#56 遠江を去るものたち
◼︎永禄五年十二月 三河国 西尾城
前夜を上ノ郷で過ごした井伊次郎法師一行が西尾へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。
城へ向かう街道へ入ってから、次郎法師は何度も周囲へ目を向けた。
人が多い。
荷車と荷駄馬が絶えず行き交い、城下では新しい店や家が次々と建てられている。材木を担ぐ人足、荷を下ろす商人、その間を遠江から流れてきたらしい者たちが行き来し、道端では役人と商人らしい男が並んで帳面を広げ、流れてきた男女を次々と呼び止めていた。
「百姓か。田仕事のほかには?」
「馬なら扱えます」
「では、こちらへ。次」
少し離れたところでは、別の男が尋ねられている。
「船に乗ったことは?」
「漁なら十年ほど」
「家族も一緒か。ならば渥美へ回せるな」
次郎法師は傍らを歩く虎松を気にかけながら、その横を通り過ぎた。
遠江では今、誰に通じているか、今川へ忠節を誓えるかを先に問われる。
ここでも出所は確かめられている。だが、その次に聞かれるのは何ができるかだった。
もちろん、急に増えた人を捌き切れているわけではない。城下の外れには仮小屋が並び、米や薪が高くなったとぼやく声も聞こえた。
それでも、人が逃げ出していく遠江とは逆だった。
こちらには、人が集まっている。
「次郎法師様。あれは何でございますか」
虎松が前方を指した。西尾城だった。
聞いていた姿とは随分違う。
新たに掘られた堀が外側まで伸び、屋敷地まで城へ取り込もうとしている。土塁の上には新しい柵が並び、そのさらに奥では、大きな木組みが空へ突き出していた。
三重の大櫓である。
まだ壁も満足についていないというのに、城下のどこからでも目についた。
(これが、ほんの数年前まで三河に何の地盤も持たなかった家の城……)
完成した町でも、完成した城でもない。むしろ、あちらこちらが作りかけだった。だが次郎法師には、その方が恐ろしく思えた。今もなお、この土地そのものが膨らみ続けている。
やがて一行は城門を潜り、そのまま城内へ案内された。
通された部屋では、木下弥右衛門吉成が待っていた。
傍らには上ノ郷で会った木下小一郎、それに商人とも武士ともつかぬ身なりの男が座っている。
次郎法師は虎松を伴って進み出ると、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかりまする。井伊次郎法師にございます。今は直虎とも名乗り、井伊を預かっておりまする」
「木下弥右衛門吉成にございます。遠路――」
そこで弥右衛門の言葉が一瞬止まった。
ほんの僅かな間だった。だが次郎法師には分かった。
またか、と思う。
井伊から使者が来ると聞いて、男を想像していたのだろう。こうした反応にはこの数ヶ月で慣れている。
「……これは失礼いたしました。てっきり男の御方かと」
「よく言われまする」
「それはそうでしょうな」
弥右衛門が苦笑した。
次郎法師も僅かに口元を緩める。
少なくとも、女だからと侮る様子はなかった。
「上ノ郷では休めましたかな」
「はい。お心遣い、感謝いたしまする」
挨拶を済ませると、次郎法師は本題へ入った。
「井伊は今、今川家中で疑われております。されど松平殿を頼ることもできませぬ」
一度、虎松へ目を向ける。
「この子の父、井伊肥後守直親は、先の戦で松平の本多平八郎に討たれました」
直親が遺した、井伊最後の男子だった。
「直親殿を討った松平へ虎松を預けることを、井伊の者たちは受け入れられませぬ。されど周囲の諸家が松平へ通じ始める中、今川へ残ったところで疑いが晴れるとも思えませぬ」
次郎法師は深く頭を下げた。
「ゆえに第三の道を求め、木下殿を頼りました。虎松と井伊の者どもを、お預かりいただきたく存じます」
「分かりました」
返事は驚くほど早かった。
遠江の土地と人を知る井伊が、自ら三河へ来た。その価値を、この男は初めから分かっていたのかもしれない。
「井伊の皆様は、木下でお預かりいたしましょう」
「……よろしいのでございますか」
「もちろん。ただし――」
弥右衛門が隣の男を見た。
「早速、働いていただきたい」
「……は?」
「茶屋四郎次郎にございます」
紹介された男が頭を下げる。
「元は商人ですが、今は木下で武家として働いてもらっておりまする。道を作り、村を回り、商人や百姓と話をつける。渥美でも多くの仕事を任せております。随分と忙しい男なのです」
「殿にだけは言われたくありませぬな」
四郎次郎が真顔で返した。小一郎が小さく吹き出す。
「……まあ、それを言われると困るな」
弥右衛門は少し困った顔をした後、姿勢を正した。
そして意外にも、次郎法師へ頭を下げた。
「次郎法師殿。四郎次郎を手伝っていただけませぬか」
今度は次郎法師が驚く番だった。
「人が足りませぬ」
弥右衛門が顔を上げる。
「遠江から来る者が増えすぎました。百姓、職人、商人、浪人。それぞれ何ができ、家族が何人いて、どこへ置けば暮らしていけるのか。こちらの者だけでは捌き切れなくなりつつあります」
さらに、次郎法師の後ろに控える井伊家臣たちへ目を向けた。
「井伊は長く遠江へ根を張ってきた家です。土地を知り、人を知っている。流れてくる者の中には、井伊の方々が顔や家を知る者もおりましょう」
「その者たちを、渥美へ?」
「はい」
田原の城下や伊良湖の湊、塩田、道普請、それに新田。弥右衛門が挙げていく仕事を聞いていると、いくら人がいても足りない理由が分かってくる。
「遠江から逃れてきた者にとっても、何も知らぬ土地へ一人で放り込まれるより、同じ遠江の井伊の方々と共に新しい土地を作る方が心強いでしょう」
次郎法師は、西尾へ入った時に見た光景を思い出した。
名を聞かれ、家族を聞かれ、何ができるかを聞かれていた人々。
あの者たちを、今度は自分たちが迎える側になるのだ。
「屋敷と当座の扶持はこちらで用意いたします。井伊の家臣の方々にも、力を貸していただきたい」
次郎法師は四郎次郎を見る。
「……随分と大きな仕事にございますな」
「はい。ゆえに人手が足りませぬ」
四郎次郎はそう答えると、ちらりと弥右衛門を見た。
「殿が次から次へと仕事を増やされますので」
「私のばかりのせいにするな。お主も自分で仕事を増やしておるぞ」
今度は次郎法師も笑った。
女だと知って驚いた男が、今は女だからとも、僧だからとも言わず、ただ井伊が持っているものを使わせてほしいと頭を下げている。
「承知いたしました」
次郎法師は深く頭を下げた。
「井伊の者ども、お使いくだされ」
来て早々、城へ詰めて槍を持てとは言われなかった。人質にもされなかった。井伊が遠江で積み重ねてきたものを、そのまま使えと言われた。
故郷を失いかけた家にとって、それは思っていた以上にありがたい話だった。
◼︎永禄五年十二月 三河国 吉田城
飯尾豊前守から届いた書状を読み終えると、松平蔵人佐元康はしばらく絵図を見つめた。
「引間は捨てぬ。兵を寄越せ、か」
「見捨てるわけにはまいりますまい」
酒井小五郎忠次がすぐに答えた。
「松平を頼った者を今川へ差し出したとなれば、この先、誰も我らを頼らなくなりまする」
「助けることには、某も異存ございませぬ」
石川与七郎数正も続いた。
「されど、引間へ大軍を送ることには反対いたします」
与七郎の指が絵図をなぞった。
引間は遠い。そこだけを得ても三河とは地続きにならず、兵を置けば兵糧を送り続けなければならない。今川が攻めるたび援軍を出すことになり、ようやく田畑と道を直し始めた北三河からも、いずれ人と銭を回すことになる。
「遠江はいずれ取るつもりだよ。だが、今ではない」
まずは三河を整える。それが蔵人佐の考えだった。
「勝てるかどうかではなく、今やる意味がないんだ」
二人も異論はなかった。
「飯尾殿は助ける。ただし、引間へ兵を置き続けることはしない。そのことも伝えておこう」
その場では、それで評定は終わった。
夜になってから、蔵人佐は服部半蔵だけを呼んだ。
「やはり、義父上が遠江の者どもを唆しているかな」
「可能性は高いとは思いますが、確固たる証拠が掴めませぬ。申し訳ございません」
半蔵が頭を下げる。だが蔵人佐は責めなかった。
「仕方ないよ。義父上はこちらへ害をなす動きをしたわけではない。逆だ。松平を頼る者を増やしている。そんなもの、敵の策とはなかなか気づけないさ」
半蔵はそれでも悔しげな顔をしていた。
「京に着く前に、半蔵が違和感があると伝えてくれなかったら、釘を刺すことだってできなかった。よく気付いてくれた」
半蔵はもう一度頭を下げた。
そして踏ん切りをつけて頭を切り替えたような顔をした。
「飯尾豊前守について、いかがなされます」
「今のところは助けるしかないね」
蔵人佐は地図上の引間へ目を落とした。
飛び地になるのは厄介だが、引間一城だけなら、飯尾に城を守らせ、必要な時だけ援兵を送ることもできる。何より、一度松平を頼った者を見捨てれば、遠江の国人へ送ってきた言葉がすべて軽くなる。
「引間へ兵を出す。ただし、今川と決戦するつもりはない。飯尾殿にも、こちらから深く攻め込むことは期待しないでもらおう」
「はっ」
「北三河を直す方が先だよ」
蔵人佐の判断は、そこまでだった。
だが半蔵は動かなかった。
「……まだ何かあるのかい?」
「はい。犬居城の天野も動く気配がございます」
蔵人佐の目が絵図へ戻った。
「天野安芸守景泰、七郎元景らは今川への不満が強く、飯尾が立ったことで自らも続く可能性が高うございます」
「犬居もか」
「さらに、二俣城の松井も、今川が遠江諸将を疑い始めたことに怯えておりまする。行動を共にせぬとは言い切れませぬ」
蔵人佐の指が止まった。
引間だけではない。犬居。二俣。
三つの城が、それぞれ松平へ兵を求める。
それに応えるには実質、遠江の半分――天竜川以西を抑える必要がある。
「……どちらも城に残るつもりかな」
「我らが援兵を出すのであれば、おそらく」
一城ならまだよかった。
だが三城となれば話は違う。引間、犬居、二俣を守るとなれば、松平は望まぬまま遠江の戦へ足を取られる。
「なるほど。義父上は、ずいぶん気前がいいな」
「……と申されますと」
「欲しいものばかりくれる。国人も、城もね」
だからこそ、受け取ってはいけないものがある。
引間の印へ指を置いた。
「飯尾豊前守には、死んでもらおう」
半蔵が僅かに顔を上げた。
「今川に殺されたようにできるかい?」
半蔵はすぐには答えなかった。
「城内に、こちらへ通じる者が二人おりまする。飯尾殿が夜ごと渡る場所も分かっております。ただし、一度きりにございます」
「十分だ。だが、家族と家臣には手を出すな。逃げてきた者はすべて受け入れる。ただ逃げろと言っても、城持ちは城を捨てぬ。飯尾殿が今川へ背いた途端に殺されれば、天野も松井も考えるだろう。城に残っていれば、自分たちも同じ目に遭うかもしれない、と」
指が犬居、二俣へ移る。
「では、城に留まるほど危ういと思わせる噂も流しましょう。朝比奈備中守が密かに透破を集め直しているとの噂もございます。それを使えば、足元に不安を抱かせるのは難しくありませぬ」
「うむ。では、小五郎には私から話そう。城を捨ててこちらへ来る者なら、遠江まで兵を入れて助ける。家族も家臣も連れて帰ればいい。遠江で決着をつける日は、いずれ来るよ」
半蔵が深く頭を下げた。
数日後、引間城で飯尾豊前守連龍が殺された。
夜半、僅かな供だけを連れて屋敷内を移動していたところを襲われ、城内にはすぐ今川の忍びによる暗殺だという噂が広がった。
今川へ反旗を翻した直後、城の内で命を奪われた。
その報せとともに、別の噂も遠江へ流れた。今川は城を攻めるより先に、離反した家の主を狙う。家中にもすでに内通者がいる。松平の援兵が入れば、城ごと討伐の対象になる――。
誰が流した噂なのかは分からなかった。
だが飯尾豊前守の死が、それをただの噂では済ませなかった。しかも遠江では、蟄居中の朝比奈備中守が密かに今川の透破を立て直しているという話が、すでに一部の国人の耳へ入っていた。
飯尾を殺したのが本当に朝比奈の手の者かどうかなど、もはや問題ではなかった。
犬居の天野は、松平の援軍を待って城へ籠もる案を捨てた。二俣の松井はなお迷った。今川から受けた恩も深く、二俣を捨てることへの抵抗もある。だが飯尾が城内で殺され、天野まで退くと決めた以上、次に疑われるのは自分かもしれなかった。
両家が家族と家臣を連れて三河へ逃れると決めると、松平もすぐに動いた。酒井小五郎忠次率いる東三河衆が吉田を発ち、遠江へ踏み込んだのである。
城を奪うためではない。
逃げてくる者を三河まで通すためだった。
天野らの退路を塞ごうとする今川方の小勢を追い払い、二俣から逃れる松井にも兵を差し向ける。何度か槍を交えたが、追撃はせず、両家を三河へ入れると東三河衆も兵を引いた。
◼︎永禄五年十二月 三河国 岡崎城下
飯尾の死からしばらく後、石川与七郎は岡崎城下へ戻ってきた半蔵から一連の報告を受けていた。
天野も松井も無事に三河へ入り、酒井勢も大きな損害なく戻ったという。
与七郎は報告を聞き終えると、黙って半蔵を見た。
飯尾が生きていれば、引間へ兵を出していた。天野と松井まで続けば、遠江を巡る戦はさらに大きくなったはずである。
(……都合が良すぎる)
もし殿が命じたのであれば、それも三河を守るためなのだろう。飯尾一人を切ることで、何百、何千という兵を遠江へ送り続けずに済んだ。
理屈は分かる。
判断としても、おそらく正しい。
それでも与七郎は、つい先日の評定を思い出した。
松平を頼った者は、見捨てぬ。
あの言葉は嘘ではない。
天野も松井も、確かに救った。
ただ、そのために一人だけ、救わぬ者を選んだのだ。
与七郎は半蔵に何も尋ねなかった。
◼︎永禄五年十二月 三河国 西尾城
「……飯尾豊前守が死んだ?」
数日後、報せを受けた弥右衛門は眉を寄せた。
「はい。今川の忍びによる暗殺と見られております」
新左衛門尉が遠江の絵図を広げた。
「その後、犬居の天野、二俣の松井も城を捨てました。松平は酒井小五郎率いる東三河衆を遠江へ入れ、両家の退路を開いておりまする」
「……遠江まで兵を出したのか」
「はい。今川方とも幾度か槍を交えたようにございます」
「城は?」
「取りませぬ。天野、松井とその家族、家臣を三河へ入れると、そのまま引き揚げました」
弥右衛門は絵図を見つめた。
松平は兵を出した。
だが城は取らず、人だけを連れて帰った。
こちらが差し出した餌から、毒のある部分だけを綺麗に残している。
「それなのですが」
新左衛門尉が声を落とした。
「飯尾殿の死、今川忍びの仕業にしては少々妙にございます」
「……半蔵か」
「某も、そう見ております」
京で会った時、すでに遠江の動きを疑っていた。こちらの狙いを読み、兵を出しながら、負担になる城だけを切り捨てたのだ。
「人は取る。城はいらぬ。……徹底しておるな」
「遠江の国人が今川を疑う流れそのものは残っております」
「こちらが点けた火を消さず、燃える場所だけ変えたか」
弥右衛門は苦笑した。
「……嫌な男だな」
「お互い様でしょう……」
新左衛門尉が笑う。
だが弥右衛門は、すぐに遠江の絵図へ視線を戻した。
甲斐から戻る道中で考えた形は変わらない。
松平には遠江で疲れてもらう。
今川には負けすぎぬ程度に踏み留まってもらう。
武田には木下の塩を使い、北を向いていてもらう。
誰か一人が勝ちすぎても困る。
だが蔵人佐は、人だけを取り、城を捨てた。今川との本格的な戦にも入らない。
「……思ったようには疲れてくれぬか」
「左様にございますな」
弥右衛門はしばらく考えた。
「新左衛門尉。今川の中で、朝比奈備中守を再び表へ出せという声を作れぬか」
「朝比奈殿を?」
「ああ。木下が戻せと頼んでも意味がない。今のままでは遠江を失うと、今川の者自身に言わせたい」
駿府で会った男を思い出す。
三河崩れの責を負って退いてはいるが、遠江国人の揺らぎも、武田の南進も理解していた。
「やはり、松平蔵人佐は有能だ。あれの向かいに立つ男として、今の今川では少々足りぬ」
それに今川が弱りすぎれば、北の武田が動く。甲斐で武田大膳大夫は、駿河と遠江への不侵を最後まで約さなかった。
「今川には、松平と争えるだけの力を残してもらう。武田に食われるほど弱っても困る」
「そして武田には北を向いていてもらう、ですな」
今回、松平はその均衡から上手く抜けようとしている。
ならば、もう一度こちらで均衡を作り直す。
「朝比奈殿が戻れば、少なくとも遠江で松平に好きにはさせぬ。だが、木下が動いたとは悟らせるな。飯尾が死に、天野と松井まで逃げた。今のやり方では国人を繋ぎ止められぬと、今川家中から声が出る形にしろ」
遠江へ松平を引きずり込む策は返された。
ならば次は、今川そのものを立て直す。
松平、今川、武田。
その均衡が崩れぬうちに、木下が三河を取る。
弥右衛門は遠江の絵図を畳んだ。
ご拝読いただきありがとうございます。
続きが気になる方、本作を気に入ってくれた方はブックマークをしてお待ちください。
励みになりますので、評価もぜひお願いします
★★★★★




