表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界の境界施設  作者:
Case-M

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/17

Case-M #11



 朝の灯りは、いつもよりやわらかいはずなのに、喉の奥がざらついている。

起き上がった瞬間から「今日は無理かも」と分かる日がある。胃が、というより、喉が拒んでいる感じだ。水は通る。ぬるいお茶も通る。けど、固形を想像しただけで喉がきゅっと狭くなる。


 ……大丈夫、大丈夫。


 口に出さなくても、勝手にその言葉が湧く。

笑っておけば、たぶん、今日も回る。


 鏡の前に立つ。寝癖を直そうとして、指が一瞬だけ首筋へ行きかけて止まった。

喉元から鎖骨の間――利き側。そこに、黒い"爪の形"が薄く浮く日がある。角度を変えると、青紫みたいな偏りが一瞬走る。


 今朝は、薄い。

薄いのに、触れたら熱だけ残っている。


 その熱のせいで、また変なことを思い出しそうになる。

思い出すな。考えるな。息が浅くなる前に、やめろ。


 透明でもないのに、どこか抜けている感じ。

この施設の空気は、ずっとそうだ。居場所は作ってくれる。逃げ道だけは、いつも曖昧なまま。


 服を整えて、タグを指で確かめる。表示は、いつも通り。


 ――ミナト。


 それだけで、少し落ち着くのが、また腹立たしい。

俺は自分に向かって小さく笑って、部屋を出た。





 廊下は静かだ。静かだけど、音が消えてるわけじゃない。

遠くの扉が閉まる気配、誰かの足音、どこかで湯が沸く匂い。全部あるのに、手を伸ばすとすり抜けるみたいな距離感がある。


 角を曲がったところで、リュカに見つかった。


「……おい」


 呼ばれた瞬間、肩がびくっと跳ねる。反射だ。怒鳴られたわけでもないのに。


「おはよ。リュカ」


「朝から元気だな」


「元気そうに見える? やった、今日も勝ちだ」


 冗談めかして言ってみたら、リュカの目が細くなった。笑ってるのか、呆れてるのか、判断がつかない。


「食ってないだろ」


「え」


「顔が……いや、息が浅い。お前、分かりやすいんだよ」


 息。そう言われて初めて、自分がうっすら胸を張って呼吸してることに気づく。深く吸うと、喉の奥がひっかかる感じがする。深く吸いたいのに、ちゃんと入ってこない。


「……まあ、ちょっとだけね。朝ってたまに、ね」


「"ちょっと"で済ませるな」


 言い方は相変わらずきつい。でも、責めてる感じがしない。

昨日のこと――外周へ向かいかけた件のあと、リュカは「次からは手順で動け」と言った。叱りながら、ちゃんと「呼べ」も付けてくれた。あの"呼べ"が、まだ喉のあたりに引っかかっている。


「食堂。空いてる時間に行く」


「今?」


「今。人が増える前に。ついて来い」


「はいはい。導線担当」


「……その言い方やめろ」


 言いながら、歩幅を合わせてくる。合わせてるつもりはない顔をしてるのに、きっちり合わせてくる。

それだけで、胸のあたりが少し緩む。助かる。助かるけど――助かることが、怖い。





 食堂は、朝の端っこの時間帯だった。

広い。天井が高い。湯気の匂いが、ちゃんと生活の匂いで、それが逆に落ち着かない。


 リュカが視線だけで「ここ」と示す。壁際の、出入口から少し離れた席。人の流れが少ない場所。

俺は素直に座って、手元の水を飲んだ。水は通る。でも喉が「ここで止まる」って言うみたいに、冷たさだけが残っていく。


「……無理なら無理って言え」


 リュカが隣に立ったまま言う。座らないあたりが彼らしい。落ち着かない。


「無理って言ったら、迷惑じゃん」


「迷惑じゃない。……仕事だ」


 少しだけ声が小さくなる。

仕事、という逃げ道で優しさを包むところも、リュカらしい。


「じゃあ、仕事に甘える」


「調子に乗るな」


 言いながら、リュカは視線を動かしている。食堂の空気、周囲の気配、俺の喉――全部まとめて監視してるみたいに。保護対象とか、友人枠とか、そういう言葉が頭をかすめる。

友人枠。口にすると軽いのに、ここでは制度みたいに重い。


 その時。


「ミナトぉ?」


 甘ったるい声が背後から落ちてきて、俺は反射で振り返った。


 でかい。

でかいし、近い。


 筋肉の塊みたいな腕に、赤い髪。笑うと目尻がきゅっと上がるのに、目の奥の赤が冗談じゃなく深い。

ゴルドだ。


「おはよ。……やっと捕まえたわぁ。最近、顔見せないじゃない」


「おはよ、ゴルド。え、そんな会ってないっけ」


「会ってる。会ってるけどぉ、あんた今日、息が足りてない顔してる」


 言いながら、俺の前に当然みたいに何かを置いた。

湯気が立つ。香りが、胃じゃなくて喉に先に来る。薬草みたいな、でも苦くない。温かい匂い。


 スープだ。


 両手で持つと、器が掌に優しい熱を渡してくる。じわっとした温かさが喉の奥の縮まりに触れて、痛いくらい安心する。


 リュカが「……」って顔をした。止めようとして止められない時の顔。


「これ、保護対象が飲むと落ち着くスープなのよ」


 ゴルドが、まるで「ほら、ティッシュ」みたいな軽さで言う。


「温い間に、飲みな」


 押し付けてるわけじゃない。

でも、断りにくい距離と空気は、ちゃんと作ってある。


「……ありがとう」


 俺は言ってしまう。言った瞬間、タグの文字が胸のあたりでちいさく重くなる気がした。

ミナト。ここではミナト。受け取れる人の顔を、受け取れるタイミングで、受け取れるものを受け取る。


 それが"良い子"の癖だって、気づいてるのに。





 一口目。


 唇に触れる湯気が、先に息をほどく。

熱い。熱すぎない。ちょうどいい温度って、こんなに暴力的なんだなと思う。


 喉がひっかかる。入らない。……と思った瞬間、すとん、と通った。

通っただけで、胸の奥がきゅっとなって、目の奥が一瞬だけ潤む。


「う、わ……」


 声が漏れて、慌てて笑ってごまかす。


「やば。泣くとこだった」


「泣いていいのよ」


 ゴルドが、あっけらかんと笑う。笑ってるのに、視線は俺の喉を見ている。息を見ている。

悪魔の常識って、たぶんそういうところだ。


 二口目。


 息が、深く入る。

今まで浅くしか入らなかった空気が、肺の奥まで届く。届いた瞬間、肩が勝手に落ちる。力が抜ける。抜けるのが怖いのに、抜けるのが気持ちいい。


 喉が、温い。


「……落ち着く」


 俺がぽつりと言うと、ゴルドは満足そうに頷いた。


「でしょ。そういうやつ」


 "そういうやつ"。説明しない。手順で済ませる。


 リュカが小さく鼻を鳴らした。


「……飲めたなら、それでいい」


 優しい言い方じゃないのに、優しい。

俺はまた、笑ってしまう。





 飲み終わる頃には、手先の冷えも引いていた。

体の中に温いものが入ると、こんなに世界が戻るんだと思う。


 ――戻る、って。


 その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。


 急に、昔読んだ本の一節が浮かぶ。

子供の頃、どこかの伝記みたいなやつで読んだ。異界の話。黄泉の話。名前は忘れたけど、内容だけが引っかかって残ってる。


 ――異界の竈のものを口にすると、戻れなくなる。


 よくある話。よくある"教訓"。


 でも今、喉が温くて、息が深くて、肩の力が抜けている。

この"落ち着く"が、もしも帰還を削るものだったとしたら。


 背中が寒くなる。

寒くなるのを、俺はすぐに打ち消す。


 いや、今さらだろ。いつもご飯、食べてるし。

"竈"とか言われても、食堂で出てるスープだし。伝説だし。


 落ち着くって言われたから落ち着いただけかもしれない。気のせい。プラシーボ。そういうやつ。


 考えすぎると、また息が浅くなる。

息が浅いと、頭が回らない。頭が回らないと、余計に怖い。怖いと、また息が――


 だめだ。


「……うん。今は、落ち着く方が大事」


 声に出したら、その言葉が妙に"正しい"感じがした。

正しい感じがする、のが、もっと怖い。





「ミナト」


 ゴルドが、器を回収しながら呼ぶ。


「食べられない時は、これでいいの」


「……え」


「固形、無理な顔してたもの。無理に食べると戻すでしょ? だったら、こっち」


 言い方が優しい。優しすぎて、逃げ道がない。


「次も飲みな」


 命令じゃない。提案の形。でも、拒む理由が見当たらないように作ってある。


 俺は、笑ってしまう。

笑いながら、頷いてしまう。


「……うん。ありがとう。助かる」


 助かる。

そう言いながら、その言葉が何かを縛る気がして、俺は少しだけ目を逸らした。


 リュカが俺の横から「……」と視線を外す。顔は冷たいまま。でも、立ち位置が少しだけ前に出ている。誰かが近づいた時に、先に当たれる位置。


 その瞬間、食堂の空気がわずかにざわついた。


 視線。

匂い。

肌の上を撫でるみたいな、遠い甘さ。


 蜜。


 俺は、分かる。分かるけど、知らないふりをする。

怖いのに、笑ってしまいそうになる。


 リュカが低く言った。


「……席、移る」


「え、でも――」


「いいから」


 理由は言わない。手順だけを増やす。

俺は従う。従うと、ざわつきが遠のく。遠のくと、胸が緩む。


 緩むのが、また怖い。


 ゴルドが背後に立つ。でかい影が、俺の後ろを覆うみたいに落ちる。

守ってくれてるんだ、と分かる。

分かりながら、それに慣れていく自分も、ちゃんと見えている。


 俺はまた、笑った。


「なんか、俺……要介護みたいだな」


「失礼ね。あんたは"扱いが難しいだけ"」


 ゴルドが笑って、俺の肩を軽く叩いた。軽く、のはずなのに、力が強くて、ちょっと息が詰まる。

でも、その詰まりすら、温いスープの後だとすぐにほどけてしまう。


 ――落ち着く方が、大事。


 俺はその言葉を胸の中で繰り返して、考えるのをやめた。





 夜。

部屋に戻って、スマホを開く。


 外に繋がらない端末の光は、優しい。

優しいのに、残酷だ。写真も動画も見られるのに、声が届かない。今いる場所を誰にも送れない。


 メモを開く。

日記――って言うと大げさだけど、これを書かないと落ち着かなくなってる。


 署名欄に指を置く。

迷わず打てる。


 ミナト。


 それだけで息が少し通る。

喉が、今日の"正しい形"に戻る。


 俺は、短く打つ。


『ミナト

 朝、固形が無理だった。水は飲めた。

 リュカが食堂に連れてってくれた。空いてる時間。導線担当、ほんと助かる。

 ゴルドがスープくれた。「落ち着くスープ」って。

 飲んだら息が戻った。温いと、こんなに違う。

 変な話を思い出した。異界のものを食べると戻れない、みたいな。

 でも考えるのやめた。考えるとまた息が浅くなる。

 落ち着く方が大事。今日はそれでいい。眠れそう。』


 送信――じゃない。保存。

保存しただけなのに、どこかに届いた気がしてしまう。


 俺はスマホを伏せて、布団に潜った。

胸の奥が、温いまま。


 首筋に指を当てると、熱が残っている。

薄い息紋が、まだそこにいる気配。


 目を閉じて、深く息を吸った。

今日は、ちゃんと入る。


 ――それが、いちばん怖い。





(レイヴ)


 通知は鳴らない。

それでも、時間を見る代わりに指が勝手に動く。


 端末を開く癖。画面の隅の小さな点を探す癖。

――「癖」って言葉にした瞬間、胸の奥が僅かにざわつく。


 業務だ。

安定化施策のログ確認。危険兆候の拾い上げ。必要な範囲だけ。


 そう思って、画面を開いた。


 "ミナト"のログ。署名が、ミナト。


 その文字は見慣れてしまったはずなのに、今日は妙に喉が乾く。理由が分からない。それが一番まずい。


 内容に目を走らせる。


 食べられない。スープ。落ち着いた。眠れそう。


 ――改善傾向。安定。


 数字に直せば、そういう評価になる。手順としては、正しい。


 なのに、一行が引っかかった。


 "ゴルドがスープをくれた。"


 担当外の介入。規程上は問題ない。保護対象の摂食支援は優先事項だ。

分かってる。分かってるのに、舌の上に砂が混じったみたいな感触がある。


 画面を閉じるべきだ。確認は済んだ。

――済んだのに、指が止まらない。


『変な話を思い出した。異界のものを食べると戻れない、みたいな。

 でも考えるのやめた。考えるとまた息が浅くなる。

 落ち着く方が大事。』


 その行を、二度読んだ。


 "考えるのをやめた"。


 そこに、安心と、同じだけの寒さが並んでいる。


 怖いのに笑う。怖いから笑う。

あの甘い気配――蜜の条件に、ぴったり嵌まるやつ。


 ……危ない。


 危ない、と判断する根拠は、ちゃんとある。保護対象の精神は揺れる。揺れた時に、周囲は寄る。だから、導線は整理する。人混みは避ける。それだけの話だ。


 それだけの話のはずなのに。


 ゴルドの"スープ"が頭から離れない。

温い器を両手で持って、喉を通して、肩が落ちて――その顔を、想像してしまっていた。


 気づいた瞬間、笑いが漏れた。


「……っ」


 自分が笑ったことに気づいて、眉を寄せる。


 可愛い、と思った。


 必死なくせに、軽口で散らす。怖いのに、まだ"いい子"をやろうとする。

その不器用さが、しばらく胸の中に残った。


 ……可愛い。


 その感情の重さに気づいた時には、もう遅かった。

業務じゃない、という言葉が浮かぶ前に、それはもう名前を持っていた。


 画面の下に短いメモを打つ。自分に向けた、手順のふり。


 ――明日、呼吸の確認。昼に短く。人の少ない導線で。


 そう打って、ようやく画面を閉じる。

閉じたのに、瞼の裏に署名が残る。


 ミナト。


 その文字だけが、息の通り道の"正しい場所"を示すみたいに、まだ光っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ