Case-M #12
目が覚めた瞬間、最初に分かったのは――昨日より息が楽、ということだった。
胸の奥がまだ重いのに、空気がちゃんと入ってくる。入ったぶんだけ怖さも一緒に入ってきて、だから俺は、いつもみたいに笑って散らしたくなる。
……大丈夫。たぶん。
喉が乾いてる。妙に、からからだ。水を飲んでも、乾きが残る感じ。
枕元のスマホに手を伸ばして、つい画面を見てしまう。通知は相変わらず、何もない。繋がらない。見られるのに、届かない。
それも、今日はまだ深く考えない。
喉元に指が行きかけて、止めた。
鏡を覗くと、首筋――喉元から鎖骨の間の、利き側に、黒い影みたいなものが薄く浮いている。指で辿ると、爪痕みたいに曲がった線。大きさは、五百円玉くらい。
角度を変えた瞬間だけ、青紫の光が走って見えて、すぐ消える。
触れたら、熱が思い出しそうで。
だから俺は、肩をすくめた。
「……朝から気にしすぎ。俺、こういうとこある」
言い訳みたいに呟いて、ベッドから降りる。
部屋は相変わらず、過剰に整っている。温度も光も、俺が考える前に正解が置かれてるみたいで、落ち着くのに、落ち着けない。
ドアを開けたら、廊下にリュカがいた。ちょうど通りかかった、みたいな顔。……でも、俺が起きる時間を、なんとなく知ってそうな距離。
「おはよ、成――……ミナト」
途中で噛みそうになって、飲み込んだのが分かって、俺は口元を緩めた。
「おはよ。今、危なかった?」
「うるさい。……顔色」
「え」
「昨日よりマシ。けど、喉の乾きが出てる顔」
人の喉の乾き、顔で分かるもんなんだ。こわ。
でも責める口調じゃない。淡々としてるだけで、これがリュカなりの"気にしてる"なんだって、最近は分かる。
「食堂、今なら空いてる。行く」
「……りょーかい」
断る理由を探す前に、リュカが歩き出す。俺も自然に追いつく。歩幅が合う。昨日はそれを「変だな」と思ったのに、今日は「楽だな」と先に思ってしまって、ちょっとだけ嫌だった。
外へ行く導線は、視界の端にある。そこへ視線をやりかけて、やめる。
昨日の"出口の手触り"が、まだ指先に残ってるから。
目の前のドアが、ただのドアじゃなくなる瞬間。取手の持ち方が、急に分からなくなる瞬間。怖いのに笑って誤魔化した瞬間。
……あれをもう一回やったら、今度は笑えない気がする。
「……なんか考えた?」
「んー? いや、何も。お腹すいたなって」
嘘。
リュカは俺の顔を一瞬だけ見て、何も言わなかった。言わないのが、いちばん優しい時がある。
食堂は、朝の区切りの匂いがした。湯気と、乾いた台帳みたいな紙の匂いが混ざってる。ここに来ると、喉が勝手に「飲む」方向を思い出す。
その"思い出し方"が、少し怖い。
でも――そこに、ゴルドがいた。
背が高い。肩幅が、意味わかんない。筋肉が「そこにある」って感じで、なのに立ち姿が妙にしなやかで……そのギャップだけで、こっちの緊張が一段ゆるむ。何だそれ。
「あらぁ。ミナトちゃん、おはよぉ」
声が、やわらかい。甘い。けど、目は鋭い。見抜くみたいな鋭さじゃなくて、生存を確認するみたいな鋭さ。
「おはよ、ゴルド」
「ん。……喉、まだ乾いてる顔ねぇ」
「え、わかる?」
「わかるの。生存確認♡」
言いながら、ゴルドはもうカウンターへ向かってる。
説明する気配、ゼロ。
戻ってきた手には、昨日と同じ器。湯気がふわっと立って、匂いが先に喉の奥を撫でた。俺の身体が、勝手に「受け取る」準備をしてしまう。
ゴルドは、それを俺の前に置いた。
「はい。いつもの」
俺はスプーンを取って、一口。
舌より先に、喉が反応した。
「……やば。効く」
「でしょ」
「効くって言い方、薬みたいだな」
「薬みたいなもんよ。生存のためのね」
ゴルドは軽口のまま、でも目だけは真剣だった。
俺は器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。喉が潤って、息が戻って、身体が"ここでいい"って言い始める。
その瞬間、頭の端にあの話が浮かぶ。
異界の竈。黄泉の食。戻れない。
でも、笑って散らすより先に、口が動いた。
「……俺、昨日、変な話思い出してさ」
「変な話?」
「昔読んだ伝記っていうか。異界のもの食べると戻れなくなる、みたいな。よもつへぐい? ってやつ」
言い終わった瞬間、胃の底が冷える。
ゴルドの表情は変わらない。ただ、瞬きが一度だけ遅れた。リュカが肩越しに俺を見て、すぐ視線を逸らす。
その沈黙が、一拍だけ続いた。
俺は耐えられなくなって、言い訳を重ねる。
「いや、今さらだよね。だって俺、こっち来てから普通にご飯食べてるし」
「……」
「伝説だし。落ち着くって言われたから落ち着いただけっていうか」
「ミナト」
「ごめんごめん。考えすぎるとまた息浅くなるからさ。落ち着く方が大事。……うん」
最後は自分に言い聞かせるみたいな声になった。
ゴルドは、器を持つ俺の指先をちらっと見た。それから一段だけ距離を詰める。でかい身体が近い。圧があるのに、怖くない。
「……私ね」
少し低くなった声で、ゴルドが言う。
「保護対象って距離、好きじゃないのよね」
「え」
「昨日から見てたわよ。君、壊れそうなのに笑うじゃなぁい」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてない。生きるのが下手って意味」
さらっと言われて、胸の奥がきゅっと縮む。図星、ってやつだ。
喉がまた乾く。
笑うと、喉の奥が甘くなる気がする。いや、甘いのは俺じゃない。空気が、甘い。ほんの一瞬だけ。
周りの視線が増えた。食堂の隅のほうで、誰かの会話が止まる。音の間が、こっちへ傾く。
"寄る"。
襲われるわけじゃない。触られるわけでもない。
ただ、距離が詰まる。視線が集まる。匂いが近づく。
俺の呼吸が一拍浅くなるのを、リュカが先に拾ったみたいに立ち上がった。
「移動」
「え、もう?」
「もう」
短い。優しい言葉はない。でも、手順として正しい。俺はその短さに救われる。
ゴルドは何も言わず、自然に俺の背後へ入った。大きい影が、壁みたいに立つ。視線がそれ以上近づけなくなる。
守られてる。
その事実が、嬉しくて、甘くて――だからこそ、少し怖い。
食堂を出て、廊下へ戻ると、空気が少し冷える。ようやく息が戻った。
「……ごめん」
「謝るな。仕組みの問題」
「仕組みって、怖いよな」
「怖いから、手順がある」
リュカの言葉はいつも、突き放してるみたいで、でも実は近い。
俺は頷いた。頷けてしまうのが、少しだけ怖かった。
部屋へ戻る途中、ゴルドが後ろから、さらっと言った。
「ミナトちゃん」
「ん?」
「保護対象って呼び方、君が嫌ならさ」
「……うん」
「今日から"オトモダチ"でいい。私の方が動きやすいし」
「え、また急」
「急じゃないの。君が生きるの、私が見てるだけ」
笑って言うのに、逃げ道がない優しさだ。
俺は、一拍置いて、それでも頷いてしまった。
「……じゃ、オトモダチで」
「よろしい♡」
*
夕方、部屋に戻ると、反動が来た。
ベッドに腰を下ろした瞬間、身体の中の糸がぷつっと切れたみたいに力が抜ける。スープで楽になったはずなのに、楽になったぶんだけ疲れが浮いてくる。
スマホを手に取る。
昔の動画を開きそうになって、やめる。音が変だ。声が、遠い。見られるのに繋がらないのが、今日はいちばんきつい。
代わりに、何もしない画面を眺めて、息をして――それでも、喉が乾く。
*
夜。
ノックが二回。軽いリズム。覚えた。
「はーい」
開けると、レイヴがいた。相変わらず、笑顔が上手い。軽薄に見える笑い方。でも目の奥が、ちゃんと仕事の目をしてる。
「や。ミナト、起きてた?」
「起きてた。っていうか、まだ寝るには早い」
「そっか。じゃ、ちょっとだけ。状態、見に来た」
言い方が砕けてる。最近、少しずつ。
レイヴは部屋に入って、俺の手首に軽く指を置いた。触れ方が雑じゃない。確認の触れ方。なのに、その指先が置かれた瞬間、俺の呼吸が一段深くなる。
それが自分でも分かって、少し恥ずかしい。
「……息、戻ってるね」
「うん。今日は、えっと……スープ」
「聞いた。ゴルド、世話焼いたでしょ」
「焼かれた」
俺が笑うと、レイヴも笑った。軽く。
でも次の瞬間、ふっと表情が真面目になる。タグを一度見て、視線を戻してくる。確認はさらっと、でも抜かない。
「喉、乾いてる?」
「……乾いてる。なんで分かるの」
「顔」
リュカと同じこと言う。
俺の顔、そんなに分かりやすいのか。苦笑して、水を一口飲んだ。
それでも乾きは残る。
レイヴが俺を見ている。軽口で流してくれるのを、俺は少しだけ待ってしまっている。
……待ってしまう、っていうのが、もう。
誤魔化す前に、口が勝手に言った。
「スープもいいけど、俺はなんでかレイヴのほうが安心する気がする」
言った瞬間、静かになった。
自分の言葉が、部屋の空気に落ちて、跳ね返ってこない。
レイヴは、目を丸くした。
「……え」
「いや、今のなし! っていうか、別にゴルドが嫌とかじゃなくて」
「うん、分かる。分かるけど――」
レイヴが、瞬きを一回。
それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。笑う、というより、漏れたみたいな笑い。
「……は」
「なに」
「いや、ごめん。……ミナト、今、必死だったから」
くすっと笑ってから、自分が笑ったことに気づいたみたいに、レイヴは一瞬だけ目を細めた。困ったように。それから、その表情のまましばらく黙った。
「俺、笑ってる場合じゃないのにね」
「笑うなよ……」
「無理。……だってさ」
言いかけて、止まる。
その沈黙が、俺の息をもう一段ほどく。大丈夫。そう思える気配がある。
レイヴはわざと軽く、いつもの顔に戻した。
「ゴルドとリュカと仲良くなったの?」
「うん。なった、と思う。たぶん」
「ふーん」
たったそれだけなのに、胸の奥が小さくざわつく。レイヴの"ふーん"は軽いはずなのに、温度がある。
レイヴはにこっと笑った。軽薄な笑顔。でも、視線が外れない。
「じゃあ、俺とももっと仲良くなろう」
「……え」
「いや、え、じゃないでしょ。新しい安定化施策、近いうちに始まるらしいんだよね」
さらっと言うのに、手順の匂いがする。制度の匂い。安心の匂い。
「参加できそうなら、俺が手順とる。安心していい」
「……手順、って便利だな」
「便利だよ。迷子にならないし」
迷子。
昨日のことが、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎる。出口の手触り。ほどける方向感覚。
俺は少し間を置いてから、笑って頷いた。
「うん。……安心したい」
「うん。そっちの方が、ミナトは楽」
言い切られると、楽が正しいみたいに思えてしまう。
レイヴはドアの方へ向かいかけて、振り返った。
「じゃ、今日は寝れそう?」
「……たぶん」
「たぶんでもいい。寝れなかったら、呼んで」
軽い口調。なのに、逃げ道がなくなる優しさ。
レイヴが去った後、部屋が少しだけ寒く感じた。
俺はスマホのメモを開く。
書くと落ち着く。教えられたからじゃなくて、本当に、ほどける。ほどけるのに、なぜか今日は怖くない。
署名欄に指を置く。
もう、迷わなかった。
『ミナト』
打つと、息が通る。
それが一番、静かに怖い。
本文には、短く書いた。
ゴルドが「オトモダチ」って言ったこと。スープで息が戻ったこと。怖い話を思い出して、考えるのをやめたこと。レイヴが来たら落ち着いたこと。新しい施策が始まるらしいこと。
深いことは書かない。
書いたら、戻れなくなりそうだから。
画面を閉じて、喉元に視線だけ落とす。
黒が、角度で青紫に揺れる。
今日も、ここで息をしてる。
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