞬だけ潤む。
「う、わ……」
声が漏れて、慌てて笑ってごまかす。
「やば。泣くとこだった」
「泣いていいのよ」
ゴルドが、あっけらかんと笑う。笑ってるのに、視線は俺の喉を見ている。息を見ている。
悪魔の常識って、たぶんそういうところだ。
二口目。
息が、深く入る。
今まで浅くしか入らなかった空気が、肺の奥まで届く。届いた瞬間、肩が勝手に落ちる。力が抜ける。抜けるのが怖いのに、抜けるのが気持ちいい。
喉が、温い。
「……落ち着く」
俺がぽつりと言うと、ゴルドは満足そうに頷いた。
「でしょ。そういうやつ」
"そういうやつ"。説明しない。手順で済ませる。
リュカが小さく鼻を鳴らした。
「……飲めたなら、それでいい」
優しい言い方じゃないのに、優しい。
俺はまた、笑ってしまう。
*
飲み終わる頃には、手先の冷えも引いていた。
体の中に温いものが入ると、こんなに世界が戻るんだと思う。
――戻る、って。
その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
急に、昔読んだ本の一節が浮かぶ。
子供の頃、どこかの伝記みたいなやつで読んだ。異界の話。黄泉の話。名前は忘れたけど、内容だけが引っかかって残ってる。
――異界の竈のものを口にすると、戻れなくなる。
よくある話。よくある"教訓"。
でも今、喉が温くて、息が深くて、肩の力が抜けている。
この"落ち着く"が、もしも帰還を削るものだったとしたら。
背中が寒くなる。
寒くなるのを、俺はすぐに打ち消す。
いや、今さらだろ。いつもご飯、食べてるし。
"竈"とか言われても、食堂で出てるスープだし。伝説だし。
落ち着くって言われたから落ち着いただけかもしれない。気のせい。プラシーボ。そういうやつ。
考えすぎると、また息が浅くなる。
息が浅いと、頭が回らない。頭が回らないと、余計に怖い。怖いと、また息が――
だめだ。
「……うん。今は、落ち着く方が大事」
声に出したら、その言葉が妙に"正しい"感じがした。
正しい感じがする、のが、もっと怖い。
*
「ミナト」
ゴルドが、器を回収しながら呼ぶ。
「食べられない時は、これでいいの」
「……え」
「固形、無理な顔してたもの。無理に食べると戻すでしょ? だったら、こっち」
言い方が優しい。優しすぎて、逃げ道がない。
「次も飲みな」
命令じゃない。提案の形。でも、拒む理由が見当たらないように作ってある。
俺は、笑ってしまう。
笑いながら、頷いてしまう。
「……うん。ありがとう。助かる」
助かる。
そう言いながら、その言葉が何かを縛る気がして、俺は少しだけ目を逸らした。
リュカが俺の横から「……」と視線を外す。顔は冷たいまま。でも、立ち位置が少しだけ前に出ている。誰かが近づいた時に、先に当たれる位置。
その瞬間、食堂の空気がわずかにざわついた。
視線。
匂い。
肌の上を撫でるみたいな、遠い甘さ。
蜜。
俺は、分かる。分かるけど、知らないふりをする。
怖いのに、笑ってしまいそうになる。
リュカが低く言った。
「……席、移る」
「え、でも――」
「いいから」
理由は言わない。手順だけを増やす。
俺は従う。従うと、ざわつきが遠のく。遠のくと、胸が緩む。
緩むのが、また怖い。
ゴルドが背後に立つ。でかい影が、俺の後ろを覆うみたいに落ちる。
守ってくれてるんだ、と分かる。
分かりながら、それに慣れていく自分も、ちゃんと見えている。
俺はまた、笑った。
「なんか、俺……要介護みたいだな」
「失礼ね。あんたは"扱いが難しいだけ"」
ゴルドが笑って、俺の肩を軽く叩いた。軽く、のはずなのに、力が強くて、ちょっと息が詰まる。
でも、その詰まりすら、温いスープの後だとすぐにほどけてしまう。
――落ち着く方が、大事。
俺はその言葉を胸の中で繰り返して、考えるのをやめた。
*
夜。
部屋に戻って、スマホを開く。
外に繋がらない端末の光は、優しい。
優しいのに、残酷だ。写真も動画も見られるのに、声が届かない。今いる場所を誰にも送れない。
メモを開く。
日記――って言うと大げさだけど、これを書かないと落ち着かなくなってる。
署名欄に指を置く。
迷わず打てる。
ミナト。
それだけで息が少し通る。
喉が、今日の"正しい形"に戻る。
俺は、短く打つ。
『ミナト
朝、固形が無理だった。水は飲めた。
リュカが食堂に連れてってくれた。空いてる時間。導線担当、ほんと助かる。
ゴルドがスープくれた。「落ち着くスープ」って。
飲んだら息が戻った。温いと、こんなに違う。
変な話を思い出した。異界のものを食べると戻れない、みたいな。
でも考えるのやめた。考えるとまた息が浅くなる。
落ち着く方が大事。今日はそれでいい。眠れそう。』
送信――じゃない。保存。
保存しただけなのに、どこかに届いた気がしてしまう。
俺はスマホを伏せて、布団に潜った。
胸の奥が、温いまま。
首筋に指を当てると、熱が残っている。
薄い息紋が、まだそこにいる気配。
目を閉じて、深く息を吸った。
今日は、ちゃんと入る。
――それが、いちばん怖い。
*
(レイヴ)
通知は鳴らない。
それでも、時間を見る代わりに指が勝手に動く。
端末を開く癖。画面の隅の小さな点を探す癖。
――「癖」って言葉にした瞬間、胸の奥が僅かにざわつく。
業務だ。
安定化施策のログ確認。危険兆候の拾い上げ。必要な範囲だけ。
そう思って、画面を開いた。
"ミナト"のログ。署名が、ミナト。
その文字は見慣れてしまったはずなのに、今日は妙に喉が乾く。理由が分からない。それが一番まずい。
内容に目を走らせる。
食べられない。スープ。落ち着いた。眠れそう。
――改善傾向。安定。
数字に直せば、そういう評価になる。手順としては、正しい。
なのに、一行が引っかかった。
"ゴルドがスープをくれた。"
担当外の介入。規程上は問題ない。保護対象の摂食支援は優先事項だ。
分かってる。分かってるのに、舌の上に砂が混じったみたいな感触がある。
画面を閉じるべきだ。確認は済んだ。
――済んだのに、指が止まらない。
『変な話を思い出した。異界のものを食べると戻れない、みたいな。
でも考えるのやめた。考えるとまた息が浅くなる。
落ち着く方が大事。』
その行を、二度読んだ。
"考えるのをやめた"。
そこに、安心と、同じだけの寒さが並んでいる。
怖いのに笑う。怖いから笑う。
あの甘い気配――蜜の条件に、ぴったり嵌まるやつ。
……危ない。
危ない、と判断する根拠は、ちゃんとある。保護対象の精神は揺れる。揺れた時に、周囲は寄る。だから、導線は整理する。人混みは避ける。それだけの話だ。
それだけの話のはずなのに。
ゴルドの"スープ"が頭から離れない。
温い器を両手で持って、喉を通して、肩が落ちて――その顔を、想像してしまっていた。
気づいた瞬間、笑いが漏れた。
「……っ」
自分が笑ったことに気づいて、眉を寄せる。
可愛い、と思った。
必死なくせに、軽口で散らす。怖いのに、まだ"いい子"をやろうとする。
その不器用さが、しばらく胸の中に残った。
……可愛い。
その感情の重さに気づいた時には、もう遅かった。
業務じゃない、という言葉が浮かぶ前に、それはもう名前を持っていた。
画面の下に短いメモを打つ。自分に向けた、手順のふり。
――明日、呼吸の確認。昼に短く。人の少ない導線で。
そう打って、ようやく画面を閉じる。
閉じたのに、瞼の裏に署名が残る。
ミナト。
その文字だけが、息の通り道の"正しい場所"を示すみたいに、まだ光っていた。




