Case-M #10
朝、目が覚めて最初に触れたのは首筋だった。
喉元から鎖骨の間。利き側。そこを指先がかすめるだけで、じんわり熱い。
鏡を覗いても、昨日ほどはっきりした“痕”は見えない。――見えないのに、「ある」と思ってしまうのが厄介だ。
「……はいはい。気のせい、気のせい」
俺は自分に言い聞かせるみたいに笑って、胸元のタグを軽く握る。
指の腹に薄い金属の冷たさ。そこに名前があるだけで、息が通るのが悔しい。
昨日のことを思い出す。
息が吸えなくなって、焦って、レイヴの声に縋って――あの“口で息を受け取る”やつ。思い出すだけで、頬の内側が熱くなる。
「……いや、違う。あれは鎮静。手順。そう、手順」
言い訳みたいに呟いて、スマホを手に取った。
外には繋がらない。繋がらないのに、画面は普通に点く。写真も、動画も、見られる。
見られるのに、届かない。
それが朝の俺をじわじわ削ってくる。だから今日は、見ない。――昨日の俺に釘を刺す。
メモアプリを開く。日記。精神ログ。安定化施策。
“誰も見ない”って言われたやつ。
指が勝手に署名欄へ行きかけて、そこで一瞬止まる。
湊、と打ちかけて、やめる。
喉の奥が、軽く引っかかった。
俺は息を吐いて、いつも通りの“ここでの名前”を入れた。
ミナト。
それだけで、呼吸が少し通る。ああ、もう。こういうところが怖い。
俺は短く書く。深刻にしない。できるだけ軽く。
『ミナト
昨日はちょっとやばかったけど、寝たら回復。
今日はちゃんと手順守る。勝手に動かない。
迷惑かけない。がんばる。』
“がんばる”って打った瞬間、なんか笑えてきて、笑えない。
俺は画面を伏せるみたいにして、ベッドから降りた。
――頑張れば帰れる。
頑張れば、ここでのルールにも慣れて、検査にも通って。
そう思うのは希望っていうより癖に近い。
誰かに褒められると安心する。許可されると息ができる。
……俺、ほんと便利だな。
*
昼前、リュカに呼ばれた。
呼ばれた、というと物々しいけど、実際は廊下で声をかけられただけだ。
相変わらず口調は強い。顔は無表情寄り。目だけが忙しい。
「ミナト。時間、あるか」
「あるある。俺、基本ここで暇だし」
「……そういう問題じゃない」
そう言いながら、リュカは俺の歩調を測るみたいに半歩先を行く。
置いていかないギリギリの距離。追いつける速度。
それが、昨日よりずっと“優しい”のが分かってしまって、俺は妙に落ち着かない。
「叱るなら、先に言っといて。心の準備する」
「叱らない」
きっぱり言われて、逆に怖い。
「じゃあ何」
「確認」
「確認……」
「昨日の件以降、外周方向へ行こうとした形跡があった。……あるな」
言い方は淡々としてるのに刺さる。
形跡。ログ。監督。そういう単語が脳裏をかすめて、背中が寒い。
俺は笑ってみせた。
「えー、俺、もう懲りてるって。あれマジで怖かったし。出口、変になったし」
「“変”じゃない。……術式が働いた。単独行動に反応する」
「はいはい、術式。……で、確認って?」
リュカは足を止めて、俺の顔をちゃんと見た。
視線がまっすぐで、逃げ場がない。
「外周は申請制。単独は禁止。困ったら呼べ。——これは、“怒って言ってる”んじゃない。そういう手順だ」
「うん」
「お前は、謝る癖がある」
ぎくりとした。
「……そんなことない、と思うけど」
「ある。昨日も、近づかれた時に謝ってた」
「だって俺が変なとこ行ったから……」
「違う」
被せるみたいに言われて、俺は言葉を止めた。
「お前が悪いんじゃない。仕組みを知らないだけだ。——でも、仕組みを知ったら守れ。守らないと、次は“事故”になる」
事故。
その音が妙にリアルで、喉が渇く。乾いた息が引っかかりそうで、俺は慌てて笑った。
「うん。俺、迷惑かけたくないし。……ちゃんとする」
「迷惑じゃない」
リュカは一拍置いて、少しだけ声を落とす。
「……仕事だ」
言い訳みたいに聞こえて、俺の胸の奥がきゅっとなる。
「そっか。仕事か」
「そうだ」
なのに、視線はやっぱり俺を見ている。
“確認”って言いながら、俺の呼吸の速さまで数えてるみたいに。
「——だから」
リュカが言う。
「外に出たいなら、申請。同行。俺か担当を呼べ。勝手に行くな」
「了解。……リュカ、呼べばいい?」
「……基本は担当」
「え、じゃあリュカは?」
俺が冗談めかして言うと、リュカは眉をわずかに寄せる。
「俺は導線。……施設内で事故を起こさないための」
「導線担当、か」
口に出すと、妙にしっくり来た。
“外へ行かなくていい理由”を作る役。
その役が、俺にとって今どれだけ助かるか。
助かると思ってしまう時点で、もう囲いだって分かってるのに。
「……案内する。来い」
リュカはそう言って歩き出した。
*
まず連れて行かれたのは、談話室だった。
広すぎない。人が多すぎない。
椅子の配置が自然に“端”へ誘導するみたいになっていて、視線に晒されにくい。
「ここ、落ち着くな」
「うるさい時は使うな」
「うるさい時?」
「……人が増える時間がある。そういう時は避けろ」
さらっと言う。
“避けろ”が命令じゃなく、当たり前の注意みたいで、逆に怖い。
次は図書室。紙の匂いがする場所。
その匂いが俺の世界の図書館と似てて、胸が痛くなる。
「ここ、好きかも」
「文字が読めるなら、勝手に読め」
「優しいじゃん」
「優しくない。静かだからだ」
そのあと簡易ジムみたいな区画。軽い運動器具。
“体力つければ検査に通る”って思ってた俺には、まさに欲しかったやつだ。
「これ、嬉しい。俺さ、何かしてないと余計なこと考えるタイプで」
「……考えるな」
「無理だろ」
俺が笑うと、リュカは少しだけ口元を引き締めた。
叱ってるわけじゃない。……何か、耐えてるみたいな顔。
「なら、ここで汗かけ。勝手に外へ行くよりマシだ」
“マシ”。
その言い方が、やっぱり制度の匂いをする。
最後に、食堂の入口だけ見せられた。
昼のピークを避けた時間帯。人が少ない。
「食堂は……この時間に来い。混む時間は避けろ」
「了解。え、俺、人気者だから?」
「……そういう冗談、今はいい」
ぴしゃりと言われて、俺は思わず笑ってしまった。
「ごめんごめん。でもさ、案内してくれて助かる。昨日のことあったし、正直……ここ、どこ歩いていいか分かんないんだよね」
「分からないなら聞け」
「うん」
それだけの会話なのに、喉がほどける。
息が深くなる。
ああ、これだ。
“安心の檻”って、こうやって作られるんだ。
*
安全そうな通路のベンチに座って、一息ついた。
リュカは立ったまま、周囲を見ている。
見張りじゃない。監視でもない。……でも、そう見えてしまうのが俺の悪い癖だ。
「ねえ、リュカ」
「何」
「ほんと、ありがとうな」
俺が言うと、リュカの肩がわずかに跳ねた。
ほんの一瞬。気づかないふりをして、俺は続ける。
「昨日さ、助けてくれただろ。あの……寄ってきた人たちから、俺のこと引き離してくれて。あれ、怖かった」
「……」
「で、今日もさ。叱るんじゃなくて、ちゃんと確認して、案内してくれて。俺、安心した」
言葉にすると胸の奥があったかくなる。
同時に、どこかで“帰る”が遠のく音がする。
リュカは顔を背けた。
耳が、うっすら赤い。
「仕事だ」
さっきと同じ言い訳。
でも今のは明らかに照れ隠しだ。
「仕事でも、ありがとうは言う」
「……勝手にしろ」
俺は笑って、もう一回だけ言う。
「ありがとう」
その瞬間。
空気が、ほんのり甘くなった気がした。
鼻の奥に、ふわっと。蜂蜜みたいな、焦げる手前の砂糖みたいな。喉が渇く匂い。
……あ。
これ、たぶん、例の“蜜”だ。
俺は慌てて笑いを引っ込める。
でも引っ込めたところで胸の奥がぎゅっと縮んで、今度は変な息になる。
壊れそうなのに、笑ってしまう。
それが条件だって、分かりたくないのに分かってしまう。
「ミナト」
リュカの声が低い。
俺が顔を上げると、リュカは俺の口元じゃなく、喉元から鎖骨の辺りを見ていた。
視線が一瞬だけ鋭くなる。焦点が変わる。
それからすぐ平静に戻して言う。
「……俺のこと」
「ん?」
リュカは視線を外して、ぽつりと落とした。
「俺のこと、怖いって思わないの?」
その問いが急に柔らかくて、俺は言葉を探すより先に正直に返してしまった。
「口調は確かに強めだけど」
リュカの眉がぴくっと動く。
「でも、俺のこと考えて動いてくれてる」
喉が渇く。甘い匂いがまだ薄く残ってる。
俺は息を整えて、まっすぐ言う。
「助けてくれた。だから怖いとは思わないよ」
そして、最後に。
「……ありがとう」
言い終えた瞬間、リュカの耳が赤くなった。
あ、って思うくらい分かりやすく。頬まで熱が上がるのを本人が隠せてない。
「……っ、勝手に決めるな」
声が少しだけ上ずってる。
すぐに低く戻そうとして失敗してる。
「決めてないって。ただ、俺はそう思ったって話」
「調子に乗るな」
「乗らない乗らない」
俺が笑うと、また甘さが立ちそうになって、慌てて口を閉じる。
笑うのが怖いなんて、変だ。
リュカは唇を一度結んで、言い直すみたいに呟いた。
「……保護対象って呼び方が嫌なら」
そこで一瞬、言葉が止まる。
俺は息を潜める。
「……“友人枠”で処理しておく」
「……え」
思わず声が出た。
リュカは顔を背けたまま続ける。
「そのほうが俺が動きやすい」
制度で言い訳して、関係を固定する。――リュカらしい。
俺は胸の奥がほどけるのを感じながら、ゆっくり笑った。
「友人、って言っていいの?」
「……好きにしろ」
否定しない。
その“否定しない”が、たぶん答えだ。
リュカは立ち上がって、俺の前を歩き出した。
歩幅が、さっきより少しだけ俺に合ってる。
俺は追いかけながら、ふと思い出した。
「そういえばさ」
「何だ」
友人になった後の会話って変な感じだな、と思いながら。
俺はずっと飲み込んでたことを口にした。
「今さらなんだけどさ。俺、薄々は思ってたんだよ」
「何を」
「周りの人たち……“人じゃない何か”だなって」
言った瞬間、空気が一拍だけ止まった気がした。
やばい、怒られる? って身構えたのに、リュカは足を止めない。
「……遅い」
「遅いって言うな」
俺は笑って誤魔化しながら、でも本音を続ける。
「だって、みんな普通に優しいしさ。仕事だってちゃんとしてるし。だから余計に、こう……角とか翼とか、そういう“いかにも”のやつじゃないからさ」
リュカがちらっとだけ俺を見る。
目が合って、すぐ逸れた。
「……で?」
促されて、俺は小さく息を吸う。
「悪魔ってさ。俺の世界だと、もっと……こう……」
「こう?」
「黒い煙の中から出てきて契約書出して、魂ください、みたいな。あと角生えてて、羽がばさって……地獄の炎が背景に……」
言いながら自分でもバカらしくなって、肩が揺れた。
笑ってしまう。
「なんか、俺が想像してた悪魔と違うや。……っていうか、え。みんな悪魔なの?」
最後は声が素直に裏返った。
内心で思ってた“え?”が、今さら外に漏れた。
リュカがため息を一つ。
でも呆れだけじゃない。ちょっとだけ面倒見のいいやつの息。
「……悪魔を何だと思ってるんだ」
「いや、今言った通り……」
「……物語だろ」
「物語でも刷り込まれるじゃん」
俺が言うと、リュカが小さく鼻で笑った。
笑ってから、笑ったことに気づいたみたいに口元を引き締める。
「ここは境界だ。俺たちは……悪魔、って呼ばれる側だが」
「うん」
「だからって、全員が魂だの炎だの言い出すわけじゃない」
「じゃあ魂ください、はない?」
「ない。……少なくとも、今のお前には」
「今のお前には、って言うなよ怖いだろ」
俺がぶーたれると、リュカは肩をすくめた。
「お前は保護対象だ。ルールの中にいる。……それだけ」
その言い方が“制度”で、ちょっと怖いのに。
友人って言われた後だと、どこか安心の輪郭にも聞こえてしまう。
「じゃあさ、悪魔って何が違うの? 俺たちと」
俺が聞くと、リュカは少し考えてから言葉を選ぶみたいに口を開いた。
「……常識が違う。あと、匂いとか、気配とか。お前が“違う”って思ったところはだいたい正しい」
「正しいんだ」
「正しい。……だから、分かったなら、余計に一人で動くな」
「はいはい。手順守ります」
返事は軽くしたのに、胸の奥は重くなる。
“悪魔”って言葉に、いまさら現実味が乗ってきて。
俺はもう一度、笑ってみせた。
壊れそうな笑いじゃないやつを、頑張って選ぶ。
「……でもさ。悪魔って聞いて、俺もっと怖がると思ってた」
「怖がってるだろ」
「うん。怖い。……でも、リュカが案内してくれてるから」
言った瞬間、またリュカの耳が赤くなる。
俺は見て見ぬふりをして、歩調を合わせた。
「……お前、そういうとこだぞ」
「どこだよ」
「知らないでいい」
素っ気ないのに、置いていかない。
それが、今日の俺を救ってしまう。
*
外周方向へ続く廊下の角が、視界の端に入った。
昨日の“出口が変になる”感覚が蘇って、喉がきゅっと締まる。
取っ手の握り方が分からなくなる恐怖。方向がほどける恐怖。
俺は言えなかった。外に出たい、と。
リュカは俺の視線に気づいたのか、気づいてないふりをしたのか。
歩きながら、ぽつりと言った。
「申請は急がなくていい」
優しい逃げ道。
俺はその言葉に、ほっとしてしまった。
「……うん。そうだね」
帰るために来たはずなのに。
帰るための申請を先延ばしにして安心する。
怖い。
でも、息が楽だ。
*
夜。
部屋に戻って、スマホを開く。
動画は見ない。今日は見ない。代わりに日記。
署名欄に、迷わず打てた。
ミナト。
それが当たり前になってるのが、静かに怖い。
『ミナト
今日はリュカに呼ばれて、確認してもらって、案内してもらった。
怒られた感じじゃなくて、手順って感じ。
俺、昨日のこと引きずってたけど、安心した。
“友人枠”でいいって言われた。
友人って言っていいらしい。変な感じ。
そういえば、みんな悪魔なんだって。
俺が想像してた悪魔と違う。普通に話すし、普通に働いてる。
……悪魔って何だよって、ちょっと笑った。
今日は昨日より息が楽。
首筋(喉元〜鎖骨の間)の熱は薄い気がする。安心すると引くのかな。』
書いて、画面を閉じる。
呼吸が落ち着く。
落ち着くのに、背中が少し寒い。
俺はタグを握って、布団に潜った。
金属の冷たさが、いつの間にか“ここで眠る”の合図みたいになっている。
*
——同じ時間。
境界施設の別室、端末の画面に通知が上がった。
担当ログ。
安定化施策:精神ログ更新。
レイヴはそれを指先で開く。
開く動作が、もう“業務”として馴染んでいるのが怖い。
画面に並ぶ文字。
『友人枠』
『安心した』
『息が楽』
レイヴは一度、笑いそうになって止めた。
胸の奥がきゅっとなる。
友人。
——その言葉が、なぜか喉に引っかかる。
安全のため。秩序のため。保護のため。
理由はいくらでも並べられるのに、“ざわつき”だけが説明できない。
レイヴは画面を閉じかけて、また開いた。
業務だ、と自分に言い聞かせる癖のまま。
「……まあ、息が楽なら、いいか」
軽い声で呟いて、軽くない指で端末を伏せる。
そして次の手順を頭の中で組み立てる。
——人混みは避ける。
——導線は固定する。
——不安は溜めさせない。
“友人”が増えるのは、悪いことじゃない。
悪いことじゃないはずだ。
なのに、腹の底が静かに疼く。
レイヴはその感情に名前をつけないまま、明かりを落とした。
pixivで数話先行配信しています〜




