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異界の境界施設  作者:
Case-M

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11/17

Case-M #10



 朝、目が覚めて最初に触れたのは首筋だった。


 喉元から鎖骨の間。利き側。そこを指先がかすめるだけで、じんわり熱い。

 鏡を覗いても、昨日ほどはっきりした“痕”は見えない。――見えないのに、「ある」と思ってしまうのが厄介だ。


「……はいはい。気のせい、気のせい」


 俺は自分に言い聞かせるみたいに笑って、胸元のタグを軽く握る。

 指の腹に薄い金属の冷たさ。そこに名前があるだけで、息が通るのが悔しい。


 昨日のことを思い出す。

 息が吸えなくなって、焦って、レイヴの声に縋って――あの“口で息を受け取る”やつ。思い出すだけで、頬の内側が熱くなる。


「……いや、違う。あれは鎮静。手順。そう、手順」


 言い訳みたいに呟いて、スマホを手に取った。

 外には繋がらない。繋がらないのに、画面は普通に点く。写真も、動画も、見られる。


 見られるのに、届かない。

 それが朝の俺をじわじわ削ってくる。だから今日は、見ない。――昨日の俺に釘を刺す。


 メモアプリを開く。日記。精神ログ。安定化施策。

 “誰も見ない”って言われたやつ。


 指が勝手に署名欄へ行きかけて、そこで一瞬止まる。

 湊、と打ちかけて、やめる。


 喉の奥が、軽く引っかかった。


 俺は息を吐いて、いつも通りの“ここでの名前”を入れた。


 ミナト。


 それだけで、呼吸が少し通る。ああ、もう。こういうところが怖い。


 俺は短く書く。深刻にしない。できるだけ軽く。


『ミナト

 昨日はちょっとやばかったけど、寝たら回復。

 今日はちゃんと手順守る。勝手に動かない。

 迷惑かけない。がんばる。』


 “がんばる”って打った瞬間、なんか笑えてきて、笑えない。

 俺は画面を伏せるみたいにして、ベッドから降りた。


 ――頑張れば帰れる。

 頑張れば、ここでのルールにも慣れて、検査にも通って。


 そう思うのは希望っていうより癖に近い。

 誰かに褒められると安心する。許可されると息ができる。


 ……俺、ほんと便利だな。



 昼前、リュカに呼ばれた。


 呼ばれた、というと物々しいけど、実際は廊下で声をかけられただけだ。

 相変わらず口調は強い。顔は無表情寄り。目だけが忙しい。


「ミナト。時間、あるか」


「あるある。俺、基本ここで暇だし」


「……そういう問題じゃない」


 そう言いながら、リュカは俺の歩調を測るみたいに半歩先を行く。

 置いていかないギリギリの距離。追いつける速度。


 それが、昨日よりずっと“優しい”のが分かってしまって、俺は妙に落ち着かない。


「叱るなら、先に言っといて。心の準備する」


「叱らない」


 きっぱり言われて、逆に怖い。


「じゃあ何」


「確認」


「確認……」


「昨日の件以降、外周方向へ行こうとした形跡があった。……あるな」


 言い方は淡々としてるのに刺さる。

 形跡。ログ。監督。そういう単語が脳裏をかすめて、背中が寒い。


 俺は笑ってみせた。


「えー、俺、もう懲りてるって。あれマジで怖かったし。出口、変になったし」


「“変”じゃない。……術式が働いた。単独行動に反応する」


「はいはい、術式。……で、確認って?」


 リュカは足を止めて、俺の顔をちゃんと見た。

 視線がまっすぐで、逃げ場がない。


「外周は申請制。単独は禁止。困ったら呼べ。——これは、“怒って言ってる”んじゃない。そういう手順だ」


「うん」


「お前は、謝る癖がある」


 ぎくりとした。


「……そんなことない、と思うけど」


「ある。昨日も、近づかれた時に謝ってた」


「だって俺が変なとこ行ったから……」


「違う」


 被せるみたいに言われて、俺は言葉を止めた。


「お前が悪いんじゃない。仕組みを知らないだけだ。——でも、仕組みを知ったら守れ。守らないと、次は“事故”になる」


 事故。

 その音が妙にリアルで、喉が渇く。乾いた息が引っかかりそうで、俺は慌てて笑った。


「うん。俺、迷惑かけたくないし。……ちゃんとする」


「迷惑じゃない」


 リュカは一拍置いて、少しだけ声を落とす。


「……仕事だ」


 言い訳みたいに聞こえて、俺の胸の奥がきゅっとなる。


「そっか。仕事か」


「そうだ」


 なのに、視線はやっぱり俺を見ている。

 “確認”って言いながら、俺の呼吸の速さまで数えてるみたいに。


「——だから」


 リュカが言う。


「外に出たいなら、申請。同行。俺か担当を呼べ。勝手に行くな」


「了解。……リュカ、呼べばいい?」


「……基本は担当」


「え、じゃあリュカは?」


 俺が冗談めかして言うと、リュカは眉をわずかに寄せる。


「俺は導線。……施設内で事故を起こさないための」


「導線担当、か」


 口に出すと、妙にしっくり来た。

 “外へ行かなくていい理由”を作る役。


 その役が、俺にとって今どれだけ助かるか。

 助かると思ってしまう時点で、もう囲いだって分かってるのに。


「……案内する。来い」


 リュカはそう言って歩き出した。



 まず連れて行かれたのは、談話室だった。


 広すぎない。人が多すぎない。

 椅子の配置が自然に“端”へ誘導するみたいになっていて、視線に晒されにくい。


「ここ、落ち着くな」


「うるさい時は使うな」


「うるさい時?」


「……人が増える時間がある。そういう時は避けろ」


 さらっと言う。

 “避けろ”が命令じゃなく、当たり前の注意みたいで、逆に怖い。


 次は図書室。紙の匂いがする場所。

 その匂いが俺の世界の図書館と似てて、胸が痛くなる。


「ここ、好きかも」


「文字が読めるなら、勝手に読め」


「優しいじゃん」


「優しくない。静かだからだ」


 そのあと簡易ジムみたいな区画。軽い運動器具。

 “体力つければ検査に通る”って思ってた俺には、まさに欲しかったやつだ。


「これ、嬉しい。俺さ、何かしてないと余計なこと考えるタイプで」


「……考えるな」


「無理だろ」


 俺が笑うと、リュカは少しだけ口元を引き締めた。

 叱ってるわけじゃない。……何か、耐えてるみたいな顔。


「なら、ここで汗かけ。勝手に外へ行くよりマシだ」


 “マシ”。

 その言い方が、やっぱり制度の匂いをする。


 最後に、食堂の入口だけ見せられた。

 昼のピークを避けた時間帯。人が少ない。


「食堂は……この時間に来い。混む時間は避けろ」


「了解。え、俺、人気者だから?」


「……そういう冗談、今はいい」


 ぴしゃりと言われて、俺は思わず笑ってしまった。


「ごめんごめん。でもさ、案内してくれて助かる。昨日のことあったし、正直……ここ、どこ歩いていいか分かんないんだよね」


「分からないなら聞け」


「うん」


 それだけの会話なのに、喉がほどける。

 息が深くなる。


 ああ、これだ。

 “安心の檻”って、こうやって作られるんだ。



 安全そうな通路のベンチに座って、一息ついた。


 リュカは立ったまま、周囲を見ている。

 見張りじゃない。監視でもない。……でも、そう見えてしまうのが俺の悪い癖だ。


「ねえ、リュカ」


「何」


「ほんと、ありがとうな」


 俺が言うと、リュカの肩がわずかに跳ねた。

 ほんの一瞬。気づかないふりをして、俺は続ける。


「昨日さ、助けてくれただろ。あの……寄ってきた人たちから、俺のこと引き離してくれて。あれ、怖かった」


「……」


「で、今日もさ。叱るんじゃなくて、ちゃんと確認して、案内してくれて。俺、安心した」


 言葉にすると胸の奥があったかくなる。

 同時に、どこかで“帰る”が遠のく音がする。


 リュカは顔を背けた。

 耳が、うっすら赤い。


「仕事だ」


 さっきと同じ言い訳。

 でも今のは明らかに照れ隠しだ。


「仕事でも、ありがとうは言う」


「……勝手にしろ」


 俺は笑って、もう一回だけ言う。


「ありがとう」


 その瞬間。


 空気が、ほんのり甘くなった気がした。

 鼻の奥に、ふわっと。蜂蜜みたいな、焦げる手前の砂糖みたいな。喉が渇く匂い。


 ……あ。

 これ、たぶん、例の“蜜”だ。


 俺は慌てて笑いを引っ込める。

 でも引っ込めたところで胸の奥がぎゅっと縮んで、今度は変な息になる。


 壊れそうなのに、笑ってしまう。

 それが条件だって、分かりたくないのに分かってしまう。


「ミナト」


 リュカの声が低い。


 俺が顔を上げると、リュカは俺の口元じゃなく、喉元から鎖骨の辺りを見ていた。

 視線が一瞬だけ鋭くなる。焦点が変わる。


 それからすぐ平静に戻して言う。


「……俺のこと」


「ん?」


 リュカは視線を外して、ぽつりと落とした。


「俺のこと、怖いって思わないの?」


 その問いが急に柔らかくて、俺は言葉を探すより先に正直に返してしまった。


「口調は確かに強めだけど」


 リュカの眉がぴくっと動く。


「でも、俺のこと考えて動いてくれてる」


 喉が渇く。甘い匂いがまだ薄く残ってる。

 俺は息を整えて、まっすぐ言う。


「助けてくれた。だから怖いとは思わないよ」


 そして、最後に。


「……ありがとう」


 言い終えた瞬間、リュカの耳が赤くなった。

 あ、って思うくらい分かりやすく。頬まで熱が上がるのを本人が隠せてない。


「……っ、勝手に決めるな」


 声が少しだけ上ずってる。

 すぐに低く戻そうとして失敗してる。


「決めてないって。ただ、俺はそう思ったって話」


「調子に乗るな」


「乗らない乗らない」


 俺が笑うと、また甘さが立ちそうになって、慌てて口を閉じる。

 笑うのが怖いなんて、変だ。


 リュカは唇を一度結んで、言い直すみたいに呟いた。


「……保護対象って呼び方が嫌なら」


 そこで一瞬、言葉が止まる。

 俺は息を潜める。


「……“友人枠”で処理しておく」


「……え」


 思わず声が出た。


 リュカは顔を背けたまま続ける。


「そのほうが俺が動きやすい」


 制度で言い訳して、関係を固定する。――リュカらしい。


 俺は胸の奥がほどけるのを感じながら、ゆっくり笑った。


「友人、って言っていいの?」


「……好きにしろ」


 否定しない。

 その“否定しない”が、たぶん答えだ。


 リュカは立ち上がって、俺の前を歩き出した。

 歩幅が、さっきより少しだけ俺に合ってる。


 俺は追いかけながら、ふと思い出した。


「そういえばさ」


「何だ」


 友人になった後の会話って変な感じだな、と思いながら。

 俺はずっと飲み込んでたことを口にした。


「今さらなんだけどさ。俺、薄々は思ってたんだよ」


「何を」


「周りの人たち……“人じゃない何か”だなって」


 言った瞬間、空気が一拍だけ止まった気がした。

 やばい、怒られる? って身構えたのに、リュカは足を止めない。


「……遅い」


「遅いって言うな」


 俺は笑って誤魔化しながら、でも本音を続ける。


「だって、みんな普通に優しいしさ。仕事だってちゃんとしてるし。だから余計に、こう……角とか翼とか、そういう“いかにも”のやつじゃないからさ」


 リュカがちらっとだけ俺を見る。

 目が合って、すぐ逸れた。


「……で?」


 促されて、俺は小さく息を吸う。


「悪魔ってさ。俺の世界だと、もっと……こう……」


「こう?」


「黒い煙の中から出てきて契約書出して、魂ください、みたいな。あと角生えてて、羽がばさって……地獄の炎が背景に……」


 言いながら自分でもバカらしくなって、肩が揺れた。

 笑ってしまう。


「なんか、俺が想像してた悪魔と違うや。……っていうか、え。みんな悪魔なの?」


 最後は声が素直に裏返った。

 内心で思ってた“え?”が、今さら外に漏れた。


 リュカがため息を一つ。

 でも呆れだけじゃない。ちょっとだけ面倒見のいいやつの息。


「……悪魔を何だと思ってるんだ」


「いや、今言った通り……」


「……物語だろ」


「物語でも刷り込まれるじゃん」


 俺が言うと、リュカが小さく鼻で笑った。

 笑ってから、笑ったことに気づいたみたいに口元を引き締める。


「ここは境界だ。俺たちは……悪魔、って呼ばれる側だが」


「うん」


「だからって、全員が魂だの炎だの言い出すわけじゃない」


「じゃあ魂ください、はない?」


「ない。……少なくとも、今のお前には」


「今のお前には、って言うなよ怖いだろ」


 俺がぶーたれると、リュカは肩をすくめた。


「お前は保護対象だ。ルールの中にいる。……それだけ」


 その言い方が“制度”で、ちょっと怖いのに。

 友人って言われた後だと、どこか安心の輪郭にも聞こえてしまう。


「じゃあさ、悪魔って何が違うの? 俺たちと」


 俺が聞くと、リュカは少し考えてから言葉を選ぶみたいに口を開いた。


「……常識が違う。あと、匂いとか、気配とか。お前が“違う”って思ったところはだいたい正しい」


「正しいんだ」


「正しい。……だから、分かったなら、余計に一人で動くな」


「はいはい。手順守ります」


 返事は軽くしたのに、胸の奥は重くなる。

 “悪魔”って言葉に、いまさら現実味が乗ってきて。


 俺はもう一度、笑ってみせた。

 壊れそうな笑いじゃないやつを、頑張って選ぶ。


「……でもさ。悪魔って聞いて、俺もっと怖がると思ってた」


「怖がってるだろ」


「うん。怖い。……でも、リュカが案内してくれてるから」


 言った瞬間、またリュカの耳が赤くなる。

 俺は見て見ぬふりをして、歩調を合わせた。


「……お前、そういうとこだぞ」


「どこだよ」


「知らないでいい」


 素っ気ないのに、置いていかない。

 それが、今日の俺を救ってしまう。



 外周方向へ続く廊下の角が、視界の端に入った。


 昨日の“出口が変になる”感覚が蘇って、喉がきゅっと締まる。

 取っ手の握り方が分からなくなる恐怖。方向がほどける恐怖。


 俺は言えなかった。外に出たい、と。


 リュカは俺の視線に気づいたのか、気づいてないふりをしたのか。

 歩きながら、ぽつりと言った。


「申請は急がなくていい」


 優しい逃げ道。

 俺はその言葉に、ほっとしてしまった。


「……うん。そうだね」


 帰るために来たはずなのに。

 帰るための申請を先延ばしにして安心する。


 怖い。

 でも、息が楽だ。



 夜。


 部屋に戻って、スマホを開く。

 動画は見ない。今日は見ない。代わりに日記。


 署名欄に、迷わず打てた。


 ミナト。


 それが当たり前になってるのが、静かに怖い。


『ミナト

 今日はリュカに呼ばれて、確認してもらって、案内してもらった。

 怒られた感じじゃなくて、手順って感じ。

 俺、昨日のこと引きずってたけど、安心した。


 “友人枠”でいいって言われた。

 友人って言っていいらしい。変な感じ。


 そういえば、みんな悪魔なんだって。

 俺が想像してた悪魔と違う。普通に話すし、普通に働いてる。

 ……悪魔って何だよって、ちょっと笑った。


 今日は昨日より息が楽。

 首筋(喉元〜鎖骨の間)の熱は薄い気がする。安心すると引くのかな。』


 書いて、画面を閉じる。

 呼吸が落ち着く。


 落ち着くのに、背中が少し寒い。


 俺はタグを握って、布団に潜った。

 金属の冷たさが、いつの間にか“ここで眠る”の合図みたいになっている。



 ——同じ時間。


 境界施設の別室、端末の画面に通知が上がった。


 担当ログ。

 安定化施策:精神ログ更新。


 レイヴはそれを指先で開く。

 開く動作が、もう“業務”として馴染んでいるのが怖い。


 画面に並ぶ文字。


『友人枠』

『安心した』

『息が楽』


 レイヴは一度、笑いそうになって止めた。

 胸の奥がきゅっとなる。


 友人。

 ——その言葉が、なぜか喉に引っかかる。


 安全のため。秩序のため。保護のため。

 理由はいくらでも並べられるのに、“ざわつき”だけが説明できない。


 レイヴは画面を閉じかけて、また開いた。

 業務だ、と自分に言い聞かせる癖のまま。


「……まあ、息が楽なら、いいか」


 軽い声で呟いて、軽くない指で端末を伏せる。


 そして次の手順を頭の中で組み立てる。


 ——人混みは避ける。

 ——導線は固定する。

 ——不安は溜めさせない。


 “友人”が増えるのは、悪いことじゃない。

 悪いことじゃないはずだ。


 なのに、腹の底が静かに疼く。


 レイヴはその感情に名前をつけないまま、明かりを落とした。



pixivで数話先行配信しています〜


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