Case-M #10.5|角も牙も出さずに
談話室の匂いは、甘い薬草と紙の乾いた匂いが混じっていた。
あったかい湯気が机の上で揺れて、ミナトはその湯気だけを見て、息を整える。
カップの縁を指でなぞる。
熱が指先に返ってくる。――それだけで、少し落ち着くのが悔しい。
落ち着く。
また落ち着く。
ここに来てから、落ち着く理由が増えすぎている。
「……でさ」
ミナトが言いかけたところで、ゴルドがでかい肩を揺らして笑った。
「ねぇミナ、さっきの"悪魔ってだいたいクズでしょ?"発言、あれはさすがに酷すぎるわよぉ」
「言ってない! "クズ"って単語は使ってない!」
「じゃあ何って言ったのよぉ」
「えっと……"悪魔って人間のこと、基本おもちゃだと思ってる"みたいな」
言い直して、ミナトは自分で肩をすくめた。
同じくらい酷い。
ゴルドが「ほらぁ」とわざとらしく眉を下げる。
「酷いわぁ。ミナ、あんた、夢がない」
「夢って何だよ」
対面で、リュカがカップを持ち上げる。動きが無駄に綺麗だ。
金髪が灯りを拾って、目の冷たさだけが変わらない。
「……お前の悪魔像は雑すぎる。分類が荒い」
「だってさ、俺、人間界の悪魔って"概念"しか知らないし。怖いやつ、騙すやつ、魂取るやつ、みたいな」
「概念」
レイヴが、笑いながらティースプーンを回した。カチ、と軽い音がする。
軽い音のくせに、その"間"がちょうどいいのが腹立つ。
「うん。人間界の悪魔って、だいたい"都合の悪いもの"の入れ物だもんね」
「でしょ。だから、怖いイメージしかない」
ミナトは言い切ってから、慌てて手を振った。
「いや、でも、ここ来てから思うよ? みんな普通に……えっと……」
「普通に?」
ゴルドが身を乗り出す。筋肉の塊みたいな腕で、カップを慎重に持ったまま。
「普通に"管理してる"だけ?」
ミナトは言葉に詰まって、笑って誤魔化した。
「……やめろ、的確に刺すな」
レイヴが「刺さるねぇ」と笑い、リュカが「事実だ」と淡々と落とす。
談話室の空気が、少しだけ軽くなる。
ミナトは湯気を吸いそうになって、途中で止めた。
喉が乾く。胸の奥が、薄く熱い。
(……落ち着くな)
落ち着く方向へ寄るのが、まだ怖い。
まだ、って言葉が自分の中で出てくるのが、もっと怖い。
「でもさ。そもそも聞いていい?」
ミナトがカップを机に置く。コト、と音が小さく鳴った。
「この施設って、どんな悪魔がいるの。……その、俺みたいな"保護対象"を扱うのって、特殊じゃん?」
「特殊だよ」
レイヴは即答する。軽いのに逃げ道がない声。
「境界施設は"現場"だから。いろんな系統がいる。仕事が違うから」
「系統って、何系?」
リュカが一拍おいて言う。
「家門。職能。気質。……あと、匂い」
最後のひと言でミナトが咳き込みそうになる。
「匂いって何! やめろ、俺それ今敏感なんだから!」
ゴルドが両手を上げるみたいに笑う。
「やぁだぁ、ミナ。自分で言ったじゃないのォ。"嗅がれてた"って。嗅ぐのは文化よぉ、文化」
「文化って言葉で全部正当化するな」
「正当化じゃないわよぉ。説明よぉ」
レイヴが口元を隠して笑ってから、少しだけ真面目な顔に戻る。
「でもまあ、ミナトが思ってる"悪魔=全員ヤバい"は、半分当たってて半分外れてる」
「半分当たってんじゃん」
「当たってるのは、"欲"が強いこと」
レイヴは言い切った。
「外れてるのは、"その欲の出し方が全員同じ"ってところ」
ミナトは「ふーん」と相槌を打ちながら、肩の力を抜こうとして抜けない。
"欲"って単語が、胃の奥を冷やす。
欲。
欲、か。
昨日の夜、雫が舌先に触れた瞬間を思い出しそうになって、喉がひくっと鳴る。
思い出すな。今は関係ない。
「じゃあ、ここにいる悪魔って、どういう……?」
リュカが面倒そうに目を伏せた。
「まず前提。施設の所員は、人間じゃない。……それはもう理解したな」
「理解した……というか……受け入れ中……」
受け入れ中、と言った瞬間、喉がひくっと鳴った。
それを飲み込む。笑う。
「でも、見た目が人間すぎるのが悪いよ。びっくりするって」
ゴルドが頷きまくる。
「そうよぉ。外見は欺瞞。中身よぉ」
「欺瞞って言うな」
「褒めてるのよぉ。上手に擬態してるってこと」
「褒め方が物騒!」
レイヴが「擬態って言葉、好きだね」と笑って、手をひらひらさせた。
「じゃ、簡単に"この施設にいる悪魔"のタイプを話すね。講義はしない。会話ね」
「講義しないって言いながら、絶対まとめるやつじゃん」
「ミナトが聞くから」
「……うっ」
言い返せなくて、ミナトはカップを持ち上げる。
温かい。喉が少し楽になる。楽になるのが悔しい。
レイヴが指を一本立てた。
「まず、監督・保護系。人間を"壊さずに帰す"のが仕事。ここがいちばん"優しい顔"をしてる」
ミナトが反射で頷きかけて、止める。
「優しい顔、ね……」
「うん。顔は優しい。仕事は冷たい」
レイヴは笑って言う。笑ってるのに線がある。
ミナトは少しの間、その「線」について考えた。
顔は優しい。仕事は冷たい。
……それって、レイヴのことじゃないのか。
「……なんか、身近なやつが当てはまるんだけど」
「そうかもね」
レイヴはさらっと流す。流し方が上手すぎて、返す言葉がない。
ゴルドが「まさにぃ」と合いの手を入れた。
「優しい顔で"ダメ"って言うのよぉ。あれ、いちばん効くのよぉ」
「それ俺のこと見ながら言うな」
「見てないわよぉ。見てるけどぉ」
ミナトが「見てんじゃん」と突っ込むと、リュカが淡々と話を進めた。
「次。研究・検査系。数値と現象を見る。感情は二の次」
「リュカ、それ?」
「……俺は兼任だ。記録が主」
「記録……」
記録、という言葉が、喉の奥に引っかかる。
ミナトは自分のスマホを思い出した。
あの日記。自分のため、って言われたやつ。
誰も見ないって言ってたのに、記録が主、って言われると、喉の奥が急に渇く。
「……記録って、俺の?」
「必要な分だけ」
リュカは目を逸らさない。
逸らさないのが、怖い。
ミナトは笑って、流した。
笑わないと、今ここで固まってしまいそうだから。
「まあ、いいか。手順だもんな」
手順。
その言葉を自分で言った瞬間、胸の奥がきゅっとなる。
俺、いつからこの言葉をこんなに使うようになったんだ。
レイヴが、今度は指を二本にする。
「それから、鎮圧・警備系。ここは"境界"のズレを止める担当。危ないのが来たら、容赦しない」
ミナトは思わず口を尖らせた。
「……俺、容赦されたい」
ゴルドが即答する。
「されてるわよぉ」
「え?」
「されてる。めちゃくちゃ」
ゴルドはスープじゃなく、紅茶の湯気を指で追いながら言った。
「だってミナ、さっき廊下で"外周の手前くらいなら"って顔してたでしょ。普通なら止められるわよぉ。もっと強く」
ミナトは目を逸らして、カップの中を覗き込む。
「……見られてた?」
「見てたわよぉ。リュカも見てたわよぉ」
リュカが眉を寄せる。
「見てない」
「嘘。見てた」
「……仕事だ」
即答の"仕事"が、妙に刺さる。
仕事。
記録。
手順。
全部が"正しい言葉"で包まれていて、その包みの中に何があるのか、俺には見えない。
ミナトは笑って誤魔化した。
「ほら、やっぱり。悪魔って全員、仕事にすると冷たいんじゃん」
「違う」
レイヴがすぐ否定する。
「仕事にすると"揺れない"だけ。揺れたら、ミナトが迷うから」
「……迷う」
ミナトが呟くと、喉が乾く。胸の奥が薄く熱い。
「迷うと境界が喜ぶ、だっけ」
それは昨日の会話で出た。ちゃんと出た。
ミナトは自分で確認するみたいに、タグに指を触れそうになって、やめた。
(触ったら、楽になる)
楽になるのが怖い。
ゴルドがテーブルを指で軽く叩いた。トン、と低い音。
「じゃあさぁ、ミナ。逆に聞くけど、あんた、悪魔って何だと思ってるの」
「え?」
「"怖い"以外で」
ミナトは言葉を探して、口の中で転がす。
「……長生きしてる」
「そうねぇ」
「……自分の欲に正直」
「そうねぇ」
「……人間より、力がある」
「そうねぇ」
「……でも、意外と……」
「意外と?」
ミナトは笑って、最後を雑にする。
「……面倒見がいいやつもいる」
言った瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
"面倒見がいい"って言葉が、自分の中で甘い。
レイヴが笑う。軽いのに逃げ道がない笑い方。
「その"面倒見"がいちばん危ないんだけどね」
「やめろ」
ミナトが即座に返すと、ゴルドが楽しそうに頷いた。
「そうそう、そこよぉ。面倒見がいい=手を出しやすい、ってことよぉ」
「出すな! 手を出すな!」
「出さないわよぉ。……出すのは、許可が出た時だけよぉ」
「許可って言うな!」
ミナトが突っ込むと、リュカが小さく息を吐いた。
「……お前、そういうのに反応しすぎだ」
「反応するだろ! だって、全部が"手順"で回ってるって知ったんだぞ!」
ミナトは言ってから、喉が渇くのを感じて黙った。
熱が上がってきそうで、息を一つ吐く。
レイヴが、少しだけ声を落とした。落とすけど、甘くはしない。
「うん。回ってる。……でも、ミナトは"手順があるから戻れる"ってことも知った」
戻れる。
胸の奥が、少しだけほどける方向へ寄る。
その事実に腹が立って、ミナトは笑う。
「……くそ。そうなんだよな」
ゴルドが嬉しそうに手を叩く。
「あらぁ、認めたぁ」
「認めてない! ただの事実!」
「事実がいちばん強いのよぉ」
リュカがカップを置く。コト、と静かな音。
「……ミナト」
「なに」
「お前が思ってるほど、悪魔は一枚岩じゃない」
ミナトは眉を上げる。
「急に真面目だな」
「真面目だから言う。……怖いなら怖いって言え」
その"許可"みたいな言い方が、また刺さる。
ミナトは一瞬、声が出なくなる。
喉が鳴る。
胸の奥が渇く。
「……怖いよ」
短く言って、すぐ笑って誤魔化した。
「でもほら、俺、笑ってるし。今こうやってお茶飲んでるし。だから大丈夫」
大丈夫、って言った瞬間、胃が少し冷える。
大丈夫じゃないのに大丈夫って言う癖。良い子の癖。
レイヴが、軽い声で言う。
「大丈夫じゃない時は、戻せばいい。手順」
「またそれ」
「またそれ」
同じ言葉が重なって、ミナトは笑ってしまう。
笑うと、喉が少し楽になる。楽になるのが悔しい。
ゴルドが、ふっと目を細めた。派手な顔なのに、声だけは静か。
「ミナ。あんた、悪魔が怖いんじゃないのよぉ」
「じゃあ何が怖いんだよ」
「"怖くなくなっていく自分"が怖いのよぉ」
言われて、ミナトの息が一拍止まる。
胸の奥が、ひゅっとなる。
笑おうとして、笑えなかった。
口だけ動いて、音が出ない。
ゴルドの言葉が、頭の中でもう一回流れる。
怖くなくなっていく自分。
そうだ。
それだ。
悪魔が怖いんじゃない。
ここが怖いんじゃない。
落ち着いてしまう自分が。
手順に従ってしまう自分が。
面倒見がいいって言って、甘くなる自分が。
そっちが怖い。
「……」
沈黙が、談話室に広がる。
リュカが「……余計なこと言うな」と言う。
でも否定はしない。
レイヴもしばらく、何も言わなかった。
いつもの軽口を挟まない。
ミナトの沈黙を、三人が、それぞれの距離で待っている。
その待ち方が、また安心で怖い。
俺が黙っても、誰も笑わない。
誰も急かさない。
ただ、そこにいる。
それが――ここの怖さだ。
怖いのに、居心地がいい。
居心地がいいから、怖い。
ミナトは息を吐いた。
長く、ゆっくり。
「……そうかもな」
やっと声が出た。
掠れてる。笑えてない。
「怖くなくなっていく自分が、怖い。……当たってる」
言葉にしたら、喉の奥がじわっと渇いた。
言葉にするほど、現実になる。
「だからって、どうしろって話でもないんだけど」
ミナトはカップを両手で包んで、湯気を見た。
「怖いまま、ここにいるしかないし。帰るために、頑張るしかないし」
頑張る。
その言葉が、胸の奥で少しだけ空洞に聞こえた。
レイヴが、ゆっくり口を開く。
「うん。そうだよ。……怖くなくなったら、また怖がればいい」
「それ、慰めになってないよ」
「慰めじゃない。手順」
手順。
また手順。
ミナトは笑った。今度はちゃんと笑えた。
「お前、全部手順にするよな」
「全部手順にした方が楽だから」
「……俺のため?」
「俺のためでもある」
レイヴの答えが、珍しく真面目だった。
真面目すぎて、ミナトは少しだけ黙った。
ゴルドが、静かに笑う。
「……ミナ。あんた、ちゃんと考えてるのよ。それだけは本当よぉ」
「考えてるだけじゃ帰れないけどな」
「考えてるだけの方が、考えてないより強いわよぉ」
リュカがカップを置く。コト、と静かな音。
「……ミナト。お前が思ってるほど、悪魔は一枚岩じゃない。……それだけ覚えとけ」
さっきも言ってた。
でも今は、少しだけ意味が違って聞こえる。
一枚岩じゃない。
つまり、全員が同じように動いてるわけじゃない。
つまり、全員が同じ方向を向いてるわけじゃない。
それが、希望なのか、怖さなのか、まだ分からない。
ミナトは笑って、最後に言った。
「じゃあ俺も結論言うわ」
「どうぞ」
「この施設の悪魔、みんなめんどくさい」
ゴルドが大笑いする。
「正解〜!」
リュカが眉を寄せる。
「正解とか言うな」
レイヴが笑う。
「言う。正解。……めんどくさいのが仕事だから」
その言い方が、やっぱり逃げ道がなくて。
ミナトはカップの温度を両手で抱えながら、息を吐いた。
助かるのが悔しい。
落ち着くのが怖い。
それでも、湯気は優しく揺れていた。
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