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異界の境界施設  作者:
Case-M

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14/17

Case-M #12




 目が覚めた瞬間、最初に分かったのは――昨日より息が楽、ということだった。


 胸の奥がまだ重いのに、空気がちゃんと入ってくる。入ったぶんだけ怖さも一緒に入ってきて、だから俺は、いつもみたいに笑って散らしたくなる。


 ……大丈夫。たぶん。


 喉が乾いてる。妙に、からからだ。水を飲んでも、乾きが残る感じ。


 枕元のスマホに手を伸ばして、つい画面を見てしまう。通知は相変わらず、何もない。繋がらない。見られるのに、届かない。


 それも、今日はまだ深く考えない。


 喉元に指が行きかけて、止めた。


 鏡を覗くと、首筋――喉元から鎖骨の間の、利き側に、黒い影みたいなものが薄く浮いている。指で辿ると、爪痕みたいに曲がった線。大きさは、五百円玉くらい。

 角度を変えた瞬間だけ、青紫の光が走って見えて、すぐ消える。


 触れたら、熱が思い出しそうで。


 だから俺は、肩をすくめた。


「……朝から気にしすぎ。俺、こういうとこある」


 言い訳みたいに呟いて、ベッドから降りる。


 部屋は相変わらず、過剰に整っている。温度も光も、俺が考える前に正解が置かれてるみたいで、落ち着くのに、落ち着けない。


 ドアを開けたら、廊下にリュカがいた。ちょうど通りかかった、みたいな顔。……でも、俺が起きる時間を、なんとなく知ってそうな距離。


「おはよ、成――……ミナト」


 途中で噛みそうになって、飲み込んだのが分かって、俺は口元を緩めた。


「おはよ。今、危なかった?」

「うるさい。……顔色」

「え」

「昨日よりマシ。けど、喉の乾きが出てる顔」


 人の喉の乾き、顔で分かるもんなんだ。こわ。


 でも責める口調じゃない。淡々としてるだけで、これがリュカなりの"気にしてる"なんだって、最近は分かる。


「食堂、今なら空いてる。行く」

「……りょーかい」


 断る理由を探す前に、リュカが歩き出す。俺も自然に追いつく。歩幅が合う。昨日はそれを「変だな」と思ったのに、今日は「楽だな」と先に思ってしまって、ちょっとだけ嫌だった。


 外へ行く導線は、視界の端にある。そこへ視線をやりかけて、やめる。


 昨日の"出口の手触り"が、まだ指先に残ってるから。


 目の前のドアが、ただのドアじゃなくなる瞬間。取手の持ち方が、急に分からなくなる瞬間。怖いのに笑って誤魔化した瞬間。


 ……あれをもう一回やったら、今度は笑えない気がする。


「……なんか考えた?」

「んー? いや、何も。お腹すいたなって」


 嘘。


 リュカは俺の顔を一瞬だけ見て、何も言わなかった。言わないのが、いちばん優しい時がある。


 食堂は、朝の区切りの匂いがした。湯気と、乾いた台帳みたいな紙の匂いが混ざってる。ここに来ると、喉が勝手に「飲む」方向を思い出す。


 その"思い出し方"が、少し怖い。


 でも――そこに、ゴルドがいた。


 背が高い。肩幅が、意味わかんない。筋肉が「そこにある」って感じで、なのに立ち姿が妙にしなやかで……そのギャップだけで、こっちの緊張が一段ゆるむ。何だそれ。


「あらぁ。ミナトちゃん、おはよぉ」


 声が、やわらかい。甘い。けど、目は鋭い。見抜くみたいな鋭さじゃなくて、生存を確認するみたいな鋭さ。


「おはよ、ゴルド」

「ん。……喉、まだ乾いてる顔ねぇ」

「え、わかる?」

「わかるの。生存確認♡」


 言いながら、ゴルドはもうカウンターへ向かってる。


 説明する気配、ゼロ。


 戻ってきた手には、昨日と同じ器。湯気がふわっと立って、匂いが先に喉の奥を撫でた。俺の身体が、勝手に「受け取る」準備をしてしまう。


 ゴルドは、それを俺の前に置いた。


「はい。いつもの」


 俺はスプーンを取って、一口。


 舌より先に、喉が反応した。


「……やば。効く」

「でしょ」

「効くって言い方、薬みたいだな」

「薬みたいなもんよ。生存のためのね」


 ゴルドは軽口のまま、でも目だけは真剣だった。


 俺は器を両手で包む。熱いのに、それが気持ちいい。喉が潤って、息が戻って、身体が"ここでいい"って言い始める。


 その瞬間、頭の端にあの話が浮かぶ。


 異界の竈。黄泉の食。戻れない。


 でも、笑って散らすより先に、口が動いた。


「……俺、昨日、変な話思い出してさ」

「変な話?」

「昔読んだ伝記っていうか。異界のもの食べると戻れなくなる、みたいな。よもつへぐい? ってやつ」


 言い終わった瞬間、胃の底が冷える。


 ゴルドの表情は変わらない。ただ、瞬きが一度だけ遅れた。リュカが肩越しに俺を見て、すぐ視線を逸らす。


 その沈黙が、一拍だけ続いた。


 俺は耐えられなくなって、言い訳を重ねる。


「いや、今さらだよね。だって俺、こっち来てから普通にご飯食べてるし」

「……」

「伝説だし。落ち着くって言われたから落ち着いただけっていうか」

「ミナト」

「ごめんごめん。考えすぎるとまた息浅くなるからさ。落ち着く方が大事。……うん」


 最後は自分に言い聞かせるみたいな声になった。


 ゴルドは、器を持つ俺の指先をちらっと見た。それから一段だけ距離を詰める。でかい身体が近い。圧があるのに、怖くない。


「……私ね」


 少し低くなった声で、ゴルドが言う。


「保護対象って距離、好きじゃないのよね」


「え」

「昨日から見てたわよ。君、壊れそうなのに笑うじゃなぁい」

「……それ、褒めてる?」

「褒めてない。生きるのが下手って意味」


 さらっと言われて、胸の奥がきゅっと縮む。図星、ってやつだ。


 喉がまた乾く。


 笑うと、喉の奥が甘くなる気がする。いや、甘いのは俺じゃない。空気が、甘い。ほんの一瞬だけ。


 周りの視線が増えた。食堂の隅のほうで、誰かの会話が止まる。音の間が、こっちへ傾く。


 "寄る"。


 襲われるわけじゃない。触られるわけでもない。

ただ、距離が詰まる。視線が集まる。匂いが近づく。


 俺の呼吸が一拍浅くなるのを、リュカが先に拾ったみたいに立ち上がった。


「移動」

「え、もう?」

「もう」


 短い。優しい言葉はない。でも、手順として正しい。俺はその短さに救われる。


 ゴルドは何も言わず、自然に俺の背後へ入った。大きい影が、壁みたいに立つ。視線がそれ以上近づけなくなる。


 守られてる。


 その事実が、嬉しくて、甘くて――だからこそ、少し怖い。


 食堂を出て、廊下へ戻ると、空気が少し冷える。ようやく息が戻った。


「……ごめん」

「謝るな。仕組みの問題」

「仕組みって、怖いよな」

「怖いから、手順がある」


 リュカの言葉はいつも、突き放してるみたいで、でも実は近い。


 俺は頷いた。頷けてしまうのが、少しだけ怖かった。


 部屋へ戻る途中、ゴルドが後ろから、さらっと言った。


「ミナトちゃん」

「ん?」

「保護対象って呼び方、君が嫌ならさ」

「……うん」

「今日から"オトモダチ"でいい。私の方が動きやすいし」

「え、また急」

「急じゃないの。君が生きるの、私が見てるだけ」


 笑って言うのに、逃げ道がない優しさだ。


 俺は、一拍置いて、それでも頷いてしまった。


「……じゃ、オトモダチで」

「よろしい♡」





 夕方、部屋に戻ると、反動が来た。


 ベッドに腰を下ろした瞬間、身体の中の糸がぷつっと切れたみたいに力が抜ける。スープで楽になったはずなのに、楽になったぶんだけ疲れが浮いてくる。


 スマホを手に取る。


 昔の動画を開きそうになって、やめる。音が変だ。声が、遠い。見られるのに繋がらないのが、今日はいちばんきつい。


 代わりに、何もしない画面を眺めて、息をして――それでも、喉が乾く。





 夜。


 ノックが二回。軽いリズム。覚えた。


「はーい」


 開けると、レイヴがいた。相変わらず、笑顔が上手い。軽薄に見える笑い方。でも目の奥が、ちゃんと仕事の目をしてる。


「や。ミナト、起きてた?」

「起きてた。っていうか、まだ寝るには早い」

「そっか。じゃ、ちょっとだけ。状態、見に来た」


 言い方が砕けてる。最近、少しずつ。


 レイヴは部屋に入って、俺の手首に軽く指を置いた。触れ方が雑じゃない。確認の触れ方。なのに、その指先が置かれた瞬間、俺の呼吸が一段深くなる。


 それが自分でも分かって、少し恥ずかしい。


「……息、戻ってるね」

「うん。今日は、えっと……スープ」

「聞いた。ゴルド、世話焼いたでしょ」

「焼かれた」


 俺が笑うと、レイヴも笑った。軽く。


 でも次の瞬間、ふっと表情が真面目になる。タグを一度見て、視線を戻してくる。確認はさらっと、でも抜かない。


「喉、乾いてる?」

「……乾いてる。なんで分かるの」

「顔」


 リュカと同じこと言う。


 俺の顔、そんなに分かりやすいのか。苦笑して、水を一口飲んだ。


 それでも乾きは残る。


 レイヴが俺を見ている。軽口で流してくれるのを、俺は少しだけ待ってしまっている。


 ……待ってしまう、っていうのが、もう。


 誤魔化す前に、口が勝手に言った。


「スープもいいけど、俺はなんでかレイヴのほうが安心する気がする」


 言った瞬間、静かになった。


 自分の言葉が、部屋の空気に落ちて、跳ね返ってこない。


 レイヴは、目を丸くした。


「……え」

「いや、今のなし! っていうか、別にゴルドが嫌とかじゃなくて」

「うん、分かる。分かるけど――」


 レイヴが、瞬きを一回。


 それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。笑う、というより、漏れたみたいな笑い。


「……は」

「なに」

「いや、ごめん。……ミナト、今、必死だったから」


 くすっと笑ってから、自分が笑ったことに気づいたみたいに、レイヴは一瞬だけ目を細めた。困ったように。それから、その表情のまましばらく黙った。


「俺、笑ってる場合じゃないのにね」

「笑うなよ……」

「無理。……だってさ」


 言いかけて、止まる。


 その沈黙が、俺の息をもう一段ほどく。大丈夫。そう思える気配がある。


 レイヴはわざと軽く、いつもの顔に戻した。


「ゴルドとリュカと仲良くなったの?」

「うん。なった、と思う。たぶん」

「ふーん」


 たったそれだけなのに、胸の奥が小さくざわつく。レイヴの"ふーん"は軽いはずなのに、温度がある。


 レイヴはにこっと笑った。軽薄な笑顔。でも、視線が外れない。


「じゃあ、俺とももっと仲良くなろう」

「……え」

「いや、え、じゃないでしょ。新しい安定化施策、近いうちに始まるらしいんだよね」


 さらっと言うのに、手順の匂いがする。制度の匂い。安心の匂い。


「参加できそうなら、俺が手順とる。安心していい」

「……手順、って便利だな」

「便利だよ。迷子にならないし」


 迷子。


 昨日のことが、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎる。出口の手触り。ほどける方向感覚。


 俺は少し間を置いてから、笑って頷いた。


「うん。……安心したい」

「うん。そっちの方が、ミナトは楽」


 言い切られると、楽が正しいみたいに思えてしまう。


 レイヴはドアの方へ向かいかけて、振り返った。


「じゃ、今日は寝れそう?」

「……たぶん」

「たぶんでもいい。寝れなかったら、呼んで」


 軽い口調。なのに、逃げ道がなくなる優しさ。


 レイヴが去った後、部屋が少しだけ寒く感じた。


 俺はスマホのメモを開く。


 書くと落ち着く。教えられたからじゃなくて、本当に、ほどける。ほどけるのに、なぜか今日は怖くない。


 署名欄に指を置く。


 もう、迷わなかった。


『ミナト』


 打つと、息が通る。


 それが一番、静かに怖い。


 本文には、短く書いた。


 ゴルドが「オトモダチ」って言ったこと。スープで息が戻ったこと。怖い話を思い出して、考えるのをやめたこと。レイヴが来たら落ち着いたこと。新しい施策が始まるらしいこと。


 深いことは書かない。


 書いたら、戻れなくなりそうだから。


 画面を閉じて、喉元に視線だけ落とす。


 黒が、角度で青紫に揺れる。


 今日も、ここで息をしてる。


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