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オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#54 三河を担うもの

◼︎永禄五年十一月 尾張国 犬山


 京を発った木下弥右衛門一行は、近江を経て尾張へ入った。


 駿河、甲斐、摂津、堺、京。二月余りに及んだ旅で、今川、武田、本願寺との間にそれぞれ新たな道を作った。下間右兵衛尉頼廉まで尾張へ同行しているのだから、成果だけを見れば胸を張ってよい旅だった。


 だが犬山が近づくにつれ、弥右衛門の頭から離れなくなったのは、それらの成果ではなかった。


 京で会った松平蔵人佐元康。

 三河守を望み、松平から徳川へ姓を改めるという話。


 そして、その姿を見たことで、二年前に清洲で信長から投げつけられた言葉まで鮮明に蘇っていた。


 ――松平は甘くない。

 ――自分こそが三河を治めるのだと、覚悟がある。

 ――そなたは、どうだ。


 あの時、弥右衛門は何も答えられなかった。


 ――三年後、再びそなたに同じ問いを投げかける。

 ――その答え次第で松平か、木下か。

 ――どちらを取るか、決めさせてもらおう。


 あれから二年近く。木下は領地を広げ、松平と共に今川を三河から追い出すところまで来た。旭の件以来、松平蔵人佐個人への憎しみも消えてはいない。


 それでも、信長から投げかけられた「そなたは、どうだ」という問いには、まだ明確な答えを返していなかった。


 三河守を得たからとて、木下領まで松平のものになるわけではない。だが朝廷から三河を冠する官途を得れば、京から見た「三河を担う者」は松平へ傾く。


 三年後に信長が決めるはずだったものへ、松平は別の権威から手を伸ばしている。


(上様は、あれをどう見る)


 止めるのか。

 黙って見ているのか。

 あるいは、そもそも問題だとすら考えていないのか。


 今回の旅の成果を報告するだけなら、ここまで胸は騒がなかっただろう。


 今日、確かめたいのは二年前の約束そのものだった。


 やがて木曽川沿いの高みに犬山城が見えてきた。城へ近づくにつれ槌の音が大きくなり、材木を担ぐ人足や大工が忙しなく行き交っている。その向こうでは、まだ骨組みながらひときわ高い三重の大櫓が姿を現し始めていた。


「……藤吉郎め。本当に建てさせたか」


「美濃側からも、さぞ目立ちましょうな」


 勘十郎も感心したように見上げている。


 隣を歩く下間右兵衛尉が、ふと弥右衛門へ目を向けた。

 

「石山で上人様へ会われた時より、随分と顔が固うございますな」


「そう見えますか」


「はい」


 弥右衛門は苦笑した。


「顕如上人は、欲しいものを教えてくださいましたからな」


「織田上総介殿は分からぬと?」


「欲しいものは、何となく分かりまする。」


 美濃。

 その先。

 そして、天下。


「ただ、それを得るためにどんな手を取るかが分かりませぬ」


 下間右兵衛尉は一度だけ頷き、それ以上は尋ねなかった。

 一行は、そのまま犬山城へ入った。





 

◼︎永禄五年十一月 尾張国 犬山城・広間


 広間には、織田家の主だった者たちがすでに並んでいた。


 林佐渡守秀貞、柴田修理亮勝家、池田勝三郎恒興。その末席近くには、久しぶりに見る藤吉郎もいる。


 一瞬だけ目が合い、藤吉郎の表情が僅かに緩んだ。

 だが声を掛ける間もなく、奥から足音が近づいてきた。


 一同が頭を垂れる。

 織田上総介信長が広間へ入り、上座へ腰を下ろした。


「面を上げよ」


 弥右衛門が顔を上げる。


 信長はまず、その隣に座る下間右兵衛尉へ視線を向けた。


「本願寺下間氏、右兵衛尉頼廉にございます。宗主・顕如上人の命により、木下殿に同行いたしました」


 下間右兵衛尉が深く頭を下げる。


 信長は何も言わない。顕如の側近が、自ら尾張まで来た。その意味を測るようにしばらく眺めてから、短く頷いた。


「……そうか」


 短く答え、今度は弥右衛門を見る。


「申せ」


「はっ。まず、駿河にございます」


 朝比奈備中守泰朝との間では、木下の遠江不侵、今川の三河不侵、そして木下と松平の争いへの今川不介入――その三ヶ条を軸に話を進めていると報告した。


「ただし、まだ今川五郎殿との正式な起請文には至っておりませぬ。朝比奈殿を通じ、話を進めている段階にございます」


「それで」


「今川に木下と結ぶ利を示すため、朝比奈殿の腹心を連れ、そのまま甲斐へ入りました」


 広間の空気が僅かに動いた。

 家臣団たちも声には出さぬが驚いた顔をしていた。

 彼らを代表し、林佐渡守が尋ねる。


「それは、今川の者を武田との会談へ同席させたということか。」


「左様。某の言葉ではなく、武田自身の口から南を捨てておらぬと聞かせました」


「なるほど。今川自身に確かめさせたか」


 林佐渡守は一度だけ頷き、黙った。


「武田とは塩と商いを餌に、二年間の西方不侵を取り付けました。代価は三河塩の二割値下げにございます」


「それで……南は?」


「縛れませなんだ。駿河や遠江へ兵を向けぬとは、最後まで申されず」


 信長は少しだけ間を置いた。


「それを朝比奈の者に聞かせたのだな」


「はい」


「……よい」


 それだけだった。

 信長は一度視線を落とし、低く言った。


「今川は武田を恐れる。三河へ戻るより、背後を見る必要が出るか」


「そのようになればと」


「次だ」


「本願寺にございます」


 弥右衛門は伊勢・志摩の絵図を広げた。


「石山にて顕如上人と直接話しました。上人が望んでおられるのは、かつて焼けた山科本願寺の再興にございます」


「それで」


「いずれ上様が京へ兵を進め、畿内へ口を出せる立場となられた折には、山科再興を妨げぬよう某から掛け合うと申しました」


「余の許しもなくか」


 低い声だった。


 広間が静まる。


「……左様にございます」


「随分と大きなものを勝手に売ったな」


「ゆえに今、御許しをいただきたく」


 信長は怒鳴らなかった。家臣団の方が慌てている。

 ただ弥右衛門を見ている。


「代わりに何を取った」


「上様が伊勢を勝ち取る道を」


 弥右衛門は絵図の長島へ指を置いた。


「今の美濃は、城を一つずつ力で落とすより、国人を切り崩す方が効く段階に入りつつあると聞いておりまする。大軍を割く必要はございませぬ。まず北伊勢の諸家へ、織田がいつでも動けると示せば十分にございます。」


 渥美半島の先、伊良湖から志摩へ渡る道も調べてある。海を渡れば、志摩は目と鼻の先だった。


「木下は渥美から志摩へ渡り、そこへ足場を作ります。織田は尾張から北伊勢へ。本願寺には長島を残したまま背を衝かず、北伊勢の諸家が一つにまとまらぬよう働いていただく。我らへ従わせる必要はございませぬ。一つにまとまれぬようになれば十分にございます。本願寺へ明確に敵対し、寺や門徒を圧する者が出れば、その先は――」


 弥右衛門が右兵衛尉に目を向けた。


「上人様の一存だけで長島を動かせるわけではございませぬ。されど、門徒が己の寺と暮らしを守るため立つというなら、それを止める理由もございませぬ」


「門徒が動く可能性があると……?」


 信長の視線が右兵衛尉へ移る。右兵衛尉は深く頭を下げた。


「長島願証寺とも話を詰める必要はございますが、織田殿が山科再興を初めから妨げぬ立場を取られるのであれば、我らも伊勢で利を分けられると考えております」


 信長は再び絵図へ目を落とした。

 柴田修理亮は地図を凝視しながら尋ねてきた。


「木下殿は志摩へ入られると」


「志摩へ根を下ろせば、南から北畠を牽制できまする」


「つまり、長島を敵に回さず、志摩にも楔を打つか」


「左様にございます。」


 信長はしばらく絵図を眺め、やがて山科の辺りへ指を止めた。


「我らも今は明言せぬ。だが、余が京へ口を出せる立場となった時、本願寺が伊勢で相応の働きをしておるなら、初めから山科再興を潰すつもりはない」


 右兵衛尉が深く頭を下げる。


「そのお言葉であれば、上人様へ持ち帰れまする」


 信長は何も言わずに目線を右兵衛尉から外した。

 これで、本来の報告は終わった。


 だが弥右衛門は動かなかった。


「上様、京で松平蔵人佐殿と会いました」


 信長の視線が戻る。


「朝廷へ働きかけ、三河守を望んでおられるそうにございます。さらに、松平ではなく徳川と姓を改め、そのための系図も整えると」


「そうか」


 驚きはなかった。

 弥右衛門は信長の顔を窺いながら続けた。


「三河守を得たからとて、木下の領地まで松平のものになるわけではございませぬ。されど京から見れば、三河を担う者が松平殿であるかのように映りましょう」


「そうであろうな」


「ならば――」


 弥右衛門は一度息を整えた。


「二年前、上様は三年後に木下か松平か、どちらを取るか決めると仰せになりました。その答えを、朝廷に先んじて決められるような形となっても、よろしいのでございますか」


 信長が黙った。

 外から槌の音が響いている。

 一度、二度。広間の誰も動かない。


「弥右衛門」


「はっ」


「二年前、余がそなたに何と問うたか覚えておるか」


 その言葉だけで、胸の奥が僅かに冷えた。

 忘れるはずがない。


「……『そなたは、どうだ』と」


「そうだ」


 信長の目が弥右衛門を射抜く。


「松平には、あの時すでに答えがあった。自分が三河を取る。その覚悟を、あやつは行いで示した」


 吉良の妻子。

 塩樽の中に入れられた二つの首が、嫌でも脳裏へ蘇る。


「そなたには、覚悟がまだなかった」


「……はい」


「三年後に木下か松平かを決める。その言葉ばかり覚えておったようだが、余はその前に申したはずだ」


 ――三年後、再びそなたに同じ問いを投げかける。


 弥右衛門は何も返さなかった。

 信長は続ける。


「松平は今も己の答えを示しておる」


「三河守にございますか」


「ああ。己の血を使い、家の由緒を使い、朝廷の権威まで使って、自分が三河の主だと世に認めさせるつもりなのであろう」


「されど、それでは松平殿には木下にない力が加わりまする」


「ならば、それもあやつの力だ」


 即答だった。


「松平には、そなたにない血がある。祖先があり、家の名があり、それを朝廷へ繋げる道がある。使えるものを使わぬ方が信頼できぬ。」


「……血も、力でございますか」


「人を従わせられるならな」


 信長の声に迷いはない。


「そなたは銭を使う。商人を使う。坊主とも手を組む。松平が己の家を使うのと、何が違う」


 弥右衛門は答えられなかった。

 京で感じた不公平さを、信長は不公平とは見ていないらしい。持っている札が違うだけなのだ。


 弥右衛門は黙って聞いた。


「二年前のそなたなら、そうはせなんだろうな」


 信長の指が、広げられた絵図の上をゆっくり動いた。


「今川を追い、銭を作り、人を集め、武田を遠ざけ、本願寺までここへ連れてきた。そなたも、己のやり方で三河を取り始めておる」


 その一言が、思いのほか胸に響いた。


 吉良の妻子を斬ることはできなかった。

 だが、だからといって二年前から何も変わっていないわけではない。


 信長はそこで弥右衛門を正面から見た。


「だが、まだ聞いておらぬ」


 広間の空気が張り詰める。


「弥右衛門……」


「はっ」


「そなたは、どうだ」


 二年前と同じ問いだった。


 今度は、意味が分かる。

 松平を憎んでいるかどうかではない。

 松平蔵人佐元康に勝ちたいかどうかでもない。


 ――三河を誰が治めるのか。

 自分が、その国を背負う覚悟があるのか。

 

 弥右衛門はしばらく信長を見つめた。


 やがて深く頭を下げる。


「……三河は、松平殿へ渡しませぬ」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「木下が取りまする。」


 広間に沈黙が落ちた。

 信長はすぐには何も言わなかった。

 しばらく弥右衛門を見た後、小さく頷く。


「そうか」


 それだけだった。

 だが次に続いた言葉は、弥右衛門の予想を外した。


「ならば、三年を待つ必要は、もうない」


 思わず顔を上げる。


「……は?」


「松平の答えは、二年前に聞いた。今、そなたの答えも聞いた」


「では――」


「勘違いするな」


 信長が遮った。


「そなたを選んだわけではない」


 胸の奥に浮かびかけた期待が消える。


「余が決めることに、そもそも何の値打ちがある」


「……何と?」


「余が欲しいのは、木下でも松平でもない。

 ――東を任せられる者だ」


 弥右衛門は返す言葉を失った。

 信長が何を言おうとしているのか、まだ最後までは見えない。


「二年前は、そなたらを自由に争わせれば三河そのものが崩れると思うていた。今川がおり、国人は定まらず、坊主どもも騒ぐ。ゆえに三年ほどは余が見ておるつもりだった」


 だが、今は違う。


「今川は退いた。武田は二年動かぬ。三河の坊主どもとも道を作った」


 弥右衛門の背中に冷たいものが走った。


「そなた自身が、余が三河を見張る理由を減らした」


 今回持ち帰った成果が、別の意味へ変わっていく。


「今なら、木下と松平が争っても、以前ほど簡単には三河全体が崩れぬ。ならば三年待って、二人を見比べる必要もない」


「……では」


「どちらが三河を取るかは、三河に決めさせる」


 誰も口を開かなかった。


「松平は三河守を取るなら取ればよい。そなたも銭でも商いでも坊主でも、使えるものは使え。国人を従え、人を集め、国を富ませる。それもすべて力だ」


 信長の声は低く、平坦だった。


「戦で決めても構わぬ。最後に三河を己の国としてまとめた者なら、余が東へ背を向けても、その地を守り切れよう」


「岡崎との同盟は」


「余が命じたことではない。そなたらで決めることだ。」


 あまりにも突き放した答えだった。


 ようやく弥右衛門にも分かった。

 三年という期限は約束そのものではなく、三河を崩さず二人を見極めるための猶予だった。その必要がなくなったのだ。


「弥右衛門」


「……はっ」


「余は美濃を取る。伊勢へも手を伸ばす。いつまでも東ばかり見てはおれぬ」


 広間に、再び槌の音が響いた。


「勝った方を使う。」


 それだけで十分だった。信長は西へ進み、その背後には勝ち残った者だけを置くつもりなのだ。

 

 弥右衛門は深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


 望んでいた答えではなかった。

 木下を選ぶと言ってほしかった――そう期待していたのは事実だ。


 だが弥右衛門が初めて「木下が三河を取る」と答えた瞬間、信長は三年という猶予そのものを取り払った。


 しかも皮肉なことに、そうできる盤面を作ったのは弥右衛門自身だった。今川を遠ざけ、武田を縛り、寺と手を結んだ結果、信長が二人の間に立つ理由まで消してしまったのだ。


 誰にも邪魔されず松平と争える。欲しかった環境ではある。ただし、負けても助けてくれる者はいない。


 想像していたより、遥かに重い自由だった。


「弥右衛門」


「はっ」


「志摩へ入ると申したな」


「左様にございます」


「海の戦は分かるか」


「渥美の漁師や船持ちから話は集めておりまする。されど、某も家臣も海で戦をした経験はほとんどございませぬ」


「ならば、一人つける」


 弥右衛門が顔を上げた。


「九鬼孫次郎嘉隆。志摩を追われた海の者だ。今は滝川のところにおる。船も浦も、あの海も知っておる」

 

 信長は短く答えた。


「此度の働きへの褒美だ」


 欲しかったものとは違う。

 だが今の木下には、確かに必要な人材だった。


「ありがたく、お借りいたしまする」


 弥右衛門は深く頭を下げた。




 


◼︎永禄五年十一月 尾張国 犬山城下


 犬山城を出る頃には、冬の日が西へ大きく傾いていた。

 三重の大櫓を組み上げる槌の音が、なお城下まで響いている。


「おっ父――ッ!」


 振り返ると、藤吉郎が城門から駆けてきた。


「もう帰ってまうのか! ちぃと待ってちょうよ!」


「藤吉郎。城内で走るな。もう立派な織田家臣であろう」


「そんなこと言っとる場合じゃないがね!」


 藤吉郎はそのまま弥右衛門の腕を掴んだ。


「おっ父、すごいが! 今川と話をつけて、武田から二年も取って、本願寺の偉い御方まで連れてきた。伊勢まで上様に話を通したんだろ!」


 広間では抑えていたのだろう。今は幼い頃と変わらぬ、くしゃりとした笑顔を浮かべている。


「九鬼とかいう侍まで貸してくださるんだろ? なら、大成功だが!」


 弥右衛門は苦笑した。


「だがな、藤吉郎。私が今日、一番欲しかったものは貰えなんだ」


「……何が欲しかったんだ?」


「上様から、木下を選ぶと言っていただきたかった」


 子供じみて聞こえるが、松平を見て焦り、今回の成果ならそう言ってもらえるのではないかと期待していた。


「だが上様は、木下も松平も選ばんそうだ。勝った方を使う、と仰せになった」


 藤吉郎の眉が寄った。


「横槍が入らんようにしたら、上様まで横槍を入れる理由がなくなったってことか?」


「その通りだ」


 藤吉郎は頬を掻いた。


「それって……おっ父、上様に一番うまく使われたんじゃないか?」


「私も今、それを考えていたところだ」


 勘十郎が吹き出し、藤吉郎も笑った。

 弥右衛門も最後には笑うしかなかった。


「誰にも邪魔されず松平と争えるようにしたかったのは私なのだがな」


「願いは叶っとるがね」


「思っていた形とは随分違う」


「上様だでなあ」


 その時、城の上から一際大きな槌音が響いた。

 三人が揃って、夕空へ骨組みを伸ばす大櫓を見上げる。


「そういえば藤吉郎。そなたにも言いたいことがあった」


「何だ?」


「私はあの文を受け取った時、何事かと思ったぞ」


 外交へ発つ数日前、藤吉郎から「急ぎ父上へ」と念を押した早馬が田原城へ届いた。


 美濃で一大事でも起きたかと封を切れば、美濃への威圧に使う三重の大櫓を犬山にも築きたい、ついては西尾や岡崎の職人を至急寄越してほしい――という普請の依頼だった。信長の許しまで、すでに取り付けてあった。


「一大事のような書き方をしておいて、中身は普請ではないか」


 藤吉郎は悪びれず笑った。


「普通に頼んでも後回しにすると思ったでな」


「当たり前だ。西尾の櫓がまだ完成しておらぬ」


 実際、西尾城の工事を一時止め、座株楽座天王の棟梁格まで犬山へ回している。


「でも見てみい。あんなに立派になっとる!」


「まだ骨組みではないか」


「美濃から見れば十分だが。鵜沼へ入れとる者から、大沢殿が『織田は犬山へ腰を据えるつもりか』と気にしとると報せが来たぞ」


 ただ高い建物を作っただけで、相手が勝手に意味を考える。藤吉郎の「調略のための櫓」も、存外馬鹿にはできないらしい。


「して、大沢殿の調略は?」


「……それは、まあ」


 藤吉郎の視線が泳いだ。


「上様からも、櫓まで建てて調略が成らなんだら許さん、と言われとる」


「ならば私も許さんぞ。こちらは職人まで貸しておる。失敗されたら座株楽座天王の実績に傷がつく」


「おっ父までそんなこと言うのか!」


 三人とも笑った。


 だが笑いが収まると、弥右衛門は東へ目を向けた。


 松平蔵人佐元康は徳川を名乗り、三河守を取りに行く。

 信長は、それを止めない。


「勘十郎」


「はい」


「三河へ戻ったら、皆を集めよう」


「松平への備えにございますか」


「ああ。全部使うぞ」


「全部、とは?」


「木下が持っているものをだ」


 松平には松平の札がある。

 ならば木下には、木下の札がある。


「松平の札を欲しがっても仕方あるまい。我らの札を増やすぞ」


 藤吉郎も笑顔を消し、弥右衛門を見た。


「おっ父」


「何だ」


「負けるなよ」


 弥右衛門は少しだけ笑った。


「無論だ」


 二年前とは違う。


 もう信長は、三河の争いを止める側にはいない。


 木下と松平のどちらが三河を取るのか。それを決めるのは三年後の犬山でも、清洲でもない。


 三河そのものだ。


 背後では、藤吉郎が無理を言って建てさせた三重の大櫓から、冬の空へ槌音が響き続けていた。





ご拝読いただきありがとうございます。

カクヨムにて、先行公開中です。

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