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異界の境界施設  作者:
Case-M

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10/17

Case-M #9


---


 朝、鏡の前で喉を見た。


 ……うわ、まだ残ってる。


 喉元から鎖骨の間、利き側。

 昨日より"爪痕"が濃い気がする。鴉の鉤爪みたいな短い線が重なって、角度で黒がほんの少し青紫に走る。

 指先でなぞりかけて――やめた。


 触ったら、思い出す。

 距離とか、息の音とか、唇が触れた瞬間の、あの「通った」って感覚とか。


 いや、違う違う。あれは手順だ。落ち着くための、命のための、ちゃんとした手順。

 俺がどう感じようが、それは変わらない。


「……朝から何してんだろ」


 独り言にして、顔を洗う。

 笑うといつも通りの自分に戻れる気がして、反射みたいに口角を上げる。


 タグが、胸元で軽く当たる。

 外せないやつ。ここでは当たり前になってきた重さ。


 ――ミナト。


 金属の札の表面に、そう浮いているのを見て、呼吸が一つ深くなる。

 妙に、落ち着く。


 ……ああ、また。

 そうやって勝手に"ここ"の中へ自分を収めていくの、やめたいのに。





 朝の導線は、もう覚えた。

 部屋を出て、廊下を曲がって、談話室の前を通って、あの角を右。食堂の匂いが少しして、奥の方に検査室の気配がある。


 ゴルドとリュカにも、何回か会っている。

 昨日も廊下ですれ違って、ゴルドに「顔色いいじゃないのォ」って肩を叩かれて、骨が鳴った。

 リュカは相変わらず淡々としてるけど、俺が「おはよ」って言うと、ちゃんと目だけはこっちを見る。


 それが、ここでの"ちゃんと"なんだと思う。


 ……思う、けど。


 今日は、空気が薄い気がした。


 部屋の中で息ができても、廊下に出ると急に、自分が"閉じた箱"の中を歩いている気がしてくる。

 明るい照明。揃った床。過剰なほど清潔な壁。

 安心なはずなのに、何かが足りない。


 たぶん、風だ。

 風がない。


 人間界で、しんどい日ほど、帰り道に少しだけ遠回りして外の空気を吸った。

 冷たいとか、暑いとか、それだけのことで「生きてる」って思えた。


 ……今は、思えない。


「ちょっとだけ、外……」


 口に出して、すぐ自分で笑った。

 外ってどこだよ。俺は今、どこにいるんだよ。


 笑いながら歩いて、いつもの導線から少しだけ外れる。

 誰にも迷惑かけない範囲で、ほんの少しだけ遠回り。

 体力つけた方がいいって、俺も思うし。検査だってあるし。協力すれば帰れるかもしれないって、みんな言うし。


 そう。だからこれは、善意。前向き。健康。

 たぶん。


 ……たぶん。





 外周って、どこだっけ。


 確かリュカが「外周は申請」って言ってた気がするけど、外周の"手前"くらいなら、見てるだけなら、ダメなのかな。


 廊下の奥の方に、いつもと違う匂いがした。

 紙と薬草と、金属の冷たい匂い。乾いてるのに、どこか生々しい。


 扉があった。

 いつも通ってる扉とは違う。少しだけ分厚い。取っ手も、形が違う。


 目の前にあるのに――


 ……開け方が、わからない。


「……え」


 取っ手がある。ちゃんとある。

 握ればいいだけだ。握って、押すか引くかすればいい。


 なのに、手が止まる。


 握り方が、わからない。

 指の置き場が分からない。力の入れ方が分からない。

 "ドア"って何だっけ、と一瞬だけ本気で思う。


 背中がぞわっとして、喉が乾く。

 息が浅くなって、胸の中が軽く痛い。


 ……やばい。


 やばいのに、俺は――笑った。


「はは……何それ。俺、ドアの開け方忘れた?」


 怖いって言ったら"現実"になる気がして、だから笑う。


 でも笑った瞬間、空気が変わった。


 甘い。


 甘い匂いがした。

 飴じゃない。花でもない。食堂でもない。

 もっと、身体に近い甘さ。喉の奥がきゅっと鳴るような、薄くて、濃い。


 ……何これ。


 俺の息が、甘い?

 いや、そんな馬鹿な。


 タグが、熱を持つ。

 胸元でじわっと温度が上がって、札が皮膚に貼り付くみたいになる。


 視界が狭まる。

 廊下の角が、溶ける。

 方向が、ほどける。


「……ちょ、待って。落ち着け」


 落ち着けって、誰に言ってんだ。

 自分だ。自分に言ってんのに、言葉だけが空回りする。


 息を吸う。

 入らないわけじゃない。入るのに、足りない。


 笑いが喉で引っかかった。

 笑え、笑え、いつもみたいに。

 ……笑えない。


 そこへ。


 足音がした。


 複数。

 静かなのに、数が増えていく気配。


 振り向くと、廊下の向こうから何人か歩いてきていた。

 制服は似てる。でも、配色が少し違う。腕章の形も違う。

 別の部署、たぶん。


 目が合った。

 合った瞬間、視線が"俺"に刺さるというより――


 嗅がれてる。


 そんな感じがした。


 鼻先が、ほんの少し動く。

 誰かの喉が、静かに鳴る。

 近づいてくる距離が、じわっと詰まる。


 まだ遠い。触れられてもいない。

 なのに、足が動かない。


 甘さが濃くなる。

 息を吐くと、空気が甘い。

 喉が渇く。唇が乾く。舌が勝手に動く。


 視線が、また一歩近づく。


 俺はまた笑ってしまう。


「す、すみません! 俺、迷って――」


 言いながら、自分でも意味が分からない。

 迷ってるのは、場所じゃなくて、俺の頭だ。

 ドアの前で、取っ手の握り方が分からなくなってる。


 怖いより先に、恥ずかしいが出てくるの、俺の悪い癖だ。


 甘さが濃くなる。


 そのとき――


「何してる」


 低い声が割って入った。


 言葉が冷たいわけじゃない。

 ただ温度がない。

 "切る"ための声。


 リュカだった。


 いつもの淡い色の髪。細い体。無駄な動きのない歩き方。

 俺を見る目は、いつも通り淡々としてる。


 でも、その淡々が、今は救いだった。


「……リュカ」


 呼ぶと、彼は俺の前に立った。

 完全に間に入って、視線を遮るように。


「そこは通行権限が要る。保護対象のが一人で行っていい場所じゃない」


 淡々と告げて、別部署の連中へ視線を向ける。


「戻って。君たちの持ち場に」


 命令じゃない言い方なのに、逆らえない圧がある。

 施設の"秩序"の声。

 その場の空気が、すっと冷える。


 別部署の悪魔たちは、少しだけ名残惜しそうに目を細めて、それでも引いた。

 引きながらも、最後に一瞬だけ――俺を見る。


 甘さが、舌に残った。


 ……やばい。

 俺、なんかした?


 何もしてないのに、何かしてる。


「ミナト」


 リュカが俺の方を向く。

 その瞬間。


 彼の鼻先が、ほんの一拍だけ動いた。


 ……拾った。


 甘さを。


 瞳の焦点が、一瞬だけ変わった気がした。

 人を見る焦点じゃない。匂いを見る焦点。

 口元が、ほんの少し硬くなる。


 でもそれは、一瞬で消える。


 次の瞬間には、いつものリュカに戻っている。


「君が悪いんじゃない」


 淡々と、でもさっきより少しだけ柔らかい。


「仕組みを知らないだけ。……一人で来るな」


「ご、ごめん。ちょっと風に当たりたくて」


「外に出たいなら申請」


 即答。

 笑えるくらい即答。


 俺は笑った。


「申請って言葉、人生でこんなに聞いたことないわ」


 笑ったら、リュカは眉を僅かに動かした。

 不機嫌でもなく、呆れでもなく、たぶん――"慣れてきた"やつ。


「……ふざけてる場合じゃない」


「ふざけてないって。ほら、俺、元気。ね?」


 元気、って言いながら、胸の奥がひゅっとなる。

 元気のふりが、今いちばん苦しい。


 リュカは溜息をつく。

 小さく、短く。


「戻る。歩ける?」


「歩ける歩ける。俺、足はある」


「知ってる」


 なんだそれ。

 それだけで少し笑ってしまうの、ずるい。





 リュカは俺の歩調に合わせた。

 合わせてるのに、主導権は渡さない。

 勝手に逸れないように、隣にいる。


 それが――守りであり、檻の最初の形なんだと思う。


 戻る途中、俺の胸元のタグが、少しずつ冷めていく。

 熱が引くと同時に、甘さも薄くなる。

 ……俺のせいだったのか。今の甘さ。


「なあ、リュカ」


「何」


「さっきの……あの人たち、なんか、俺のこと……」


「嗅いでた」


 言い切るの、早い。

 言い切るのに躊躇がないのが、逆に怖い。


「……嗅ぐって」


「言葉のまま。ここの職員は匂いに反応する」


 説明口調じゃない。

 当たり前のことを当たり前に言ってるだけの声音。


 俺は笑うしかなくて、笑った。


「え、犬じゃないんだからさ」


「犬じゃなくても嗅ぐ」


「……そっか」


 そっか、って言葉が、やけに軽く出た。

 軽いままじゃないと、重くなって沈む。


 談話室の近くのベンチに座らされる。

 座らされる、って言うと拘束っぽいけど、実際そうだ。ここでは。


 リュカは自販機みたいな給水器から紙コップに水を注いで、俺に渡した。


「飲め」


「ありがと。なんか……俺、恥ずかしいな」


「恥ずかしいで済むならいい」


 淡々と返されて、喉がきゅっと鳴る。


 水が冷たい。

 冷たさが喉を通ると、やっと「息が入る」感じがする。

 胸の中の焦りが少しだけ溶ける。


 俺はコップを持ったまま、呼吸を数える。

 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。


 ……キスはしない。

 今日は、お願いしない。

 そういう日じゃない。そういう状況じゃない。


 でも、思い出してしまう。

 口で、息を受け取ったときの、あの一瞬の"楽"。


 思い出しただけで、喉が熱い。


 ……やめろ。

 なんでこんな、勝手に身体が覚えてるんだよ。


「落ち着いた?」


 リュカが聞く。


「うん。……ごめん、迷惑かけた」


「迷惑じゃない。危険」


 言葉が容赦ないのに、そこに責めがない。

 ただ現実を言ってるだけ。


 俺は笑ってしまう。


「危険って言われると、俺、なんか強そうだな」


「強そうじゃない」


「即否定かよ」


「事実」


 淡々としたまま、リュカは俺の胸元――タグを見る。


「次から絶対、一人で来ない。外周が見たいなら、担当を呼べ。……俺でもいい」


 最後の一言が、ほんの少しだけ引っかかった。


「え、リュカでもいいの?」


「……担当が忙しい時は」


 ツンが出た。

 でも、ちょっとだけ"例外"を作った。


 俺は笑って頷く。


「じゃあ、今度は申請する。ちゃんと。俺、いい子だから」


「……そういうのが危ない」


「え?」


「いい子でいると、壊れる」


 言いかけて、リュカは止めた。

 言葉の途中で噛み切ったみたいに、口を閉じる。


 俺はコップの端を指で押した。

 紙がほんの少しへこんで、元に戻る。


「……壊れないよ。ほら、俺、笑ってる」


 笑って言うと、リュカは俺を見た。


 ほんの少しだけ、目が細くなる。


「……笑うな、とは言わない」


 ぽつり。


「でも、笑ってる時に変な匂いが濃くなる」


 変な匂い。

 俺のことを言ってるのに、悪口じゃないのが逆に変だ。


「……それ、俺が悪いみたいじゃん」


「悪いんじゃない。仕様」


 またその言葉だ。

 ここでは全部が"仕様"になる。


 俺はコップの水を飲み干して、空の紙を握りしめた。

 紙がくしゃっと鳴る音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……わかった。俺、ちゃんとする」


 言った瞬間、胸の奥が冷えた。

 "ちゃんとする"って言うと、帰れる気がする。

 でも"ちゃんとする"って言うたびに、何かが少しずつ向きを変えてる気もする。


 それが何なのか、まだ分からない。





 部屋に戻る頃には、呼吸は整っていた。


 でも喉の奥に、甘さの名残が残っている。

 気のせいだと思いたいのに、舌が覚えているみたいに、薄く甘い。


 俺は鏡を見る。


 ……模様、濃い。


 喉元から鎖骨の間、利き側。

 鴉の鉤爪の形が、昨日よりくっきりしてる気がする。

 触ると熱があって、指先にまでじわっと移る。

 息を吸うと、その熱が喉の内側で揺れる。


 怖いのに。

 目が離れない。


「……何これ。ほんと、やだな」


 やだな、って言いながら、目が離れないのが一番やだ。


 スマホを手に取る。

 圏外。送れない。繋がらない。

 でも写真は見られる。動画も再生できる。


 俺は一瞬だけ、昔の動画を開きかけて――やめた。

 今日はダメだ。今日は、また乱れる。


 代わりにメモを開く。


 日記。

 安定化施策。

 "誰も見ないから"って言われたやつ。


 ……見ない、はず。


 でも、書くと落ち着くのは本当だ。

 だから書く。俺のために。俺が帰るために。


 指が勝手に、署名欄へ行く。


 湊――


 打ちかけて、止まる。


 息が詰まる。

 喉の模様が熱を持つ。


 ……違う。

 今は、ここでは。


 俺は、消して。


 ミナト。


 打った瞬間、すっと息が通った。


 怖いくらいに、楽だ。


「……ミナトって打つと楽だな。変なの。でもそうか、俺はここではミナトだもんな」


 ぽそっと言って、笑おうとして。

 笑いがうまく出なくて、喉が小さく鳴った。


 俺は、入力を続ける。


――――


ミナト


 今日はちょっとやらかした。

 外の空気吸いたくて、勝手に外周っぽい方に行ったら、ドアの開け方が分からなくなった。

 いや、マジで。

 取っ手目の前にあるのに、握り方が分からないって何。


 怖かったのに、笑って誤魔化した。

 (これ、俺の悪い癖だと思う)


 そしたら、甘い匂いが濃くなった気がした。

 たぶん俺から。

 意味わからん。


 別部署っぽい人たちが来て、なんか嗅がれてた。

 襲われたとかじゃない。触られてもない。

 でも、近づかれるのって、こんなに怖いんだな。


 リュカが来てくれて助かった。

 「君が悪いんじゃない」って言われたの、ちょっと救われた。

 ……でも「一人で来るな」って手順が増えた。


 喉の模様、今日は濃い。

 鏡で見ると変なのに、目が離れない。

 触ると熱い。


 これを見ると、なんでかレイヴを思い出す。

 距離とか、息とか。

 落ち着いた時のこと。

 なんでかは、あんまり考えないようにしてる。


 今日はキスはしてない。

 (書くの恥ずかしいから、ここまで)


 明日はちゃんとする。

 帰るために。


――――


 打ち終えて、スマホの画面を伏せる。

 胸の奥のざわざわが、少しだけ薄くなった。


 それでも、喉の熱は消えない。

 タグが胸元で、静かに存在を主張する。


 ……帰るために。


 俺は自分に言い聞かせて、布団に潜った。

 息を深くして、目を閉じる。


 暗いのに、あの甘さだけが、まだ舌の奥に残っていた。





 ――監督ログの通知は、静かに上がる。


 レイヴは端末を手に取って、画面を開いた。


 業務。

 暴走兆候の確認。

 危険行動の記録。

 担当として当然の確認。


 そう言い聞かせて、スクロールする。


 "ドアの開け方が分からなくなった"

 "怖かったのに笑って誤魔化した"

 "甘い匂いが濃くなった気がした"


 ……蜜の条件。


 レイヴの指が一瞬止まる。

 次の行へ移ろうとして、移れない。


 "喉の模様、今日は濃い"

 "これを見ると、なんでかレイヴを思い出す"


 喉の奥が、乾く。


 笑いが漏れた。

 小さく、くすっと。


 ……可愛い。


 必死で、怖くて、笑って。

 それでも"ちゃんとする"って書いてる。


 可愛い、と思った瞬間に、レイヴは自分が笑ったことに気づいた。

 口元が勝手に上がっている。


「……あ」


 画面を見たまま、息を吐く。


 業務だ。

 業務のはずだ。


 でも、目が離れない。


 "ミナト"


 署名が、そこにある。

 真名じゃない、呼称が、そこで固まり始めている。


 レイヴはしばらく、その一行を眺めていた。

 眺めながら、何も考えないようにしていた。


 できなかった。


 端末をロックして、廊下の暗い方へ視線を向ける。


「……明日は、もっと迷わせない」


 独り言は、優しい顔をしている。


 けれどその優しさは、いつも誰かの足元に敷かれる。

 踏んでも壊れない、透明な床として。


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