#55 遠州忩劇
◼︎永禄五年十二月 三河国 西尾
二月余りぶりに見る西尾城は、弥右衛門の記憶より一回り大きくなっていた。
城へ続く道から眺めるだけでも、以前より土塁が長く伸びているのが分かる。普請のために掘り返された土がところどころ山になり、冬だというのに城内では人足や職人が忙しなく行き交っていた。その向こうには、建設途中の三重の大櫓が骨組みを空へ突き出している。
「……随分変わったな」
馬上から城を眺める弥右衛門に、隣を進む勘十郎が笑った。
「殿がお留守の間も、皆働いておりましたからな」
「それは喜ばしいことなのだが……少し寂しいものだな」
「留守の間に城が傾いているよりは、遥かによろしいかと」
「それはそうだ」
駿河、甲斐、石山、堺、京、犬山。
犬山で信長を前に、三河は木下が取ると言い切った。
あれを口にした以上、もう松平の出方を窺っているだけでは済まない。松平には家名があり、三河武士との繋がりがあり、今や朝廷の権威まで手に入れようとしている。
ならば、自分は何の札で戦うのか。
その答えを探すための二月にもなった。
せめて今日くらいは城内を一回りして、留守中に何が変わったのか自分の目で確かめようと思っていたのだが――。
「父上!」
「殿、お待ちしておりました!」
「弥右衛門様、まずこちらをご覧くだされ!」
城門を潜った途端、その考えは消えた。
小一郎、又左衛門、河尻与四郎、茶屋四郎次郎、猿飛新左衛門尉がまとめて待ち構え、その後ろには座株楽座天王の者や書状を抱えた使者まで並んでいる。
弥右衛門は馬上で顔をしかめた。
「……二月ぶりに帰ってきたというのに、自分の城を見る暇すらないのか」
「城は逃げませぬ」
小一郎が即座に答えた。
結局、弥右衛門は城を見るどころか、半ば押し込まれるように広間へ連れていかれた。
そこで真っ先に前へ出たのは、石山本願寺から来た使僧だった。
「顕如上人より、木下殿へ書状をお預かりしておりまする」
「上人から?」
弥右衛門が受け取ると、隣に座った下間右兵衛尉頼廉も僅かに眉を上げた。
「某も聞いておりませぬが……」
「右兵衛尉殿にも内緒でございましたか」
「上人様は、時折こういうことをなされまする」
その一言だけで、弥右衛門には嫌な予感がした。
封を切って本文へ目を走らせる。
「……上人。本当に動かしてしまわれたか。流石ですな」
「何をでございます?」
右兵衛尉が身を乗り出した。
石山で酒を飲みながら語った、座株楽座根来。
本願寺を仲立ちに根来の鉄砲生産へ銭を入れ、鉄砲だけでなく火薬や弾丸、さらには鉄砲衆まで扱おうという構想だった。あの時はまだ、酒席で語った話に過ぎなかった。
「根来側も興味を示しているそうにございます」
弥右衛門が読み上げるにつれ、右兵衛尉の顔が険しくなっていく。
「……上人様」
「右兵衛尉殿。どうやら、しばらく三河へ残っていただくことになったようですぞ」
「は?」
書状には、根来との折衝、本願寺と木下の連絡、さらに伊勢での調整まで、下間右兵衛尉へ任せる旨が当然のように書かれていた。
「某は尾張までお供するよう命じられただけにございますが」
二人はしばらく揃って書状を見つめた。
弥右衛門が笑いを堪えながら読み上げる。
「根来も話そのものには乗ってきておりまするが、まだ正式に加わったわけではございませぬ。向こうは向こうで大きな勢力。根来と本願寺や、木下と本願寺だけで勝手に話を進めるわけにはいかぬゆえ、三河には上人の腹心を残す必要があると、書いてありますな」
石山で楽しそうに笑っていた若い宗主の顔を思い出し、弥右衛門は額へ手を当てた。本人の知らぬところで三河滞在まで決められた右兵衛尉だけは、まったく嬉しそうではなかった。
「次にございます」
その空気を切り替えるように、小一郎が一冊の帳面を置いた。座株楽座天王が提出した算用帳と目録、差配計画書がまとめられた帳面だった。
「先日の勘定寄合も無事に終わりました。父上がお留守でしたので、木下家としては私が出ておりまする」
「どうであった」
「今年の配当は、昨年に比べてほぼ倍にございます」
「……倍?」
今度は弥右衛門が身を乗り出した。
一番大きいのは塩だった。
三河湾沿いで作られた塩は尾張や伊勢だけでなく、今では甲斐、信濃へまで流れている。しかも塩を運んだ馬は空で戻ってこない。山の物、木材、紙、薬種、馬。帰り荷まで増えたことで、往復で商いが成り立つようになっていた。
普請も大きな稼ぎになっている。
西尾だけではない。岡崎、犬山へも職人が出ており、木下領で仕事を覚えた大工や石工が、今では領外から銭を稼いで帰ってくる。
詳しく聞けば岡崎と犬山は春になる前には完成する見込みで、三つのうち西尾が最後になるらしい。
(座株楽座天王の株主は木下なのだがな……)
自分の城が後回しになっているのは少々納得がいかなかったが、外から仕事を取れるようになったこと自体は悪くない。
「それと、小さいものではございますが、西尾の茶も少しずつ売れておりまする」
「茶が?」
「実相寺と共に作り直しているものにございます。座株楽座の商人が尾張や信濃へ持っていったところ、少しずつですが売れているとか」
「何が良いのだ」
「苦味が強く、茶の湯に使うには面白いと申す者がおるそうで。実相寺へ出入りする者から、少しずつ評判が広がっておりまする。公家衆にはあまり好まれぬようですが、武家には少しずつ売れておるそうです」
「苦い方が売れるのか。分からぬものだな」
令和にいた頃、抹茶が高値で売られることくらいは知っていた。だが、戦国の人間が何を好み、どのような味へ銭を払うのかまで知っているわけではない。
塩も、普請も、茶も。
自分が始めたものが、留守にしている間にも自分の手を離れ、勝手に広がり始めている。
犬山で口にした言葉が浮かんだ。
――我らの札を増やすぞ。
帰ってみれば、その札はすでに増え始めていた。
「……悪くないな」
弥右衛門が帳面を閉じる。
そこで、猿飛新左衛門尉が前へ進み出た。
「殿。遠江についても、ご報告がございます」
先ほどまでとは、広間の空気が僅かに変わった。
「聞こう」
広げられた遠江の絵図には、いくつもの印が付けられている。弥右衛門は旅へ出る前、遁尾衆へ一つの仕事を命じていた。
遠江の国人を木下へ寝返らせる必要はない。
松平へ向かわせろ。今川が三河を失ったこと。そして、早く松平へ通じた者ほど、本領の安堵や庇護を得やすいかもしれぬこと。
露骨な嘘を撒いたわけではなかった。事実と、そこから誰でも考えそうな話を、人の耳へ入れていっただけである。
「当初、直接こちらから働きかけた家は僅かにございました」
新左衛門尉が絵図の一つへ指を置く。
「されど、その者らが岡崎へ使者を出したこと自体が、別の国人への噂となりました」
隣家が松平へ通じた。
そう聞けば、自分まで今川に疑われるかもしれない。
先に動いた家ほど良い条件を得るのではないか。
自分だけが遅れればどうなる。
そうした不安が別の家を動かし、その動きがまた次の噂を生んだ。
新左衛門尉が、絵図へ次々と印を足していく。
「我らが点けた火が、今や勝手に隣へ燃え移っておりまする」
「……早いな」
「某も、ここまでとは思いませなんだ」
しかも火を広げたのは、遁尾衆だけではない。
弥右衛門は駿府で朝比奈備中守へ、遠江の国人が松平へ傾きつつあることを先に知らせていた。朝比奈備中守は、まず国人を宥めるよう進言したらしい。だが三河を失った直後の駿府では、疑わしい家を放置することもできなかった。
今川は、国人衆へ改めて忠誠を誓わせ、家によっては人質を増やし、使者を監視し、要地へ今川方の兵まで入れ始めている。
だが、疑われる側から見れば事情は違う。
「今川の兵が城へ入る前に松平へ通じようとする者も出ておりまする。使者を止められた家では、次は己が捕らえられるのではないかと騒ぎになっております」
「……朝比奈殿へ先に知らせたことまで効いたか」
遠江が崩れるのを防ぐため、今川が取った処置だった。だが締め付けられる国人からすれば、それ自体が「疑われている」という証になる。
遁尾衆が始めた噂は、いつの間にか今川と国人自身の動きによって広がるものへ変わっていた。どこまで広がるのかは、もはや弥右衛門にも見えなくなりつつある。
「松平は」
「思うようには動きませぬ」
やはりか。
京で会った松平蔵人佐の顔が浮かぶ。
「石川与七郎数正率いる北三河衆は、岡崎から北で田畑や道の立て直しを続けておりまする。遠江へ大きく兵を割く様子はございませぬ」
「東は」
「酒井小五郎忠次率いる東三河衆が吉田を中心に備えておりまする。松平を頼る遠江の国人へは、城を捨ててもよいから家族や家臣を連れて三河へ逃れてこい。本領へ戻る日は後で考える。そのように伝えているようにございます」
「……なるほど。今、本気で戦えば泥沼になる。それが分かっているのであろうな」
遠江の領地が欲しいからと飛びつけば、今川との戦まで抱え込む。
だから城は守らない。
代わりに領主や家臣を三河へ逃がし、頼ってきた者を見捨てたという評判だけは立てない。そして、彼らは来る日の遠江侵攻の大義名分となる。
実に松平蔵人佐らしいやり方だった。
「兵糧や逃れてきた者の扶持には銭を使っておりまする。服部衆らも遠江へ頻繁に入り、逃げ道や今川方の動きを探っているようにございます。また、岡崎へ出入りする商人の話では、石川与七郎殿が――『遠江を得るため三河を痩せさせては、本末転倒にございます。今しばらく北三河衆は田畑と道を直すべきかと』と進言し、松平殿も認めたとのこと」
弥右衛門は苦笑した。
「やはり、簡単には踊ってくれぬな」
蔵人佐も、その家臣も、欲に釣られて遠江へ突っ込んではくれない。
それでも東三河衆は遠江へ目を配り、逃れてきた者のために兵糧と銭を用意しなければならない。松平の中枢も遠江から目を離せなくなった。
思い描いたほどではない。
だが、それでも松平の力の一部を東へ向けることには成功している。
「また、こちらにも影響が出ておりまする」
新左衛門尉が続ける。
遠江の街道が乱れ始め、商人の中には道を変える者が出ている。荷が遅れ、宿場では物の値が上がり、国人同士の争いや今川の締め付けを嫌った者たちが三河へ流れ始めていた。
百姓、職人、商人、浪人、足軽、寺の者。
中には食うに困って盗みに走る者まで現れ、街道の警固にも人手を取られている。
「申し訳ございませぬ。某の見込みより――」
「よい。……こちらまで無傷とはいかぬが、松平の方が重い」
弥右衛門は遮った。
こちらは流れてきた者を食わせ、街道を守る。
松平はそれに加えて、遠江から人を引き受けるための兵糧と銭を用意し、今川まで警戒し続けねばならない。
「狙いは外しておらぬ。そのまま続けろ」
「はっ」
新左衛門尉が頭を下げる。
そこで弥右衛門は、ふと違和感を覚えた。
いつもなら報告を終えてもほとんど表情を変えぬ男の口元が、今日は僅かに緩んでいる。
「新左衛門尉」
「はっ」
「何かあったか?」
「……何がでございましょう」
「顔が緩んでおる。そなたが仕事中にそのような顔をするのは珍しい」
新左衛門尉は一瞬黙り、それから少し照れたように頭を下げた。
「実は……子が生まれました」
「ほう。それは目出度いではないか」
「男子にございます」
「名は決めたのか」
新左衛門尉の顔に、今度こそ父親らしい笑みが浮かんだ。
「佐助と。猿飛佐助と名付けました」
「良き名だな」
弥右衛門も笑った。
「ならば仕事が終わったら早く顔を見に戻れ。遠江ばかり見ておれば、父親の顔を覚えてもらえぬぞ」
「肝に銘じまする」
少しだけ和んだところで、弥右衛門は先ほどの話へ戻った。
「それと、流れてきた者についてだ」
小一郎が姿勢を正す。
「人が増えた、働き手が増えたと喜ぶなよ。まず名と出所を改めろ。だが疑うだけでは駄目だ。飯を食わせ、寝る場所を作れ。その上で、何ができる者かを聞け」
「はい。今までに受け入れた者にも同じようにしております。続けまする」
「渥美へ回せる者は回そう。田原の城下、伊良湖の湊、塩田、漁、船、焼き物、道普請。職人なら職人の仕事を探せ。百姓なら土地を。商人なら商いをだ」
「武士や足軽は」
前田又左衛門が尋ねる。
「本人が望むなら兵へ入れてもよい。だが、飯を食わせる代わりに槍を持てとは申すな」
「はっ」
そこで新左衛門尉が、最後に一枚の書状を置いた。
「そして、遠江から流れてきた者の中に、一つ大きな家がございます」
「どこだ」
「井伊にございます」
「……井伊が」
三河崩れで、当主の井伊直親は本多平八郎忠勝に討たれた。
周囲の国人が次々と動き始める中、当主を失い、代わる成人男性もいない井伊家が、このまま不穏な遠江に残って生き延びられる保証はない。
だが、その直親を討った松平へ頭を下げることも難しい。一方の木下は遠江に接しておらず、流れてきた者を小一郎が受け入れていた。
その井伊が、第三の行き先として木下を選んだ。
「今は、訪ねてきた上ノ郷の城下の宿へ入れておりまする」
弥右衛門は少しだけ考えた。
「今日は休ませよ。話は明日聞く」
「はっ」
二月ぶりに帰ったばかりだというのに、聞くべき話はまだ尽きそうになかった。
◼︎永禄五年十二月 遠江国 引間城
飯尾豊前守連龍は、今川から届いた書状を読み終えると、しばらく黙ったまま畳へ置いた。
――またか。
誰と会ったのか。
松平から使者は来ていないか。
家中に内応を企む者はいないか。
新たな人質を出し、周辺の国人にも改めて忠誠を誓わせよ。
問いかける形を取りながら、書状のどこにも飯尾を信じている様子はなかった。
もっとも、今川がここまで疑うのにも理由はある。
数月前、三河一国を失うことになった三河崩れ。その戦では飯尾家も失態を犯した。松平の離反を許し、国人衆の動揺を止められず、ついには今川が三河を丸ごと失うところまで至ったのである。
一度の敗戦という話ではない。
三河で起きたことが、次は遠江で起きるのではないか。
誰が忠実で、誰が次に裏切るのか分からない。駿府が疑心暗鬼になるのも、飯尾豊前守には理解できた。
だが、理解できることと、耐えられることは別だった。
一度失態を犯した飯尾豊前守は、今川家中での出世の道を断たれたばかりか、それ以来ずっと疑いの輪から抜け出せずにいる。
そして今回の書状には、これまでにはなかった一文が加えられていた。
――引間の守りを固めるため、近日中に駿府より兵を遣わす。
「……援軍、か」
飯尾豊前守はもう一度その箇所へ目を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
確かに、書状には援軍とある。
三河を失った今川が遠江の要地を固めようとするのは当然だ。引間は遠江を東西に結ぶ道にも関わる城であり、飯尾が本当に忠実ならば、今川兵を入れたところで何も困らぬ――駿府からすれば、そういう理屈なのだろう。
だが一度、その兵を城内へ入れればどうなる。
門を守る者が変わる。
蔵を押さえる者が変わる。
やがて家臣たちが、飯尾と駿府のどちらの命を聞くのかさえ分からなくなる。
そうなれば、引間は名ばかりの飯尾の城になる。
これまで問いただされるたびに答え、人質も出した。それでも疑いは消えず、とうとう城そのものへ兵を入れられようとしている。
城内でも意見は割れていた。
今川へ従い続けるべきだという者もいれば、今のうちに松平へ通じるべきだという者もいる。まだ動く時ではないと訴える者もいた。
自分自身、今日まで決めきれずにいた。
一方の松平は、使者を送ってきた遠江の国人へ、無理に城を守る必要はないと伝えているという。
今川に攻められる前に家族と家臣を連れて三河へ逃げればよい。本領へ戻ることは、その後で考えればいい。
悪い話ではなかった。
三河まで辿り着けば命は助かる。飯尾の家名も残るだろう。それでも飯尾豊前守には、その言葉がどうしても呑み込めなかった。
「引間を捨てて、岡崎へ逃げろというか」
思わず吐き捨てるような声が出た。
松平蔵人佐元康。
年若いくせに今川から離れ、今では三河の大半を握るところまで来た男だ。その才を軽んじるつもりはない。
だが、だからといって――。
「簡単に言ってくれる」
この城は飯尾家が守ってきた城である。
城下には家臣や領民が暮らし、田畑があり、寺があり、父祖の墓もある。飯尾家がこの地で積み上げてきたものすべてを背負い、三河まで逃げることなどできない。
命だけ残して、それで飯尾が残ったと言えるのか。
飯尾豊前守は再び、今川から届いた書状へ目を落とした。
城を捨てれば、飯尾ではなくなる。
だが今川兵を受け入れても、いずれ同じことになる。
どちらを選んでも飯尾のままではいられぬのなら――自分で第三の道を選ぶしかない。
長い沈黙の末、飯尾豊前守は顔を上げた。
「門を閉めよ」
居並ぶ側近たちが一斉に息を呑んだ。
「今川方の者を城外へ出す。駿府から兵が来ても門は開けぬ。従わぬ者は捕らえよ」
「殿……それでは」
「分かっておる」
それが何を意味するのかくらい、誰に言われずとも分かっている。
今川へ弓を引く。
飯尾豊前守は立ち上がり、居並ぶ家臣たちの顔を一人ずつ見渡した。
「三河へは行かぬ。ここは我らの城だ」
一度言葉を切り、腹を決める。
「今日より飯尾は、今川に従わぬ」
すぐに声を上げる者はいなかった。
だが、誰も目を逸らさなかった。
犬居の天野とは、すでに幾度か今川への不満を語り合っている。二俣の松井にも、駿府の締め付けを快く思わぬ者がいるとは聞いていた。
飯尾が立てば、彼らも動くかもしれない。
少なくとも、自分一人だけが立つことにはならぬ――そう信じるしかなかった。
「紙を持て」
飯尾豊前守が命じると、側近がすぐに文箱を運んできた。
松平は、城を捨てて三河へ来いという。
ならば答えは逆だ。
引間は捨てぬ。
飯尾も逃げぬ。
この城を、遠江における松平の楯としてやる。
その代わり――兵を寄越せ。
その夜、引間城の裏門が僅かに開いた。
一騎の早馬が闇の中へ飛び出し、三河へ向けて駆けていく。その懐には、飯尾豊前守連龍の書状が入っていた。
宛先は、松平蔵人佐元康。
これまで遠江の城へ兵を入れることを避け続けてきた男のもとへ。
――引間は捨てぬ。兵を寄越せ。
元康が避け続けてきた問いを携え、早馬は冬の夜道を西へ駆けていった。
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